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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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18/23

第17話 継承者の初陣 帝国暦235年6月

帝都は、初夏を迎えていた。庭園の薔薇が盛りを迎え、朝の空気はまだ涼しい。十八になった今朝、ラチェリーナはいつもよりあらたまった装いで、母の私室を訪ねた。


「お母様、おはようございます」


窓辺の小卓は、片付いたままだった。以前はそこに水彩道具が置かれていたが、油彩に凝り始めてからはアトリエをしつらえてそちらで描いている。エカチェリーナは、その空いた卓へちらと目をやり、紅茶を口にしながら娘へ静かに頷いた。


「よく眠れましたか」


「あまり。……今日から閣議に列席するのだと思うと」


正直な返事に、エカチェリーナはわずかに目元を緩めた。もっとも、発言権はあっても、裁可はまだ皇帝の手にある。今日はあくまで、娘が初めてその場の空気を吸う日にすぎない――そう思えば、それほど案じることでもなかった。


「多くを語る必要はありません」エカチェリーナはカップを置き、言葉を選びながら続けた。「まず、最後まで聞きなさい。判断は、それからでも遅くはないわ」


「かしこまりました、陛下」ラチェリーナは背筋を伸ばし、儀礼張った口調で応じた。「粗相そそうのなきよう、努めます」


その生真面目な返し方に、エカチェリーナは何も言わなかった。ただ、二十年前、戴冠たいかんを控えた自分が誰からともなく胸に刻んだ心構えと、今この娘に向けている言葉とが、驚くほど同じ形をしていることにだけ、ひとり気づいていた。


(あなたは、私のようにはならなくていいのだけれど)


口には出さなかった。


娘の背丈は、いつの間にか自分にほとんど並んでいた。あどけない筆致で紙に色を置いていた小さな手が、今は正装の裾をさばいて一礼している。


---


閣議室には、六月の淡い光が差し込んでいた。ラチェリーナは、母の隣に新しく設けられた席に着いた。


背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねた姿勢は、朝の私室で見せた儀礼張った態度そのままだった。緊張しているのは明らかだったが、それを表に出すまいとする様子もまた、母によく似ていた。


古参の閣僚たちの視線が、値踏みするように彼女へ流れては、すぐに逸れていった。表向きは礼儀正しい無関心を装いながら、誰もが同じことを考えているのは明らかだった――この娘は、母と同じ牙を持っているのか、それとも。


内務大臣クラウスが、目の動きだけで彼女を一瞥いちべつした。(あの日も、この部屋はこれくらい静かだった)――二十年近く前、若い女帝が初めてこの席に着いた朝のことを、彼はふと思い出していたが、誰にも言わなかった。飄々《ひょうひょう》とした彼らしい沈黙だった。彼はどちらの派閥にも属さぬまま、ただ観察だけを続けてきた男だった。


財務大臣ルートヴィヒが議事を進めていく。人事の承認、地方税の細目、街道整備の予算、辺境州からの陳情への回答――いずれも滞りなく片付いていった。丸顔の老臣は数字に強く、この手の実務にはまるで危なげがない。十六年近く帝国の財政を預かってきた男の、いつも通りの進行だった。


議事が終わりに近づいた頃、帝室御料地(ごりょうち)の一つ、西方フェルゼンベルク近郊の岩塩鉱山、その採掘委託契約の更新案が読み上げられた。他の議題と同じ調子で、殊更に強調されることもなく、淡々と流れていく――そう思われた。


---


ラチェリーナは、母の助言どおり、ここまで口を挟まずにいた。(最後まで聞く。判断は、それから――)


だが、読み上げられた文言に、小さな引っかかりを覚えた。手元に控えていた過去の記録の写しと、今読まれている条文とを、頭の中で照らし合わせる。


「――お待ちください」


思わず、声が出た。閣議室の視線が、一斉に彼女へ集まった。


「従来の契約には『五年ごとに帝室監査官の実地審査を経て更新する』とあったはずです。今回の更新案には、その一文が見当たりません」


室内の空気が、わずかに強張った。ルートヴィヒが、書類をめくる手を止めた。


「……失礼、単なる文言の整理にございます。実地審査そのものは、慣例として引き続き――」


「慣例として、とは。前回の更新記録には、明記されておりました」ラチェリーナは静かに、しかし引かなかった。「昨晩、控えの記録に目を通してまいりました」


「その、記録庁の写しに、誤記があった可能性も」


「過去の更新記録を、さかのぼれる限り確認いたしました。今回の更新案だけが、その一文を欠いております」


ルートヴィヒの顔から、みるみる血の気が引いていった。数字には強くとも、この手の場で言葉を重ねて場をしのぐ術には、もとより長けていない。取りつくろおうとすればするほど、答えは歯切れを失っていった。


