第9話 崩壊
ベルリンに行った。
七月の第三週、四日間。
飛行機は十一時間かかった。
以前の拓海なら飛行機の中でずっと本を読んで、着いた瞬間から疲労の確認に忙しかっただろう。
でも今回は、離陸してすぐに眠った。
眠れた、というより、意識がオフになったような感じだった。
気がついたら「まもなく着陸します」というアナウンスが流れていた。
ベルリンは曇っていた。
空気が重かった。
路面電車が石畳の上を走っていた。
学会の会場はホテルの中にあって、世界中から来た研究者たちが廊下やラウンジで立ち話をしていた。
英語、ドイツ語、中国語、時々日本語。
拓海は名刺を出して、説明して、聞いて、答えた。
全て問題なくできた。
でも、どこかずっと「うまく動いている機械」のような感覚があった。
自分が自分を動かしているのか。
それとも——男の判断が、俺の体を使って動いているのか。
区別がつかなくなっていた。
発表は三日目の午後だった。
五十人ほどの聴衆。
前の発表者が終わって、拓海は壇上に立った。
スライドを開いた。
最初の一言を言った——「Quantum information and consciousness: a new approach to the measurement problem.」——声が出た。
滑らかだった。
以前より滑らかだった。
「うまい」と、男の声が頭の中で言った。
「これは俺の発表だ」と拓海は思った。
「それが俺の発表だ」と男の声が言い返した。
その瞬間、拓海は少し止まりかけた。
でも止まらなかった。
体が動いた。
次のスライドを出した。
説明を続けた。
質問に答えた。
終わった。
拍手がきた。
廊下に出て、壁に背をつけた。
自分が今何を言ったのか、細部が思い出せなかった。
発表はした。
だが「誰が」したのか——その確信が、薄かった。
会場の受付に近づいた研究者が名刺を渡してきた。
「Very interesting approach, Dr. Kirishima. Do you have a moment?」と言った。
拓海は「Of course」と答えた。
話した。
英語で。
流暢に。
でも話しながら、「俺は今、英語で考えているのか」と思った。
考えていない、という気がした。
言葉が出てくる。
でも考えている場所が分からない。
まるで、別の誰かが操作しているようだった。
夜、ホテルの部屋に戻って、シャワーを浴びた。
鏡を見た。
疲れた顔があった。
でも疲れていないような目をしていた。
そのアンバランスが、少し怖かった。
波動関数の収縮——観測によって可能性が一つに決まる瞬間。
量子の世界では、見るという行為が対象を変える。
測定器も、測定される粒子も、測定後には別の状態にある。
完全に中立な観測者は存在しない。
でも今の俺には、その「一つ」がどれか分からない。
俺は、俺自身を観測できていない。
どの自分が観測しているのか。
どの自分が観測されているのか。
発表台の上で話していた声は——俺の声か、男の声か。
境界線が消えかけていた。
シャワーの音が止まった。
ベルリンの夜は静かだった。
路面電車の音が遠くにあった。
窓から灯りが見えた。
拓海はベッドに座って、美羽にLINEを打ちかけた。
「発表終わった」と書いて、止まった。
送らなかった。
送れなかった理由を、後から考えた。
「発表終わった」と書いた俺は、どの俺か。
男の俺か。
本来の俺か。
区別がつかないから——どちらの「おはよう」を送っているか分からないから——送れなかった。
これは、俺が美羽に対して誠実でありたいということだ、と気づいた。
誠実さが、まだある。
そのことが、今夜は少し頼りになった。
帰国したのは七月の終わりだった。
羽田空港から電車に乗って、途中でいつもと違う乗り換えをしていることに気づいた。
気づいたとき、すでに渋谷を過ぎていた。
なぜこの路線に乗ったのかが分からなかった。
体が勝手に動いていた。
記憶がズレている、という感覚は、ベルリンに行く前からあった。
ノートに「覚えていない文字」が書かれていたのが最初だ。
その後、「木曜の夜に実験室に入った形跡があるが記憶がない」というログのズレがあった。
今度は移動のルートが、意識と違った。
これは——俺の体が、俺の意識とは別の判断で動いている、ということか。
量子力学に「波動関数の収縮」という概念がある。
観測が行われる前、量子系は複数の状態の重ね合わせとして存在している。
