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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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第14話 間諜の使い方 後編 帝国暦229年10月

十月の半ば、連邦は正式に膝を折った。


通商条約の調印がなった。東部交易路の通行権は、ほぼ帝国の主張通り。関税の取り決めも、こちらに有利な線で確定した。長らく膠着していた交渉が、夏を境に雪崩を打って動き、秋には帝国の望む形で結実した。宮廷は沸いた。大臣たちは皇帝の威光を讃え、外務省は半年来の労を誇った。


その日の午後、外務の重臣たちが揃って祝賀の言上に訪れた。皆、口々に皇帝の御威光を讃えた。連邦の強硬を、見事な御外交で和らげられた、と。その中に、テオドールもいた。誰よりも誇らしげに、半年の交渉を主導した立役者として。


エカチェリーナは、彼らの祝辞を穏やかに受け、ねぎらいの言葉を返した。調印の報告書に、静かに印を押す。顔には、満足の色すら浮かべない。これは、最初から見えていた結末だった。驚くべきことは、何もない。彼らが讃える「御外交」の正体を知るのは、この部屋でただ一人、彼女だけだった。


帝国が得たものを、彼女は冷静に数えた。交易路の支配。関税の利。年に積もれば、相当の額になる。それだけではない。連邦はこの半年、来もしない攻勢に備えて国境を固め、ありもしない挟撃に怯えて兵を分け、国庫を大きく傷つけた。守備の増強、補給の集積、西方への密使の費え——そのすべてが、空に向かって放たれた矢だ。向こうが自ら流した血の分だけ、帝国と連邦の力の差は、また開いた。条約の利と、相手の浪費。帳尻は、こちらの想像以上に大きく傾いている。


しかも、連邦はそれを「自分たちは賢く立ち回った」と信じている。強大な帝国の圧力を、譲歩によって巧みにかわした——そう総括しているはずだ。負けたことにすら、気づいていない。最良の勝ち方とは、相手が負けを悟らぬ勝ち方だ。八年前、飢饉を前に、穀物を抱え込んだ公爵を「英雄」に仕立てて穀蔵を開かせたときと、根は同じだった。恨みの残らぬ勝ちこそ、いちばん長持ちする。


剣は、一度も抜いていない。布告も、出していない。誰の財産も奪っていない。ただ、紙の上に絵を描き、それを運ぶ管を一本、こちらの手で握っていた。それだけのことだった。


(さて——後始末ね)


エカチェリーナはペンを置き、椅子の背に身を預けた。勝利の余韻に浸る時間は、彼女には許されていない。勝った後にこそ、しくじりは生まれる。


テオドールという管は、もう役目を終えた。これ以上生かしておけば、利よりも害が勝つ。条約が成った今、彼が次に連邦へ何を流すか、こちらには分からない。偽りを仕込み続ける名分も、もうない。閉じるべき時だった。


問題は、どう閉じるかだ。


捕らえて、裁くか。——否。それは、半年前に退けたのと同じ理由で、今もなお下策だった。漏洩を公にすれば、外務は信を失う。それ以上に拙いのは、連邦に「帝国は裏切り者の存在を知っていた」と教えてしまうことだ。知れば向こうは、テオドール経由の情報すべてを疑い始める。あの半年の絵が、仕組まれた偽りだったと、早々に気づかれる。せっかく描いた景色が、根こそぎ剝がれてしまう。


(断罪は、いちばん高くつく勝ち方)


ならば——静かに、退かせる。


エカチェリーナは、その筋道を頭の中で組み上げていった。テオドールを、機密に触れぬ閑職へ移す。罪を問わず、表向きはごく穏当な人事として。彼が機密から遠ざかれば、連邦への管は、自然と細り、やがて干上がる。誰も傷つかず、何も明るみに出ず、ただ一本の蛇口が、音もなく閉じられる。表向きは、何ひとつ起こらない。記録にも残らない。理想的な始末だった。


そして、その先で。


連邦は、来るはずだった攻勢が来ぬことに、いずれ気づく。固めた国境は無駄になり、怯えて結んだ構えは空を切る。半年遅れで、彼らは悟るだろう。自分たちが掴まされていたのは、誤った絵だったのだと。そのとき、源を遡れば、行き着く先はテオドールだ。


こちらが手を下すまでもない。連邦自身が、彼を裏切り者の二重底と見なすか、無能な情報源と切り捨てるか。いずれにせよ、テオドールはあちら側でも、値打ちを失う。帝国でも、隣国でも、寄る辺をなくす。


(一本の管を閉じるだけで、二つの始末がつく)


