第17話 継承者の初陣 帝国暦235年6月
帝都は、初夏を迎えていた。庭園の薔薇が盛りを迎え、朝の空気はまだ涼しい。十八になった今朝、ラチェリーナはいつもよりあらたまった装いで、母の私室を訪ねた。
「お母様、おはようございます」
窓辺の小卓は、片付いたままだった。以前はそこに水彩道具が置かれていたが、油彩に凝り始めてからはアトリエを設えてそちらで描いている。エカチェリーナは、その空いた卓へちらと目をやり、紅茶を口にしながら娘へ静かに頷いた。
「よく眠れましたか」
「あまり。……今日から閣議に列席するのだと思うと」
正直な返事に、エカチェリーナはわずかに目元を緩めた。もっとも、発言権はあっても、裁可はまだ皇帝の手にある。今日はあくまで、娘が初めてその場の空気を吸う日にすぎない――そう思えば、それほど案じることでもなかった。
「多くを語る必要はありません」エカチェリーナはカップを置き、言葉を選びながら続けた。「まず、最後まで聞きなさい。判断は、それからでも遅くはないわ」
「かしこまりました、陛下」ラチェリーナは背筋を伸ばし、儀礼張った口調で応じた。「粗相のなきよう、努めます」
その生真面目な返し方に、エカチェリーナは何も言わなかった。ただ、二十年前、戴冠を控えた自分が誰からともなく胸に刻んだ心構えと、今この娘に向けている言葉とが、驚くほど同じ形をしていることにだけ、ひとり気づいていた。
(あなたは、私のようにはならなくていいのだけれど)
口には出さなかった。
娘の背丈は、いつの間にか自分にほとんど並んでいた。あどけない筆致で紙に色を置いていた小さな手が、今は正装の裾を捌いて一礼している。
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閣議室には、六月の淡い光が差し込んでいた。ラチェリーナは、母の隣に新しく設けられた席に着いた。
背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねた姿勢は、朝の私室で見せた儀礼張った態度そのままだった。緊張しているのは明らかだったが、それを表に出すまいとする様子もまた、母によく似ていた。
古参の閣僚たちの視線が、値踏みするように彼女へ流れては、すぐに逸れていった。表向きは礼儀正しい無関心を装いながら、誰もが同じことを考えているのは明らかだった――この娘は、母と同じ牙を持っているのか、それとも。
内務大臣クラウスが、目の動きだけで彼女を一瞥した。(あの日も、この部屋はこれくらい静かだった)――二十年近く前、若い女帝が初めてこの席に着いた朝のことを、彼はふと思い出していたが、誰にも言わなかった。飄々《ひょうひょう》とした彼らしい沈黙だった。彼はどちらの派閥にも属さぬまま、ただ観察だけを続けてきた男だった。
財務大臣ルートヴィヒが議事を進めていく。人事の承認、地方税の細目、街道整備の予算、辺境州からの陳情への回答――いずれも滞りなく片付いていった。丸顔の老臣は数字に強く、この手の実務にはまるで危なげがない。十六年近く帝国の財政を預かってきた男の、いつも通りの進行だった。
議事が終わりに近づいた頃、帝室御料地の一つ、西方フェルゼンベルク近郊の岩塩鉱山、その採掘委託契約の更新案が読み上げられた。他の議題と同じ調子で、殊更に強調されることもなく、淡々と流れていく――そう思われた。
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ラチェリーナは、母の助言どおり、ここまで口を挟まずにいた。(最後まで聞く。判断は、それから――)
だが、読み上げられた文言に、小さな引っかかりを覚えた。手元に控えていた過去の記録の写しと、今読まれている条文とを、頭の中で照らし合わせる。
「――お待ちください」
思わず、声が出た。閣議室の視線が、一斉に彼女へ集まった。
「従来の契約には『五年ごとに帝室監査官の実地審査を経て更新する』とあったはずです。今回の更新案には、その一文が見当たりません」
室内の空気が、わずかに強張った。ルートヴィヒが、書類をめくる手を止めた。
「……失礼、単なる文言の整理にございます。実地審査そのものは、慣例として引き続き――」
「慣例として、とは。前回の更新記録には、明記されておりました」ラチェリーナは静かに、しかし引かなかった。「昨晩、控えの記録に目を通してまいりました」
「その、記録庁の写しに、誤記があった可能性も」
「過去の更新記録を、遡れる限り確認いたしました。今回の更新案だけが、その一文を欠いております」
ルートヴィヒの顔から、みるみる血の気が引いていった。数字には強くとも、この手の場で言葉を重ねて場をしのぐ術には、もとより長けていない。取り繕おうとすればするほど、答えは歯切れを失っていった。
