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第10話 消える自分

 八月に入って、夢の質が変わった。


 それまでの夢は「場所がある夢」だった。

 ホテルの部屋、広い会議室、バーのカウンター、白い空間。

 空間があって、そこに誰かがいた。

 でも八月の夢は、空間が定まらなかった。

 どこにいるのか分からないまま、何かが近くにいる感覚だけがある。

 そういう夢が続いた。


「近くにいる」ものが、誰なのかは、すぐには分からなかった。

 声も遅延していた。

 水の中で聞くような、少しずれた声。

 言葉が来て、意味が分かるまでに一拍かかる。

 その感覚がリアルで、夢の中では「あ、この声はそういう声だ」と思っていた。

 でも目が覚めると、そのずれ方を上手く説明できなかった。


 十日ほどして、声が「言葉」になった。

「軽い声の自分」が、最初に薄れた。

 夢の中で、研究室のようなどこかで、拓海は気配を感じていた。

 視界に、うっすらと男の輪郭があった。

 でも以前のような「実体感」がなかった。

 光を当てると透けそうな、薄い存在だった。


「久しぶり」と拓海は声をかけた。

 返答が来た。

 でも声が遅かった。

「……久しぶり」という言葉が届いたのは、一秒後くらいだった。

「どうなってる」と拓海は聞いた。

「……薄れてる。分かるだろ」

 確かに分かった。

 輪郭がじわじわと薄くなっていた。

 部屋の壁が透けて見えていた。

「なぜ」

「……お前が、成功者の方に引っ張られてるから。俺みたいな『欲しいものを盗む』タイプは、もう必要ない。成功者が合法的に全部手に入れてる。だから——俺の存在意義が、薄くなる」