我ながら、酷い算盤だこと——と、エカチェリーナは胸の内で、ごく薄く苦笑した。だが、その苦笑の底に、確かな痛みもあった。閑職へ追いやられ、両国から見放されていく若い才能。六年前、試験場でただ一人が見出した、あの光るような筆致。地方の文書室から引き上げ、磨き、いずれは外務の柱にと、ひそかに楽しみにしていた男。


人材を見つけ、育てるのは、彼女のささやかな喜びだった。見出した才が伸びていくのを眺めるのは、玉座に縛られた日々の中で、数少ない潤いだった。その喜びを、自らの手で、刈り取らねばならない。育てた木を、自分で伐る。


(忠誠さえ、あれば——いいえ。詮無いこと)


惜しい。本当に、惜しい。だが、惜しんでも盤は動かない。一国を預かる者が、一人の才を惜しんで判断を曲げれば、その綻びから、いずれ千の民が傷つく。情は、呑み込むためにある。そう自らに言い聞かせ、彼女は呼び鈴に手を伸ばした。


ほどなく現れたアデルに、彼女は静かに告げた。


「例の、二つ目の流れ。今日かぎりで閉じてください。経路を元に戻し、痕跡は残さぬように」


アデルは深く一礼した。半年の間、何が流れていたのかを最後まで問わなかった女は、最後もまた、何も問わなかった。「畏まりました」とだけ言い、ただ一拍置いて、付け加えた


「——首尾は、いかがでございましたか」


エカチェリーナは小さく微笑んだ。


「上々よ。あなたの引いた経路のおかげ」


アデルは満足げに、もう一度礼をして下がった。彼女が知るのは、経路を引き、それが役に立ったという事実だけ。それで十分だった。


それから——テオドールを、明朝、執務室へ呼ぶよう、彼女は侍従に命じた。


最後の対話を、しておかねばならなかった。


(怒りはしないわ。罵りもしない。証拠も、突きつけない。ただ——終わりを、告げるだけ)


罪を並べ立てて打ちのめすのは、たやすい。だが、それでは彼を追い詰めるだけで、後に残るのは恨みと、口外の危うさだ。そうではなく。彼自身に、悟らせる。すべてを承知の上で、こちらが静かに幕を引いたのだと。言葉にせずとも分かり合えたなら——その沈黙こそが、何より固い封になる。


窓の外で、秋の風が、色づいた葉を一枚、また一枚と散らしていた。明日の朝が、最後だった。



---


翌朝、テオドールは定刻に現れた。


足取りは軽く、表情には隠しきれぬ高揚があった。条約成立の立役者として、皇帝直々の召し出し。褒賞か、昇進か——次席への抜擢さえ、頭にあったかもしれない。彼は深く一礼し、いつも通りの隙のない所作で、皇帝の言葉を待った。


「おはようございます、テオドール。よく来てくれました」


エカチェリーナは、いつもの穏やかな微笑みで迎えた。机の上には、何の書類もない。それが、彼女の流儀だった。重い話のときほど、机は空にしておく。


「このたびの条約、見事な働きでした。膠着していた交渉を、よくぞここまで。あなたの才には、いつも驚かされます」


「もったいないお言葉でございます。すべては、陛下の御指図あってのことで」


「謙遜は要りません。半年前から、あなたは本当によく働いてくれました。——レーゲンの一件以来、特に」


テオドールの動きが、ほんのわずか、止まった。


レーゲン。あの、彼一人にしか預けられなかった、機密の覚え書き。誰にも口外していない、彼だけが知るはずの名。それを、皇帝が、今、口にした。


「……は。恐れ入ります」


声に、わずかな硬さが混じる。エカチェリーナは、それを見逃さない。だが、顔色一つ変えず、穏やかに続けた。


「それで、今日はあなたに、新しい役目を伝えるために来てもらいました」


テオドールの目に、期待の光が戻りかけた。やはり、と。


「南部のエルデ州、地方文書管理官。古い土地台帳と、徴税記録の整理を任せます。静かな土地です。仕事は地味ですが、急ぐものは何もありません」


光が、消えた。


それは、栄達ではなかった。外務からの——機密からの、完全な放逐だった。地方の、誰も顧みぬ文書庫。五年前、彼が這い上がってきた、あの場所と、よく似た。


「陛下……それは、外務を、離れよということで……?」


「ええ。あなたは、もう、機密に触れる必要はありません」


穏やかな声だった。咎める響きは、どこにもない。だからこそ、その一言は、彼の背筋を凍らせた。


(——気づいたわね)


エカチェリーナは、テオドールの顔から血の気が引いていくのを、静かに見ていた。賢い子だ。だから、悟るのも早い。レーゲンの名。半年の働きへの、奇妙に念入りな謝辞。そして、機密からの突然の放逐。点と点が、彼の頭の中で、今、一本の線に繋がっていく。


