95「闇より来る」
体の支配権がロータロー自身の元へと戻った時、剣は振り抜かれていた。
「はぁッ……はっ、はっ……」
乱れた息を吐き、その場で膝を着く。顔中に汗がびっしりと貼り付き、心臓がドラムになったんじゃないかと思うほどに鼓動が煩かった。そのまま俯せに倒れる。絶え間なく降り注ぐ雨が、熱くなった体を冷やした。
もう一歩も動けない。元から多くの傷を負っていた体を無理に動かしたのだから当然だ。
飢えた小動物に襲われても抵抗できないまま死んでしまいそうなほどに無防備極まる状態だが、事が済んだ今となっては、そんなことを心配する必要はあるまい。
とはいえこのまま雨空の下で野晒しというわけにもいかないので、誰かが拾ってくれないものか。ああ、そういえばチェーンに吹き飛ばされたリルはあれからどうなっているのだろう。大事になっていなければいいのだが……これまで自分のことで精いっぱいだったロータローの思考が、ようやく他人の心配にまで及んだ。その時である。
ざっ、と。
足音が響いた。
もう誰かが来たのか。まあ、アレだけ騒いでいたら、人のひとりやふたりは駆け付けてもおかしくないだろう。
俯せの状態から動けないため、そこに居るのが誰かは分からないが、足音は段々と近づいてくる。
一体誰だろう、と思いながら耳を澄まし、ロータローはふと気が付いた。
徐々に大きくなるその足音は、つい先ほどまで、一緒に路地を歩いていた女の足音だった。
つまり──いや、まさか。
まさか。
そんなわけがない。
存在しないはずの記憶により剣は振るわれた。
十全な斬撃は確かにチェーン目掛けて放たれたはずなのだ。
だから、こんなすぐに立ち上がってくるはずが──必死に否定材料を探していると、視界の外から笑い声がした。
「にへへ」
ロータローの顔色は青ざめた。
「え、ど、どうして……」
「『どうして』って何のこと? ……ああ、君の剣を紙一重で避けたこと? それってそんなに不思議なことかなあ」
鼓膜を叩くチェーンの声は、ロータローとは対照的に快活だった。『強権命令』を破られた際に見せた狼狽は、もはやひとかけらもない。
「だって私は、あの日君が私を救ってくれた時に見せた剣捌きを、これまで何回も思い返していたんだから。二十年もそんなことを繰り返していたら、君がどんな風に剣を振るかなんて、目を瞑っていても分かるよ。まあ、『命令』が聞かなかったことにはかなりびっくりさせられたけどね」
まるで、愛する人のことは何でも分かっているかのように語るチェーン。
つまり、ロータローは『存在しないはずの記憶』があるからこそ『強権命令』を突破出来たが、逆に『存在しないはずの記憶』を使ったことで、容易い対処を許してしまったのだ。そんなのってアリか。命令を無効化しようがしまいが、どっちにしろ詰んでいたってことじゃないか。
チェーンは得意げな様子でロータローの周囲を回り、正面に立つ。
見下ろす顔には、剣を向けられたことに対する怒りもなければ、満身創痍の弱者を前にした嗜虐心もない。多くの苦難を乗り越えて、宝物を手に入れた冒険家のような、悦びに満ちた表情が浮かんでいた。
もはやロータローに打つ手はない。元から『射し照らすフォトンブック』によって負傷していただけでも戦闘不能の理由になるのに、駆け付けた仲間が軒並み一蹴され、窮地に見出した奥の手である『存在しないはずの記憶』もあっさりと対処されたのだ。これ以上切れるカードは無い。
「『シットローズ号』が気がかりだろうけど、安心して良いよ。光天使の寵愛を手に入れた時に、力試しついでに沈めたから」
どこに安心できる要素があるんだよ。
と突っ込む気力すら、もうどこにもない。
ただ心の中で、考えるだけだった。
