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第2話 もう一人の自分

 目が覚めたとき、部屋はまだ暗かった。


 時計を見ると、午前四時十七分だった。

 眠りについたのが三時前だったから、一時間かそこらしか寝ていない。

 体は重く、頭は妙にはっきりしていた。

 眠れないときの、あの不快な覚醒だ。


「その選択、間違ってるよ」


 声が、また頭の中で再生された。

 眠れない理由はそれだった。

 再生というより、反響に近い。

 石を投げ込んだ水面の波紋が消えないように、あの声がずっと頭の底で揺れていた。

 声の質感は確かだった。

 拓海自身の声——抑揚も、息の詰め方も、自分が知っている自分の声そのものだった。

 でも自分はあんな声を、あんなふうに発したことがない。

 低くて、落ち着いていた。

 あの声の主は、何かを確信していた。


 拓海は確信したことがない。

 三十一年間、ほとんど何も。

 天井を見ながら、量子もつれのことを考えた。

 量子もつれ——entanglement——は、量子力学の中でも特に奇妙な現象だ。

 二つの粒子が一度「もつれ」の状態になると、どれだけ離れていても互いの状態が瞬時に連動する。

 片方の粒子を観測して状態が決まると、もう一方の粒子の状態も同時に決まる。

 光速を超えた「通信」のように見えるが、そうではない——情報が伝わるのではなく、最初からセットとして存在していた状態が「決まる」だけだ。

 アインシュタインはこれを「気味の悪い遠隔作用」と呼んで嫌った。

 でも実験で何度も確かめられている。

 粒子は、もつれている。

 距離に関係なく。

 俺と、あの「別の自分」が——もし同じ波動関数から生まれた存在なら。

 馬鹿げている、と思った。

 でも眠れないまま四時を過ぎると、馬鹿げた考えの方が正直に感じることがある。


 もう一度眠ろうとして、眠れなかった。

 拓海はベッドの中で目を閉じたまま、ぼんやりとした思考の海を漂った。

 意識が夢に引っ張られそうになって、でも完全には落ちない。

 その境界線——覚醒と睡眠の縫い目——を、気がつくと拓海は歩いていた。

 歩いていた、というのは正確ではない。

 どこかにいた、という方が近い。


 場所は研究室ではなかった。

 広い窓があって、外には見たことのない街並みが広がっていた。

 建物が低く、空が広かった。

 曇り空で、東京のそれとは違う重さと色だった。

 北米か、ヨーロッパか。

 判別できなかった。

 椅子があった。

 机があった。

 その机の前に、誰かが座っていた。

「起きてたのか」

 男が振り返らずに言った。

 日本語だった。

 声に聞き覚えがあった。

 拓海は近づいた。

 ゆっくりと。

 夢の中での動作は、水の中を歩くように重い。

 でも確かに歩いた。

 男の横顔が見えた。

 自分の顔だった。


「座れよ」と男は言った。

 机の脇に椅子があった。

 拓海は座った。

 夢だと分かっていた。

 でも分かっていながら、その事実がそれほど重要に思えなかった。

「お前、投稿先、迷ってるだろ」

 男が言った。

 手元には論文のゲラがあった。

 英語のテキストが赤ペンで修正されていた。

 流暢な英語の手書きコメントが余白を埋めていた。


 拓海は答える前に一秒考えた。

「Physical Review Lettersにしようと思ってるけど、査読が厳しくて」

「やめとけ」と男は即答した。

「今の完成度で投稿しても通らない。あそこは量子情報と神経科学の境界領域の論文に対して保守的な査読者が多い。NPJ Quantum Informationの方がいい。編集者の一人が意識と量子系の接点に興味を持ち始めてる。タイミングがある」

「それ、どうやって——」

「お前と同じ論文を、三年前に書いたから」

 男は初めて拓海の方を向いた。


 顔は確かに自分だった。

 でも何かが違った。

 目の周りに皺がない。

 疲れていない。

 けれど笑っていない目をしていた。

 感情の置き場所を、どこかに置き忘れてきたような顔だった。


「俺はMITのラボに行った。お前が行かなかった場所に」

 拓海は黙った。

「量子情報残存の実験、三年かけて組み立てた。同じ問いを持っていた。そして論文を書いた。通った」

「……通ったのか」

「通った」と男は言い、再び画面の方を向いた。

「NPJ Quantum Informationに出せ。カバーレターでゼロポイントフィールド仮説との接続を強調しろ。イントロの第二パラグラフを書き直した方がいい。今の書き方だと査読者がトンデモ科学だと判断する可能性がある」

