第18話 平和の代償 前編 帝国暦237年11月
帝都の並木は、すでに葉の大半を落としていた。朝の光は薄く、暖炉に火が入り始める季節になっている。エカチェリーナはいつものように七時前に机につき、その日の決裁に向き合っていた。
最初の数枚は、例によって日々の決裁だった。人事の承認、地方からの陳情、外交儀礼に関わる細々とした裁可。ペン先の音だけが、静かな室内に規則正しく響く。
その日の書類の中に、王国からの外交文書が紛れ込んでいたのは、九枚目だったか。
差出人は、エレオノーラなる女性。ただし、王国外務を通じて正式に提出されたものだった。文面は儀礼に則った丁重なものだったが、要旨は明快だった——帝国北東部、ソコロフ辺境伯領の継承権を、エレオノーラが主張する、という。添えられた系図には、先々代の三女ソフィアの名から始まる血統が、丁寧に書き起こされていた。
(ソフィアの、孫……)
エカチェリーナは記憶を辿った。ソコロフ辺境伯家の相続は、昨年——先代辺境伯イリーナの病没に端を発している。イリーナの長女ナタリアが正式に家督を継いだのが236年。だがこの九月、そのナタリアが狩猟中の落馬事故で急逝した。もう一人の直系継承権者だったナタリアの妹は、数年前、共和国の文筆家との身分違いの恋愛結婚を選び、海を渡っていた。継承の意志なし、と正式に申し出ていたはずだ。
直系の継承権者が不在な以上、帝国は通例に従い、傍系——先々代の他の娘の系統——から次点の相続人を立てて処理する。といってもソフィアの次女は子が出来なかったため、四女の高齢な娘か、もしくは孫娘のいずれか、で調整を残すのみであった。
そこへ、この文書だった。
ソフィアは、先々代の四人の娘のうちの三女。王国貴族に嫁ぎ、王国で生涯を終えている。血筋こそソコロフの女系だが、生まれも育ちも王国貴族——そのソフィアの孫娘が、正当な継承権を主張してきている。
エカチェリーナは、書面をもう一度、頭から読み直した。
(我が国の相続法は、女系女性長子優先の血統相続。……この人の主張は、その原理そのものに、忠実に則っている)
これに反論しようとすれば、自分がまさに立っている帝位の土台——女系の血統は正統である、という一点——にすら、自ら疑義を差し挟むことになる。
もう一つ、別の違和感が、頭の隅に引っかかっていた。ナタリアが急逝したのは、九月半ば。この、系図まで整えた正式な外交文書が届くまで、わずか二ヶ月。これほど周到な準備が、この短期間で整うはずがない——。
(見越していた、というだけで片付く速さかしら)
確信には至らない。ただの勘であり、根拠と呼べるほどのものは、どこにもなかった。ナタリアの死に際しても入念な検証が行われたが、結局、単独の事故として決着している。
エカチェリーナは、表情を変えぬまま、書面を机の脇へ置いた。
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呼び鈴を鳴らすと、ほどなく宮廷首席書記官アデルが姿を現した。
「王国より、ソコロフ辺境伯領の継承権を主張する文書が届きました」
エカチェリーナは書面をアデルへ差し出した。
「調べてください」
アデルは書面に目を落とし、しばらく沈黙した。
「畏まりました」
短く答え、アデルは一礼した。その所作に、いつもと変わったところは何もなかった。ただ、この阿吽の呼吸も、そう長くは続かないのかもしれない——エカチェリーナは、ふとそんなことを思った。六十歳を超えたアデルの引退が、そろそろ現実の話として浮かび上がってきている。
「もう一件、よろしいでしょうか」
アデルが、退出しかけた足を止めて言った。
「記録庁のアドリアンという者を、宮廷書記官補へ引き上げたく存じます」
エカチェリーナは軽く眉を上げた。
「理由は」
「この数年、記録庁での彼の仕事ぶりを、折に触れて見てまいりました」アデルは言葉を選びながら続けた。「几帳面さそのものは、珍しくもございません。多くの書記官は、目にしたことをそのまま書き留めます。それ自体、間違いではございません。ですが、事案の本筋には関わりのない、ただ当人を傷つけるだけの些事までもが、後々まで記録に残ってしまうことがございます」
「具体的には」
「三年ほど前、さる貴族家の相続調査の記録に、本筋とは無関係な、当人の縁談にまつわる際どい経緯が紛れ込んでおりました。彼はその一行だけを、指示もなく書き残しませんでした。書き漏らしではございません。残しても害あるのみで益のない記述だと、自ら判じた上でのことです」
エカチェリーナは、しばし黙考した。
(記録に何を残し、何を残さないか。……それを自分で判じられる書記官は、確かに得難いでしょうね)
その名前に、かすかな既視感がよぎった。ラチェリーナが子供の頃のお気に入りだったはずだ。その頃の彼の所属の、宮廷資料室にたびたび押しかけては仕事の邪魔をし、ついにはたまりかねた資料室長から苦情が上がってきていた——当時は、適当に受け流して済ませたけれど。
「良いでしょう」エカチェリーナは頷いた。「進めてください」
人選の理由を、深く問うことはしなかった。アデルもまた、それ以上は語らなかった。
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アドリアンの調査結果が届いたのは、それから十日ほど後のことだった。異動の引き継ぎと並行しての、記録庁における最後の仕事になったという。
系図、婚姻記録、洗礼台帳——照合できる限りの資料を突き合わせた結果、エレオノーラの主張に法的な瑕疵は見当たらない、という結論だった。調査そのものの経緯は、報告書にほとんど残されていなかった。誰に何を照会し、どこで裏を取ったか——そうした過程は、簡潔な結論の一文に集約されていた。
