第1話 観測の揺らぎ
深夜十一時を過ぎると、研究棟の廊下は人の気配がなくなる。
エレベーターのドアが開いて、桐嶋拓海は一人でB2フロアに降り立った。
地下二階は外気と切り離されていて、昼も夜も同じ温度に保たれている。
廊下の蛍光灯だけが変わらず白く点っていて、自分がいまどの時刻にいるのかを忘れさせる。
拓海はそれを気に入っていた。
時刻を忘れると、少しだけ判断が楽になる気がした。
研究室のドアに手をかけながら、スマートフォンを確認する。
美羽からのメッセージが一件。
今夜は遅くなりそう?
三分前に届いていた。
拓海は返信を打ちかけて、やめた。
「遅くなる」と書けばいいだけなのに、なぜかその四文字が指に乗ってくれない。
こういうとき、自分は何をためらっているのだろう、といつも思う。
思うだけで、その先には進まない。
スマートフォンをポケットに戻して、ドアを開けた。
量子情報工学研究室は、大学の中でも珍しく静かな場所だった。
物理学の別の研究室では常にポスドクや大学院生が居座っているが、ここは拓海と指導教員の木原教授、それから修士二年の後輩が一人いるだけだ。
木原教授は夜には必ず帰るし、後輩は今週から学会発表の準備で別のキャンパスに出張している。
つまり今夜この研究室にいるのは、拓海だけだった。
それがいつものことだった。
拓海は白衣を着ずにパーカーのまま機材の前に座った。
白衣は好きじゃなかった。
白い布を纏うと、自分が何かを確信している人間のように見える気がして、それが嘘くさかった。
三十一歳で、まだ何一つ確信していない。
モニターを立ち上げると、データが流れてくる。
実験のタイトルは「意識情報の量子的残存可能性に関する基礎研究」という長ったらしい名前だった。
木原教授がつけた名前で、拓海はもう少し素直な言葉にしたかったが、論文に出る名称は結局教授が決める。
研究テーマそのものは拓海が提案した。
提案したことは、この二年でほぼ唯一の「自分で決めたこと」だった。
内容を一言で言えば、こうだ。
人間の意識は、量子的な情報として存在しうるか。
そしてもし存在するなら、その情報はどこに「残る」のか。
ゼロポイントフィールド、という概念がある。
量子論によれば、完全な真空——すべての熱も光も粒子も取り除いた絶対零度の空間——でも、エネルギーはゼロにならない。
空間そのものが常に微細に揺らいでいて、そのゆらぎのエネルギーが消えることは物理的に不可能だ。
これを「ゼロポイントエネルギー」といい、それが満ちているフィールドを「ゼロポイントフィールド」と呼ぶ仮説がある。
荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、拓海はそこに可能性を感じていた。
意識が量子情報として処理されているなら、その情報は消えるのではなく、宇宙の基底状態に——ゼロポイントフィールドに——沈んでいくのかもしれない。
死んだ後でも、記憶は宇宙のどこかに刻まれているのかもしれない。
それは証明できていない。
たぶんまだ証明できる段階にもない。
でも拓海はその問いをやめられなかった。
唯一やめなかった問いだった。
装置の準備を始めながら、拓海は今朝のことを考えていた。
朝、美羽が出勤前にコーヒーを入れてくれた。
救急病棟は早番と遅番の二交代で、今日は遅番だから昼過ぎに家を出る美羽は、珍しくゆっくり起きていた。
二人でテーブルに向かい合って、コーヒーを飲んだ。
それだけのことだったが、拓海にはそれが少し眩しかった。
「最近、ちゃんと寝てる?」と美羽は聞いた。
聞き方が看護師みたいだった、と拓海は思ったが口には出さなかった。
「寝てる」
「嘘。目の下に隈がある」
「実験の追い込みで」
「それはいつも言う言い訳」美羽はカップを両手で包むようにして持った。
「拓海って、自分の体より実験の方が先に立つよね」
「研究者だから」
「それも言い訳」
美羽は怒ってはいなかった。
ただ、事実を言っていた。
それが美羽の怖いところだった——感情を乗せずに正確なことを言う。
