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第6話 成功者

 NPJ Quantum Informationから、最終採択の通知が届いたのは五月の下旬だった。


 メールを開いた瞬間、「Accepted」という文字が目に入った。

 拓海はしばらく画面を見ていた。

 感情が来るのを待った。

 こういう場面では、もっと何かがあるはずだと思っていた。

 でも来たのは、静かな「そうか」という確認だけだった。


 嬉しくないのか——というと、そうでもなかった。

 嬉しかった、とは思う。

 ただ、その感情が以前より薄かった。

 淡水の中に色を一滴垂らしたような、うっすらとした喜びだった。


 「そういうもんだ」


 男の声が、頭の中で言った。

 最近、男の声は夢の中だけで聞こえるわけではなくなっていた。

 日中でも、ふと何かを判断しようとするとき、横から短い言葉が来る。

「そういうもんだ」

「次に行け」

「感情はノイズだ」。

 声というよりも、思考のクセになってきていた。


 拓海はメールを閉じた。

 木原教授に転送して、「採択されました」とだけ書いた。


 採択の翌週、大学の紀要に掲載の打診が来て、同じ週にベルリンの国際学会から発表招待のメールが来た。

 木原教授は「すごいタイミングだ」と言い、「行くか?」と聞いた。

「行きます」と拓海は言った。

「飛行機が苦手だったんじゃないか」

「苦手でした」

「でも行くのか」

「行きます」

 教授はしばらく拓海を見た。

「お前、最近少し変わったな」

「変わりましたか」

「変わった。悪い意味じゃないが——」教授は言葉を選んだ。

「以前は何かを決めるたびに少し顔が曇ったが、最近は曇らない」

「決断が速くなったんだと思います」

「そうだな」と教授は言い、「ただ、曇ることにも意味があるぞ」と付け加えた。


 拓海はその言葉を聞いて、一瞬だけ止まった。

 曇ることにも意味がある——どういう意味か、すぐには分からなかった。

 でも後から少し考えた。

 迷うことは、他の可能性を生きていることかもしれない。

 迷いを捨てることは——可能性を捨てることかもしれない。

 その考えは、次の瞬間には消えていた。


 ベルリン行きを美羽に話したのは、その日の夜だった。

「ベルリン」と美羽は言った。

「いつ?」

「七月の第三週。四日間」

「準備は?」

「これから」

 美羽は少しの間、何かを考える顔をした。

「いいね」とだけ言った。

 拓海はその「いいね」を聞いて、以前の自分ならどう感じたかを少し考えた。

「反応が薄い」と不安になったかもしれない。

「本当は嫌なんじゃないか」と心配したかもしれない。

 でも今夜は違った。

 美羽の返答を「必要最小限の肯定」として受け取って、次の話題に移ろうとしていた。

 それは効率的だ。

 でも何かが薄い。

「怖くないの、一人で行くの」と美羽が聞いた。

「怖くない」

「以前は飛行機が苦手って言ってたのに」

「慣れる」

 美羽はそれ以上は聞かなかった。

 台所に戻って、夕食の支度を続けた。


 拓海は美羽の背中を見ながら、「慣れる」という言葉を反芻した。

 怖いものが怖くなくなる——それは成長か。

 それとも、何かが欠けた結果か。


 男の声が来た。

「成長だ。感情は変数だ。最適化の邪魔をするなら、除去する」

 拓海はその声を、今夜は少し長く保留した。


 ベルリンへの準備を進めながら、拓海はある変化に気づいた。

 判断が、以前と違う基準で行われていた。

 以前の拓海は、選択の前に「誰かが傷つかないか」を考えた。

 美羽が嫌がらないか。教授の意向に沿っているか。

 周囲の期待に反しないか。

 そういった「関係の安全確認」を経てから、行動を決めていた。

 迷いが長かった理由の一つはそれだ。


 今は違う。

「この選択は研究にとって最適か」

「時間のコストに見合うか」

「リターンはあるか」——そういう基準が先に来る。

 関係の安全確認は、後回しになっていた。


 美羽が「最近、相談されることが減った」と言ったのは、三日前だった。

「研究のことも、生活のことも」と美羽は続けた。

「前は、どうでもいいことでも話してたのに」

「忙しくて」

「分かってる。でも忙しいのとは少し違う気がする」

 美羽は「違う気がする」と言うとき、必ず正しい。

 それが今は少し鬱陶しかった。——鬱陶しい、という感情が出てきたことに、拓海は少し驚いた。

 美羽に対してそう感じたのは初めてだった。

 驚いたが、その驚きも、次の瞬間には薄れた。


 学会のプログラムを確認していた夜、男が久しぶりに夢の中に現れた。

 場所はまた違う場所だった。

 大きな会議室のようだった。

 何百人もの席があって、でも誰もいなかった。

 男だけがいた。

「採択、おめでとう」

 拓海は椅子に座った。

「ありがとう」

「ベルリンも行くんだろ」

「ああ」


 男は少し笑った。

 今夜は笑っていた。

 でも笑い方が変わっていた——以前は笑いの奥に欠けたものがあったが、今夜の笑いにはそれがなかった。

 整って、完成されていた。

 その完成度が、少し怖かった。

「お前、最近俺に近くなってきたな」と男は言った。

「そうかもしれない」

「いいことだ。感情を制御できるようになった。判断が速くなった。研究が進んでいる。それが正しい方向だ」

