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第7話 犯罪者

 六月に入ったころから、実験データに奇妙なことが起き始めた。


 おかしい、と最初に感じたのは日曜の夜だった。

 先週の脳波測定データを整理していたところ、ログファイルに記録されているタイムスタンプと、自分の記憶にある実験時間がずれていた。

 木曜日の午後十一時に「測定セッション開始」のログがある。

 でも木曜の夜は教授と会食があって、十一時には帰宅していた。

 研究室には寄っていない。

 誰かが使ったのか。

 後輩に確認したが、「木曜の夜は別のキャンパスにいました」という返答だった。

 木原教授は夜に研究室には来ない。

 外部の人間が入ったとすれば、セキュリティログに残るはずだ。

 確認したが、異常はなかった。

「俺が入ったのに、覚えていない」という可能性が、一番怖かった。


「軽い声」が初めてはっきりと夢の中に現れたのは、その翌々日の夜だった。

 今回は場所がリアルだった。

 東京のどこかのバーだった。

 夜遅い時間で、カウンターには客が数人いた。

 拓海は奥のボックス席に座っていて、対面に「軽い声の自分」がいた。

 グラスを持っていた。

 ウイスキーのような色だった。


「会いたかったよ」と男は言った。

 今まで見た「自分」とは、まったく雰囲気が違った。

 猫背で、服がよれていた。

 でも目が活きていた。

 面白いものを常に探している目だった。


「誰だ」と拓海は聞いた。

「お前だよ。でも俺は少し正直だ」

「どういう意味だ」

 男はグラスを傾けた。

「成功者の自分は、感情を切り捨てた。荒れた自分は、何も選ばなかった後悔に囚われてる。俺は——欲しいものを、取りに行った」

「取りに行った」

「そう」男は笑った。

 今度は目も笑っていた。

「研究データを売った。競合ラボに。金になった。それだけだ。良心の痛みはあった。三秒くらい。その後は慣れた」


 拓海は黙っていた。

「お前、思ってるだろ」と男は言った。

「『そういうことができればどんなに楽か』って」

「思ってない」

「嘘つくな」と男は笑った。

 穏やかに笑った。

「俺はお前の本音だから分かる。お前が『正しくある』ために、ずっと抑えてきたやつが、俺だ」


 目が覚めた後、拓海は昨夜の夢のことを考えながら、実験室に向かった。

 B2フロア。

 恒温槽の低い音。

 男の言葉が頭の中にあった。

「欲しいものを、取りに行った」。

 それは——拓海が三十一年間、できなかったことだ。

 欲しいものを欲しいと言えなかった。

 取りに行けなかった。

 行かなかった理由は「正しくないから」だったが、本当の理由はもっと単純だった。

 怖かったのだ。

 失敗するのが。

 拒否されるのが。


 電極を装着しながら、拓海は「欲しいもの」を考えた。

 論文の採択は欲しかった。

 ベルリンの発表も欲しかった。

 でも——それは「なりたい自分になる」欲しさだった。

 犯罪者の自分が言う「欲しいものを取りに行く」は、もっと直接的な話だ。

 ルールや正しさや関係性を無視して、ただ結果を取る。

 それが「本音」なのか。

 分からなかった。

 でも、「三秒くらい」で慣れる、という言葉が引っかかっていた。


 ログファイルを開いたのは、その午後だった。

 最新の測定データを整理していて、拓海は一つの可能性を考えた。

 今の実験データには、脳波と量子ビット状態の相関を示す部分がある。

 その相関が——もし意図的に強調されていたら。

「強調」とは——ノイズを除去する際の「しきい値」を調整することだ。

 シグナルとノイズの境界を、少し「有利な方向に」動かす。

 それは改ざんだ。

 でも実験データの処理において、しきい値の設定は研究者の判断に委ねられている部分がある。

 どこからが「操作」でどこからが「解釈」なのかは、グレーゾーンがある。


 拓海はしきい値のパラメータを開いた。

 デフォルト値は「3σ」——標準偏差の三倍を超えたものだけをシグナルとして扱う、保守的な設定だ。

 これを「2σ」に変えれば、検出されるシグナルが増える。

 相関の有意性が、見た目上は上がる。


 拓海は数字を入力した。「2」。

 エンターキーを押した。

 グラフが更新された。

 相関係数が、0.31から0.47に上がった。

 論文に書けるギリギリの有意性が、書ける値に変わった。

 拓海は画面を見ていた。

 三十秒くらい、じっと見ていた。

 それから、ログに残った変更履歴を確認した。

「しきい値変更:3σ→2σ 操作者:Kirishima T.」と記録されていた。

 消せない。

「研究者の判断の範囲内だ」と頭のどこかが言った。

「誰だってやってる」とも言った。

 でも別の部分が言った。

「やってることは、分かってる」


 その日の夜、犯罪者の自分がまた夢の中に来た。

 今度は明るい場所だった。

 昼間のカフェのようだった。

 男はコーヒーを飲んでいた。

「やったじゃないか」と男は言った。

 開口一番に。

 拓海は何も言えなかった。


「2σ。賢い選択だ。3σとの差は、方法論的に許容範囲内だ。それだけのことだ」

「許容範囲内なら、なぜ後ろめたい」

「後ろめたい?」男は首を傾けた。

「それは習慣だよ。小さいころからルールに従うように訓練されてきた結果の、条件反射だ。お前が本当に悪いことをしたわけじゃない」

「でも——」

「でも何だ」と男は静かに言った。

 落ち着いていた。

 怒っていなかった。

「お前は一つの判断をした。それで論文が成立するかもしれない。成立すれば、研究が世界に出る。研究が世界に出れば、誰かの役に立つかもしれない。ルールに縛られて論文を出せないより、どちらが良い結果だ?」

