↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/23

第15話 紋章疑獄 帝国暦230年4月

皇宮西翼、エカチェリーナの私室には、休日らしいゆるやかな時間が流れていた。週に一度の休みとはいえ、書類仕事がないだけで、いくつか謁見の予定が入っている。それでも今このときばかりは、決裁の山からも、眉の動き一つも見逃すまいとする大臣たちの視線からも、遠く離れていられた。


窓辺の小卓では、皇太女ラチェリーナが、水彩の道具を広げていた。再来月には十三になる今、紙の上に生まれるのは、輪郭も陰影もそれなりに確かな静物画――卓上の花瓶を写したものだ。もっとも、花弁の比率だけはいまだ大胆で、宮廷画家が見れば眉をひそめそうな仕上がりではあったが。


エカチェリーナは対面のソファで、紅茶を口にしながらそれを眺めていた。


静けさを、常より間隔の詰まったノックが破った。


「陛下、アナスタ――」


「お姉様、ひさしぶり!」


侍従の口上が終わるより早く、扉が勢いよく開いた。皇宮広しといえど、これほど形式を無視して押し入ってくる人間は、今も昔も一人しかいない。


視察先から戻ったばかりのアナスタシアが、旅装も解かぬまま飛び込んできた。頬は上気し、優しげな目は輝いている。


「聞いて、お姉様。北部の視察でね、ひさびさにギュンターに会ったのよ」


エカチェリーナはカップに口をつけたまま、小さく頷いた。


「今は旅団長になったんですって。去年、大佐に上がったのは知ってたけど、旅団を任されたのはつい最近だとかで」


湯気の向こうで、妹の弁舌は止まらない。石造りの町並みを馬で視察する彼の勇姿、閲兵の折に交わした短い立ち話、宴席の余興で|ひときわ見事だった剣舞《(著者注 皇妹の主観である)》、夕食後のチェスで見事に負かされた話――要領を得ない話がとめどなく溢れ出す。


「今度、帝都に戻ったら、お姉様にご挨拶に伺いたいって、ギュンターが言ってたわよ」


「アナスタシア」


エカチェリーナはやんわりと遮り、紅茶のカップを置いた。


「その話、続きは夜にでも。私はそろそろ謁見の時間なの」


「もう? せっかく久しぶりに――」


「またあとで、ゆっくり聞かせてちょうだい」


穏やかな微笑みを残し、エカチェリーナは席を立った。扉が閉まる音とともに、私室にはアナスタシアとラチェリーナ、二人だけが残された。


「ギュンターって……」ラチェリーナは筆を置き、小首をかしげた。「昔、近衛にいた、背の高い軍人さんでしたっけ」


「もう、覚えてないの? あんなにお世話になったのに」


「わたくしが小さい頃の話でしょう。今はもう旅団長さんなんですね」


アナスタシアは肩をすくめ、ソファに崩れるように腰を下ろした。その拍子に、懐から小さな包みがぽろりとこぼれ落ちる。


「あら」


拾い上げた布包みを開くと、中から出てきたのは、鈍い金色の小さなブローチだった。見慣れない紋様が刻まれている――幾何学的な模様の中央に、鳥とも花ともつかぬ意匠。


「北部の村でもらったのよ。何かのお祭りの記念品だとかで」


気にする様子もなく卓に置こうとしたアナスタシアの手を、ラチェリーナが遮った。


「叔母様、お待ちください」


真剣な顔つきで、皇太女はブローチを手に取り、光にかざした。


「この紋様……帝国の貴族章にも、地方領の紋にも当てはまりません」ラチェリーナは眉をひそめた。「もしや、異教の紋章かもしれません。調べなければ」


---


宮廷資料室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。


古い羊皮紙の匂いが立ち込める書架の間を、史官たちが黙々と行き来している。書見台に向かう者、目録を繰る者――穏やかな午前の光景が、扉が勢いよく開く音とともに、唐突に破られた。


「皇太女ラチェリーナ、火急の詮議せんぎに参りました!」


先頭を切って足音高く踏み込んできたラチェリーナの後ろに、アナスタシアが半ば面白がるような顔でついてくる。


資料室の空気が、凍りついた。


「で、殿下……!?」


近くにいた初老の史官が、書類を取り落としながら立ち上がった。他の者たちも次々に気づき、慌てて席を立つ。誰もが直立不動になったものの、皇太女一人ならまだしも、その後ろに皇妹殿下まで控えているとなると、誰一人として前に進み出る勇気を持てなかった。


「殿下が……お二人も!?」


囁くような動揺が、書架の間を伝播していった。年嵩としかさの史官ほど後じさり、互いに顔を見合わせては、目配せで押し付け合う。その結果、いちばん手前の書見台にいた、末席の若い史官が、他の誰よりも逃げ場を失う形になった。


