第5話 干渉
それは、ある水曜日の夕方から始まった。
拓海は研究室のデスクで論文の査読回答を書いていた。
画面に向かって、文章を組み立てながら、どこかで別のことを考えていた。
そういう時間が最近増えていた。
作業しながら作業していない、と言えばいいのか——表層では動いているが、内側が別の場所にある感覚。
ノートに何かを書いた形跡に気づいたのは、コーヒーを取りに立ったときだった。
ノートが開いていた。
拓海のノートだ。
でも書かれていた文字が——覚えていなかった。
「投稿先を変えろ」と書いてあった。
筆圧が強く、急いで書いたような字だった。
拓海の癖はある。
でも、この書き方をした記憶がなかった。
いつ書いたのか。
拓海はノートを手に持って、しばらくその文字を見た。
その夜、眠りに入る前の微睡みの時間に——声が聞こえてきた。
一つではなかった。
「研究を続けろ」
落ち着いた声。
男の声。
聞き慣れた声。
「やめろ。このまま進めば壊れる」
別の声だった。
低くて、荒れていた。
第四話の夜に聞いた、あの声だ。
「盗め。データをまとめて、先に出せ」
また別の声。
自分の声の変形だ。
でも抑揚がまったく違う。
怠惰で、軽くて、妙に楽しそうだった。
三つの声が重なった。
拓海は目を開けた。
部屋の天井があった。
声はもうなかった。
でも頭の中に、三つの異なる命令の残響があった。
研究を続けろ。
やめろ。
盗め。
どれも、俺の声だった。
デコヒーレンス、という現象がある。
量子系が外の環境と相互作用することで、重ね合わせ状態が壊れていく現象だ。
量子コンピュータが外界の熱や振動に極端に敏感なのはこのせいで、わずかな干渉で精密に制御されていた量子状態が、普通の古典的な状態に崩れてしまう。
でも今、俺の中で起きているのはその逆だ。
普通の「一人の自分」だったはずのものが——複数の声に引っ張られて、重ね合わせ状態に逆戻りしようとしている。
外界との干渉が、俺を壊すのではなく、俺を「複数」にしようとしている。
それは量子的には「ありえない」現象だ。
でも実験データはそれを示していた。
そして、頭の中の三つの声も、それを示していた。
翌朝、実験室に行った。
ヘッドセットを装着して、量子コンピュータと接続した。
モニターを見ながら、拓海は昨夜の三つの声を思い出した。
声の質感が違った。
「落ち着いた声」は男——留学を選んだ自分——の声だ。
「荒れた声」は第四話の夜に聞いた声。
では「軽くて楽しそうな声」は——誰だ。
測定開始のボタンを押した。
今日の実験は、脳波パターンの「周波数干渉」を記録することだった。
異なる波動関数が交差するとき、干渉縞が生じる——光の二重スリット実験と同じ原理で、脳波においても類似の現象が起きるかどうかを観測する試みだ。
データが流れ始めた。
三十分後、アラートが出た。
今回はQ-SYNC-07ではなく、「MULTI-STATE-INTERFERENCE」——複数の量子状態が同時に干渉していることを示すコードだった。
拓海はそのコードを見て、少しの間動けなかった。
このコードは設計上「ありえない」はずだった。
量子コンピュータは単一の計算を処理する。
複数の量子状態が「同時に」干渉するのは——観測前の重ね合わせ状態の話だ。
観測を始めた後に出るはずがない。
でも、出ている。
脳波の干渉が、量子コンピュータの状態を「複数に引き戻して」いる——としか解釈できなかった。
これは、俺の脳波が複数の状態を同時に持っているということか。
複数の自分が、俺の中で干渉している。
その夜から、声は増えた。
眠りに入る直前に聞こえる。
いつも同じタイミングだ。
一つのときもある。
二つのときもある。
昨夜は四つだった。
「研究を続けろ。査読回答を早く出せ」——男の声。
「やめろ。美羽に謝れ。元に戻れ」——荒れた声。
「盗め。先を越されるな。勝てばいい」——軽い声。
そして四つ目。
これが新しかった。
静かだった。
ほとんど声ではなく、ため息に近い音だった。