拓海は「そうかもしれない」と言おうとして、「今夜も遅くなるかもしれない」と言った。
話題を替えた。
美羽はそれに気づいていたと思うが、何も言わなかった。
二人で、それきり黙った。
沈黙は別に苦ではなかった。
六年間付き合ってきて、二人の間の沈黙は空気に近かった。
でも今朝の沈黙は少し違う質感があった、
と拓海は思った。
何かを言おうとして、言えなかった残滓のような。
美羽は出がけに「ご飯、冷蔵庫にある」とだけ言った。
それで十分だった。
でも拓海は、なぜか「ありがとう」が一拍遅れた。
装置の準備を再開しながら、拓海は去年のことも考えていた。
一年前、木原教授からアメリカの研究機関への推薦状を書いてやると言われた。
MIT系のラボで、量子情報と神経科学を掛け合わせた最前線の研究をしているところだった。
行けば三年間、向こうで研究できる。
給与も、環境も、ここの比じゃない。
「どうする?」と教授は聞いた。
拓海は二週間考えた。
考えながら、美羽に話した。
美羽は「行きたいなら行けばいい」と言い、「でも私はたぶん行かない」とだけ付け加えた。
どちらでもない答えだったが、拓海はそれを「引き止めていない」と解釈した。
解釈して、「もう少し考えます」と教授に言って、結局、返事をしないまま締め切りが過ぎた。
教授は何も言わなかった。
拓海も何も言わなかった。
留学の話は、そのまま消えた。
それが「また選ばなかった」瞬間だったことは、拓海も分かっていた。
分かった上で、選ばなかった。
選ばなければ、失わない。
留学して失敗する可能性も、美羽との関係が壊れる可能性も、全部、選ばないことで回避できる。
代わりに何かを得ることもないが、それでいいと思った。
そう思った。
本当に?
拓海はモニターに目を戻した。問いは打ち消した。
実験のセットアップは単純だった。
被験者——今夜は拓海自身——の頭部に脳波測定の電極を取り付け、量子コンピュータのインターフェースと接続する。
量子コンピュータ側では、拓海の脳波パターンをリアルタイムで量子ビット列に変換し、その情報が「量子的な重ね合わせ状態」を保てるかどうかを計測する。
意識が量子情報として存在するなら、脳波には量子的な揺らぎ——通常の電磁気的ノイズとは異なるパターン——が現れるはずだ。
木原教授はこの仮説を半信半疑で眺めていたが、予算は出してくれた。
教授は「面白い試みだ」と言いながら、論文になる確率は低いと正直に告げた。
拓海はそれでもいいと思った。
確率が低くても、問いが正しければ追いかける価値があると思っていた——少なくとも、そのときは。
ヘッドセットを装着する。
電極が十六点、頭皮に密着する感覚。
測定用の粘着ゲルが冷たかった。
接続確認のシグナルが画面に点灯する。
量子コンピュータは別室の恒温槽の中にあり、絶対零度に近い温度で稼働している。
超電導状態を保つためだ。
量子ビットは外界の熱や振動に極端に敏感で、わずかな干渉で重ね合わせが崩れてしまう。
デコヒーレンス、という現象だ。
量子コンピュータの最大の敵は、世界そのものだった。
世界から遮断しないと、計算できない。
拓海はそれを面白いと思っていた。
外と繋がっていると、純粋な量子状態を保てない。
自分自身の話のようで、少し苦かった。
測定開始のボタンを押した。
最初の三十分は、何も起きなかった。
脳波データが流れ、量子ビットの状態が記録される。
数値は正常範囲内で揺れている。
拓海はモニターを眺めながら、美羽に返信していないことを思い出した。
思い出して、また放置した。
問題は四十五分が経過したころに起きた。
突然、量子コンピュータ側からアラートが飛んできた。
エラーコードは「Q-SYNC-07」——量子ビットの同期が予期せぬパターンを示したときに出るアラートだ。
拓海は経験上、これは機器の誤作動だと判断した。
念のためログを確認しようとキーボードに手を伸ばしたとき、それが起きた。
頭の中で、何かが点いた。
点いた、というのは正確な表現じゃないかもしれない。
でも他に言いようがなかった。
