第24話 能吏の在処 帝国暦247年3月
エルデ州庁の文書庫は、いつも紙とインクの匂いがした。テオドールがここに配属されて、十八年になる。
かつて外務の書記官として、他国の思惑を読み、言葉の裏を探り、隙あらば帝国に有利な方向に事態を誘導しようとしていた自分が、今は土地台帳と徴税記録の埃を払う日々を送っている。皮肉だとは思わない。むしろ、この十八年で身につけたのは、逆の技術だった。読み解くのではなく、写し取る。誘導するのではなく、記す。腹の読み合いなどとは無縁に、事実だけを積み上げる仕事に、彼はいつからか、安らぎに似たものを見出していた。
台帳に嘘も誇張も書かない。書けば、いつか誰かがそれを利用する。かつての自分が、そうだったように。
一度だけ、言葉を振るう誘惑に似たものを覚えたことがある。着任して数年目、農村の地主から、収穫高の記載を少しだけ甘くしてくれれば、それ相応の礼をする、と持ちかけられた。頭の中では、断りながらも相手に恥をかかせない言い回しが、瞬時にいくつも浮かんだ。昔取った杵柄だった。だが、彼はそのどれも使わなかった。「記録は、事実の通りにしか、記せません」とだけ、平板に答えた。愛想のない返事だと、地主は苦笑して去っていった。それでよかった。器用な言葉で人を丸め込む力を、テオドールは、もう自分に許していなかった。
だから、境界の一線も、水路の幅も、収穫高の一升も、テオドールは十数年、寸分の狂いもなく記録し続けてきた。誰に褒められるためでもない。ただ、二度と、自分の書いたものが誰かの道具になることがないように。
同僚は、多くない。州庁の文書係は数名だけで、皆、地元の生まれだった。彼らはテオドールを、都から流れてきた変わり者の役人として扱った。詮索されることもなければ、親しまれることもない。それもまた心地よかった。
窓の外、早春の陽が、まだ雪の残る山際を照らしている。今年は雪解けが早く、水路の水量が例年より多い。隣接するデル州との境界に近い灌漑地で、小さな諍いが起きているという噂は、去年の末から届いていた。境界の記録は、いずれ誰かが確かめに来る。そう思い、テオドールはこの冬、境界周辺の台帳をもう一度、通しで見直しておいた。
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ヨーゼフという内務の本省から派遣された監査官が、エルデ州を訪れたのは、三月の半ばだった。白髪頭に眼鏡をかけた、実直を絵に描いたような男だった。
「デル州との境界と水利の件、こちらの台帳を拝見したい」
ヨーゼフの用件は簡潔だった。
彼は文書庫の奥から、十年分の台帳を運び出した。年ごとに綴じられた記録は、どれも同じ筆致、同じ形式で、一貫していた。境界石の位置、水路の分岐点、雨量と収穫の記録——どの年のどの一行を開いても、同じ精度で書かれている。ヨーゼフは一冊ずつ丁寧にめくり、時折、境界石の位置を示す図と照らし合わせては、小さく唸った。
「デル州側の台帳では、この境界石が、十年前の記録と今の記録とで、位置が半里近くずれている。書き写すたびに、少しずつ動いたのだろう」ヨーゼフは苦笑した。「こちらの台帳では、寸分も動いていない」
「動かす理由が、ございませんので」
「その通りだ。だが、理由がなくても、人は書き写すたびに、どこかで手を抜くものだ。あなたは、抜かなかった。……精勤されたのだな」
更に半日かけて十八年分の台帳に手を広げたヨーゼフは、最後にこう言った。「これほど精緻な記録を、地方の文書庫で見たのは初めてだ。デル州の記録との差は、比べるのも酷なほどだよ」
テオドールは、ただ頭を下げた。
「十八年分、一度も書き直しがない。日付の齟齬もなければ、後から加筆された筆跡も、省略もない。……失礼だが、あなたはずっとこの文書庫におられたのか」
一瞬、心臓が強く打った。だが、ヨーゼフの問いに、探るような色はなかった。ただの世間話だった。
「……以前は別の役所におり、恥ずかしながら不手際をやらかして流れてまいりました」
「そうか」
ヨーゼフは、それ以上を尋ねなかった。
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境界と水利権の係争は、その春の内に決着した。両州の代表が集う裁定の席で、デル州の代理人が持参した記録は、年代によって境界線の位置が三度も食い違い、自らその矛盾を認めるほかなかった。対して、エルデ州の台帳が示す境界線は、十八年間、一度も動いていない。裁定官は多くを語らず、ただ記録の重みだけで裁いた。デル州の言い分は、自らの記録の曖昧さゆえに退けられた。
監査と裁定の報告書は、宮廷へも回付され、他の書類と一緒に、常にそうであるように、皇帝の机に積まれた。
エカチェリーナは、ある朝の決裁の中で、その一枚に目を通した。
——エルデ州地方文書管理官テオドールの記録管理は、十八年の長きにわたり、比類なき精度を保っている。特に報告すべき事績として、ここに記す。
彼女は、その名と文言を読み終え、報告書に確認の印を押した。それから、次の書類へ手を伸ばした。
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初夏、エルデ州庁の広間で、州知事が、皇帝名の賞詞を読み上げ、それをテオドールに手渡した。
——地方行政における長年の精励、深く嘉するに足る。よってここに賞詞を授ける。
書状を受け取る指先が、思いのほか震えていることに、テオドールは気づいた。
十八年、誰に見られていなくても手を抜かなかった、その時間の重みそのものが、紙一枚の形を取って、掌に載っている。それだけのことが、こんなにも指先を震わせるとは、彼自身、思ってもみなかった。
式のあと、彼は文書庫に戻り、いつもの椅子に腰を下ろした。窓の外では、初夏の光が、まだ青い畑を照らしている。
賞詞が入った筒を、大事そうに机の引き出しの奥にしまった。
明日も、いつも通りに台帳を開く。その仕事が、今日も彼を、どこの誰でもない、ただのテオドールにしてくれる。
了




