第4話 選択の代償
論文の改訂が終わったのは、学会発表から十一日後だった。
最終稿を送信して、拓海はキーボードから手を離した。
深夜の研究室。
画面の光だけがある。
送信ボタンを押した後の感覚は、いつもよりも少し軽かった。
でも今夜はその軽さの中に、かすかな後味の悪さが混じっていた。
美羽のことだった。
ここ数日、二人の会話が減っていた。
減った、というより、拓海が研究の話以外をうまく続けられなくなっていた。
美羽が「最近どう?」と聞いても、「論文の改訂が終わりそう」と返してしまう。
美羽が「休みにどこか行かない?」と言っても、「ちょっと待って、今は集中したい」と答えてしまう。
美羽はそのたびに「うん、分かった」と言った。
不満を口にしなかった。
でも拓海には分かっていた——
美羽の「うん、分かった」には、いくつかの種類がある。
今の「うん、分かった」は、最も静かなやつだった。
美羽は切るべきだ、という声が、頭のどこかにあった。
あの声に対して「違う」と言えていない自分が、拓海は嫌だった。
否定できない理由が分かっていた。
あの声は間違っていない——少なくとも論理的には。人間関係への時間的・感情的コストが研究の速度を落としているのは事実だ。
学会発表の準備中、美羽との会話を後回しにするたびに罪悪感が生じて、それが集中を乱していた。
男の言う「邪魔」は、事実として存在していた。
でもそれを「だから切るべきだ」と結論する頭が、自分の頭ではない気がした。
それが男の頭だった。
「俺の頭は、今どっちなんだろう」
声に出した。
誰もいない研究室に消えた。
その夜、拓海は珍しく夢を見なかった。
見なかったというより、男が現れなかった。
夢そのものは見ていたが、ただの夢だった。
脈絡のない場所で、見知らぬ人たちと会話して、場面が変わって、目が覚めた。
男の夢とは手触りが違った。
男の夢は「そこにいる」感覚があった。
体温に近い何かがあった。
普通の夢はただ見るだけだ。
翌朝、コーヒーを飲みながら拓海は考えた。
男が来なかった夜は、今思えば初めてかもしれない。
安心と、奇妙な物足りなさが両方あった。
論文の改訂が終わったから、用事がなくなったのかもしれない——そういう考え方をしてしまったことに、後から気づいた。
あの男との「関係」を、便宜的なものとして捉えていた。
それは、男の思考が拓海の中に少し入ってきている証拠かもしれなかった。
男にとって、物事は機能の問題だ。
役に立てば関わる、役に立たなければ離れる。
そういう考え方が、最近の自分に似てきていた。
三日後の夜、拓海は実験室に入った。
B2フロア。量子コンピュータのある部屋。
絶対零度に近い恒温槽が低い音を立てている。
拓海はヘッドセットを取り出して、機材に向かいながら、あの事故の夜のことを考えた。
最初のフラッシュバック。
英語の論文と、「K. Kirishima」という名前。
Q-SYNC-07のアラート。
もう一度やってみようと思った。
論文の改訂が終わり、次の課題が見えていなかった。
論文が通るかどうかはまだ分からない。
次の研究の種を探している段階だ。
男の夢が途絶えている。
ならば——自分で接触を試みることができるかもしれない。
電極を装着しながら、拓海は「自分で接触を試みる」という言葉の奇妙さを反芻した。
接触、と言っているが、相手は自分だ。
量子的にもつれた別の自分。
それが実在するとすれば——この実験装置を使って、脳波を量子コンピュータに干渉させれば、また何かが起きるかもしれない。
測定開始のボタンを押した。
三十分が経過したころ、何かが来た。
今回は視覚ではなかった。
音でも声でもなかった。
「記憶」が、流れ込んできた。
映像として来るわけではなかった。
感覚として来た。
体の温度が変わるような感じがして、それと同時に、「知っている」という確信が生じた。
自分が経験した記憶ではないのに、経験したように感じる記憶——デジャヴに似ているが、もっと具体的だった。
病院の匂い。
消毒液と、加湿器の湿度と、硬い廊下。
拓海は病院が嫌いだった。
でもその記憶の中の「拓海」は、病院の廊下に立っていた。
立って、待っていた。
何かを待っていた。
処置室のドアが開いた。
看護師が出てきた。
見知らぬ看護師だった。
「鳥海美羽さんのご家族ですか」と看護師は言った。
家族ではない、と拓海は答えた。
「一緒にいた方ですか」「そうです」
「経過は安定しています。ただ——」
記憶が切れた。
拓海は研究室の椅子に座っていた。
手が震えていた。
「美羽」と声に出した。
美羽が交通事故にあっていた。
「別の世界の」という但し書きを、頭の中でもう一度確認した。
今の美羽は自宅にいる。
今夜は早番で、もう帰っているはずだ。
拓海のスマートフォンには、夕方に「夕飯作ったよ、帰ってくる?」というメッセージが入っている。
今の美羽は無事だ。
でも、流れ込んできた記憶の中で——別の世界の美羽は、病院に運ばれていた。
拓海はヘッドセットを外した。
手の震えが収まらなかった。
記憶の中の情景を、もう一度整理した。
病院の廊下。
処置室。
「鳥海美羽さんの」という看護師の声。
あの世界の拓海は、外で待っていた。
それはつまり——あの世界では、美羽が事故にあった。
なぜか。
その答えが、記憶の断片とともに染みてきた。
あの世界の拓海は、その日の夜、美羽と口論していた。
「最近変わった」と美羽は言い、「遠い気がする」と言い、拓海はそれを「保守的な反応だ」と思って言葉が荒れた。