知られている。いつから。——いや。最初から、だ。


テオドールの唇が、かすかに動いた。何かを言おうとして、言えない。釈明しようにも、皇帝は何一つ、彼を責めていない。「連邦」の名も、「裏切り」の語も、一度も出ていない。咎められていないものに、どう弁解できよう。否認すれば、藪をつつくことになる。沈黙するほか、なかった。


エカチェリーナは、そんな彼を、ほんの少しだけ憐れんだ。そして、とどめの一言を、これ以上ないほど静かに、置いた。


「あなたが運んでくれたものは、すべて、こちらの望んだ通りに、届きました。礼を言います、テオドール。あなたは——よく、役目を果たしてくれた」


運んだもの。望んだ通りに。届いた。


その一言で、半年の景色が、根こそぎ裏返った。自分が誇らしげに主導したと思っていた、あの「外交の勝利」。突如として折れてきた、連邦の強硬。すべては——目の前のこの人が、自分の手を通して、描いていたのだ。自分は、運んだだけ。何を運んでいるかも知らずに。忠実に、几帳面に、皇帝の絵を、敵国へ。


間諜かんちょうであった自分が、間諜として使われていた。売っていたつもりが、売らされていた。連邦から受け取った報酬の一枚一枚が、帝国の描いた絵の代金だったのだ。誇りも、才覚も、裏切りさえも、すべてこの人の掌の上で踊らされていた。半年のあいだ、ずっと。


テオドールは、声もなく立ち尽くした。膝が、わずかに震えている。額に、脂汗が滲んでいた。皇帝の前で、これほど取り乱した姿を見せたことは、一度もなかった。だが、取り繕う気力すら、もう残っていないようだった。


長い沈黙が、部屋に降りた。


やがて、テオドールが、絞り出すように口を開いた。「陛下、わたしは……」


「何も、言わなくていい」


エカチェリーナは、静かに、しかしきっぱりと、彼の言葉を遮った。


弁解も、告白も、聞くつもりはなかった。言葉にしてしまえば、それは「事実」になる。事実になれば、こちらも応じざるを得ない。問い、裁き、罰する——そういう面倒な手順が、すべて始まってしまう。何も言わせなければ、何も起きない。沈黙は、二人で守るからこそ、封になる。


「あなたは優秀でした。それは、世辞ではありません。六年前、あの試験場で、あなたの答案の一節に気づいたのは、私です。あのときの目利きを、私は今も誇りに思っています」


それは、本心だった。だからこそ、続く言葉は、刃のように冷たかった。


「だから、これは罰ではありません。ただの——人事です。適材を、適所へ。あなたが帝国にとって最も役立つ場所は、もう、外務ではないというだけのこと。エルデ州の文書庫は、あなたほどの才には退屈でしょう。けれど、退屈な場所には、退屈なりの安らぎがあります。波風の立たぬ土地で、静かに勤め上げなさい。それが、あなたにとっても——いちばん、長く生きられる道です」


最後の一節だけ、わずかに声音が沈んだ。


テオドールは、それを聞いた。聞いて、すべてを理解した。


これは、温情だ。同時に、警告でもある。咎め立ては、しない。命も、奪わない。地位も、表向きは保たせる。その代わり——黙って消えろ。二度と、機密に近づくな。口を、永遠につぐめ。さもなくば。皇帝は、それを言葉にしなかった。言葉にしないことが、何より雄弁だった。


そして彼は、もう一つのことにも気づいていた。たとえこの先、連邦にすがろうとしても、もう遅い。半年もの間、誤った絵を送り続けた情報源を、向こうがどう扱うか。役に立たぬどころか、害をなした管を。帝国でも、隣国でも、自分の値打ちは、もう尽きている。逃げ場は、どこにもなかった。


「……畏まり、ました」


声は、かすれていた。テオドールは、深く——これまでで最も深く、頭を垂れた。その礼の中に、もはや誇りはなく、ただ、許されたことへの、震えるような了解だけがあった。


「下がりなさい。エルデ州への赴任は、月内に。道中、気をつけて」


「……はっ」


テオドールは、後ろ向きのまま数歩退き、それから踵を返した。扉へ向かう背筋は、もう、かつての隙のない真っ直ぐさを失っていた。扉が、静かに開き、静かに閉じる。足音が、遠ざかっていった。


二度と、聞くことのない足音だった。


---


執務室に、再び静けさが戻った。


エカチェリーナは、しばらく動かなかった。空の机に手を置き、閉ざされた扉を、ただ見つめている。勝った、という実感は、薄かった。喜びも、達成感も、湧いてはこない。半年がかりの謀が、たった今、寸分の狂いもなく閉じた——その事実が、静かにそこにあるだけだった。


