第21話 帝都召還 前編 帝国暦242年8月
朝の演習場には、まだ夜露の匂いが残っていた。八月の北東国境は、日中こそ夏の名残があるものの、朝晩はもう秋の気配が忍び寄っている。
師団長ギュンター少将は、訓練小隊の演習視察を行った。整列した新兵たちの前を、小隊長とともにゆっくりと歩く。銃の点検、隊列の乱れ、靴紐の緩み——一人ひとりの乱れを、声を荒げることなく、淡々と指摘していく。
「そこ、銃が下がっている」
「は――はい!」
若い兵が慌てて銃を構え直す。ギュンターはそれ以上何も言わず、次の列へと歩を進めた。叱責というより、確認に近い口調だった。それが、かえって兵たちを緊張させていることに、彼自身は気づいていない。
演習が終わると、司令部に戻った彼を、山積みの書類が待っていた。糧秣の補給申請や演習場・隊舎の修繕費の裁決——平時の師団長の仕事の大半は、こうした地味な調整事に費やされる。
その中に、演習場が隣接する連隊同士の境界を巡る覚書があった。演習場の一角の使用権を巡って、双方の下士官が互いの言い分を譲らず、乱闘になりかけたため、連隊長が独断を避けて、判断を仰ぐ形で上がってきていた文書だった。
ギュンターは百年近く前の古い地図を二枚広げ、過去の取り決めと照らし合わせた。双方の言い分はある意味どちらも正しく、地図の端部の描写がやや歪んでいただけだと見て取ると、訂正した地図に一筆添えた。
「これで通知しておけ。揉めるほどの話ではない」
「は……承知しました」
担当官は、拍子抜けした様子で一礼した。
その日の午後、机の上に積まれた書類の山から、ギュンターは今週分の帝国公報を取り出した。
「閣下、また面白い記事がありますよ」
書類を運んできた副官が、公報の一面を指し示した。宮廷欄——皇帝の縁組が正式に発表されている。相手は、縁戚にあたる公爵家の五歳の男児だという。
「五歳、か」
「儀式だけで、婚礼の宴もなし。書類上の夫婦、というやつでしょうな」
貴族の結婚とは、そういうものだ。彼自身、顔も知らぬ商家の娘と、書類の上だけで夫婦になっている。結婚の数年後、子が生まれたという便りが届いたときも、実感というものはついに湧かなかった。
「まあ、五歳というのはずいぶん早いが、珍しい話でもない」
それだけ言って、次の書類に手を伸ばした。
北の空は、もううっすらと灰色がかっている。今年の冬は、早く来るかもしれなかった。
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ギュンターの朝は、何年も変わらない。夜明け前に起き、井戸端で冷水を浴びる。
それから中庭で、短銃を抜き、撃鉄を起こし、狙いを定め、引き金を引く。タイミングが合えば、兵たちに混じって射撃場を使わせてもらうこともある。
剣の素振りを百、二百と重ねる。
それから宿舎の周りを数周、駆け足。
朝食は簡素なものを一人で済ませ、その間に夜間の哨戒報告に目を通す。「異常なし」の三文字が並ぶだけの日がほとんどだったが、それを確かめること自体が、彼にとっての一日の始まりだった。
帝国暦二百四十三年の雪解けを経て、五月の国境地帯には、遅い春がようやく訪れていた。凍土の緩んだ演習場では、新兵たちの号令が響いている。今年の入営組は、例年より足並みが揃うのが早い——そんなことを思いながら、ギュンターは点呼の列を眺めていた。
その日届いた公報にも、また宮廷の記事があった。今度は訃報だった。皇帝の夫——あの五歳の男児は、六歳になって間もなく流行り病に倒れたという。
「気の毒に」
ギュンターは短くそれだけ呟いた。会ったこともない、名も知らぬ子供の死だった。
ただ、書類を閉じる指先が、ほんの少しだけ止まった。自分にも、まだ顔を見たことのない子がいる。妻からの便りでは、二人になっていたはずだった。今、いくつになっているだろう。数えようとして、すぐにやめた。数えたところで、意味のあることではない。
「閣下?」
副官の声に、ギュンターは我に返った。
「いや、何でもない」
彼は公報を脇に寄せ、次の書類を取った。演習の予定表だった。考えるべきことは、他にいくらでもある。
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六月、召還命令は前触れもなくやってきた。
陸軍省の封蝋が入った書状を開いたとき、ギュンターは一瞬、何かの間違いかと思った。
