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第3話 成功の味

 査読結果が戻ってきたのは、投稿から四十三日後だった。


「Major revision」だった。

 通過ではない。

 でもリジェクトでもない。

 査読者コメントのPDFを開くと、三人の査読者からそれぞれ十数項目の指摘事項が並んでいた。

 普通なら頭が痛くなる量だ。

 でも拓海はコメントを一行ずつ読みながら、これは直せると思った。

 直し方が見えた。

 これまでと違う感覚だった。


 三本連続でリジェクトされてきた論文では、査読コメントを読むたびに「そうじゃない、伝わっていない」という苛立ちと、「そうかもしれない、俺が間違っているのかもしれない」という自己不信が交互に来て、結局どちらでもない返答を書いて再投稿して、また落ちた。


 今回は違った。

 査読者が問題にしているのは書き方の問題だ、と分かった。

 主張の中身ではなく、どう見せるか。

 それなら直せる。

 ゼロポイントフィールドとの接続を「主張」ではなく「問い」として提示するように書き換えれば、査読者が「トンデモ科学」と判断するリスクが下がる。一か月あれば整えられる。

 なぜ今さらそれが見えるのか。

 拓海はコーヒーを一口飲んで、その問いを少し保留した。


 改訂作業を始めて一週間が経ったころ、木原教授に呼ばれた。

「別の話があるんだが」と教授は言い、コーヒーカップを机の端に置いた。

 教授の部屋は雑然としていて、文献の山が地層のように積み上がっている。

 その中で教授だけが静かに座っている。

 何かを決めるとき、教授はいつも静かだ。

「来月、学会発表の枠が一つ空いた。お前に出てほしい」

「どこの学会ですか」

「物理学会じゃない。医工学系の学会だ。脳科学と工学の境界領域をやってる。お前の研究は、むしろそっちの聴衆の方が反応がいいと思う」


 拓海は少し考えた——いや、考えようとして、気づいたら答えていた。

「やります」

 教授が少し目を丸くした。

「珍しく早いな」

「いや、その、なんとなく——」

「悪いことじゃない」と教授は笑った。

「ただ驚いた。お前はいつも三日は悩むから」

 それだけだった。


 帰り道、拓海は自分の返答の速さを少し不思議に思った。

「やります」と言い切った。

 迷わずに。

 あの夢の中の自分は、迷わなかった。

 何かを問われたら即答した。

 合理的で、素早く、感情が邪魔をしなかった。

 ああいう判断の速さが、自分にも少しずつ移ってきているような気がした。

 悪いことではない、と思った。

 そう思った。


 学会発表の前日、美羽が「練習する?」と聞いた。

 生詰が少し解れた。

 拓海は「いい」と答えた。

 美羽はダイニングテーブルを聴衆席に使い、拓海の対面に座った。

「はじめから」と美羽は言った。


 拓海は発表資料を開いて、最初のスライドから説明し始めた。

 量子情報とは何か、重ね合わせとは何か、意識との接点はどこにあるのか。

 美羽は順番に聞いた。

 時々首を傾けて、時々何かを考える顔をして。

「ゼロポイントフィールドのところ」と美羽が言った。

「少し難しい」

「子供のころに真空のことを調べたことがあって。真空って、本当に何もないのかな、って思って」

「海も真空も同じで——真空にもエネルギーがないと、物理的に許されないんだ」と拓海は言った。

「不確定性原理があって、完全に静止した状態は原理的に禁止されている。どれだけ冷やしても、最低限のエネルギーが必ず残る。それがゼロポイントエネルギーで、そのエネルギーが充満したフィールドをゼロポイントフィールドと呼ぶ」