報告を受けたアデルが、法的な当否とは別の角度から一言添えた。
「陛下。たとえ法に瑕疵がなくとも、この土地そのものの値打ちを見誤ってはならないと存じます」
「と、いうと」
「辺境伯領を傀儡にするにせよ、王国へ帰属を変えさせるにせよ、それはラドムスキ大公国と王国の国境線をこちら側に広げるに等しゅうございます。次に大公国へ手を伸ばす際の、足がかりに使うつもりでございましょう」
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執務室に一人残ると、エカチェリーナはしばらく、窓の外の裸木を眺めていた。
(この国の相続法。……私の帝位も、ラチェリーナの将来も、エレオノーラの主張も、根拠はただ一つ、同じ場所にある)
女系の血統は正統である——エレオノーラの主張は、まさにその同じ原理の上に、寸分違わず成り立っていた。これを法の言葉で否定しようとすれば、女系相続そのものの正統性に、自らの手で否定する種を蒔くことになる。
(先例を運用する、法解釈で押し切る……これは、今回は使えない)
いや、使えないどころではない。使おうとした瞬間、刃は自分自身の帝位と、帝国全貴族の相続権の土台へ向かって返ってくる。手詰まりというのは、こういうことを言うのだろう、とエカチェリーナは思った。反論すれば自分の首を絞め、認めれば辺境伯領の民を売り渡すことになる。
しばらく、窓辺に立ち尽くしたまま考えた末、彼女は一つの結論に至った。
——返書を、出さない。
反論でもなく、承認でもない。ただ、何も言わないという一手。
誰にも、それが計算か手詰まりかは悟らせない。悟らせてはならない。エカチェリーナは、机に向き直り、王国からの文書を、返答の要らぬ書類の束の下へ、静かに差し入れた。
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238年の年が明けた。
新年の賀詞言上が一段落した頃、戦務総監ハインリヒが皇帝に呼ばれた。平時は書面での報告が通例のところ、今回は口頭を交えての説明を受けたい、とのことだった。
戦務総監の職は、228年に新設されて以来、まだ十年に満たない。人事権も、部隊の指揮権も持たない。ただ、帝都に常駐し、皇帝の決定を現場へ、現場の実情を皇帝へ、経験豊富な軍人がその中継ぎを行うことで、皇帝の適切な判断と現場への遺漏無い伝達に資する、そういった役割だった。ハインリヒは三代目——五十路に差し掛かった、実直を絵に描いたような面差しの男だった。
「北方面の定例配置につきまして、ご報告申し上げます」
差し出された地図の写しを机に広げ、ハインリヒは淡々と語り始めた。誇張も卑下もない、ただ事実だけを積み上げていく口調だった。国境沿いに展開する各連隊、各師団の配置、兵站の状況——一つひとつが、同じ調子で読み上げられていく。
「北方面は、現状では取り立てて憂うるところはございません。ただ、南東方面の情勢次第では、兵力の配分を見直す必要が生じるやもしれません」
「——第二十五師団は、引き続き北東部国境に近い側の守備についております。師団長ギュンター少将、以下、部隊の充足率は……」
他の項目と、何一つ変わらぬ速さと平静さで、その名は告げられた。
エカチェリーナは、他の項目と同じ間合いで、小さく相槌を打った。
(……そう)
表には、何一つ出さなかった。心だけが、ほんのわずかに波立った。
ハインリヒの報告は、それからも同じ調子で続いた。過不足のない、平易な言葉。感情を差し挟む余地の一切ない、事実の積み重ね。エカチェリーナは、その語り口に、ある種の信頼を覚えながら聞き続けた。
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年明けから半月ほど経った頃、国境からの続報が届いた。北東部、ソコロフ辺境伯領との境で、王国側の部隊に集結と示威の動きが見え始めている、という。
アデルから報告を受け、エカチェリーナは、しばらく黙って窓の外を見つめていた。
(……避けられない、か)
ここまで来れば、もう疑う余地はなかった。開戦は、時間の問題だった。
王国は、227年の王位継承権を巡る内乱の平定に三年を要した。更には、ラドムスキ戦争と内乱で負担を強いられた貴族の一部が、王権の制限を求めてのサボタージュを起こし、最終的に反乱に至ったものもいた。また、それらの鎮圧に傭兵を用い、国庫と、元傭兵達による治安への影響は未だ残っている。
王国がその始末に追われ続けていた十年近くの間、帝国に打てた手は、一つではなかったはずだ。踏み込むなら、その混乱に乗じて先んじて仕掛けるという道もあったし、乱を起こしたものを密かに支援しても良かった。控えるにしても、国境の守りを厚くする、あるいはソコロフ辺境伯領の継承そのものに、断絶が起きる前から目を配っておくという備えの道もあった。
あの頃であれば選べた手は、無数にあったはずだった。それなのに、自分は結局、何もしなかった。
(今さら悔いたところで、詮無いこと)
そんなことは、自分が誰よりもよく分かっている。それでも——何もしなかったばかりに、帝国領内が戦場となり、兵のみならず臣民までもが戦禍に晒されることになる。攻めるにせよ備えるにせよ、早く手を打っていれば避けられたかもしれない。
その後悔が、胸の内をよぎるが、皇帝がすべき仕事は待ってはくれない。
「アデル」
エカチェリーナは、いつもと変わらぬ調子で口を開いた。
「軍に北東方面、王国との国境防備を急ぎ固めるよう伝えてください。追って書面は出します」