中将への昇進、西部軍管区/第二軍団司令の内示。加えて、拝命の儀のため、帝都へ参上すべし、との一文が添えられていた。
「閣下、これは……」
副官の声が、珍しく上ずっていた。
「読めば分かるだろう」
ギュンターは素っ気なく答えたが、内心では、まだ実感が追いついていなかった。師団長として過ごしたこの七年——決して短くはない歳月を、あっさりと後にすることになる。
後任の師団長が着任したのは、それから十日ほど後のことだった。
新任の少将は、馬車を降りるなり、まっすぐにギュンターへ歩み寄ってきた。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。既視感が記憶を辿らせるより先に、向こうが声をかけてきた。
「……ギュンター、久しいな」
強面の顔、ギュンターより縦横ともに一回り大きな体格。
「フリードリヒ……あのフリードリヒか」
「覚えていたか」
男は破顔した。十八年前、ラドムスキへ向かう義勇兵の一団に、共に加わっていた男だった。ラドムイシュに着くまでの間、野営と行軍を共にした仲だったが、現地に着いてからは配属先が分かれ、それきり顔を合わせる機会もなかった。
「こんな形で再会することになるとは。ヴロンキの英雄の後任とは光栄だ」
「そちらも、変わらず息災そうで何よりだ」
短い挨拶を交わすと、二人は言葉少なに、実務的な話へ移った。師団の兵力表、装備の充足率、隣接部隊との申し合わせ事項——ギュンターは、七年間の成果を、一つずつフリードリヒに引き渡していった。
「演習場の地図の不備が多くてな。境界を巡る揉め事がちょくちょく来て、また一件片付けたばかりだ。書類は机の上にある」
「相変わらず、几帳面だな」
フリードリヒは苦笑しながら、書類を受け取った。
二日かけて、引き継ぎは滞りなく終わった。最後に、フリードリヒが差し出した手を、ギュンターは握り返した。
「後を頼む」
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出立の前夜、士官食堂で送別の席が設けられた。豪華なものは何もない。国境の駐屯地で調達できる酒と、いつもと大差ない献立が並んだだけの席だったが、これはギュンターの嗜好を反映したものだ。
「七年間、お世話になりました」
古参の連隊長が音頭を取り、ぎこちない乾杯の音頭が上がった。誰も演説には慣れていない。それでも、口々に思い出話が飛び出した。着任早々の演習でギュンターが規則通りに自分を叱った話、雪中演習で凍えかけた話、些細な失敗を大目に見てもらった話。
「閣下は、俺たちを甘やかしたことは一度もなかったですな」
誰かがそう言うと、笑いが起きた。
「甘やかす理由がなかっただけだ」
ギュンターが素っ気なく返すと、また笑いが起きた。
新任のフリードリヒも、ギュンターの隣に座って杯を傾けていた。
「見ての通り、次の師団長殿は俺よりよほどおっかないぞ。この面を見ろ」
ギュンターがそう言うと、どっと笑いが起きた。フリードリヒは肩をすくめてみせただけで、何も言い返さなかった。
着任したばかりの若い少尉が、遠慮がちに進み出て、小さな包みを差し出してきた。
「軍団長閣下、道中お気を——」
言いかけて、慌てて言い直す。
「し、師団長閣下。いえ、その、これから軍団長になられるので……」
「まだなっていない」
ギュンターが短く返すと、少尉は耳まで赤くして敬礼した。ギュンターは、それ以上からかうこともせず、軽く頷き返した。
「これは、駐屯地の皆で……大したものではありませんが」
開けると、この地方特産の木彫りの置物だった。粗削りだが、丁寧な仕事だった。ギュンターは、それをしばらく黙って見つめた。
「大事にする」
短くそれだけ言うと、また杯を傾けた。
夜が更けても、席はなかなかお開きにならなかった。窓の外では、国境の闇が、いつもと変わらず静かに広がっていた。
翌朝、荷物は拍子抜けするほど少なかった。長年、宿舎だけで暮らしてきた男の私物など、たかが知れている。
馬車の窓から、見慣れた国境の駐屯地が遠ざかっていくのを、ギュンターはしばらく眺めていた。
ストックが尽きましたので、不定期更新に移行します。
ずっと追っていただいていた読者様には申し訳ありませんが、気長にお付き合いいただければと存じます。
還る手帳の方は脱稿済みですので、定期更新を続けてまいります。




