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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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第16話 遺言の行方 帝国暦233年2月

1


執務室の窓の外は、まだ雪の名残を残す帝都の朝だった。二月から三月に差し掛かる頃合いで、庭園の梅だけが、かろうじて数輪、白いつぼみをほころばせている。エカチェリーナはいつものように七時前に机につき、黒のドレスの金の縁取りを軽く整えながら、書類の山に向き合っていた。


最初の数枚は、例によって日々の決裁だった。人事の承認、予算の裁可、外交文書への署名。ペン先が紙の上を滑る音だけが、静かな室内に規則正しく響いていた。


問題の書類は、五枚目に紛れていた。


差出人は帝国北部に領地を持つアイヒェンフェルス家の代官。文面は簡潔だったが、行間に隠しきれない焦りがにじんでいた。


——アイヒェンフェルス公エリーゼ、去る一月末より高熱を発し、療養の甲斐なく身罷みまかられました。享年二十二。継承をめぐり、家中の二つの家系が対立し、領内の政務が滞りつつございます。至急、御裁断を仰ぎたく……


エカチェリーナはペンを置いた。


(エリーゼ……あの子、先代の後を継いで、まだ二年と経っていなかったはずだけれど)


記憶を辿る。アイヒェンフェルス家は、先々代の頃から特段の問題もなく、帝国北部の穀倉地帯の一つとして粛々と年貢を納めてきた家だった。先代が病を得て、志半ばで亡くなり、その娘エリーゼが正式に家督を継いだのが、たしか231年の末。まだ若く、婚姻もこれからという年齢だった。


(子はまだいなかった。それなのに、継承の争いが起きるということは——)


書類を読み進める。事情はすぐに呑み込めた。


エリーゼは家督を継いだ直後、法に従い、自らの死後の指定継承者を定めた遺言状を作成し、記録庁に正式に登録していた。指名されていたのは、先代の妹の娘にあたる従姉、テレーゼ。分家の中でも家格の点で最も血筋に近い、いわば「本命」の相手だった。


ところが——エリーゼは、この一月、死の床にあって、看病に付き添っていた又従妹のカロリーネへ、幾度となく「本当はあなたに継いで欲しかった」と漏らしていたという。侍女や司祭を含む複数の証人が、これを聞いたと証言している。だが、正式な遺言状の書き換えは、法の定めに従い、記録庁の官吏の立会いと公爵の押印を要する。エリーゼは病床からその手続きを求めたが、官吏が到着する前に意識を失い、その日のうちに、彼女は亡くなった。


(間に合わなかったのね)


紙の上に残っていたのは、エリーゼ自身の手による、書き換えの意向を記した未署名の覚え書き一枚だけだった。法的な効力を持つ手続きは、何一つ完了していない。


テレーゼの側は、登録済みの遺言状こそが唯一の正式な意思表示だと主張する。カロリーネの側は、覚え書きと複数の証言こそが故人の真意であり、テレーゼは形式論を盾に故人の遺志を踏みにじろうとしていると訴える。両家とも、領内の有力な貴族を後ろ盾に持ち、それぞれの陣営に付いた家臣団が互いの指示に従わなくなっている。年貢の徴収も、境界の警邏けいらも、双方の言い分が対立したまま、実務がほとんど止まりかけているという。


(このまま長引けば、どちらかの陣営が実力行使に出かねない。……早めに手を打つべき形ね)


エカチェリーナは窓の外に目をやった。梅の蕾は、まだ開ききってはいない。



2


呼び鈴を鳴らすと、ほどなく宮廷首席書記官アデルが姿を現した。


「アイヒェンフェルス家より、公位継承をめぐる争いの報告が届きました」


エカチェリーナは書簡をアデルへ差し出した。


「宮内法官のオットーを呼んでください。相続関連の規程を、一通りここへ」


アデルは書簡に目を通し、軽く一礼して退出した。


一時間ほどして、白髪の痩せた老官吏オットーが、両腕に抱えきれないほどの帳簿を携えて現れた。宮内法官として三十年近く、帝国貴族の相続・婚姻・財産に関わる規程の運用を一手に担ってきた男だった。堅苦しいが、主だった条文、先例であればそらんじているのではないか、と専らの評判だった。


「アイヒェンフェルス家の一件でございますね。……厄介な話です」


オットーは帳簿を机に並べながら、渋い顔で言った。


「北部貴族の相続法は、帝国共通法とは別に、いくつかの地方慣習法が重なっております。遺言状の効力についても、記録庁への登録をもって完成とする点は共通法と同じですが、その後の書き換え——特に病床での意向表明が、どこまで有効と見なされるかについては……」


「明文の規定がない、ということですね」


「御意」


オットーは帳簿の一冊を開き、指でなぞった。


「共通法上、登録済みの遺言状は、同じ手続き——記録庁官吏の立会いと本人の押印——を経た新たな書面によってのみ、覆すことができます。逆に申せば、その手続きを経ぬ限り、どれほど本人の意向が明白であっても、法的には『無いもの』として扱わざるを得ません」


(つまり、法の文言だけを見れば、テレーゼの勝ち)


エカチェリーナは帳簿の別のページに目を落とした。


「けれど、それだけでこの件を裁定すれば、次にどこかの家で同じことが起きたときも、記録庁の官吏が間に合うか否か——ただそれだけの偶然で、跡目の行方が決まることになってしまう」


