第19話 平和の代償 後編 帝国暦238年1月
深夜、私室の燭台の灯りが、机上を照らしていた。
エカチェリーナは、書き終えたばかりの手紙に封をした。宛先は、ラドムスキ大公ヤン。正規の外交ルートは、使わない。
翌朝、まだ日も昇りきらぬうちに、アナスタシアが呼ばれた。
続けざまに二人の子を産んでからというもの、妹はずいぶんと肉付きが良くなった。休みの日に見かける時は、大抵その両脇に、遊びたい盛りの子供たちを抱えて歩いている。傍目には、すっかり恰幅の良い母親の姿だった。
だが、その下に何が隠れているかを、エカチェリーナは知っている——身のこなしの端々に、丸みの奥に眠る筋肉が、隠しようもなく滲んでいた。
「大公へ、内々に。これを」
アナスタシアは、差し出された封書の中身を尋ねることはしなかった。姉に頼まれた使いは、これまでにも幾度となくこなしてきたことだった。
「わかったわ。……お姉様、少し顔色が優れないみたいだけど」
「気のせいです」
それ以上、何も言わなかった。
アナスタシアは、身支度を整え、朝のうちに旅立っていった。行き先は、視察の名目で北方へ——ただそれだけの、いつもと変わらぬ旅のはずだった。
---
戦務総監ハインリヒが小会議室に呼び出されたのは、夕刻のことだった。飾り気のない部屋の飾り気のない机に、地図が広げられている。
エカチェリーナは、すでに机の前に立っていた。
「王国が、宣戦を布告しました。公使が、つい先ほど」
抑揚のない声だった。
「国境の様子は」
「……ご下命により、備えは進めさせておりました。開戦後の状況は、届き次第、直ちに」
エカチェリーナは、わずかに頷いた。
「第五軍団に、即時の対応を。また、以後、少なくとも週に一度、文書だけでなく口頭でも報告しに来るように」
「畏まりました」
一礼し、退出する。廊下に出た途端、心の臓が、まだ速く打っていることに気づいた。国境で、今この瞬間に何が起きているのか——それを知る術は、まだ誰にもなかった。
---
クレストフカ要塞、防塁の上。
冬の名残がまだ石畳に凍りついている朝だった。アントンは、双眼鏡越しに国境の向こうを見つめていた。
ここ数日、王国側の陣地に、これまでにない数の天幕が並んでいる。糧秣を運ぶ荷馬車の列も、もはや隠す様子すら見せなくなった。
「また増えてますね」
隣に立つカールが、白い息を吐きながら言った。まだ声変わりして間もない、幼さの残る声だった。配属されてひと月足らずの、新兵だった。
「ああ」
アントンは短く答えた。それ以上、余計なことは言わなかった。不安を言葉にすれば、それはそのままカールにも伝わる。
砲列の点検を終えると、アントンは、砲兵たちに弾薬の再確認を命じた。理由は説明しなかった。命じることが、そのまま答えだった。
その夜、要塞司令部から、全員に持ち場を離れぬようにとの通達が回った。理由の説明はなかった。ただ、いつもより張り詰めた空気が、要塞全体を包んでいた。
「隊長」
見張りに立ったカールが、震える声で呼んだ。
「国境の向こう、篝火が……いつもより、ずっと多いです」
アントンは防塁に駆け上がった。双眼鏡を構えるまでもなかった。夜の闇の向こうに、無数の灯りが、蠢くように連なっている。
——来る。
理屈より先に、体がそう理解していた。
「戦闘配置! 全砲、装填!」
叫んだ直後、遠く、地鳴りのような音が響いた。次いで、頭上を切り裂く音。
「伏せろ!」
アントンがカールを引き倒すのとほぼ同時に、防塁の一角が爆ぜた。石片と土煙が、視界を白く塗りつぶす。
「距離、目算で……! 撃ち返せ!」
砲声が応える。夜が、光と轟音で埋め尽くされていく。何が起きているのか、正確に把握する余裕はなかった。ただ、命じられたことを、命じ、実行する。それだけだった。
どれほどの時間が経ったのか、アントンにはわからなかった。ふと隣を見ると、カールの姿がない。
「カール!」
叫んでも、返事はなかった。少し離れた瓦礫の陰に、蹲るような形で、その体はあった。
駆け寄って抱え起こしたときには、もう、何かを言葉にすることはできなかった。
配属されて、ひと月足らずだった。