「どうでもいい」と言った。
それだけだった。
「どうでもいい」という声が、一番長く残った。
美羽と昼食をとった土曜日、美羽が言った。
「最近、なんか、どこ見てるか分からないときがある」
「そうか」
「返事も、どこ見てるか分からない」
「すまない」
「謝ってほしいわけじゃない」と美羽はスプーンを置いた。
「ただ、拓海が今どこにいるのかが、少し分からない」
拓海は美羽を見た。
美羽はパスタを食べていた。
特に怒っていなかった。
ただ、事実を言っていた。
いつものことだ。
でも今日のそれは少し違う手触りがあった——「事実の観察」ではなく、「問いかけ」に近かった。
「研究が少し、複雑な段階に入ってて」
「研究の話じゃなかった」と美羽は言った。
「拓海自身の話」
拓海は答えられなかった。
「最近さ」と美羽は続けた。
「夢、よく見てる?」
「見てる」
「私の夢とか?」
「……見た、ことがある」
美羽は少し間を置いた。
「どんな夢」
「病院に——美羽が運ばれてた夢」
美羽はしばらく黙っていた。
スプーンを持ったまま、拓海を見ていた。
「私は元気だよ」
「分かってる」
「でも、拓海が夢でそれを見るのは」と美羽は言い、少し考えてから「怖いんだね」と続けた。
「そうかもしれない」
それ以上は続かなかった。
二人で黙ってパスタを食べた。
でも今日の沈黙は、以前の空気のような沈黙ではなかった。
密度があった。
互いに何かを置いているような、沈黙の重さがあった。
店を出るとき、美羽が言った。
「一緒にいるときくらい、四人いなくていいから」
「え?」
「なんとなく、そんな気がして」と美羽は言い、先に歩き出した。
拓海はその言葉を聞いて、立ち止まった。四人——美羽が「四人」という数を使ったことが、偶然だとは思えなかった。
美羽は何も知らない。
でも美羽は、拓海の変化の密度を、正確に読んでいた。
その夜、夢の中で、初めて「全員」が同時に現れた。
場所は特定できなかった。
白い空間だった。
光源がなく、でも明るかった。
拓海が中心に立っていて、その周りに——四人の自分がいた。
男。
成功した自分。落ち着いていて、整っていた。
荒れた声の自分。表情に感情が滲んでいた。疲れた顔だった。
軽い声の自分。笑っていた。でも笑い方が少し歪だった。
四人目は——ほとんど見えなかった。輪郭が薄かった。
空気に溶けかけているような、存在感の薄い自分だった。
「俺を選べ」と男が言った。
「俺を選べ」と荒れた自分が言った。
「俺でしょ、どう考えても」と軽い自分が言った。
四人目は何も言わなかった。ただ、そこにいた。
拓海は四人を見渡した。
全員、自分の顔をしていた。
全員、拓海の声で話した。
でも全員が違う人間だった。
選べ、という声の圧力が、四方から来た。
選べ。
選べ。
選べ。
拓海は目が覚めた。
午前二時三十七分。
心臓が速かった。
窓の外に街灯の光があった。
部屋は静かだった。
美羽の寝息が聞こえた。
四人の声が、まだ頭の中で鳴っていた。
量子の重ね合わせ——確定する前の状態だ。
複数の可能性が同時に存在している。
観測されるまで、どちらとも決まらない。
でも観測されると——一つに決まる。
俺が今、重ね合わせ状態にある。
四人の自分が、俺の中で「確定」を待っている。
そして——俺はまだ、誰も選んでいない。
翌日、査読回答を完成させて送信した。
送信ボタンを押す直前、論文のイントロに目を走らせた。
自分が書いた文章。
「干渉しない単一の測定者が、量子的な重ね合わせ状態を保持している可能性について」——と書いてあった。
今の俺の状況は、それと全く逆だ、と思った。
俺は今、一人でここにいる。
でも俺の中には、四人の自分がいる。
ラジオのチューナーのように、複数の周波数が響いている。
どれか一つに絞ることが、俺にできるのか。
拓海はノートを開いた。
「投稿先を変えろ」と書かれたページ。
自分が書いたときの記憶がない文字。
それは、自分の中の誰かが書いた。
それだけは分かった。