「でも——」拓海は少し間を置いた。

「美羽が遠くなってる」

「その通り」と男はうなずいた。

 躊躇がなかった。

「正しい選択をすれば、正しくないものから遠ざかる。それは当然だ」

「正しくない、というのか。美羽が」

「正しいとか正しくないとかの話じゃない」と男は言い、「最適か、最適でないか、だ」と付け加えた。

「今のお前の目標に対して、美羽は最適なパートナーではない。それだけだ。悪人じゃない。ただ、今じゃない」

 拓海は男を見た。

 整った顔。

 疲れていない目。

 全てを持っている人間の顔。

 でも——美羽の「最近、目が違う」という言葉が、ふと浮かんだ。

「お前、美羽のことを、何と思ってる」と拓海は聞いた。

 男は少し黙った。

「問いが違う。俺は美羽を持っていない」

「だから聞いてる。持っていない人間は、持っているものの価値が分からない」

 男は何も言わなかった。

 それが——今夜初めて、男が何も言わない瞬間だった。


 目が覚めた。

 朝の六時。

 美羽は夜勤で帰っていない。

 家に一人だった。

 台所に行ってコーヒーを入れながら、拓海は昨夜の夢の最後を思い出した。


 男が沈黙した瞬間。

「俺は美羽を持っていない」——その言葉が、今朝は違う響きを持っていた。

 成功した自分は、美羽を持っていない。

 つまり——美羽を切った自分だ。

 その「切った」結果として、あの整った顔がある。

 美羽を切ることは、あの顔になることだ。

 コーヒーが落ちる音を聞きながら、拓海は考えた。

 あの顔が欲しいか。

 あの判断の速さと、あの成功と、あの完成された笑いが欲しいか。

 欲しい、と思う部分があった。

 でも——欲しくない、と思う部分も、まだあった。

 まだ。

 その「まだ」が今夜は大事だと思った。

 消えていなかったから。


 洗面所で顔を洗って、鏡を見た。

 目の下に隈がある。

 三十一歳。

 眠れていない研究者。

 中途半端に「男の方向」に動いている人間。

 でも——今朝は少し違う表情をしていた。

 「最近、目が違う」と美羽は言った。

 美羽はいつも正しい。

 目が違う。

 目の奥に、何かが居座り始めている。

 それを出したい。

 でも出し方が分からない。


 拓海は鏡の自分に「まだ決まってないぞ」

 声には出さなかった。

 でも、思った。


 ベルリン行きの準備を進めながら、拓海は自分の変化を整理しようとした。

 変化は、三つの方向に起きていた。

 一つ目は「判断の速さ」だ。

 これは明らかに変わった。

 以前は三日かかっていた決断が、今は三十分で出る。

 木原教授も気づいていた。

 美羽も気づいていた。

 これは事実で、成果も伴っていた。

 論文が採択された。

 発表がうまくいった。

 招待が来た。


 二つ目は「関係への注意」が薄れたことだ。

 美羽との会話が短くなった。

 相談が減った。

「帰ってくる?」に「ちょっと遅くなる」と返すことが増えた。

 これは変化のコストだ。

 何かを得るために何かを払う——成功した自分の思想が、少しずつ実装されている。


 三つ目は——「自分が誰の頭で考えているか分からなくなる瞬間」が、増えたことだ。

 これが一番、厄介だった。

 「美羽は保守的だ」と思ったとき。

「感情はノイズだ」と思ったとき。

「今じゃない」と思ったとき——それは俺の考えか、男の考えか。

 区別がつかなくなってきていた。


 量子力学に「測定問題」という問題がある。

 量子系の状態を「測定」するとき、その測定者自身も量子系の一部であれば、測定は客観的にはなりえない——という問題だ。

 俺が今、男の影響を受けて判断しているとき、俺は男の視点から「正しい」と思っている。

 でもその「正しい」は、俺が本来持っていた「正しい」とは違うかもしれない。

 測定者が変われば、見える真実が変わる。


 ベルリンの一週間前、拓海は深夜に研究室を出た。

 廊下に人がいなかった。

 B2フロアのエレベーターを待ちながら、拓海は壁を見ていた。

 コンクリートの壁に、非常口の表示が緑色に光っていた。

 「もし、あの実験が起きなければ」という思考が浮かんだ。

 あの夜——Q-SYNC-07が暴走して、脳波が干渉して、別の自分の記憶が来た夜。

 あれが起きなければ、今の俺は存在しない。

 論文の採択も、ベルリンの招待も、判断の速さも——全部あの夜から始まっている。


 でも美羽が「遠い気がした」と言ったのも、あの夜から始まっている。

 男の声が俺の頭に居座り始めたのも、あの夜から始まっている。

 自分が誰の頭で考えているか分からなくなったのも、あの夜から始まっている。

 エレベーターが来た。

 扉が開いた。

 拓海は乗り込んで、「1」を押した。

 扉が閉まって、箱が上昇し始めた。


 一人だった。

 鏡張りの壁が三方向にあって、三つの自分が映っていた。

 正面と、左と、右。みんな、同じ顔をしていた。

 みんな、疲れた目をしていた。


 四人のうちの一人は——たぶん今、この顔をしている。

「まだ決まってない」という言葉が、また浮かんだ。

 箱が一階に着いた。

 扉が開いた。

 夜の廊下。

 外に出ると、夜気が来た。

 まだ決まっていない。

 でも、決まっていく途中にある。そのことは分かっていた。

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