「あなた」


ラチェリーナの視線が、彼を捉えた。


「名は」


「あ――アドリアンと、申します」


震える声で答えたのは、二十代半ばの、細身の青年だった。手にした書類の束が、かすかに揺れている。


「アドリアン。良い名ですね」


皇太女は満足げに頷くと、懐からブローチを取り出し、書見台の上に厳かに置いた。


「この紋章の出所を、至急調べなさい。あなたを、この一件の助手に任命します」


「は――はあ」


否とは言えぬ空気の中、アドリアンは半ば呆然としたまま一礼した。彼の視線が助けを求めるように周囲を巡ったが、他の史官たちは一様に目を逸らし、それぞれの書見台へと逃げるように戻っていった。


こうして、宮廷でもっとも平穏なはずの一室に、思いがけない厄日が幕を開けた。


---


アドリアンは震える手で、書架から紋章台帳を三冊、四冊と抜き出した。


ラチェリーナは資料室の中央に陣取ると、傍らの史官たちを次々に呼びつけ、まるで法廷さながらに問いただし始めた。


「あなた。この意匠に見覚えは」


「い、いえ……存じ上げません」


「では、あなたは」


聞かれた側は誰もが同じように首を振るばかりで、詮議は遅々として進まない。それでも本人はいたって大真面目で、手元の紙に「証言者一覧」と称して次々に名前を書き加えていく。


アナスタシアは、その様子を我関せずと眺めながら、傍らの椅子に腰掛けていた。


「そういえば、ギュンターがこの前ね――」


「叔母様、今は詮議中です」


「あら、ごめんなさい。……でもね、閲兵のときに彼、剣を鞘に収める仕草がまたひときわ様になってて」


ラチェリーナが咎めるように振り返った隙に、証言を求められていた若い史官が、露骨にほっとした顔でそそくさと元の席へ戻っていった。


そうこうしているうちに、書架の奥から、積み上げられた書類の山が、ガサガサと大きく崩れ落ちる音がした。証言者の一人として呼び出されかけていた別の史官が、後じさりの拍子に書見台へぶつかったのだ。


「も、申し訳ございません……!」


崩れた紙の中から平謝りしながら這い出してきたその史官は、ふと足元に落ちていた古い紋章帳の切れ端を拾い上げ、震える声で言った。


「殿下……こ、これは、もしや、帝国開闢(かいびゃく)の頃に大帝がお取り締まりになった暗殺教団の印では……」


資料室に、一瞬の緊張が走った。ラチェリーナの目が、きらりと光る。


「なんですって」


「い、いえ、その、噂で聞いたことがあるだけで、確証は……」


「アドリアン。今の証言、記録に」


「はい」


言われた通りに一行だけ書き留めると、アドリアンはすぐにまた紋章台帳へと視線を戻した。


こうして、事件はいよいよ大事めいた様相を帯び始めた――少なくとも、当人たちの間では。


だがそんな騒ぎをよそに、アドリアンだけが、黙々と台帳をめくり続けていた。紋様の系統別に分類された古い記録を、一つひとつ根気強く照らし合わせていく。その手つきには、周囲の空騒ぎとは対照的な、静かな集中があった。


やがて、ある一冊のページで、彼の指が止まった。


---         


「殿下」


アドリアンの声に、資料室の視線が一斉に集まった。


「この紋様、突き止めました」


ラチェリーナが勢い込んで身を乗り出す。


「やはり異教の――」


「いいえ」アドリアンは静かに首を振り、開いたページを示した。「北部、リンデンブルク近郊の農村で、毎年秋の収穫祭に配られる記念章の意匠です。豊穣ほうじょうかたどる鳥と麦の穂を組み合わせたもので……型を起こして量産されるものですので、村人の多くが同じ品を持っているはずです」


しんとした沈黙が落ちた。


「……つまり」ラチェリーナがおずおずと確認する。「事件では、なかった、と」


「はい。少なくとも、記録の上では」


謝っていた先ほどの史官が、こっそり胸を撫で下ろしているのが見えた。


だが皇太女は、めげる様子もなく、すっと背筋を伸ばした。


「――わかりました。異教の兆しではなかった。それは重畳ちょうじょうです。この一件、これにて落着とします」


誰へともなく、堂々と宣言する。アナスタシアが小さく噴き出すのを、ラチェリーナは気づかぬふりで通した。


そうして彼女は、卓上にあった一枚の紙を取ると、ペンで手早く肖像を描き上げた。しばらくして出来上がったのは、目鼻の配置がいくらか怪しい、青年の似顔絵だった。余白には、妙に大仰な字で「名誉助手 アドリアン殿」と大書されている。


「これを、あなたに授けます。今日の働き、大儀でした」


差し出された一枚を、アドリアンは戸惑いながらも両手で受け取った。似ても似つかぬ自分の顔と、堂々たる献辞を見比べ、何と応えるべきか分からぬまま、深く頭を下げた。


「あ――ありがたき、幸せに存じます」


「アドリアン、良い記念になったわね」


アナスタシアが笑いながら立ち上がり、姪の肩を抱くようにして資料室を後にする。ラチェリーナは満足げな足取りで、その後に続いた。


残されたアドリアンは、しばらくその場に立ち尽くしたまま、手の中の一枚をぼんやりと見つめていた。周囲の史官たちが、ようやく詰めていた息を吐き出す音が、あちこちから聞こえてくる。


鎧戸が閉められた室内では、燭台の小さな灯りだけが、何事もなかったように書架を照らしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。