「……フェルゼンベルクのシュタイガー家には」ややあって、老臣は観念したように口を開いた。「財務大臣の座に推してもらった恩がございます。それだけの話にございます」


それ以上は、誰も何も言わなかった。だが、その一言だけで、事の輪郭は十分に伝わった。


クラウスだけが、わずかに目を伏せた。(あの日の陛下は、最後まで黙って、たった一言で終わらせた。……殿下は違う)二十年前の記憶と、目の前の光景とが、彼の中で静かに並び、そして食い違っていった。


---


エカチェリーナは、始めから終わりまで、一言も発していなかった。ただ議事の締めくくりに、短く口を開いた。


「実地審査の条項は、原文のまま存続とします」


それだけの裁定だった。発見したのは娘でも、決めるのは自分――その役割は、崩さなかった。


閣議室に、重い沈黙が残った。ルートヴィヒは目に見えて肩を落としている。他の閣僚たちは、互いに視線を交わした。この皇太女は侮れない――誰もがそう悟った様子だったが、その悟り方には、どこか気まずい後味が伴っていた。母の、静かで気づかれぬ勝ち方とは、明らかに違う後味だった。


ラチェリーナ自身、勝ったという実感の底に、これまで味わったことのない重たさを覚えていた。誰かを皆の面前で言い負かした、という手応えは、思っていたよりずっと苦い味がした。


---


夕刻、アデルがエカチェリーナの執務室を訪れた。


「ルートヴィヒ殿より、辞表を預かっております」


エカチェリーナは、命じてもいないその一報を、静かに受け取った。老臣が自ら決めたことだった。


「体裁を整えなさい」しばしの間を置いて、彼女は言った。「引責ではなく、長年の功労に報いる勇退として。数日のうちに、公報へ」


「畏まりました」


「叙勲の手配も、あわせて。……十六年間、帝国の懐具合を一度も危うくしなかった男です。それに見合うだけの形を」


アデルが一礼して退出したあと、エカチェリーナはしばらく、窓の外を眺めていた。


(あの子の目は、私と同じ。……でも、やり方はまるで違う)


沈黙し、最後にひとつだけ言葉を置く自分のやり方とは違う、真正面から問い詰めるやり方。どちらが正しい、ということはない。ただ、これから先、あの子をこれまでとは違う形で守っていかねばならない――誰にも明かせないその計算だけが、静かに胸の中へ積もっていった。


(十六年。……あなたが腹芸を苦手としていたから、私はどこかで、安心しきっていたのかもしれませんね、ルートヴィヒ)


全ての歳入、歳出を管轄する財務の座は絶大な影響力を持つ。野心あるものならば、誰もが虎視眈々《こしたんたん》と狙う場所だった。だからこそ彼女は、政治に不器用なルートヴィヒを、疑うことなく置き続けてきた。その無条件の信頼こそが、十六年をかけて、静かな緩みを許したのかもしれない。推されて座に就いた恩を、その恩ゆえに失う。しかし、事情を知らぬ者なら、誰の目にも、そうとは映らない形で。


窓の外の薔薇へ、しばらく目をやった。自分もまた、いつか同じように緩む日が来るのかもしれない。だからこそ、気を抜いてはならない――エカチェリーナは、静かに己へ言い聞かせた。


---


その夜、私室で茶器を挟み、ラチェリーナは今日のことを語った。


「黙っていろと仰ったのに、できませんでした」


「あなたのやり方も」エカチェリーナは、カップを置きながら答えた。「悪くはなかったと思うわ」


(隠しておくより、白日の下に晒す方が、次に同じ手を使おうとする者への牽制になる。少なくとも、今回に関しては)


娘は、その言葉に少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「ルートヴィヒは、どうなるのでしょう」


「さきほど、辞表が届きました」エカチェリーナは静かに言った。「近く、勇退の栄誉を授けることになるでしょう。長年の功労に対して」


顔を上げたラチェリーナが目を泳がせる。


「わたくしが……辞めさせてしまったのですね」


声が、かすかに震えていた。


「正しいと思ったから、問いただしました。ただ、それだけのつもりでした。彼の進退まで問うつもりは――」


「それは、考えなくていいことです」エカチェリーナは短く遮った。それ以上は続けなかった。


「お母様は」ふと、何気ない調子でラチェリーナが尋ねた。「初めての閣議で、戸惑われたことは」


エカチェリーナは、すぐには答えなかった。


わずかな間があった。ラチェリーナには、それがただの一呼吸にしか見えなかっただろう。


「……さあ、どうだったかしら」


短い答えだった。娘はそれ以上、追及しなかった。


窓の外では、薔薇の香りを含んだ夜風が、静かに吹いていた。



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