「お前はなぜ——」

「なぜ教えるのか?」男は振り返らなかった。

「俺たちは同じ問いを持っていた。それだけだ」

 意識が浮かんできた。

 覚醒の方向に引き上げられていく感覚があった。

「待って」と拓海は言おうとした。

 でも声は出なかった。


 目が覚めた。

 午前六時二十二分。

 今度は普通に眠れていたようだった。

 体が少し軽かった。

 拓海はすぐ、夢の内容を反芻した。

 NPJ Quantum Information。

 カバーレターでゼロポイントフィールドとの接続を強調しろ。

 イントロの第二パラグラフ。

 夢だ、と思った。

 当然だ。


 でも——だとしたら、なぜその投稿先の名前が出てきた。

「Physical Review Letters」と「NPJ Quantum Information」は、拓海が実際に迷っていた二択だった。

 どちらに出すかを、ここ二週間ずっと決めかねていた。

 夢の中で迷っていた問いが出てくることは分かる。

 でも「どちらに出せ」という明確な答えは——自分の中には、まだなかった。


 拓海はベッドに座ったまま、論文の第二パラグラフを頭の中で開いた。

 書き直した方がいい、と夢の中の自分は言った。

 それは——確かに、ずっと引っかかっていた部分だった。

「夢が答えを出した、と思いたいだけかもしれない」

 声に出して、その言葉の軽さを確認した。


 台所に行くと、美羽が昨夜のうちに作ってラップをかけておいてくれた炒飯があった。

 昨夜は夜勤で帰ってきていない。

 冷蔵庫に「温めて食べて」というメモがあった。

 字が丁寧だった。

 美羽の字はいつも丁寧で、だから読んでいると少し申し訳なくなる。

 なぜ申し訳なくなるのかを考えると、それは自分が「受け取る」だけで「渡す」ことができていないからだと気づく。

 六年間、美羽から受け取ってきた。

 見えないものをたくさん。


 炒飯を温めながら、拓海はスマートフォンでNPJ Quantum Informationのウェブサイトを調べた。

 編集委員のリストを開いた。

 一人の名前の前で、指が止まった。

 Associate Editor: Dr. M. Holloway, University of Toronto。

 専門分野の欄に "quantum measurement, neural correlates of consciousness" とあった。

 意識と量子計測の接点——まさに拓海の研究が踏み込もうとしている場所だ。

 炒飯が温まるブザーが鳴った。


 拓海は炒飯を取り出しながら、自分が何をしているのかよく分からなくなってきた。

 夢を根拠に投稿先を決めようとしている。

 それは科学者の態度ではない。でも——インターネットで確認できる情報が、夢の内容と一致している。

「夢の中で自分が調べたことを、夢で見ただけかもしれない」

 その可能性もあった。

 拓海は以前、このウェブサイトを見ていたかもしれない。

 見て、記憶の底に沈んでいた情報が夢として浮かんできた——それが科学的に妥当な説明だ。

 でも「K. Kirishima」の名前で採択された論文のタイトルは。

 あれは自分が意図して記憶できるものではない。

 夢の中で初めて見た。

 それが現実の情報と対応しているなら——


 炒飯を食べながら、第二パラグラフを書き直し始めた。

 書きながら、ゼロポイントフィールドという概念について改めて考えた。


 ゼロポイントフィールドは、量子論が予測する「宇宙の基底状態」だ。

 完全に何もない空間でも、量子ゆらぎによってエネルギーがゼロにはならない。

 その最低限のエネルギーが充満したフィールド——それをゼロポイントフィールドと呼ぶ。

 一部の研究者はこれを「意識情報の貯蔵庫」として仮説的に捉えている。

 意識が量子的な情報として処理されているなら、それはデコヒーレンスによって消えるのではなく、ゼロポイントフィールドに「沈む」のかもしれない——という発想だ。

 もし意識情報がそこに沈むなら。

 別の世界の自分の記憶も、宇宙の基底状態に「ある」のではないか。

 そして俺の実験が、その基底状態から情報を「引っ張り上げた」可能性がある。

 荒唐無稽だ。

 でも荒唐無稽な問いから、物理学はいくつかの真実を拾い上げてきた。

 それだけは知っていた。


 三日後、論文をNPJ Quantum Informationに投稿した。

 投稿と同時に、ゼロポイントフィールド仮説との理論的接続を丁寧に書いたカバーレターを添付した。

 フィールドが量子情報の「残存基盤」として機能しうることを、現在の実験的知見の範囲内で慎重に示唆する文章にした。

 主張しすぎず、でも問いを明示する。

