第20話 五歳の夫 帝国暦242年6月
その縁組の話がアドリアンの口から持ち出されたとき、エカチェリーナは決裁中の書類から顔を上げもしなかった。
「陛下。ヴァルダー公爵家より、正式に打診がございました」
ヴァルダー公爵家。西方の国境に近い、それなりに古い家柄だが、このところは目立った功績も醜聞もない。当主シャルロッテは当年四十歳、今は領地経営に専念しているという評判が記憶にあった。
「当主の弟の、末の子でしたか」
「はい。今年で五つになる男児です。爵位継承権は第九位。尚、ご当主にはご息女がすでに二人おられます」
つまり、何の実権も持ち得ない子供だ。エカチェリーナは書類に目を戻したまま、指先だけをわずかに止めた。
「後見人は」
「ご当主の叔父にあたるヘルムートという者が。ヴァルダー家の家宰も長く務めた人物です」
なるほど、とエカチェリーナは思う。継承の目もほぼない五歳児との縁組など、政治的な実利はどこにもない。
皇太女はすでに二十五を数え、政務にも深く関わるようになっているし、三歳になる娘――皇位継承権二位にある皇太女の一人娘――も健やかに育っている。また、妹のアナスタシアも、その娘も健在だ。世継ぎの心配は二重にも三重にも及ばず、つまり、エカチェリーナが得るものは何一つない。
だが、断る理由もまた見当たらなかった。
貴族の結婚など、誼を通じておく程度の儀礼に過ぎないことは、貴族の誰もが承知している。同居も、夫婦としての実質も求められない。受けたところで何が変わるでもない話を、皇帝がわざわざ拒めば、かえって「何を警戒しているのか」という詮索を招く。口さがない宮廷雀たちの間で、要らぬ憶測が独り歩きする方が、よほど面倒だった。
「お受けしましょう」
翌朝には返答を用意させ、婚姻の手続きは形式通りに粛々と進んだ。エカチェリーナ自身、この件について特別な感慨を持った様子はなく、その日の執務は普段通り昼までに片付いている。
昼食の席で、皇太女がその話を耳にした。傍らでは乳母に抱かれた三歳の娘――ヴィクトーリア――が、小さな手で匙を握ってシチューをかき回している。
「母上が、五歳の子と……本当に受けられたのですか」
「ええ」
「よろしいのですか、そのようなこと」
娘の声には、戸惑いよりも呆れに近い響きがあった。エカチェリーナはスプーンを置き、娘の顔を見た。
「この縁組に、意味などありません。断る方が、よほど意味を持たせてしまいます」
「意味を持たせる、とは」
「わたくしが何かを恐れている、あるいは何かを企んでいる――そう思われる隙を、自分から作ることになります。何もない話には、何もないままにしておくのが一番です」
皇太女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。公務に就いて七年になるが、母のこうした割り切りに、まだ完全には慣れていない様子だった。
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式典と呼べるものはなかった。大司教立ち会いのもとでの簡単な誓約と、宮廷への届け出のみで、婚礼の宴も開かれない。エカチェリーナは五歳の夫と一度も顔を合わせないまま、書類上だけの夫婦になった。
縁組が、帝国の貴族社会でどれほどの重みを持つか。エカチェリーナはよく知っている。ヴァルダー家の後見人がこの肩書を活用するにしても、貴族相手ではせいぜい「あの家は皇室と縁続きらしい」という程度のものだ。
実際、後見人のヘルムートは、当初その程度の使い方しか思いつかなかったようだった。近隣の貴族との会合で、それとなく「皇帝陛下の御縁戚」を匂わせる。だが返ってくるのは、慇懃な相槌だけだった。宮廷の内情を知る貴族たちは誰も、この結婚に実質などないことを承知している。ヘルムートが仮に期待していたとしても、畏怖も便宜も、何一つ生まれなかった。
知っていたこととは言え、ヘルムートがその手応えのなさに若干の落胆を覚えていた頃、帝都で商いを営むある商人が、彼のもとを訪れた。
「後見人様。折り入って、お力添えをいただきたい話が」
商人の名は聞き覚えのないものだった。だが用件は明快だった。西方の国境を越えた先、帝国の内情に疎い某国の商団との取引で、こちらの立場を強く見せる後ろ盾が欲しいのだという。