「それは——」

「結果で考えろ。良心は過程を守るために人間が作ったルールだ。過程を守るために結果を捨てるのは、本末転倒じゃないか」

 拓海はしばらく男を見ていた。

 男の言葉は、整っていた。

 論理的だった。

 反論できる部分を見つけるのが難しかった。

 でも——拓海には分かっていた。

 この言葉に乗るたびに、何かが少しずつ消えていく。

 何が消えているのかは、まだ言葉にできなかった。

 でも確かに消えていた。


 翌朝、研究室に来た最初にやったことは、しきい値を「3σ」に戻すことだった。

 ログに記録が残った。

「しきい値変更:2σ→3σ 操作者:Kirishima T.」

 グラフが元の値に戻った。

 相関係数が0.31に戻った。

 それは論文として成立するかどうか、微妙なラインだった。

「なぜ戻した」と男の声が頭の中で言った。

 日中でも来るようになっていた。

「分からない」と拓海は心の中で答えた。

「感情だ。非合理だ」

「そうかもしれない」

「後悔するぞ」

「それは——」

 拓海はその思考を、そこで切った。

 ログファイルを閉じた。

 変更の痕跡は、消えない。

 2σにしたことも、3σに戻したことも、両方、記録に残っている。

 消えない。でも——戻した。

 それが今日の、自分にできた唯一のことだった。


 夜、美羽に電話した。

 美羽は夜勤明けで眠そうだった。

「どうしたの」と少し驚いた声で言った。

「なんとなく、声聞きたくて」

「珍しい」

「そうかな」

「最近は向こうから電話してくることなかったから」

「ごめん」

「謝ってほしいわけじゃない」と美羽は言った。

 三話前も同じことを言った。

 いつも同じことを言う。

 それが美羽だ。

「ただ、嬉しい」とだけ付け加えた。

 拓海は電話を持ったまま、しばらく黙った。

「何かあった?」と美羽が聞いた。

「少し、自分のことが嫌だった日だった」

「そっか」と美羽は言った。

 それ以上は聞かなかった。

「今日は早く寝て」と言った。

「ああ」

「ごめん、最近、変な返し方ばかりして」

「うん」と美羽は言った。

「でもまあ、今日は帰ってきてくれたから」

「今日は?」

「今日が一番、ちゃんと帰ってきた感じがした」

 拓海には、その意味が分かった。

 体だけでなく、頭も持って帰ってきた、ということだった。

「ログに残ってる」と拓海は言った。

「何が?」

「実験のデータを一度、不正な方向に変えた。三秒で気づいて戻した。でも操作の記録は消えない。二回分の記録が残ってる。俺がやったことの、両方が」

 美羽はしばらく黙っていた。

「それ、誰かに知られる?」

「たぶん、見に来なければ分からない」

「じゃあ、拓海だけが知ってる」

「そう」

「それでよかったんじゃないかな」と美羽は言った。

「記録に残す、ってことは——誤魔化せない、ってことでしょ。自分に対して」


 拓海はその言葉の重さを少し確認するように、もう一度思い返した。

「自分に対して誤魔化せない」——それはそうだ。

 ログは見ていなくても、自分は知っている。

 変えたことも、戻したことも。

 美羽は研究倫理のことを知らない。

 でも「自分に対して誤魔化せないことをやった」という構造は、ちゃんと分かっていた。

「怖いんだよ」と拓海は思った。

 美羽が正確であることが。


 翌週、木原教授と廊下で鉢合わせた。

「顔色が悪いな」と教授は言った。

「少し眠れてなくて」

「研究の方はどうだ」

「査読回答は出しました。ベルリンの資料も進んでます」

「そっちじゃない」と教授は言い、少しだけ足を止めた。

「お前自身の方だ。最近、何か悩んでいるか」

 拓海は一瞬止まった。「研究が……少し、複雑な方向に進んでいて」

「複雑というのは」

「自分の実験が、当初の想定と違うことを示し始めているかもしれなくて」

 教授はしばらく拓海を見た。

「それは——良いことだ」

「良いことですか」

「仮説通りに進む実験は、仮説を確認するだけだ。仮説を壊す実験だけが、新しいものを見せる。お前の研究が想定と違うなら——それは何かを触ってる証拠だ」

 教授は歩き出した。

 拓海は廊下に残った。


「仮説を壊す実験だけが、新しいものを見せる」——その言葉は、物理の話だった。

 でも今の拓海には、別の意味にも聞こえた。

 俺自身の「仮説」——俺がなりたい自分、俺が守りたいもの——が壊れていく途中にある。

 それは何かを触れている証拠なのか。

 廊下の窓から、曇り空が見えた。

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