何かが「オン」になった感覚。
それと同時に、拓海の視界が一瞬だけ——本当に一瞬だけ——別の場所に切り替わった。
見知らぬ場所だった。
でも知っていた。
窓の外に見えるのは東京の夜景じゃなく、灰色の空と低い建物だった。
どこかの外国の街角のようだった。
机の上に英語の論文が積まれていた。
コーヒーカップがあった。
誰かが論文に赤いマーカーで線を引いていた。
その手が——自分の手だった。
その「自分」は振り返らなかった。
でも確かにそこにいた。
拓海は研究室の蛍光灯の下に戻ってきた。
時間にして、〇・三秒か、それ以下だったと思う。
瞬きよりも短かった。
でも、確かに見た。
手が震えていた。
モニターのアラートはまだ鳴り続けていた。
拓海はキーボードを操作してアラートを止めた。
ログを確認すると、量子ビットの状態が一瞬だけ通常の範囲から外れていた。
それだけだった。
機器は今は正常に戻っている。
データ的には「ノイズ」として処理される程度の変動だった。
「ノイズ、か」
拓海は声に出してみた。
研究室に自分の声が響いて、すぐ消えた。
ノイズで片付けるのが正しいと分かっていた。
量子実験でこの程度の外乱は珍しくない。
ましてや「別の場所の光景が見えた」などという現象は、過疲労による視覚的な錯覚として処理するのが科学的に妥当だ。
最後にまともに眠ったのは二日前だったし、カフェインを摂り過ぎていた。
でも。
あの論文の表紙に印字されていた文字が、頭から離れなかった。
Quantum Information Residue in Neural Oscillation Patterns: A New Framework
それは拓海が今取り組んでいるテーマそのものだった。
でも著者名の欄に書いてあったのは——「K. Kirishima」だった。
桐嶋拓海の、英語表記。
装置を片付けながら、拓海は重ね合わせ、という概念について考えた。
量子力学の世界では、粒子は「観測されるまで」複数の状態を同時にとる。
有名な「シュレーディンガーの猫」の話だ。
箱の中の猫は、観測するまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なり合って存在する。
どちらかに決まるのは、観測した瞬間だけだ。
これは比喩じゃない。
電子の実験で実際に確かめられている。
一個の電子に二つのスリットを通らせると、電子は波として両方のスリットを同時に通り、スクリーンに干渉縞を作る。
「どちらのスリットを通ったか」を観測しようとした瞬間、電子は粒子に戻り、干渉縞が消える。
観測が、現実を決める。
つまり——拓海は電極を丁寧に巻き取りながら思った——観測されるまで、俺は無数の可能性の「平均値」として存在しているのかもしれない。
留学した俺、しなかった俺、美羽にプロポーズした俺、しなかった俺、研究テーマを変えた俺、変えなかった俺。
そのすべてが、観測されるまでは重なり合って——
「馬鹿げてる」
今度は呟かなかった。
声が出なかった。
あの光景が「別の自分の現実」だとしたら、もう一人の桐嶋拓海は論文を書いていた。
英語で。
外国のどこかで。
つまりあの光景は、留学を選んだ自分の世界だ。
それは物理的に起こりえない。
多世界解釈——つまり量子力学の分岐が実際に別々の宇宙として存在するという解釈——は、今のところ実験で証明された理論ではない。
それは「解釈」だ。理論の計算上の一つの読み方に過ぎない。
でも、俺は見た。
拓海はその思考をそこで止めた。
データをUSBに落として、機材のスイッチを切る。
時計を見ると、夜中の一時半を回っていた。
美羽へのメッセージは、まだ返していない。
外に出ると、四月の夜風が正面から来た。
大学の正門を抜けて、駅に向かって歩く。
街灯の下、自分の影が前に伸びて、足より早く進んでいるように見えた。
スマートフォンを取り出して、美羽への返信を打った。
遅くなった。もう帰るよ
すぐ既読がついた。
こんな時刻に起きているのか、と思った。
お疲れ。何か食べてる?