 量子力学の言葉で言えば、「干渉が消える」という現象に近い。

 二つの波が重なって干渉縞を作るとき、位相が揃っていないと打ち消し合う。

 拓海の内側に複数の自分がいたが、一方が強くなると、位相の合わない別の自分は——消えていく。


「荒れた自分は?」と拓海は聞いた。

「……もうほとんどいない。何も選ばなかった自分も——薄い。強い意志だけが残る方向に、収束してる。これが、この世界のルールだと思う」

 男の輪郭が、また少し薄れた。

「最後に何か——」と拓海は言いかけた。

 男は少し笑った。

 遅延した、静かな笑いだった。

「……盗まないでよかったよ、お前は。それだけだ」

 輪郭が消えた。


 数日後、荒れた自分の消滅を感じた。

 映像ではなく、気配の消滅として来た。

 以前はいつも「そこにいた」気配が、ある朝から感じられなくなった。

「やめろ。元に戻れ」という声——が来なくなった。

 拓海は最初、それを「良いこと」だと思った。

 あの声は不安を引き起こした。

 戻れ、と言われるたびに、今いる場所が間違っているような気がした。

 でも声が消えると、また別の感覚が来た。

 静かすぎる。


 荒れた自分は——「何も選ばなかったのに後悔している自分」だった。

 後悔は、かつて何かを大切にしていた証拠だ。

 その声が消えることは——後悔そのものが消えることだ。

 後悔を持てないということは、失うものが「もう何もない」ということに近い。


 干渉が起きるためには、二つの波が「関係」していなければならない。

 関係がなければ、干渉は起きない。

 荒れた自分の声が消えたということは——あの自分との「干渉」が消えたということだ。

 強め合いも打ち消し合いもしない。

 ただ、関係が切れた。

 それは怖かった。


 翌日、実験室に入った。

 ヘッドセットを装着して、脳波測定を始めた。

 今日はデータではなく、感覚として何かを確かめたかった。

 三十分経った。

 今日は声ではなく、「映像」が来た。


 部屋。

 見知らぬ部屋。

 天井が低くて、窓が一つ。

 夜だった。

 その部屋の床に——誰かが座っていた。

 男、だと分かった。

 でも今まで見てきた四人の誰でもなかった。

 輪郭が一番薄かった。

 顔は——拓海に似ているが、どこか違った。

 痩せていた。

 肌の色が薄かった。

 目の焦点が合っていなかった。

「……お前か」と声がした。

 ひどく遅延していた。

 水の底から聞こえるような。

「誰だ」と拓海は聞いた。

「……死んだ俺だ」

「死んだ」

「……別の世界で、死んだ。選ばなかったわけじゃない。選んだ。でも選んだものが——最悪だった。全部うまくいかなかった。美羽も離れた。研究も消えた。残ったものが何もなかった。その先に、俺がいる」

 拓海は言葉が出なかった。

「……驚くな。こういう俺もいる。お前の選択の海の向こうに、こういう俺もいるんだ」


「ゼロポイントフィールドって、知ってるか」

 死んだ自分が続けた。

 声は遅延したまま、でも言葉は止まらなかった。

「知ってる」と拓海は言った。

「真空に残るエネルギーだ」

「……俺たちが消えても、記憶は消えない。宇宙の床に、静かに沈んでいくだけだ。量子論が言ってる——完全なゼロは、許されない。最低限が、必ず残る。ならば俺たちが消えても——この記憶は消えない。どこかに、ある」

「どこに」

「……ゼロポイントフィールドの中に。宇宙の基底状態に。観測されなかった可能性として、エネルギーのかたちで残ってる。俺たちは——消えるんじゃない。ただ、沈む」

 拓海はその言葉をしばらく持った。


 ゼロポイントフィールドに沈む、という表現を、拓海は自分でノートに書いたことがあった。

 意識情報が宇宙の基底状態に残存する——という研究の核心的な問いだ。

 でも今、死んだ自分の口からそれが出てくることは、異なる重さを持っていた。

「俺たちは観測されなかっただけだ。存在してた。ただ——誰も見ていなかった」

 死んだ自分の声が続いた。

「観測されなかった量子状態は、どこに行くのか——お前が研究してる問いだろう。その答えは、俺たちのことを考えれば分かるかもしれない。俺たちは存在した。ただ、現実の一つに確定されなかった。それだけだ。消えてない」

「……お前は苦しんでいるか」と拓海は聞いた。

 長い沈黙があった。

「……苦しむ、という感情が、もうない。ただ——ある。それだけだ。でもあることは——消えてない、ということだ」


 ヘッドセットを外して、研究室の椅子に座ったまま、拓海はしばらく動けなかった。

「死んだ俺」が言ったことを、整理した。

 消えるのではなく、沈む。

 観測されなかっただけで、存在はした。

 ゼロポイントフィールドに——宇宙の最低限のエネルギーが充満した場に——記憶として残る。


 その解釈が正しければ——四人の自分が「薄れていく」のは、消えることではない。

 現実の確定した層から、基底状態の層に沈んでいくことだ。

 それは喪失ではなく、移行だ。

 でも沈んだものは、もう選べない。

 選べるのは——今、まだ確定していないものだけだ。


 夢の中で、死んだ自分が最後に言った言葉が戻ってきた。

 夢の中ではなく、今、研究室で、頭の中に響いた。

 声ではなかった。

 記憶の反響だった。

「お前だけが選べる。なぜなら——お前だけが、まだ確定していないから」

 拓海は窓の外を見た。

 八月の空が白く光っていた。


 まだ確定していない、ということは——まだ観測が行われていない、ということだ。

 量子の世界では、観測が行われる前が唯一「複数の可能性」が同時にある瞬間だ。

 観測が行われた後では、もう一つに決まっている。

 つまり——俺はまだ、確定の前にいる。

 時間がある。

 でも時間がある、ということは——誰かが先に観測するかもしれない、ということでもある。

「お前だけが選べる」という言葉の裏には、「選ばなければ、誰かに選ばれる」という意味があった。

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