「……フェルゼンベルクのシュタイガー家には」ややあって、老臣は観念したように口を開いた。「財務大臣の座に推してもらった恩がございます。それだけの話にございます」
それ以上は、誰も何も言わなかった。だが、その一言だけで、事の輪郭は十分に伝わった。
クラウスだけが、わずかに目を伏せた。(あの日の陛下は、最後まで黙って、たった一言で終わらせた。……殿下は違う)二十年前の記憶と、目の前の光景とが、彼の中で静かに並び、そして食い違っていった。
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エカチェリーナは、始めから終わりまで、一言も発していなかった。ただ議事の締めくくりに、短く口を開いた。
「実地審査の条項は、原文のまま存続とします」
それだけの裁定だった。発見したのは娘でも、決めるのは自分――その役割は、崩さなかった。
閣議室に、重い沈黙が残った。ルートヴィヒは目に見えて肩を落としている。他の閣僚たちは、互いに視線を交わした。この皇太女は侮れない――誰もがそう悟った様子だったが、その悟り方には、どこか気まずい後味が伴っていた。母の、静かで気づかれぬ勝ち方とは、明らかに違う後味だった。
ラチェリーナ自身、勝ったという実感の底に、これまで味わったことのない重たさを覚えていた。誰かを皆の面前で言い負かした、という手応えは、思っていたよりずっと苦い味がした。
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夕刻、アデルがエカチェリーナの執務室を訪れた。
「ルートヴィヒ殿より、辞表を預かっております」
エカチェリーナは、命じてもいないその一報を、静かに受け取った。老臣が自ら決めたことだった。
「体裁を整えなさい」しばしの間を置いて、彼女は言った。「引責ではなく、長年の功労に報いる勇退として。数日のうちに、公報へ」
「畏まりました」
「叙勲の手配も、あわせて。……十六年間、帝国の懐具合を一度も危うくしなかった男です。それに見合うだけの形を」
アデルが一礼して退出したあと、エカチェリーナはしばらく、窓の外を眺めていた。
(あの子の目は、私と同じ。……でも、やり方はまるで違う)
沈黙し、最後にひとつだけ言葉を置く自分のやり方とは違う、真正面から問い詰めるやり方。どちらが正しい、ということはない。ただ、これから先、あの子をこれまでとは違う形で守っていかねばならない――誰にも明かせないその計算だけが、静かに胸の中へ積もっていった。
(十六年。……あなたが腹芸を苦手としていたから、私はどこかで、安心しきっていたのかもしれませんね、ルートヴィヒ)
全ての歳入、歳出を管轄する財務の座は絶大な影響力を持つ。野心あるものならば、誰もが虎視眈々《こしたんたん》と狙う場所だった。だからこそ彼女は、政治に不器用なルートヴィヒを、疑うことなく置き続けてきた。その無条件の信頼こそが、十六年をかけて、静かな緩みを許したのかもしれない。推されて座に就いた恩を、その恩ゆえに失う。しかし、事情を知らぬ者なら、誰の目にも、そうとは映らない形で。
窓の外の薔薇へ、しばらく目をやった。自分もまた、いつか同じように緩む日が来るのかもしれない。だからこそ、気を抜いてはならない――エカチェリーナは、静かに己へ言い聞かせた。
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その夜、私室で茶器を挟み、ラチェリーナは今日のことを語った。
「黙っていろと仰ったのに、できませんでした」
「あなたのやり方も」エカチェリーナは、カップを置きながら答えた。「悪くはなかったと思うわ」
(隠しておくより、白日の下に晒す方が、次に同じ手を使おうとする者への牽制になる。少なくとも、今回に関しては)
娘は、その言葉に少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「ルートヴィヒは、どうなるのでしょう」
「さきほど、辞表が届きました」エカチェリーナは静かに言った。「近く、勇退の栄誉を授けることになるでしょう。長年の功労に対して」
顔を上げたラチェリーナが目を泳がせる。
「わたくしが……辞めさせてしまったのですね」
声が、かすかに震えていた。
「正しいと思ったから、問いただしました。ただ、それだけのつもりでした。彼の進退まで問うつもりは――」
「それは、考えなくていいことです」エカチェリーナは短く遮った。それ以上は続けなかった。
「お母様は」ふと、何気ない調子でラチェリーナが尋ねた。「初めての閣議で、戸惑われたことは」
エカチェリーナは、すぐには答えなかった。
わずかな間があった。ラチェリーナには、それがただの一呼吸にしか見えなかっただろう。
「……さあ、どうだったかしら」
短い答えだった。娘はそれ以上、追及しなかった。
窓の外では、薔薇の香りを含んだ夜風が、静かに吹いていた。
了