「後見人様の肩書があれば、話が違ってまいります。かの国の者たちは、『皇帝陛下の夫君の後見人』と聞けば、それだけで態度を変えるでしょう」
ヘルムートは、初めてこの結婚の使い道に気づいた顔をした。
帝国の内側では、誰もこの肩書を本気にしない。だが帝国の外側、あるいは宮廷の力学など知る由もない平民の交渉相手にとっては、話が違う。実体のない称号ほど、それを知らない者の前ではかえって重く見えるかもしれぬ。ヘルムートはこの落差に、遅ればせながら気づいたのだった。
最初の取引での効果は、ささやかなものだった。商人はヘルムートの名を借り、外国の商会との交渉で多少有利な条件を引き出した。関税の一部負担、支払い猶予。しかし、ささやかなりとも通常なら得られないはずの譲歩。ヘルムートは分け前を受け取り、この仕組みの旨みを覚えた。
それから半年ほどの間に、同様のやり取りは数を増やしていった。帝国内では何の反応も得られなかった肩書が、国境の外に出た途端に効力を持つ。ヘルムートはこの矛盾を面白がりながら、次第に大胆になっていった。
商人はもう一人、二人と仲間を連れてくるようになった。いずれも帝都の外れで小さな店を構える程度の身代だったが、外国相手の商いとなれば話は別だった。一部なりとも関税を免れた分の利は大きく、ヘルムートの取り分もそれに応じて膨らんでいく。
「後見人様のおかげで、こちらは大層な顔をして交渉ができます」
商人の一人がそう言って笑うたび、ヘルムートは満更でもない顔をした。ヴァルダー公爵家の傍系に生まれ、権力や野心とは無縁のまま家宰仕事に甘んじてきた男にとって、これは初めて手にした「力」だった。五歳の甥が皇帝に縁付いたことで転がり込んできた、思いがけない拾い物である。
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その年の晩秋、国境の商業都市で行われた通商の会合で、ヘルムートは思いも寄らぬ提案を受けた。
「かの国の使者が、後ろ盾の実在を目にしたいと申しております」
実在――つまり、肩書だけではなく、その皇帝の夫という、子供本人を見たいということだった。ヘルムートにとっては、願ってもない話だった。五歳の子供を連れて行き、外国の使者の前に立たせれば、疑いようのない証となる。
「坊ちゃんには、少し外出していただくだけです。何も難しいことはございません」
子供は、自分が何のためにその場に連れて行かれるのか、まるで理解していなかった。長旅の馬車に揺られ、着慣れない上着を着せられ、見知らぬ大人たちが並ぶ広間に座らされる。誰かに促されるまま、伯父の隣で小さく頭を下げる。それが自分にとってどういう意味を持つのか、問われても答えられなかっただろう。ただ、知らない大人たちの視線が自分に集まっていることだけは、子供なりに感じ取っていたかもしれない。
儀式めいた挨拶が終わると、子供はすぐに別室へ下げられた。大人たちの話はそれからも続いたが、子供がその場に呼ばれることは二度となかった。ほんの数分の出来事だった。
だが、その光景を見た使者の従者の一人が、たまたま帝都の知人に宛てた手紙にこのことを書き記していた。「皇帝陛下の夫君とやらを、この目で見た」という、興味本位の一文だった。
手紙は、幾人かの手を経て、帝室の耳に届いた。
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「――そのようなことが」
アドリアンから報告を受けたエカチェリーナの表情は、変わらなかった。声にも、普段と違う響きはない。ただ、報告書を持つ指先が、いつもよりわずかに長く紙の上に留まっていた。
「取引の詳細を」
差し出された書類に、彼女は目を通す。外国相手の通商、関税の融通、平民の商人の名。帝国内の貴族社会には何の波風も立っていない。だが対外的な信用という点では、看過できる規模を超えつつあった。
エカチェリーナは、それについては眉一つ動かさなかった。通商上の不始末など、これまでにも幾度となく処理してきた事案の一つに過ぎない。
だが、子供が使者の前に座らされていたという一文だけは、二度読んだ。