 そのバランスを整えるのに、二日かかった。

 送信ボタンを押した瞬間は、特に何も感じなかった。

 いつものことだ。

 大事な選択をした後、感情が遅れてやってくる。

 今回も、数秒後に「やってしまった」という軽い後悔が来た。

 でも今度は、それと同時に別の感覚もあった。

 これでいい、という、薄い確信のようなもの。

 確信という言葉は、拓海には重すぎる。

 でも他に言葉がなかった。


 一週間後、査読に進むという連絡が来た。

 デスクでメールを開いた瞬間、拓海はしばらく画面を見つめた。

 Physical Review Lettersは過去三本の投稿で全滅していた。

 今回は——少なくとも、入口を通れた。

 木原教授に報告すると、「珍しく判断が早かったな」と言った。

「迷ってたのに」

「なんとなく、踏んぎれて」

「そういうのが大事だ」と教授は言い、それ以上は聞かなかった。

 昼休み、拓海は美羽にLINEを送った。


 論文、査読通過できそう。報告


 すぐ返信が来た。


 やった! ご飯作るね。

 何食べたい?

 なんでも

 それが一番困る返信なんだけど


 三つのドットが点滅して、しばらくしてまたメッセージが来た。


 ハンバーグにする。

 拓海がいつも嬉しそうに食べるから


 拓海は画面を閉じて、少しの間、天井を見た。

 美羽はいつも気づいている。

 拓海が何が好きかを、言わなくても知っている。

 長い時間をかけて積み上がったものが、そこにある。

 言葉にしなくても伝わるものが確かにある——それは拓海が唯一、選択をしたことによって得たものだった。

 美羽と付き合うと決めたこと。

 六年前。

 あれは珍しく、拓海が迷わずに決めた選択だった。

 なぜ迷わなかったのか、今でも自分でも説明できない。

 ただ、当たり前のように決まった。

 量子の観測みたいに——見た瞬間に、決まっていた。


 出会いは大学院の一年目だった。

 学科は違う、病院の実習で知り合った共通の友人に誘われた飲み会で初めて会った。

 最初の印象は「静かな人だ」だった。

 騒がしいテーブルの端で、グラスを持って話を聞いていた。

 笑うときは少しだけ顔を歪めて笑う人だった。

 声が大きくなかった。

 でも、笑いながらも目が観察しているのが分かった。

 場を見ている人の目だった。

 帰り際、駅のホームで二人になった。

 飲み会の流れがそうなった、というだけだった。

 でもそのとき拓海は「もう一度会いたい」と思って、考える前に言っていた。

「また飲みませんか」と。

 今でも不思議だと思う。

 あの瞬間、迷わなかった。


 多世界解釈の文脈で言うなら——あの瞬間の「もう一度会いたい」という気持ちは、どの分岐でも同じだったのかもしれない。

 留学した自分も、研究テーマを変えた自分も、何も選ばなかった自分も——あの飲み会のホームで、同じことを言ったのかもしれない。

 それが唯一の「全ての世界で選ばれたこと」だったとすれば、美羽は「どの世界でも変わらない唯一の座標」になる。

 拓海はその考えが妙に気に入って、同時に重さを感じた。


 その夜、また夢を見た。

 同じ場所だった。

 広い窓と、曇り空。

 机の前に、もう一人の自分。

 今度は最初から向き合っていた。

「査読通った?」と男が聞いた。

「通った」

「そうか」

 それだけだった。

 男は再び画面に向き直った。

 今夜は赤ペンを持っていなかった。

 ただ、画面を見ていた。

「なぜ俺に教えた」と拓海は聞いた。

「本当の理由を」

 男はしばらく沈黙した。

 窓の外で、鳥が一羽飛んだ。

「教えた、というより——干渉した」

「どういう意味だ」

「量子もつれの粒子は、互いの状態を決め合う。教えたのか、決めさせたのか、本当のところは俺にも分からない」

 男が振り返った。

 そして、笑った。

 穏やかな笑い方だった。

 きれいな笑い方だった。

 でも——その笑いの奥に、何かが欠けていた。

 目が笑っていなかった、と気づいたのは目が覚めてからだ。


 量子もつれ、というやつだ、と拓海は起き上がりながら思った。

 俺たちは同じ波動関数から生まれた——分岐したけれど、もつれている。

 だから干渉する。

 だから声が届く。

 それが正しいとすれば、俺はあの男に何かを返す義務があるのかもしれない。

 でも彼は何を必要としているのだろう。

 成功を持っていて、環境があって、論文を書いて——何が欠けているのか。

 あの笑いの奥にあった、欠けたもの。

 思い当たったとき、拓海は少し寒くなった。

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