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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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第13話 間諜の使い方 中編 帝国暦229年5月

翌朝、アデルは約束通り、一葉の図を携えて現れた。


外務省内の文書の流れを、線と印で描き起こしたものだった。どの書類が、誰の手を経て、どこへ綴じられるか。その経路の中に、アデルはすでに、テオドールを必ず通る一本の細い流れを引いてあった。本物の機密はこれまで通りに回り、もう一つの——皇帝とアデルだけが偽りと知る流れだけが、彼の机を経由する。


「お見事ね」


エカチェリーナは図を一瞥し、小さく頷いた。アデルは何も言わず、深く礼をして下がった。


これで、舞台は整った。あとは、何を見せるかだ。


ここから先は、忍耐と規律の仕事になる。欲をかいて偽りを盛りすぎれば、絵にほころびが生じ、すべてが露見する。逆に臆して何も流さねば、せっかくの管が錆びつく。匙加減さじかげんを誤らず、半年、表情一つ変えずに同じ嘘を演じ続けられるか——試されるのは、結局のところ自分自身の冷静さだった。


エカチェリーナは執務机に一人、白紙を広げた。連邦に、何を信じさせたいのか。それを先に決めねば、流す偽りも定まらない。彼女は目を閉じ、盤面を頭の中で組み直した。


連邦との通商交渉は、目下の最重要案件だった。両国を結ぶ東部の交易路をめぐり、関税と通行権の取り決めを詰めている。帝国としては、できる限り有利な条件で妥結したい。だが連邦も譲らず、交渉は長く膠着していた。


(力ずくでは、動かない相手。ならば——動きたくなるように、仕向ければいい)


人は、恐れているときほど、安んじることを欲しがる。連邦が帝国の軍事的圧力を本気で恐れれば、戦を避けたい一心で、交易の条件を譲ってくるだろう。剣を一度も抜かずに、相手の方から膝を折らせる。それが描くべき絵だった。


しかも、絵が効けば、利は一つに留まらない。怯えた連邦は、来もしない攻勢に備えて、東部国境に兵と金を注ぎ込む。注げば注ぐほど、国庫は痩せ、他の方面は手薄になる。交渉の譲歩と、防備への浪費。一枚の偽りの絵で、二つの果実がもげる。剣も、金も、布告も使わずに。


レーゲン要塞の一件は、その下地として、すでに完璧に効いている。連邦は東部国境で、ありもしない増派に怯えて兵を固めている。あの不安を、育てればいい。帝国は東部で事を構えるつもりだ——その思い込みを、少しずつ確かなものにしていく。


エカチェリーナはペンを取り、最初の一葉を起こし始めた。


要は、匙加減だった。あからさまな脅しは、かえって疑われる。漏れてくる情報とは、本来こちらが隠したがっているはずのもの。だからこそ、慎重に隠した体裁を取りながら、その実、相手に拾わせる。九分の真実に、一分の偽り。


本物の機密も、惜しまず流すつもりだった。むろん、明かしても害のない種類のものに限る。たとえば、すでに内定している地方総督の人事。たとえば、来季の宮廷費の概算。連邦にとっては喉から手が出るほど欲しい本物の情報で、しかも漏れたところで帝国は痛くも痒くもない。そういう真実を、テオドールの管にふんだんに流してやる。届くたびに、向こうのテオドールへの信頼は厚くなる。「あの男の情報は、いつも正確だ」と。


その信頼の層を、何枚も重ねた奥に——ただ一筋、こちらの描いた偽りを織り込む。土台が確かであればあるほど、その上に乗せた嘘は、疑われずに通る。


彼女がつづったのは、東部方面軍の編成に関する一連の内部文書だった。大半は事実だ。実在する部隊、実在する将官の名、実在する予算。ただ一点——東部方面軍の主力を、夏のうちにレーゲン方面へ集結させる「腹案が検討されている」という含みだけが、偽りだった。命令ではない。決定でもない。あくまで「検討の気配」。確言を避けることで、かえって真実味が増す。人は、断言より、漏れ聞こえた囁きの方を信じるものだ。


書き上げた一葉を、彼女は通常の機密文書の束に紛れ込ませ、アデルの引いた経路へと乗せた。あとは、テオドールが運んでくれる。忠実に、几帳面に、自分が何を運んでいるかも知らぬまま。


数日後、テオドールは何食わぬ顔で執務室を訪れ、別件の決裁を仰いだ。連邦との通商交渉について、新たな譲歩案の草稿である。


エカチェリーナは目を通し、内心で唸った。よく出来ている。相変わらず、見事な切れ味だ。相手の足元の弱みを的確に突き、こちらの譲歩を最小に抑えつつ、相手には大きく譲られたように感じさせる。本物の交渉では、この案がそのまま役に立つ。


