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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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第12話 間諜の使い方 前編 帝国暦229年4月

皇宮の執務室に差し込む朝陽は、ようやく春の柔らかさを帯び始めていた。庭園の木々が淡い緑を吹き、細く開けた窓から、冷たさの抜けた風がカーテンを揺らす。エカチェリーナはいつものように七時前に席につき、金のアクセントが光る黒のドレスの袖を整えながら、書類の山に向かっていた。


朝のうちは、たいてい外交文書から片づける。同盟国への儀礼書簡、通商条約の更新、辺境の使節からの報告。署名と押印を淡々と重ね、ペンの音だけが静かに響く。会議も謁見もない日は、この調子でいけば昼前には片づく。それが彼女の流儀だった。


その手が、ある一枚で止まった。


南方の連邦の動向をまとめた、我が方の外務報告だった。文面そのものは何の変哲もない。だが、記された一行に、エカチェリーナの目は吸い寄せられた。連邦が、先月から東部国境の関税を密かに引き下げている。帝国の商人を呼び込み、交易の流れを自国に引き寄せる構えだ。


(おかしいわね)


彼女は報告書を二度読み返した。先々月、帝国は東部国境の通商方針について、内々に決定を下していた。当面は関税を据え置き、連邦との交渉では「引き下げを匂わせつつ、実際には動かない」——そういう腹づもりだった。匂わせておけば、相手は譲歩を期待して動きを止める。その隙にこちらは別の利を取る。決裁文書に目を通した者は、ごく限られている。


なのに連邦は、まるでその腹を読んだように、先回りして関税を下げてきた。帝国が動かないと確信していなければ、こうも安心して打って出られない。匂わせに釣られず、据え置きを見抜いている。


(私たちが動かないと、向こうは確信している。……据え置くと決めたことを、知っているのね)


偶然かもしれない。勘の良い動きが、たまたま重なっただけかもしれない。だがエカチェリーナの胸の奥に、冷たい小石が一つ落ちた。彼女は顔色を変えぬまま、引き出しから過去三月分の外交決裁の記録を取り出し、机の上に静かに広げた。


帝国が内々に決め、まだ公にしていない方針。それに対する連邦の反応。一枚ずつ、丹念に照らし合わせていく。すると、浮かび上がってきた。一つ、二つ、三つ——いずれも、向こうの動きが妙に的確だった。帝国が押すと決めた場所では、連邦は早々に身を引いた。帝国が引くと決めた場所では、すかさず前に出てきた。まるで、こちらの手札を見てから、自分の札を選んでいるように。


(一度なら偶然。二度なら不運。三度続けば、もう偶然とは呼べない)


エカチェリーナはペンを置き、背もたれに体を預けた。窓の外の春の庭を、しばらく無表情に眺める。


漏れている。それも、決裁の中枢に近いどこかから。


彼女は記録を繰りながら、三件すべてに触れた者を頭の中で絞り込んでいった。決裁に関わる書記官、清書を担う者、文書を運ぶ者。数え上げれば多いようでいて、条件を重ねれば範囲は急速に狭まる。三件すべての草稿に目を通し、かつ連邦関連の文書を専従で扱える立場。そこまで絞ると、残るのは数えるほどだった。そして、そのうち一人——


指が、止まった。


外務書記官、テオドール。


(……あの子)


エカチェリーナのまぶたの裏に、六年前の登用試験の光景が浮かんだ。地方の小貴族の三男坊。答案は粗削りで、全体としては平凡だった。だが外交の設問に対する一節だけが、際立って光っていた。相手国の利害を冷静に腑分けし、こちらの譲れる線と譲れぬ線を正確に見切る、若いとは思えぬ筆致。採点官は並の点をつけて素通りしていた。その一節に気づいたのは、彼女だけだった。


引き上げたのは、自分だ。五年前に地方の文書室から外務へ、下働きから書記官へ。彼の才を見抜き、磨き、使える場所に置いたのは、ほかならぬエカチェリーナ自身だった。半年前にも、テオドールを次席にと推す声があった。まだ早い、まだ伸びる——そう惜しんで退けたばかりだ。買っていた。確かに、買っていたのだ。


(私が見つけた才能が、私の手札を、隣国に売っている)


胸の奥の小石が、もう一つ増えた。だが、顔には何も出さない。怒りは、湧かなかった。裏切られたという痛みすら、不思議なほど遠かった。代わりに、いつもの冷たく澄んだ思考が、ゆっくりと回り始めている。今、感情に任せて動けば、すべてを台無しにする。それだけは確かだった。


(焦ることはないわ。まだ、確かめてもいないのだから)


エカチェリーナは記録を揃えて引き出しに戻し、鍵をかけた。次の書類に手を伸ばす。顔には、いつもの落ち着いた皇帝の表情が戻っていた。午前の執務は、まだ半分も終わっていない。