観測が行われた瞬間に——波動関数が「収縮」して、一つの確定した状態が現れる。
俺の中で今、誰かが「観測」をしている。
そしてその観測によって、俺の状態が一つに収縮しようとしている。
でも、その「誰か」が俺自身ではないとすれば——収縮した先の「一つ」は、俺が選んだものではない。
でも今の俺には、その「一つ」が誰の選択か分からない。
俺は、俺自身を観測できていない。
美羽は待っていた。
帰宅すると、リビングの電気がついていた。
美羽がソファに座っていた。
時計は夜の十一時過ぎだった。
夜勤明けのはずなのに起きていた。
「おかえり」と美羽は言った。
「ただいま」
美羽は拓海を見た。
しばらく見ていた。
「どうだった」
「発表は、うまくいった」
「そう」
また少しの間、見ていた。
「ご飯、食べてきた?」
「機内で食べた」
「じゃあ、お風呂入ってきて」
「ああ」
お風呂から出ると、美羽はまだソファにいた。
テレビは消えていた。
スマートフォンも触っていなかった。
ただ、そこに座っていた。
「なんかさ」と美羽は言った。
「うん」
「拓海のことが、少し、分からなくなってきた」
拓海は椅子に座った。
「分からない、というのは」
「どこにいるのかが分からない」と美羽は言った。
「体はここにいるけど、中身がどこかに行ってる感じ。ずっとそう思ってたけど、今日はっきり言えた」
「ベルリンで、自分でも似たことを感じた」と拓海は言った。
美羽が少し驚いた顔をした。
「似たこと」
「発表中、自分が自分の口を使って喋っているのに、それが自分の言葉なのかどうか分からなかった。誰かが俺の声を使って喋っているような感じ」
美羽はしばらく黙っていた。
「それ、怖くない?」
「怖い」と拓海は言った。
「でも止められない」
「止めるのと、怖がるのは、別のことだよ」と美羽は言った。
静かな声だった。
「怖いことと、そこから離れることは、同じじゃない」
拓海はその言葉を受け取った。
すぐには答えられなかった。
今夜の美羽の言葉は、いつもより少し余白が大きかった。
何かを言いたくて、でも形にしない部分を残している。
「もう少し話せる?」と拓海は聞いた。
美羽は少し間を置いてから「うん」と言った。
その夜、二人でテーブルに向かい合って、長い時間話した。
内容は、雑多だった。
ベルリンで見た街並みの話。
夜勤で担当した患者の話。
最近読んだ本の話。
研究の話は出なかった。
男の声の話も出なかった。
ただ、二人で話した。
拓海は話しながら、「以前はこういう時間があった」と思った。
何を話すかが決まっていない、でも互いの近くにいる時間。
最近はずっと「目的のある会話」しかしていなかった。
報告か、確認か、判断か。
目的のない会話が、久しぶりだった。
そしてこの感覚は——男の頭では、生まれない。
男の思考の中に、「目的のない会話」の価値はない。
「感情はノイズだ」という前提では、この種の時間はコストだ。
でも拓海は今夜、これがコストだとは思えなかった。
深夜、美羽が先に眠った。
拓海は洗面所で顔を洗って、鏡を見た。
ベルリンから帰ってきた顔だった。
疲れていたが、今夜のリビングの後はすこし違った。
何かが少し戻っていた——と思いたかった。
「俺は、俺自身を観測できていない」という言葉を、もう一度思った。
量子の世界では、観測する行為が対象を変える。
見るだけで、状態が変わる。
つまり——俺が俺自身を「見る」ことができれば、状態が収縮する。
どの自分に収縮するかは、まだ分からない。
でも今夜の、美羽と話した時間は——その「見る」行為に少し近かった。
俺はどこにいるのかを、今夜少しだけ確認できた気がした。
廊下に戻って、電気を消した。
暗い中、美羽の部屋に明かりがついていないことを確認した。
拓海は自分の部屋のドアを開けようとして、止まった。
振り返ると、廊下の向こうに——何かがいた。
形があった。
人の形だった。
輪郭が薄くて、光源がないのに、どこか白く見えた。
自分の顔をしていた。
でも今まで見てきた四人の誰とも違った。
疲れていなかった。
整っていなかった。
荒れてもいなかった。
ただ——静かに、そこに立っていた。
拓海は一歩踏み出そうとした。
その瞬間、美羽が廊下の電気をつけた。
「拓海? トイレ?」という声がした。
廊下には、何もなかった。
「ちょっと水飲みに」と拓海は言った。
「おやすみ」と美羽の声がして、電気が消えた。
暗くなった廊下を、拓海はしばらく見ていた。