食べてない
だと思った。コンビニ寄って
それだけだった。
「気をつけて」も「早く帰ってきて」もなかった。
美羽はいつもそういう人だった。
過剰に心配しない。
でも必要なことだけは言う。
拓海はその簡潔さが好きだった。
言葉が少ない人は、言葉の重さを知っている気がした。
コンビニに寄って、おにぎりを二つ買った。
レジで財布を出しながら、あの光景をまた思い出した。
灰色の空。
英語の論文。
「K. Kirishima」という名前。
あれが「観測の誤作動」なら、なぜ俺の名前が出てきた。
なぜ、俺が研究しているテーマの論文を、別の俺が書いていた。
帰りの電車は空いていた。
車内の蛍光灯が白く、B2フロアの廊下を思わせた。
拓海はシートに座って、おにぎりを一つ食べた。
味は特になかった。
発車してすぐ、となりの席に老人が座った。
七十代くらいだろうか。
本を読んでいた。
文庫本で、表紙は見えなかった。
老人の手は節くれ立っていて、でも本の持ち方が丁寧だった。
何かを大切にしている人の持ち方だった。
老人は次の駅で降りた。本を鞄に入れて、ゆっくり立ち上がって、ホームへ消えた。
あの人の分岐は、どんな形をしているのだろう、と拓海は思った。
何かを選んで、何かを選ばなかった。
その集積として、深夜の電車に乗っている。
でも老人はそれを考えていないように見えた。
今日は今日の本を読んで、今日の駅で降りた。
それだけだった。
そういう生き方があるのか、と拓海は思った。
思って、おにぎりの二つめを食べた。
こちらも味は特になかった。
目を閉じた。
家のドアを開けたとき、美羽の部屋の電気が消えていた。
もう寝たのか、と思ったが、リビングに入ると毛布を抱えてソファで眠っていた。
テレビがつけっぱなしになっていて、音を消した状態でニュースが流れていた。
拓海は毛布をかけ直した。
美羽は目を覚まさなかった。
髪が少し顔にかかっていた。
直そうとして、やめた。
洗面所で歯を磨きながら、鏡の中の自分を見た。
目の下に隈がある。
三十一歳。
量子情報工学の研究者。
中途半端な人間。
選ばなかった選択の集積として、今ここにいる。
電気を消して、ベッドに入った。
疲れているのに眠れない夜が続いていた。
眠れないとき、拓海は選ばなかった選択肢のことを考えた。
ポジティブな意味ではない。
後悔とも少し違う。
ただ、分岐していたかもしれない無数の「自分」のことを、暗闇の中で順番に数える。
留学した自分。
プロポーズした自分。
研究テーマを変えた自分。
就職した自分。
全員、どこかの世界で生きているかもしれない。
今夜はそこに、一つ加わった。
論文を書いている自分。
英語の論文を。
目を閉じて、まだ眠れなかった。
どれくらい経ったか分からない。
意識が、眠りの手前を漂っているとき——正確には夢でも覚醒でもない、その境界線のような場所で——声が聞こえた。
低かった。
落ち着いていた。
でも、確かに知っている声だった。
「その選択、間違ってるよ」
拓海は目を開けた。
天井があった。
暗かった。
美羽の寝息が遠くから聞こえた。
声はもうなかった。
でも、確かに聞いた。
聞こえた場所は——耳ではなく、もう少し内側だった気がした。
拓海は半身を起こして、しばらく暗闘の中に座っていた。
心臓が少し速かった。
声の主は分かった。
あれは、自分の声だった。