---


その日の午前、テオドールは予定通り執務室を訪れた。


連邦との通商交渉に関する、新たな草案の決裁を仰ぐためだ。彼は二十代後半の、痩せ型の青年だった。仕立ての良い文官服を隙なく着こなし、髪を几帳面に撫でつけ、手にした書類束には一分の乱れもない。深く頭を下げる所作の一つひとつが、礼儀正しく、丁寧で、好ましかった。


「陛下。連邦との次回交渉に向けた、こちらの提示案でございます。前回の御下命に沿って、譲歩の幅を三段階に分けて用意いたしました」


エカチェリーナは草案を受け取り、ゆっくりと目を通した。よく出来ている。相手の出方を三通り想定し、それぞれに対する切り返しまで織り込んである。譲れる線と譲れぬ線の見切りが、相変わらず鋭い。六年前、試験会場で光っていたあの一節の筆致が、そのまま大人になって、今ここにある。


(本当に、惜しいほどの才能だこと)


顔を上げ、彼女はいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。


「よく出来ています。さすがですね、テオドール」


「もったいないお言葉でございます」


テオドールはわずかに頬を緩めた。皇帝直々の賛辞は、彼にとって何より励みになるはずだった——少なくとも、かつてはそうだったろう。その表情に、後ろめたさの影は微塵もない。やましさを隠しているのではない。隠す必要を感じていないのだ。自分が疑われる立場にあるなどと、想像すらしていない顔だった。


(あなたは、私が気づいていないと思っている。当然ね。気づかせていないのだから)


「この案で進めなさい。交渉の経過は、逐一私に上げるように」


「畏まりました」


テオドールは草案を抱え、丁寧に一礼して退出した。扉が静かに閉まる。足音が遠ざかっていく。


エカチェリーナは、彼が置いていった写しの一枚を、指先で軽く撫でた。この草案も、近いうちに連邦の政庁に届くのだろう。テオドールという管を通って。


(——いいえ。届けるものは、これから私が決める)


捕らえることは、いつでもできる。だが、捕らえて何が手に入るだろう。漏洩が露見すれば外務は信を失い、連邦は「気づかれた」と知って口をつぐむ。裏切り者を一人断罪する快感と引き換えに、こちらは何ひとつ得ない。あまりに、もったいない。


窓の外で、春の風が若葉を揺らしていた。エカチェリーナは写しを揃え、静かに引き出しへ戻した。蛇口は、まだ自分の手の中にある。あとは、そこから何を流すかだけの話だった。



---


確証は、まだなかった。あるのは状況証拠と、人を見る勘だけだ。三件の符合は、確かに不穏だ。だが、勘で人を裁くわけにはいかない。まして、自分が見出し、引き上げた人間を。情に流されて見誤るのも、疑心に駆られて誤るのも、等しく愚かだった。咎め立てする以前に、まず——一点の曇りもなく、確かめておく必要がある。


それに、と彼女は思った。仮にこの疑いが当たっていたとして。ならばなおさら、慌てて確証を求めて動き回ってはならない。探っていると気取られれば、管はその瞬間に閉じる。確かめる手つきそのものを、悟られてはならないのだ。


エカチェリーナは数日をかけて、一つの罠を組み立てた。


仕掛けは単純だった。ありもしない事実を一つ、書類の中に紛れ込ませる。それも、テオドールの手だけを通る経路に。


彼女は東部国境のレーゲン要塞について、一葉の覚え書きを起こした。曰く——帝国は夏至までに同要塞へ二個大隊を増派し、連邦との境界に圧力をかける方針である、と。むろん、嘘だ。レーゲン要塞の増派など、誰も検討していない。帝国の関心は別の方面にある。


肝心なのは、この偽りの一行を、テオドール以外の誰の目にも触れさせないことだった。複数の者が知る秘密が漏れても、出どころは絞れない。だが、ただ一人しか知らぬ秘密が外へ出れば、漏らした者は自ずと指し示される。


彼女は通商交渉の付属資料という体裁を取り、その一葉だけをテオドールに「他言無用、機密扱いで保管せよ」と直々に手渡した。他の書記官には、レーゲン要塞の名すら出していない。アデルにも、まだ何も告げていない。この一行を知るのは、帝国でただ二人——書いた彼女と、預けられたテオドールだけだった。


(もし、この嘘が連邦に届いたなら——届ける管は、あなた一人しかいない)


あとは、待つだけだった。


エカチェリーナは何も変わらぬ日々を過ごした。朝七時に席につき、決裁を重ね、昼前に執務を終える。テオドールとは、これまで通りに接した。賛辞も惜しまず、仕事も任せ、時には軽口さえ交わした。完璧な平静の下で、彼女はただ、南の国境を見つめていた。