アントンは、その体をそっと横たえ、震える手で目を閉じさせた。悲しむ時間はなかった。砲声は、まだ止んでいない。
「隊長、次弾装填完了!」
部下の声に、アントンは立ち上がった。振り返ることは、しなかった。
夜が明ける頃には、王国軍の初撃は、ひとまず退けられていた。要塞は、持ち堪えた。
だが、失われたものの多くは、報告書の数字には、決して表れない。
---
翌日夕刻、国境からの急使が、ようやく帝都に到着した。開戦後、最初の報告のため、ハインリヒは小会議室へ上がった。
ハインリヒという男は、確信のないことを確信のように語れない性分だった。数字は数字のまま、わからぬことはわからぬまま——それが、彼の誠実さの形だった。だが、この日ばかりは、柄にもなく手のひらに汗を感じていた。
「北東部の情勢を」
エカチェリーナが短く促した。
「はっ。西側クレストフカでは、王国軍の初撃を凌ぎました。東側ルーベジェも同様に持ち堪えております。中央、国境からはやや奥まったソコロフスクへは、まだ直接の攻撃はございません」
「兵力は」
「概算にはなりますが、王国側は帝国側のおよそ一・三倍から一・五倍かと」
「概算、ですか」
「はい。……正確な数字を申し上げられる段階には、まだございません」
エカチェリーナは、わずかに目を細めた。それが咎める色なのか、それとも別の何かなのか、ハインリヒには読み取れなかった。
「良いでしょう。続けて」
「三個師団は各要塞に拠り、これを守備しております。加えて、要塞と要塞の間には土塁を築き、少数の兵を配置し、遅滞戦闘に当たらせております。敵の前進速度を削ぎ、出血を強いながら、圧力が強まればその兵は計画的に後退いたします」
「深く誘い込む、ということですね」
先回りされて、ハインリヒは一瞬言葉に詰まった。
「……仰る通りでございます」
「残りの二個師団は」
「第二十五師団は、特定の要塞に縛られぬ機動防御、反撃を担当いたします。第十八師団は戦略予備として、前線よりやや後方に、即応の態勢で待機させております」
「予備を投入するかどうかは」
「戦況次第でございます。今の見通しが外れた場合の備えでございますので、現時点で要不要を申し上げることはできません」
エカチェリーナは、小さく頷いた。それ以上、何も言わなかった。
謁見はそこで終わった。ハインリヒは、深く一礼して退出した。汗ばんだ手のひらのことは、誰にも気づかれていないはずだった。
---
一週間後、二度目の報告。
「クレストフカ、ルーベジェ両要塞への圧力は、依然として続いております。加えて、両要塞の間隙への浸透の兆しも」
「間隙、ですか」
「はい。ソコロフスクを直接攻撃する意図と読み得ます」
「想定通り、ということですね」
「……仰る通りかと存じます」
先週よりは、いくらか声に力が入ったかもしれない、と自分でも思った。
「帝国側の損耗は」
「クレストフカで、いくらかの犠牲が出ております。ただし、要塞そのものは持ち堪えております」
「よろしい」
言うべきかどうか、ハインリヒは束の間迷った。だが、口にした。
「陛下。第五軍団司令部より、増援を求める具申が上がっております」
「却下します」
迷いのない即答だった。
「……理由をお伺いしても」
「今の兵力比だからこそ、王国は間隙へ踏み込んでくるのです。ここで増援を送れば、王国側もそれに気づく。踏み込まずに睨み合うか、伸びきらない程度の慎重さで進むか——どちらにせよ、誘い込む隙がなくなります」
理屈はわかる。だが、もし読みが外れればどうなるか、と思うと、ハインリヒの背筋に冷たいものが走った。
「それだけではありません。大規模な増派は、局地戦を、双方にとって後に退けない全面戦争へと変わりかねない。長引かせず、大きくもしない。王国にとっての勝利の価値も、敗北の代償も、大きくしすぎてはなりません。それも、この兵力に留めている理由の一つです」
エカチェリーナは、それだけ言うと、視線を書類へ戻した。ほんの一拍——指先が、文机の縁を心持ち強く押さえたように、ハインリヒには見えた。
気のせいかもしれない。確かめる術は、もちろんなかった。