(皮肉なものね)


この同じ男が、片手で帝国のために最良の策を練り、もう片手で帝国の秘密を隣国へ売っている。そして今や、その同じ手で、こちらの仕込んだ偽りまで運んでくれている。才能は本物だ。忠誠だけが、欠けている。


「よく出来ています。この案で進めなさい」


彼女はいつも通りの微笑みで応じ、いつも通りの賛辞を与えた。テオドールは誇らしげに一礼し、退出していく。その背中を見送りながら、エカチェリーナは胸の奥で、ごく小さく息を吐いた。


(運んでくれたかしら。私の描いた、もう一枚の絵を)


確かめるすべは、今はない。ただ待つだけだ。だが彼女には、奇妙な確信があった。あの絵は、必ず連邦の机に届く。そして、向こうの将軍たちの不安を、また一段、深くする。


七月の初め。辺境の物見からの報告が、その確信を裏づけた。


連邦が、東部国境沿いの守備をさらに厚くしている。後方の要衝に補給の集積を始め、予備の兵まで前線へ寄せ始めたという。帝国の主力集結という、ありもしない腹案に備えて。さらに、連邦政庁が西方の小国に密使を送ったとの報も入った。万一の戦に備え、後ろ盾を探す動きだろう。怯えは、もう国境を越えて、外交にまで及び始めている。


エカチェリーナは報告を読み、わずかに目を細めた。


(律儀なこと。誰も来やしないのに)


連邦は今、夏の間ずっと、来るはずのない攻勢に備えて、兵と金と神経をすり減らし続けることになる。その消耗は、やがて交渉の席に、必ず影を落とす。安んじたい、戦だけは避けたい——その焦りが、向こうの口から、こちらの望む譲歩を引き出すだろう。今すぐにではない。だが、確実に。


彼女はペンを取り、次の一葉に取りかかった。絵は、一枚では効かない。一度に塗れば、絵の具は濁る。少ずつ、矛盾なく、間を置いて、塗り重ねていく。今日の偽りが、明日の偽りの裏づけになるように。隣国が、こちらの見せたい景色だけを見るようになるまで。何ヶ月でも、根気よく。


(さあ、次は何を見せましょうか)


窓の外で、夏の光が白く照りつけていた。執務室は、いつもと変わらず静かだった。


---


夏が、ゆっくりと過ぎていった。


エカチェリーナは、絵を塗り重ね続けた。一枚を流すたびに、十日、半月と間を置く。焦らず、欲をかかず。今日の偽りが、先月の偽りと矛盾しないか。前に流した本物と、辻褄つじつまが合うか。一葉ごとに、何度も検め直してから、テオドールの管に乗せた。


楽な仕事ではなかった。流した偽りはすべて、頭の中の台帳に記しておかねばならない。どの嘘を、いつ、どんな体裁で出したか。一つでも取り違えれば、絵は綻びる。本物の決裁と偽りの絵を、毎朝、同じ机の上で、表情一つ変えずに使い分ける。誰にも気取られず、半年。それは、ある種の役者の仕事だった。


危うい瞬間も、あった。七月の半ば、テオドールが決裁の合間に、ふと尋ねたのだ。


「陛下。レーゲン方面への集結という話、軍務省の他の書類には、まるで気配がございませんが……あれは、どこまで進んでいる御計画なのでしょう」


鋭い問いだった。さすがに、勘づきかけている。だがエカチェリーナは眉一つ動かさず、穏やかに答えた。


「ああ、あれは私と陸軍省の数名だけで温めている腹案です。あなたが他で気配を見つけられないのは、当然のこと。——よく気づきましたね。口外は無用ですよ」


その一言で、彼の疑念は、むしろ「自分は中枢の秘密を預かっている」という誇りへと裏返った。とっさの作り話で危機を塗りつぶすのは、彼女の昔からの得手だった。


---


七月の終わりには、二枚目の絵を描いた。帝国が、東方の隣邦——連邦とは古くから折り合いの悪い国だ——との間で、ひそかによしみを通じ始めている、という含み。これも大半は事実で組み立てた。実在する使節の往来、実在する儀礼の贈答。ただその意図を、軍事的な連携の模索であるかのように、わずかに歪めて見せた。


狙いは、連邦に孤立を感じさせることだった。東部国境では帝国の圧力に怯え、その背後では帝国と東方の邦が手を結びつつある。前と後ろから挟まれている——そう思い込めば、連邦はいよいよ、帝国との関係だけは穏便に保ちたくなる。喧嘩を売れる相手では、もはやないと。