美羽は家を出た。
交差点で、車にはねられた。
コペンハーゲン解釈では、観測した瞬間に可能性が一つに決まる。
でも多世界解釈では——全部起きている。
俺が成功した世界と同じ流れの先に、別の世界では美羽が事故にあっている。
そして、その「別の世界」を作った選択は——俺と同じ流れにある「俺」がやったことだ。
「お前が奪ってるんだよ」
声が、した。
今度は夢ではなかった。
男の声でも、あの落ち着いた声でもなかった。
荒れた声だった。
怒りが滲んでいた。
悲しみが混じっていた。
「成功した、論文が通りそうだ、発表がうまくいった——その裏で、誰かが不幸になってる。お前は気づいてるか。その成功の分、どこかで誰かの何かが消えてる。多世界解釈が正しいなら——お前が選ぶたびに、別の世界でその皺寄せがいく」
「誰だ」と拓海は聞いた。
「お前だよ」
声は続けた。
「何も選ばなかったお前だ。でも選ばなかっただけで、悪人じゃなかった。美羽のことも、ちゃんと大事にしてた。お前が成功を選んだ分——俺が失った」
「それは——」
「お前のせいだとは言わない。でも無関係でもない」
声が消えた。
研究室が戻ってきた。
恒温槽の低い音。
画面のアラート。
拓海の手。
帰り道、拓海はずっと歩いた。
電車に乗らなかった。
四月の夜は少し冷たかった。
コートのポケットに手を入れて、橋の上で立ち止まった。
川が暗く流れていた。
街灯が川面に細長く反射していた。
「俺が奪ってる」という言葉が、簡単には打ち消せなかった。
多世界解釈が本当に正しければ——そして俺の実験が拾っているものが本当に「別の世界の自分」とのもつれなら——俺が成功するほど、どこかで失われるものがある。
コインの表と裏のように。
エネルギー保存の法則のように。
俺の選択が一つの世界で幸運を引き寄せるとき、別の世界ではその同じ選択が不幸を引き起こしている。
それは物理的に正確な言い方ではないかもしれない。
多世界解釈の「世界」は独立していて、互いに影響しないはずだ——理論の上では。
でも俺は干渉を受けている。
男から。
そして今夜、荒れた声から。
干渉が起きているなら、世界は完全に独立していない。
もつれている。
そして、もつれているということは——連動している。
観測問題は、観測する側を変える。
拓海は川を見ながら、そのことを考えた。
量子の世界では、観測する側も観測される側も、観測の後には変わる。
完全に中立な観測者は存在しない。
俺が別の世界の自分と干渉するとき——俺も、変わっている。
変わっているということは、影響を受けているということだ。
男の「合理的な」声が、少しずつ自分の中に染みてきていた。
「美羽は切るべきだ」という言葉が、否定できなくなってきていた。
それは俺の考えか。
橋の欄干に手をかけた。
金属が冷たかった。
俺の選択が別の世界の誕生に影響しているとすれば——俺が引っ張る辺りに、病院で濡れる別の美羽がいる。
それが自分の責任なのか。
分からなかった。
多世界解釈の正誤にかかわらず、今夜の「俺が奪ってる」という言葉は拓海の中で重く鳴っていた。
橋の下を川が流れていた。
光の筋が揺れて、消えて、また浮かんだ。
物理学には「時間の矢」という問題がある。
ミクロの世界では、物理法則に過去と未来の区別がない。
素粒子の方程式は時間を逆向きにしても成り立つ。
でも現実の世界では時間は必ず前に進む——それはなぜか。
答えの一つはエントロピー、つまり乱雑さの増大だ。
物事は乱雑な方向にしか自然には進まない。
記憶は過去にしかなく、選択の後悔は取り返せない。
俺が今夜ここで橋の欄干を握っているのも、取り返せない選択の堆積の上にある。
でも量子の世界では——全ての選択が全ての世界で起きている。
取り返せない、というのは、この世界の話だ。
別の世界で別の俺が、別の選択をしている。
その「別の選択をした俺」に、俺は責任を持てるか。
持てないとしたら、今夜の荒れた声は——ただ恨んでいるだけなのか。
答えは出なかった。
美羽の「うん、分かった」の声が、頭の中で重なった。
最も静かな、あの声。
拓海は、自分が今、誰の頭で物事を考えているのかが分からなくなっていた。
家に帰ると、美羽はソファで本を読んでいた。
「遅かったね」
「歩いてきた」
「歩いて? 遠いのに」
「なんとなく」
美羽は本から顔を上げて、拓海を見た。
少しの間、見ていた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
美羽は何も言わなかった。
本に戻らなかった。
ただ、拓海を見ていた。
「実験で、嫌なもの見ちゃって」と拓海は言った。
思ってなかった言葉が出た。
「嫌なもの」
「美羽が——別の世界で、事故にあってた。夢みたいな感じで見た。たぶん実験のせいで、変な知覚が起きてるんだと思うけど」
美羽は少しの間、黙っていた。
「それ、怖かった?」
「怖かった」と拓海は言った。
素直に出た。
美羽は本を閉じて、立ち上がって、拓海の隣に来た。
肩に触れた。
それだけだった。
何も言わなかった。
「ごめん、最近、変な返し方ばかりして」
「うん」と美羽は言った。
「でもまあ、今日は帰ってきてくれたから」
「今日は?」
「今日が一番、ちゃんと帰ってきた感じがした」
拓海には、その意味が分かった。
体だけでなく、頭も持って帰ってきた、ということだった。
「美羽は切るべきだ」という声が、今夜は遠かった。
遠かったが、消えてはいなかった。