待つ間、ふと思うこともあった。あの子は、なぜ。金か。地位への不満か。あるいは、連邦に弱みでも握られたか。だが、考えてすぐに打ち切った。動機など、どうでもいい。理由を知ったところで、盤面は一手も変わらない。罪を憎むのは、裁く者の仕事だ。自分がすべきは、ただ、この駒をどう使うかを見定めることだった。


五月半ば。


辺境からの軍務報告に、その一行が現れた。


連邦軍が、レーゲン要塞に面した自国側の駐屯地を、にわかに増強し始めた——と。歩兵を移し、補給路を整え、物見の塔まで建て直しているという。帝国の増派に備える動きとしか、読みようがなかった。


エカチェリーナは報告を、三度読み返した。ありもしない増派に、連邦は律儀に身構えている。それも、夏至を見越した時期に。彼女が覚え書きに記した、あの架空の日取りに合わせて。偶然では、ここまで揃わない。あの一行が、レーゲン要塞という地名が、夏至という期日が、そっくりそのまま、隣国の将軍の机に載ったのだ。テオドールの手を通って。


エカチェリーナは報告書を静かに閉じた。表情は、微塵も動かない。だが胸の奥で、最後の小石が、ことりと底に落ちて止まった。


(——確かめた。これで、もう疑いではない)


不思議と、痛みは薄れていた。代わりに残ったのは、奇妙なほど凪いだ心持ちだった。事実が定まれば、あとは処し方を考えるだけ。感情の出番は、もう終わっている。


捕らえない。それは、最初から決めていた。


捕らえれば、得るものは何もない。だが——この管を生かせば、話は変わる。テオドールは連邦へ通じる、こちらの息のかかった一本の管だ。彼が運ぶものを、こちらが選べるなら。流す水を、こちらが決められるなら。


(毒を盛るのに、これほど都合のいい蛇口もないわね)


連邦は、テオドールから来る情報を疑わない。何しろ、これまで本物の機密ばかりが届いてきたのだから。その積み上げた信頼こそが、こちらの最大の武器になる。九分の真実に、一分の偽りを混ぜる。真実が偽りを保証し、偽りが少しずつ向こうの判断を歪めていく。


半年もあれば足りるだろう。隣国の目は、こちらの見せたいものしか見なくなる。誤った前提の上に、誤った国策を積み上げ、誤った場所に兵と金を割く。そうして気づいたときには、もう引き返せないところまで来ている。剣も使わず、布告の一つも出さず、ただ紙の上の一行で、隣国の舵を切らせる。


エカチェリーナは呼び鈴を鳴らした。ほどなく、宮廷首席書記官アデルが姿を現した。四十代の長身の女性で、皇帝の言葉の半分が出た時点で先を察する、数少ない側近の一人だ。


「アデル。少し、込み入った頼みがあります」


「承ります」


エカチェリーナは、表向きは何でもない口調で続けた。


「今後、連邦関連の機密文書について、二つの流れを作りたいのです。一つは、これまで通りの本物。もう一つは——私とあなただけが本物と偽りを承知している、別の流れ。後者は、外務書記官テオドールの手を必ず通るように経路を整えてください」


アデルは一瞬だけ瞳を細めた。それから、余計なことは何一つ問わず、深く一礼した。何が起きているのか、おそらく半分は察している。そして、問うべきでないことも、わきまえている。


「畏まりました。経路の図を、明朝までにお持ちします」


アデルは静かにそう言い、それから、ほんのわずかに付け加えた。「——偽りの流れに載せる中身は、いかがいたしましょう」


「それは、追って私が一葉ずつ渡します。あなたは経路だけを。中身に触れる人間は、少ないほどいい」


「承知いたしました」アデルの声に、咎める色も、訝る色もなかった。ただ、皇帝が何かを企てており、それが帝国のためであることを、長年の付き合いで信じているという、静かな了解だけがあった。「この件は、私の胸の内だけに納めます」


「ええ。頼みます」


アデルが退出すると、執務室に再び静けさが戻った。エカチェリーナは窓辺に立ち、晩春の帝都を見下ろした。日差しはもう、初夏の白さを帯び始めている。


(さあ、テオドール。これからあなたは、帝国でいちばん忠実な間諜かんちょうになるのよ。自分の意志とは、無関係に)


罠にかけたとも、裏切られたとも、もはや感じなかった。盤の上に駒が一つ、思いがけない場所に立っている。それを、最も効く場所へ動かす。ただ、それだけのことだった。


その冷たい思いは、誰にも見えない場所で静かに灯り、すぐに消えた。彼女は机に戻り、次の書類に手を伸ばした。初夏の陽が、黒いドレスの金の縁取りを、淡く照らしていた。

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