---
三度目の報告は、これまでの二回とは、明らかに勝手が違った。
「王国軍主力が、間隙を抜けました。ソコロフスク要塞を包囲する構えです」
「間延びしている、ということですね」
「——はい。陣形は伸びきり、補給線も相応に延びております」
エカチェリーナの問いは、いつも一歩先を行っている。ハインリヒはそのことに、今さらながら気づかされていた。
「第二十五師団は」
「はっ。すでに機動反撃に移っております。側面と後方から。同時に、要塞からも兵を出し、挟撃の形に」
言いながら、抑えていたはずの何かが、声に滲むのを、ハインリヒは自分でも感じた。
「戦術教本に載せてもよいほど、教科書通りの用兵でございます。ですが……教科書通りに事が運ぶことなど、実戦ではまず、ございません」
「褒めているのですね、ハインリヒ」
名を呼ばれ、指摘され、ハインリヒは束の間、言葉を失った。
「……失礼いたしました。職掌を超えた発言でございました」
「構いません。続けなさい」
「はっ。……どうにも王国という国は、軍略上の学習能力には、いささか難があるようです」
「と、いうと」
「十年前のラドムスキ動乱でも、王国軍は同じ轍を踏んでおります。深く誘い込まれ、伸びきったところを、大公国軍の機動反撃で叩かれた——今回とほぼ同型の展開でございます」
エカチェリーナは、わずかに目を伏せた。
「……そのようですね」
短い相槌だけだった。ハインリヒは、それ以上は続けなかった。
「第二十五師団を率いるのは、ヴロンキの英雄ギュンター少将でございます」
その名を告げた瞬間、エカチェリーナが一瞬、唇を噛んだように見えた。
「戦略予備の一個師団は」
「即応の態勢のまま、動いてはおりません」
「良いでしょう」
---
四度目の報告には、外務大臣も同席していた。
「王国軍は、ソコロフスク包囲を解き、各所で後退を開始しております」ハインリヒが口を開いた。「王国軍の損耗が、想定を超えたものと推察いたします」
「良い報告ですね」
エカチェリーナが応じたところで、外務大臣が一歩進み出た。
「陛下。大公国が、王国との東部国境——十年前、両国が激戦を交えたのと同じ方面に、軍を集結させ始めております」
「理由は」
「掴めておりません。前触れも、名分らしい名分も、これといって発表もなく……」
外務大臣は、そこで一拍おいた。
「畏れながら、陛下におかれましては、何かお心当たりがおありでしょうか」
外務の人間らしい、遠回しな聞き方だった。だが、その実、まっすぐな問いでもあった。
エカチェリーナは、何も答えなかった。ただ、わずかに目元を緩めただけだった。
外務大臣は、それ以上は踏み込まなかった。
「北東部の劣勢に加えて東部にも脅威——王国にしてみれば、二正面は避けたいところでしょう。事実、外交ルートを通じて、停戦交渉の打診が届きました」
エカチェリーナは、しばし黙考した。
「条件は、白紙和平とします」
迷いのない声だった。
「王国軍の撤退と、戦前の国境線への復帰。それ以上は、何も求めません。継承権の当否についても、一切、触れません」
「……よろしいのですか。せっかくの機かと」外務大臣が問う。
「これ以上は、要りません」
それだけ言うと、エカチェリーナは筆を執り、決裁の文書に手を伸ばした。それ以上の説明をするつもりはないようだった。
「畏まりました。王国側へは、その旨を」
外務大臣が一礼して退出する。ハインリヒも続こうとしたところで、ふと足を止めた。
「陛下」
「何か」
「……大公国の件、いずれ分かる日が来るのでしょうか」
エカチェリーナは、筆を止めぬまま答えた。
「さあ、どうでしょうね」
それ以上は、何も言わなかった。ハインリヒは、それ以上尋ねることはしなかった。
---
その夜、エカチェリーナは、しばらく窓の外を見ていた。
あの朝、封をした手紙のことを思い出す。中身は、アナスタシアにさえ明かさなかった。大公国の東部集結に、自分の手紙がどの程度の意味があったのか——確かめるつもりも、なかった。
ただ、今度だけは。
後悔する前に、動けた。それだけで、十分だった。
了