怒りは、最後まで湧かなかった。


不思議なことだ、と彼女は思う。自分が見出し、引き上げ、誇りにすらしていた男に裏切られた。普通なら、煮えくり返ってもいいはずだった。なのに、最初に書類の符合に気づいたあの春の朝から、今日この時まで、一度も腹は立たなかった。あったのは、ただ冷たい思考と、わずかな惜別の情だけ。


(私は、いつから、こうなったのかしら)


正義感に駆られて裁くこともなく。怒りに任せて罰することもなく。ただ、裏切りという札を、一枚の駒として、最も効く場所へ淡々と置いた。人の不実を、勝利の材料に変えた。我ながら、空恐ろしいほど、上手くやったものだ。


秘密を道具にする。それが、自分の本領なのだろう。


考えてみれば、ずっとそうだった。他人の隠し事も、自分の隠し事も。胸の奥にしまい込み、しかるべき時に、しかるべき形で、切る。テオドールの裏切りも、結局はそうやって使った。彼が秘密を抱えていたから、こちらはそれを握り、泳がせ、絵を運ばせ、最後に封じた。秘密は、罰するものではない。使うものだ——少なくとも、皇帝にとっては。


それが上手いのは、たぶん、自分自身がずっと、秘密を抱えて生きてきたからだ。墓まで持っていくと決めた、いくつもの秘密を。隠すことの作法を、誰よりも知っている。どんな顔をすれば疑われずに済むか。どんな嘘なら、真実より信じられるか。表に出してよい感情と、奥に沈めるべき感情の、その境目を。——だから、人の秘密の扱い方も、手に取るようにわかってしまう。秘密を抱える者の弱さも、その弱さの突き方も。


皮肉な話だった。自分の隠し事を守るために身につけた術が、そっくりそのまま、他人の隠し事を暴き、操る術になる。守りと攻めが、同じ一つの技だったのだ。


代償は、いつも同じだった。


この勝利を、彼女は誰にも語れない。半年の知恵比べも、息詰まる綱渡りも、たった今の静かな幕引きも。大臣たちは「御外交の勝利」を讃え続けるだろう。その裏で何が起きていたかを知るのは、自分だけ。アデルさえ、経路を引いたことしか知らない。讃えられるほどに、本当の自分からは、遠ざかっていく。


(手柄も、痛みも、いつだって一人分)


玉座とは、そういう場所だった。人を見抜き、人を動かし、人に囲まれながら、誰とも、本当のことは分かち合えない。理解されるということは、隙を見せるということ。隙を見せれば、いつか今日のテオドールのように、その隙を衝かれる。だから、わからせない。誰にも。完璧に理解されない代わりに、完璧に安全でいる。それが、皇帝として生き延びる、唯一の作法だった。


テオドールを失って、彼女の周りはまた一人、減った。育てる楽しみを一つ、自分の手で潰した。人材探しが趣味だなどと、よく言えたものだ。見つけては、使い、時に、葬る。見出す喜びと、手放す痛みは、いつも背中合わせだった。それでも探すのをやめられないのは——たぶん、人を見つめている時だけは、玉座の孤独を、少しだけ忘れられるからだ。


それでも——と、彼女は思う。


帝国は、また少し、安泰になった。釣り上げられるはずだった関税の損も、すべて未然に消えた。誰も血を流さず、誰も気づかぬうちに。それが、皇帝の仕事だ。讃えられるためではなく、ただ、静かに国を守るための。


エカチェリーナは、ゆっくりと息を吐いた。そして、窓辺に立ち、晩秋の帝都を見下ろした。色づいた葉が、風に乗って、石畳の広場を渡っていく。冬は、もうすぐそこだった。


ふと、胸の奥に、ひとつの思いが浮かんだ。


——道具にしない秘密も、私にはある。


握っても、使わず。泳がせも、封じもせず。ただ、誰にも知られぬまま、温め続けるだけの。あの夜のことも。娘の父親の名も。それらは、勝つための札ではない。負けても、手放すつもりのない、たった数枚の。


少女のような、淡い笑みが、ほんの一瞬だけ、皇帝の唇に浮かんだ。そして、すぐに消えた。


エカチェリーナは机に戻り、次の書類に手を伸ばした。顔には、いつもの落ち着いた皇帝の表情が戻っている。午前の執務は、まだ半分も、終わっていなかった。


(さて。次の人材は、どこにいるかしらね)


ペンを取り、彼女は静かに書類の山に向かった。晩秋の陽光が、黒いドレスの金の縁取りを、淡く照らしていた。


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