サスライたちのことだから、まさか本当に海の藻屑になっているとは思えないが、それでも大丈夫かどうか気になる。船が破壊されて、機関長は激怒しているだろう。ツーテルクトップの本棚も今頃はぐちゃぐちゃに……いや、それ以前に海に流れてしまってるのかも。デュラハンであるマリィは、海の流水に飲み込まれていないだろうか。流水と言えば、キロリッターも心配である。普段は小さな部屋に籠りっぱなしの吸血鬼が海に落ちれば、あっという間に溺れ死ぬだろう。そもそも、今の時刻は昼なのだから、船が破壊されて外に放り出されれば、海に落ちるよりも前に、日光を浴びた体が──
「あ、それは無いか」
「どうしたの?」
「いや、どうでもいい話なんだけどよ……」
現在もジキルはチェーンから与えられた命令に忠実に従っており、嵐天使の『暴嵐育成』を限界を超えた状態で発動していた。
雨が滝の如く降り注ぎ、世界中から寄せ集めたかのような風がものすごい勢いで吹いている。時折鳴り響く雷鳴は、なにか恐ろしいバケモノが咆哮しているみたいだった。
そんな天候下にあるチェレン王国の上空には雲が浮かんでいる。『暴嵐育成』で過剰に育てられたそれは、まず自然界では見られないほどに分厚かった。
普段のこの時間帯なら顔を上げると目に映っていたはずの青空も、太陽も、今となっては灰色の雲に塗り潰されているだけである。
つまり。
「今のチェレン王国には、日光が殆ど射していないなーって」
「? そうだけど、それが何?」
ロータローの発言の意味を理解しようと、チェーンは頭を悩ませる。しかし、その答えを得るよりも前に、彼女は路地の向こうからこちらに近づいてくる気配に気が付いた。
先ほど吹き飛ばした獣人が復帰したのか? と思ったが、それは違った。
闇の中にある気配は人影となり、やがて姿を現す。まるで不定形の闇が徐々に人の形を作っているかのような感覚を、チェーンは味わった。
出てきたのは、闇とは程遠い金色の髪をしている少女だった。
その体は美しく、およそ欠点と言えるものはひとつたりとも存在していなかった。
怪我をしていなければ、病気に罹っているようにも見えず──発火も していない。
「プッ」
金髪の少女、キロリッター・トングラム・センチメンタルは、倒れ伏しているロータローを一瞥すると吹き出した。
「あはははっ、前衛的なデザインのカーペットかと思ったらロータローじゃない。至高の吸血鬼である私の餌兼眷属とは思えない情けなさね。超笑えるんだけど」
開口一番が嘲笑とマウントな辺り、キロリッターは元気いっぱいらしい。少しでも心配した自分がアホらしくなるロータローだった。
チェーンはキロリッターの発言に眉を動かした。
「餌? 眷属?」
「不愉快そうな顔をしてるけど、そんなに引っかかる言葉だったかしら? 私はこいつの所有者で、こいつは私に血を提供する餌であり、私の配下の半吸血鬼なんだから、かなり事実に即している呼び方だと思うけど」
人権をかなぐり捨てた言葉を平然と放つ。
チェーンは不愉快な感情が増加したが、だからと言ってキロリッターの発言を理解しなかったわけではないらしく、
「ということは貴方も『シットローズ号』のメンバーなんだ。……じゃあ、アレかな? 所有者として彼を取り戻しに来たの?」
「それもあるけど、一番の目的ではないわね」
「……私と戦って返り討ちにあった獣人や幽霊の仇を討つため?」
「全然違う」
「じゃあ、何の目的で──」
「目的? 決まってるでしょ」
瞬間、チェーンは殺意を感じた。周囲に存在する全ての闇から発せられたのではないかと思わされたそれは、目の前に立つキロリッターひとりから溢れ出ているものだった。
「私の部屋に光線を撃ち込んできた命知らずの大馬鹿をギタギタのメタメタにしてやるためよ」
鋭い牙が覗く口から告げられた台詞は、死刑宣告のようだった。




