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第8話 何も選ばなかった自分

 七月に入った。


 ベルリンへの出発まで、三週間を切っていた。

 準備は進んでいた。

 発表資料もほぼ完成していた。

 パスポートの有効期限も確認した。

 ホテルも予約した。

 全て、問題なく進んでいた。


 問題があるとすれば——それは拓海の「内側」だった。

 声が減っていた。

 男の声も、荒れた声も、犯罪者の声も——最近はあまり来なかった。

 代わりに来るのは、あの「四つ目の声」だった。

 夢の中の白い空間で、輪郭が薄くてほとんど存在感がなかった自分。

 その声だ。

 声というより、気配に近かった。

「どうでもいい」という言葉の残像のような何かが、一日中どこかに漂っていた。



 木曜の午後、拓海は研究室の窓から外を見ていた。

 五月から始まっていた習慣だった。

 仕事の合間に、何もしない時間が増えていた。

 画面を見るでも、考えるでもなく、ただ窓の外を見る。

 それが「休憩」とも違った。

 考えるのをやめているわけではない。

 考えることができなくなっているのとも違う。

 ただ——何かを選ぶ必要がない状態になっていた。


 これは良くないのかもしれない、と思うことはあった。

 でもその「良くない」という判断も、どこか遠くにある感じがした。

「これが四つ目の自分の状態か」と拓海は思った。

 何も選ばなかった自分——その言葉を、以前プロットとして頭の中に置いていた。

 研究も恋愛も中途半端。

 穏やかだが空虚。

 傷つかない。

 でも何も生み出さない。

 拓海の今の状態は、それに近づいていた。


 その夜、四つ目の自分が夢の中に現れた。

 場所は、見覚えのある部屋だった。

 拓海が二十代の半ばに一人暮らしをしていたアパートの部屋に似ていた。

 窓が小さくて、壁が薄くて、本棚が一つある部屋。


 自分が椅子に座っていた。

 今まで見てきた「自分たち」とは違った。

 男は整っていた。

 荒れた自分は摩耗していた。

 犯罪者は活きていた。

 でもこの自分は——ただ、そこにいた。

 特別な手触りがなかった。

 拓海の記憶の中にある「平均的な日」を体現したような存在だった。


「久しぶり」と男は言った。ゆっくりとした声だった。

 怒っていなかった。

 急いでいなかった。

「お前は誰だ」と拓海は聞いた。

「お前だよ。でも俺は、何も選ばなかった」

「何も」

「何も、というのは語弊がある」と男は言い、少し考えた。

「選んだんだ。ただ——何も変えないことを、選んだ。毎回、毎回、現状維持を選んだ。留学はしなかった。プロポーズはしなかった。研究テーマは変えなかった。全部、お前と同じだよ。ただ、俺はその後も同じことを続けた」