「後見人の名は何と言いましたか」
「ヘルムート・フォン・ヴァルダーです」
エカチェリーナは書類を閉じた。
「財務院に、通商監査の名目で、当該取引一件を洗い直させなさい。表向きは通常の見直しとして。ヘルムート個人を名指しにする必要はありません」
「かしこまりました」
「それと」
彼女は続けた。声の調子に変化はなかった。
「ヴァルダー公爵家に対し、皇帝の夫としての待遇整備を申し出ます。後見については、帝室典礼院の預かりとする形式に改めなさい。子の身の回りの世話、謁見の作法、それらすべてを典礼院より人を出し、管轄下に置くように」
アドリアンは一瞬、言葉に詰まった。それが何を意味するか、彼にはすぐに理解できた。後見人が子供に公的に接する機会は、これによって形式上ほとんどなくなる。まして好きに連れ出すことなど不可能となる。表向きは皇帝の夫にふさわしい保護という、誰も異を唱えられない名目のもとで。
「ヘルムート殿には、何と」
「何も。典礼院からの正式な通達だけで十分です」
告発も、処罰もない。ただ、静かに手の届く範囲を狭められるだけだった。
典礼院からの通達を受け取ったヘルムートは、最初、これを名誉なことだと受け取った。皇帝の夫にふさわしい待遇――それは自分たち一族への評価が上がった証のようにも見えたからだ。だが半月も経たぬうちに、甥の外出には典礼院の許可と付き添いが必要になり、身の回りの世話も見慣れぬ女官たちに取って代わられた。取引の場に連れ出す口実を作ろうにも、目的、経路はもちろん、警備護衛の計画――いくつもの書類を通す必要があった。容易なことではない。
同じ頃、財務院からの照会状が届いた。西方国境での通商取引について、慣例に基づく定期監査を行うという、ごくありふれた文面だった。名指しにされたわけでもなく、咎められたわけでもない。だが、これまで見過ごされていた取引の細部が、ひとつひとつ書類として洗い出されていく。関税の融通も、支払い猶予も、今後は監査の目を通さねば動かせなくなった。
ヘルムートは、自分が何を失ったのか気付き始めた。しかし、通商の取引が急に慎重な監査下に置かれるようになったこと、子供の予定がすべて典礼院を通さねば決まらなくなったこと――それらが一つの意志によるものだと気づくには、なお時間がかかった。全てを理解した頃には、抗議する相手も、抗議する名目も、どこにも見当たらなかった。
典礼院の管轄に移ってから一月ほど経った頃、エカチェリーナは謁見の日取りの一覧に目を通していた。その中に、五歳の夫の名があった。来る二百四十三年の年明け、正式な謁見が予定されている。
「この謁見は、来春ではなく、雪どけの後に」
「理由をお伺いしても」
「幼い子供に、長旅と厳寒の中の儀礼を強いる必要はありません。それだけの配慮です」
それ以上の言葉は続かなかった。侍従は一礼して下がり、日取りは書き換えられた。
子供本人と、エカチェリーナが顔を合わせることは、結局一度もなかった。
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帝国暦二百四十三年の春間近、その報せは短い文書一枚で届いた。
ヴァルダー公爵家の分家筋、五歳で皇帝の夫となった男児が、六歳で身罷った。流行り病だったという。
エカチェリーナは執務室でその報告書を読み、しばらくの間、何も言わなかった。
「弔意の使者を。公爵家には、相応の見舞いを」
感情の乱れは、声にも表情にも表れなかった。侍従が退室したあと、彼女は書類の束に視線を戻し、次の決裁に取りかかった。いつもと変わらぬ午前の執務だった。
その日の夕刻、誰もいなくなった執務室で、彼女は一度だけ、机の端に置かれたままの謁見予定の控えを手に取った。書き換えられた日付――雪どけの後、と書き込まれたその一枚は、結局使われることのないまま残っていた。
会うこともなく、言葉を交わすこともなく、その存在はただ紙の上の日付として終わった。守り抜いたはずの一線の先に、結局何も残らなかった。
窓の外はもう暗くなりかけている。エカチェリーナはしばらくその控えを手にしたまま、動かなかった。誰かに見せるための仮面も必要ない時間だったが、彼女の表情は変わらないままだった。
了