八月。報告が、その効きめを伝えてきた。


連邦は、東方の邦との国境にも兵を割き始めた。来もしない挟撃に備えて、ただでさえ痩せた国庫から、さらに金を吐き出している。一方で、帝国に対しては、これまでになく融和的な姿勢を見せ始めたという。辺境での摩擦を自ら控え、帝国の商船への嫌がらせをやめ、要人たちの物言いまで、目に見えて柔らかくなった。


(怯えが、形になってきたわね)


エカチェリーナは静かに頷いた。絵は、連邦の要人たちの頭の中に、確かな景色として根を下ろしつつある。帝国は強大で、東に味方を得て、いつ東部国境で事を構えてもおかしくない——その景色の中で、連邦は日に日に、安んじることへと傾いていく。


面白いのは、と彼女は思う。連邦の要人たちは、今や自分たちの判断を、誰よりも確かなものだと信じているはずだ。何しろ、帝国の内情を知る確かな筋——テオドール——からの情報に基づいて、慎重に手を打っているのだから。確信を持って、誤った方角へ進んでいく。その確信こそが、こちらの仕込んだものだとも知らずに。盲いた者は導けない。だが、見えていると思い込んでいる者は、見せたい方へいくらでも導ける。


九月の初め。テオドールが、上気した顔で執務室に現れた。


「陛下、朗報でございます」


彼は声を弾ませていた。連邦が、膠着していた通商交渉について、突如として歩み寄りの姿勢を示してきた、という。長らく譲らなかった東部交易路の通行権について、帝国側の主張を大筋で受け入れる用意がある——そう、向こうの使節が打診してきたのだ。


「正直、驚きました。あれほど強硬だった相手が、ここへ来て、なぜ……。ともあれ、帝国にとってこれ以上ない好機かと存じます」


テオドールは、心から喜んでいた。帝国の利のために、純粋に。その目に、嘘の影はなかった。自分が運んだ偽りが、めぐりめぐってこの「好機」を作り出したなどとは、夢にも思っていない。彼にとってこれは、ただ降って湧いた幸運であり、外交の才を振るう絶好の舞台だった。


エカチェリーナは、彼の弾んだ声を、静かに聞いていた。


(あなたが運んだ絵が、あなたの言う「好機」を作ったのよ。気づきもしないでしょうけれど)


胸の奥に、名状しがたい感情がよぎった。憐れみでも、おかしみでもない。ただ、深い静けさのようなもの。この勝利の本当の仕組みを、彼女は誰とも分かち合えない。テオドールには言えない。アデルは経路を知るのみで、絵の中身は知らない。大臣たちは、いずれ「連邦が折れた」という結果だけを喜び、皇帝の御威光のおかげだと讃えるだろう。誰一人、半年がかりで一枚ずつ塗り重ねられた絵のことも、その絵を運んだのが当の裏切り者であったことも、知らないままに。


一人だ。いつも通り、一人だった。手柄を語れぬ手柄。打ち明けられぬ謀。秘密を道具にして勝つということは、勝ったことすら、墓の中まで一人で抱えていくということだった。慣れている。とうに、慣れているはずだった。


「ご苦労様、テオドール」


彼女は、いつもの穏やかな声で言った。


「向こうの打診、慎重に進めなさい。先方が折れてきたからといって、こちらが前のめりになっては足元を見られます。あくまで、譲ってやる側の顔で」


「畏まりました。さすがの御指図でございます」


テオドールは深く一礼し、誇らしげに退出していった。その背中を見送りながら、エカチェリーナは窓の外へ目を移した。庭園の木々が、いつのまにか色を変え始めている。夏は、もう終わりかけていた。


絵は、効いた。あとは、連邦が正式に膝を折るのを待つだけだ。決定的な譲歩の文書に、向こうの代表が判を押す、その瞬間を。


(もう、ひと押し)


そして——その瞬間が来れば。テオドールという管の役目も、終わる。役目を終えた管を、いつまでも生かしておくわけにはいかない。彼が次に何を運ぶか分からぬうちに、静かに閉じねばならない。


それに、と彼女は思った。半年の間、連邦はテオドールの情報を信じ込み、その通りに動き、そして外れた。来るはずの攻勢は来ず、結んだはずの挟撃の構えは空振りに終わる。やがて向こうも気づくだろう——自分たちは、何か誤った絵を掴まされていたのだ、と。そのとき、彼らの疑いの矛先が向くのは、誰か。


(あなたの値打ちは、連邦の中でも、もう尽きかけているのよ。テオドール)


色づき始めた庭の木々を、エカチェリーナはしばらく眺めていた。

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