「俺も続けてた」

「でもお前は実験をした。あの事故が起きた。お前は変わり始めた。俺は——変わらなかった」

 男は静かに言った。

 感情の起伏がなかった。

 悲しんでいるわけでもなく、誇っているわけでもなかった。

 ただ、事実を言っていた。


「それで、今どうなっているんだ」と拓海は聞いた。

「研究は、そこそこ進んでる。論文は、たまに書く。採択されたこともある。木原教授はまだ指導してくれてる。美羽とは——まだ付き合ってる。でも」

「でも?」

「一年前と、あまり変わらない。二年前とも。たぶん五年前とも、大きくは変わらない。毎日が、少しずつ同じ形で積み上がっている」

 拓海はその言葉を聞いて、少しの間黙った。

「それは——悪いことか」

「悪いとは思っていない」と男は言った。

「傷つかない。失敗しない。美羽も、拓海のことを、安心できる人だと思っている。ただ——」

 男は窓の外を見た。

 窓には何も映っていなかった。

「たまに、夜中に目が覚める。何のために、今日が終わったのか分からなくなる。それだけだ」


「それだけだ」という言葉が、目が覚めた後もしばらく残っていた。

 拓海は天井を見ながら考えた。

「何のために、今日が終わったのか分からなくなる。それだけだ」——その「それだけ」が、どれほど重いのかを。

 物理学に「ゼロポイントフィールド」という概念がある。


 量子論によれば、完全な真空でもエネルギーはゼロにならない。

 絶対零度まで冷やして、熱も光も振動も全て取り除いても、空間そのものが微細に揺らいでいる。

 その揺らぎのエネルギーが消えることは、不確定性原理によって物理的に禁じられている。

 このエネルギーが充満した場を「ゼロポイントフィールド」と呼ぶ。


 ゼロポイントフィールドは、何も生み出さない。

 何も変えない。

 ただ、揺らいでいる。

 それが宇宙の「最低限の状態」だ。

 何もない、と言いたいところだが——何もないことは許されない。

 何かが、最低限ある。

 でもそれは、何もしない。


「何も選ばなかった自分」は、まさにそれだ、と拓海は思った。

 エネルギーはある。

 でも何も生まない。

 揺らいでいる。

 でも動かない。

 存在している。

 でも「在る」だけだ。


 それは——この状態が、今の拓海にも近いのかもしれなかった。

 男の声が来ていたころは少なくとも何かを選んでいた。

 成功の方向に動こうとしていた。

 犯罪者の声が来たとき、2σにして3σに戻した——それは選択だった。

 でも今は、声が来ない。

 動けない。

 判断しない。

 ただ、窓の外を見ている。

「選ばなければ苦しまない」——四つ目の自分の声が、どこかで言った気がした。


 土曜日の昼に、美羽からLINEが来た。

 *今夜、話せる?*

 拓海はその文字を見た。

 シンプルな五文字だった。「今夜、話せる?」。


 何を話したいのかは、分からなかった。

 でも分かっていた。

「話せる?」という問いは美羽が滅多に使わない問い方だった。

 美羽はだいたい「今夜ご飯作るよ」とか「帰ってくる?」とか、もっと具体的な形で話しかける。

「話せる?」という問いは——何か、形のある話がある、ということだ。

 拓海はスマートフォンを持ったまま、返信を打ちかけた。

「今夜は——」

 どう続けるか、分からなかった。

「今夜はいい」と言おうとしたわけではない。

「今夜は難しい」と思っていたわけでもない。

 ただ——指が止まった。

 何かを決めることが、今日はとても遠くに感じた。

「今夜、話せる?」という問いに答えることは——何かを選ぶことだ。

 話す、または話さないを選ぶことだ。

 どちらを選んでも、そこから何かが続いていく。

 何かが続いていくということは——変わるということだ。


 拓海は今、変わることが怖かった。

 怖い、という言葉も正確ではなかった。

 怖いというより——疲れていた。

 変わることを。動くことを。

 何かを選び続けることを。

「選ばなければ苦しまない」

 その声が、今日は一番鮮明に聞こえた。


 ゼロポイントフィールドの仮説の中に、ある解釈がある。

 一部の研究者は——まだ傍流だが——ゼロポイントフィールドを「意識情報の保存庫」として捉えようとしている。

 意識が量子的な情報処理を行っているとすれば、その情報はデコヒーレンスによって消えるのではなく、宇宙の基底状態——ゼロポイントフィールド——に「沈む」のかもしれない、という仮説だ。

「沈む」という言葉は、拓海が自分でノートに書いた言葉だった。

 消える、ではない。

 変換される、でもない。

 ただ、沈む。

 エネルギーとして残る。

 形を失って、でも消えない。


 もし意識情報がゼロポイントフィールドに沈むなら——「何も選ばなかった自分」の意識も、そこにある。

 消えてはいない。

 でも何も動かせない。

 宇宙の基底状態の中に、揺らぎとして存在している。

 それは、存在している。

 でも生きていない。


 拓海は、その仮説を今夜ひどくリアルに感じた。

 自分が今、ゼロポイントフィールドに向かって沈もうとしているような気がした。

 エネルギーはある。

 でも何も生まない。

 揺らいでいる。

 でも選ばない。

 選ばないことは——最も安全な選択に見えるが——実際には「他の誰かの意志に上書きされる」ことを意味する。

 それはいつか、どこかで聞いた言葉だった気がした。

 でも今夜は、その言葉の意味を完全には理解できなかった。


 スマートフォンの画面が暗くなった。

 美羽からの「今夜、話せる?」がタイムアウトで消えた。

 既読にしていなかった。

 していなかった、ではなく——できなかった。

 拓海はスマートフォンをテーブルに置いて、電気を消した。

 ベッドに横になった。

 眠れるかどうかも分からなかった。

 四つ目の自分が、夢の中で言った言葉を思い出した。

「何のために、今日が終わったのか分からなくなる。それだけだ」

 それだけ——の、重さ。

 今夜の拓海には、その重さが分かった。

 でも分かっているのに、動けなかった。

 それが——今夜の、一番の問題だった。


 翌朝、スマートフォンを確認した。

 美羽からのメッセージが一件。

 昨夜の「今夜、話せる?」の後に、もう一件来ていた。

 *大丈夫? 無理しないで*

 それだけだった。

 怒っていなかった。

 責めていなかった。

「話せる?」への返信がなかったことを、美羽はどこかで想定していたように見えた。

 拓海はそのメッセージを、長い時間、見ていた。

 既読をつけた。

 返信は打てなかった。

 でも、既読にした。

 それが今朝の、自分にできた唯一のことだった。


「選ばなければ苦しまない」——四つ目の自分の声が、また頭のどこかで言った。

 でも今朝は、別の言葉も聞こえた気がした。

 声ではなかった。声に似た何か——ゼロポイントフィールドのように、宇宙の基底状態の揺らぎのように、消えないエネルギーのように——かすかに、言葉の輪郭を持った何かが来た。

「それでも選べ」

 誰の声だったか分からなかった。

 四人の自分のうちの誰かかもしれなかった。

 あるいは——まだ誰でもない自分の、これから選ばれるべき何かだったかもしれない。


 拓海はベッドから起き上がった。

 窓の外に朝があった。

 曇っていた。

 でも光はあった。

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