 美羽は少し考えた。

「それって、宇宙のどこにでも揺らぎがあるってこと?」

「そういうことになる」

「じゃあ」美羽はまた少し考えた。

「消えたものの記憶も、どこかに残るのかな」


 予期していない問いに、拓海は一瞬黙った。

「……それが一番難しい問いだ。人の意識に記憶がどこまで含まれるのか、まだ誰も分かってない」

 美羽は首を小さく傾けて、「でも拓海がそれを調べてるのって」と言った。

 少し笑った。

 場所を持っていない笑い方だった。

「調べてる」と拓海は言った。

「自分の研究なのに、まだ勇気を持って断言できない」

 美羽はほんの一瞬だけ笑って、「じゃ、明日は頑張って」と言った。

 拓海は「うん」と答えて、その小さな笑いを記憶に刷り込んだ。

 美羽は研究の詳細を全部理解しているわけじゃない。

 でも拓海の問いがムダなのか正しいのかを、美羽は問いの形で判断する。

 それは是非の問題ではなく、拓海が「自分の問いを信じているか」の確認だ。

 昨日まではノーだった。

 でも今は少し違う。

 美羽にはそれが分かる、と拓海は思った。


 学会発表の準備は順調に進んだ。

 論文の改訂と並行して進めたが、発表資料を作りながら、自分の研究が以前よりクリアに見えた。

 何を主張したいのか、どこが面白くてどこが難しいのか、聴衆にどう届けるのか——それが、前よりずっと整理されていた。


 発表当日、拓海は壇上に立って百二十人ほどの聴衆を見た。

 その中には脳科学者も、工学者も、医療機器の開発者もいた。

 全員が「量子情報と意識の接続」に対して馴染みがあるわけではない。

 むしろほとんどは初めて聞く概念だろう。


 拓海は丁寧に、でも淀みなく話した。

 重ね合わせとは何か。

 量子情報とは何か。

 なぜそれが意識の問題と接続するのか。

 ゼロポイントフィールドとはどんな仮説で、どこまで実験的に検証されているのか。

 何が分かっていて、何が分かっていないのか。

 嘘はつかなかった。

 分かっていないことは「分かっていない」と言った。

 でも問いの面白さを、諦めずに伝えた。

 質疑応答で手が七本上がった。

 これまでの学会発表で最多だった。

 終わった後、一人の研究者が壇上に来て名刺を渡してきた。

「続きを読みたい」と言った。

 論文が通る前に、そう言ってもらったのは初めてだった。


 帰り道、美羽に電話した。

「発表終わった」

「どうだった?」

「うまくいった、と思う。質問がたくさん来た」

「えー、すごい。いつもと違うね」

「いつもと違う?」

「なんか、声が違う。いつもはどこかが迷ってる感じがする声なんだけど、今日は違う」

「そうかな」

「うん」電話の向こうで少し間があった。

「なんか——怖い」

「怖い?」

「ちょっと冗談っぽく言ったんだけど」と美羽は笑った。

「でも、少しだけ本当にそう思った。桐嶋拓海が決断するの、見慣れてないから」

「そんなに変わったか」

「変わった。悪い意味じゃないよ。ただ——なんか、ちょっと遠い気がした」

 拓海は駅のホームに立ったまま、電車が来るのを待った。

 美羽の言葉が、頭の中で何度か反響した。遠い気がした。

「帰ったら、ご飯ある?」

「ある。唐揚げ作った」

「よかった」

「帰ってきたら聞かせて、発表のこと」

「ああ」

 電話を切った。

 電車が来た。

 乗り込みながら、拓海は「遠い気がした」という言葉を反芻した。


 自分は変わったのかもしれない。

 でもそれは悪いことではない。

 決断が速くなって、発表がうまくなって、論文が進んでいる。

 それは成長だ。

 成長を「遠くなった」と感じる美羽が少し保守的なのかもしれない。

 そう思って、でもすぐにその思考に違和感を覚えた。

 美羽を「保守的」と評価したことが、これまでなかった。

 美羽への評価は、いつも別の方向だった。

 地に足がついている、現実的だ、真っ直ぐだ。

 それは長所として見ていた言葉だった。

 でも「保守的」という言葉は——少し違う温度を持っていた。


 電車のドアが閉まった。

 窓に自分の顔が映った。

 蛍光灯の光で、輪郭が白く飛んでいた。

 その顔を見ながら拓海は、「男の顔に似てきたかもしれない」と思った。

 整っていて、疲れていなくて、感情の置き場所が曖昧な顔。

 でも男の目は笑っていなかった。

 俺の目は——今、笑っているか。

 分からなかった。


 電車が揺れた。

 隣の車両から笑い声が聞こえた。

 若い人たちのグループだった。

 声だけが聞こえて、顔は見えなかった。

 ただ、笑っていた。

 笑うことは、単純なことのはずだ。

 でもなぜか、それが今夜は遠く感じた。


 拓海は窓の自分から目を逸らして、スマートフォンを取り出した。

 美羽からのメッセージを開いた。

「帰ってきたら聞かせて、発表のこと」という文字がある。

 今夜の唐揚げのことを思った。

 発表の話を嬉しそうに聞く美羽の顔を思った。


 量子コンピュータは、外界から遮断しないと純粋な量子状態を保てない。

 俺が男の声に影響を受け始めているということは——俺はもう、遮断できていない。

 外の情報に、状態が揺さぶられている。

 だから「美羽が遠い」のではなく——俺が「男の方向に」動いているのかもしれない。

 その考えが、拓海には一番怖かった。


 夢の中で、また男が現れた。

 今回は場所が違った。

 ホテルの一室のようだった。

 窓の外には欧州風の石造りの街並みが広がっていた。

 ベッドの上に書類が広がっていた。

 男はそれを整理していた。

「発表、うまくいったか」

 また振り返らずに言った。

「ああ」と拓海は答えた。

「なぜ分かる」

「分かる。俺たちは同じ波動関数から来てるから。お前が感じることの輪郭くらいは分かる」

「本当に?」

「本当に、かどうかは知らない。でも感じる」

 男が立ち上がって、窓の外を見た。

 背筋が伸びていた。

 疲れていなかった。

 三十一歳には見えなかった——もっと整っていた。


「美羽はなんて言った」

 拓海は一瞬止まった。

「なんで美羽の話をする」

「変わったって、言われたか?」

「……言われた」

 男は窓の外を見たまま、微かに頷いた。

「そうか」

「それが問題か」

「問題というか——」男は少し考えた。

「事実として、邪魔になる」

「邪魔?」

「美羽は、お前が決断しない人間であることを前提に関係を作ってきた。お前が変わると、その前提が崩れる。彼女は不安になる。不安になった人間は、変化を止めようとする」

「美羽はそういう人じゃない」

「そうか」と男は言い、振り返った。

「だといいがな」

 笑っていなかった。

 今夜は最初から笑っていなかった。

「美羽は切るべきだ」と男は言った。

 拓海は何も言えなかった。

「感情的な話じゃない。合理的な判断だ。お前の研究は今、加速できる段階にある。その速度を落とす要因を、今のうちに整理する必要がある」

「それは——」

「お前が一番よく分かってるはずだ」と男は言い、再び窓の外に向き直った。

「あいつは悪い人間じゃない。ただ、今のお前には合わない」

 夢が薄れていった。

 男の背中が遠くなっていった。


 拓海は目が覚めた。

 時刻は午前三時だった。

 隣の部屋で美羽が寝ていた。

 唐揚げを食べながら、発表のことをたくさん話した夜だった。

 笑っていた。

 美羽は嬉しそうに聞いていた。

「もっと話して」と言っていた。


 美羽は切るべきだ。

 男の声が、また反響した。

 拓海はその声を、しばらく頭の中に置いたままにした。

 否定できなかった。

 完全には否定できなかった。

 それが一番、嫌だった。

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