「……仰る通りかと」


「かといって、証言や覚え書きを本物の遺言状と同等に扱えば、次からどの家でも、死の床でどうとでも言える『心変わり』が、正式な相続を覆す道具になってしまう」


オットーが深く頷いた。


「それこそ、収拾のつかぬ事態を招きます。貴族の相続争いのたびに、死の床の証言合戦が起きることになりましょう」


エカチェリーナはしばらく、帳簿の余白を指でなぞりながら黙考した。


(法の文言に従えば、この場の争いは収まる。……でも、それだけでは足りない。もう一手、必要ね)



3


「オットー、確認しておきたいのですが——地方の記録庁が扱う遺言状の類に、帝室側が控えを持つ仕組みは、これまで一度もなかったはずですね」


「御意。内務省の管轄で、帝室が直接関与する定めはございません」


「その記録庁の登録手続きに、不備や遅延が生じることは」


オットーは一瞬、意図を測りかねるように瞬きした。


「……無論、ございます。地方の記録庁は人手が限られ、一人の官吏が複数の役目を掛け持つことも珍しくございません。今回のように、官吏の到着が間に合わなかった例は、これまでにも幾度か」


(あった、ということね)


エカチェリーナは小さく頷いた。


「では、こういう形はいかがでしょう」


机の上に紙を広げ、言葉を選びながら続けた。


「今回の裁定そのものは、法の文言通りに下します。登録済みの遺言状——すなわちテレーゼを、正式な継承者と認める。これは動かしません」


アデルとオットーが、揃って目を上げた。


「ただし、裁定文の末尾に、一項を添えます。今後、登録済みの遺言状に対する書き換え・撤回が、正規の手続きを経ずに行われ、その効力が争われた場合に限り——その効力の有無は、帝室の裁定に委ねるものとする、と」


しばしの沈黙のあと、オットーがゆっくりと口を開いた。


「……手続き通りに進めている家には、関わりのない話でございますね」


「ええ。効いてくるのは、揉めたときだけです」


アデルは何も言わなかった。ただ、その瞳が、ほんのわずかに細くなった。


(わかっているわね、アデル。普段は、誰の目にも留まらない一文)


「畏まりました」オットーは、深く頭を下げた。「裁定文の起草に取り掛からせていただきます」



4


裁定文は三日で整った。


前段は、テレーゼを正式な継承者と認める旨の、簡潔な法的判断だった。登録済みの遺言状の効力、書き換え手続きの不備——事実と法解釈を淡々と積み重ねるのみで、感傷を差し挟む余地は一切ない。


末尾の一項は、それよりもさらに短かった。


——今後、登録済みの遺言状に対する書き換え・撤回が正規の手続きを経ずに行われ、その効力が争われた場合、その効力の有無は帝室の裁定に委ねるものとする。


読み返し、エカチェリーナは「争われた場合」の一句をもう一度なぞった。


(普段は、誰も気にも留めない一文。争いになった、そのときだけ効いてくる)


法は、一字も変えていない。テレーゼの相続権を、何一つ揺るがしていない。今このときも、これから先のほとんどの貴族にとっても、何一つ変わりはしない。ただ、いつか、どこかの家の相続が手続きを踏み外し、争いにまで育ったとき——その決着を、自分たちだけでつけることは、もはや許されない。


「アデル、この裁定文を、アイヒェンフェルス家の代官と、テレーゼ、カロリーネ双方へ。それと——帝国公報にも」


「畏まりました」


「公報への掲載は、末尾の一項を含めて、全文を」


アデルは一瞬だけ間を置き、それから一礼した。


「承知いたしました」



5


一月後、代官からの報告書が届いた。


テレーゼは正式にアイヒェンフェルス公位を継承。カロリーネは異議を申し立てなかった。領内の緊張は、ひとまず収まったという。


報告書の末尾には、簡潔な付記があった。「カロリーネ派、格別の不服の申し立てもなく、静かに退いた由にございます」


エカチェリーナは、その一文をしばらく眺めた。


(納得はしていない、でしょうね)


テレーゼは勝ったと思っているだろう。法の正しさが、自分の側にあったのだと。カロリーネは負けたと思っているだろう。故人の本当の遺志は、形式の前に踏みにじられたのだと。両者とも、目の前の勝敗にしか目が向いていない。


末尾の一項——争いが生じた場合に限り、帝室の裁定に委ねる——について、異を唱えた者は、一人もいなかった。ほとんどの家には縁のない、行政上の但し書きとしか、誰の目にも映らなかったからだ。


(これで、次にどこかの家が同じように揉めたときも、当事者たちだけで決着をつけることは、もはやできなくなった)


法律は動いていない。誰の相続権も奪っていない。皇帝は、ただ一つの裁定を下し、一つの但し書きを添えただけだ。


だが、これから先、帝国のどこかの家で、遺言状の書き換えが手続きを踏み外し、それが争いにまで育ったとき——決着は、もはやその家と、その土地の力関係だけでは付かなくなる。最後の一言は、帝室が言うことになる。テレーゼもカロリーネも、まだそのことに気づいていない。自分たちは、法に則って、あるいは故人の遺志に従って、争い、そして決着をつけたのだと思っている。奪われたのは——争いが起きたとき、自分たちだけで決着をつけられる、というその可能性だった。


百年の禍根にはならない。百年の布石には、なる。


エカチェリーナは窓の外に目をやった。梅は、いつの間にか満開になっていた。


(さて。次にこの但し書きが効いてくるのは、どの家かしらね)


法官オットーは、退出する間際、裁定文の写しを丁重に折りたたみ、先例を纏めた記録簿の間に挟み込んでいった。幾千とある先例の中に、また一件が加わっただけのことだった。だが、いずれ誰かがこの一件を諳んじる日が来る。それがいつで、どの家のためになるのかは、まだ誰にも分からない。



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