94「操り人形」
チェーンから抱き締められて、体が熱くなった。
これは別に、照れや恥じらいの小説的表現ではない。光天使の契約者に直接触れられている半吸血鬼の肉体は、文字通り熱くなっていた。
細胞が焼け、肉が燃え上がり、肌が爛れる。それに伴い、筆舌に尽くし難い激痛が発生した。ロータローはかつて、触れた相手に確実な死を齎す『肉体破壊』の異能を食らったことがあるが、あちらの方が一瞬で事が済む分、遥かにマシと思えるほどの苦しみだ。
高熱は頭まで及び、内部にある脳を侵食する。何かがぶちぶちと焼き切れる音を聞きながら、ロータローは絶叫した。
感覚はだんだんと鈍り、視界が霞んでいく。このまま意識が遠のいて気絶するのかと思ったが、違った。
視界は霞んだのではなく、塗り潰されていたのだ──見覚えの無い景色によって。
それはロータローが知らない遠い記憶。
閑散とした森の中で、少女が黒い髪を揺らしながら走っている。彼女の背後を数体の怪物が追いかけていた。蝙蝠のような羽をしており、両足の爪は鋭い。口から覗く牙は、それらが生命を食い散らかす捕食者であることを意味していた。
小竜──実際に目にしたことは一度たりともない生物の名が、頭に浮かぶ。
このままでは少女は次の瞬間にでも彼らに捕まり、物言わぬ血肉と化すだろう。そう思った瞬間、視界が少女の元まで一瞬で接近する。それと同時に視界の中で剣閃が走り、少女に迫っていた小竜の群れは布を裂くような悲鳴を上げて血飛沫を散らせた。
『怪我は無いかい?』─ロータローの意識を無視して、喉の奥から声が流れ出る。
視界が下がると、まるでチェーンから年月の化粧を剥がしたかのような顔が目に映る。
それは唯一、存在するはずのない記憶において、見覚えのあるものだった。
「……はッ⁉」
沈みかけていた意識が浮上し、現実に戻る。鈍っていた感覚も正常化し、神経を炙るような激痛が再来した。
「アアアアアアチチアアアアアッツアアアアアアアアア!」
絡み付くチェーンの腕を引き剥がし、乱暴に押し飛ばした。
「きゃっ」
「っぶねえ~……あのまま意識がどっか行ったままだったら灰になって死んでたぜ……」
体から立ち上る白い煙が、雨にかき消される。ロータローは荒い息を吐いた。
「触れるだけで燃えるとか、不意打ち以前の問題だろ! 無理無理! 他のプランにすっぞ!」
何もない虚空から剣を創造し、引き抜いた。記憶の中で振られていた剣と比べれば棒切れに見えてしまうほどに粗末な剣だ。しかし、現状ロータローが使える武器と言えばこれしかなかった。
チェーンはロータローの手に握られる剣を目にし、怪訝な顔をする。
「どういうつもり? それに不意打ちって……君、まさかとは思うけど」
「そのまさかだよ。さっきも言ったように、お前についていくわけにはいかねえ。だけど納得してくれそうにないからよ~。無理矢理逃げさせてもらうぜ!」
ロータローから本音を告げられると、チェーンは目を見開いて愕然とした。想い人がようやく自分を受け入れてくれたと思っていたら、それが嘘だったのだ。そんな顔をするのも仕方ない。
チェーンが邪な思いを持たず、純粋な行為だけで動いているのはよく分かった。そんな彼女の気持ちを拒絶したことに罪悪感が無いわけではない。だが、暴走している彼女の思いについていけるほど、ロータローは出来た人間ではなかった。半吸血鬼になろうが、謎の記憶を抱えようが、自分を助けてくれたヒーローの真似をしようが、その精神性はあくまで普通の少年の域を出ないのだ。
チェーンは口を結び、眉を下げた。今にも涙が出てきそうなほどに悲しい表情だった。
「そっかあ……とても残念だけど、そこまで言うなら『お願い』を聞いてくれそうにないね」
「ああ。どうしても俺に言うことを聞かせたいなら、『命令』を使うしかねえぜ」
言って、ロータローは剣を握る。酷く不格好ではあるものの、目の前の困難に立ち向かう意思が感じられる構えだった。
地を蹴り、前進する。突き飛ばした際に開いたとはいえ、両者の距離はかなり近い。度重なる負傷でボロボロの体でも、十分に接近可能だった。
対するチェーンは構えを取るどころか、武器さえ持たない。指を立ててそこから光線を発射する素振りも見せていない。動くのは口元だけ。そこから紡がれる言葉は、恋人に送る求愛に非ず。
支配者が告げる命令であり、それには絶対的な力が込められていた。
「【動くな】」
たった一言。一瞬にも満たない時間の間に発せられた言葉ひとつだけで、ロータローは前進を止め、その場に留まることになる。まるで地面から伸びた鎖で全身を固定されているかのようだった。
「……にへへっ」
チェーンは笑みを溢す。権天使の力はロータローに利いた。これでもう、彼女の想いを邪魔する者はいない。
完全無欠のハッピーエンドを確信したチェーンは、そのまま彫刻みたいになっているロータローへと近づいた。
耳元に口を寄せ、囁くような声で、
「【私のものになりなさい】【ずっと私の傍に居なさい】【ずっと私を】──」
最後の命令が完全に告げられる直前、視界の隅で何かが閃いた。
「ッ⁉」
危険を感じ、咄嗟に飛び退く。何かが眼前を通り過ぎて行った──オンボロの剣だった。
『強権命令』で一切の動きを禁じられていたはずのロータローが、剣を振っていたのである。
権天使の力は絶対だ。一度効果を発揮した後で、自力でそれを解除するなんてことは出来るはずがない。しかし現に、ロータローは一切の拘束を感じさせぬ足取りで迫って来ている。
チェーンは周囲に数十個の光弾を展開し、発射した。ロータローは滑らかな動きで剣を走らせ、全ての光弾を切り刻む。手足と言った致死性の低い部位を狙っていたとはいえ、それら全てを剣ひとつで防御するなど、信じがたい絶技だ。
「どうして……どうして⁉ あり得ない!」
今のロータローの体を動かしているのは、彼自身の意志ではない。
チェーンから抱き着かれた際、ロータローは激痛でごちゃごちゃになりかけた頭で思い返し、気が付いた。自分の意志とは違う行動を取らされるというのは、何も権天使の『強権命令』の専売特許ではないことを。
存在しないはずの記憶──まるで自分が他者に操られる人形になったような感覚を、彼はチェーンと出会う前からとっくに経験していた。
ならば。
『『強権命令』によって体の支配権を奪われた後で、存在しないはずの記憶に奪い返してもらう』という作戦は、かなり実現の可能性が高いと言えるだろう。
「う、【動くな】!」
止まらない。
「【動くな】!」
進み続ける。
「【動くなァァァァアアアアア】ッ!」
剣を振った。
チェーンの声は、ロータローの中にいる何かにまでは届かなかった。




