93「うれしいっ」
「権天使の寵愛が『なんでも言う通りにできる能力』──『なんでも言う通りにしかできない能力』で助かったっすね。もっとも、そこを突いた逃走をした今となっては、次こそ命令なんてせずに殺しにかかってきそうっすけど」
リルは残していったヨルたちのことを不安に思いながら、濡れた路面を駆けていた。
「ロータローくん、傷はどんな具合っすか?」
「さっきよりはマシになってきたけど……ぐええ、まだ痛え……」
獣人の背中で泣き言を漏らすロータロー。全身に刻まれた刀傷のひとつひとつに吸血鬼の弱点である陽光の力が込められていると考えると、そんな弱気な態度になるのは仕方のないことだった。ついでに言うと、ただでさえ出来の悪い『物質創造』を短時間で二度も使ったことで吸血鬼の力を消費していたことも、再生の遅さに影響していた。
「今更だけど、念の為に聞いておくっすよ。チェーンの狙いはロータローくんと一緒に暮らすことなんすよね。その望みを叶えてあげるつもりはないんすか? そしたら、この状況は丸く収まると思うんすけど」
たしかに、今のチェレン王国を襲っている災厄は、ロータローひとりがチェーンの提案に「うん」と頷けばそれで終わる話なのだ。
何も知らなかった一回目に誘われ続けていたら、その内折れていたかもしれない。しかし、今となってはチェーンのそばで暮らすなんて絶対に嫌である。
別に、チェーンが振るう権天使と光天使の力が恐ろしいからではない。むしろロータローがその力の害を被る可能性は、著しく低いと言えるだろう(現に、チェーンはロータローに対して権天使の力を「あまり使いたくない」と言っていた)。
しかし、それはあくまでチェーンがロータローのことを愛しの勇者だと思っているからである。
たしかにロータローは自分の中にある存在しない記憶が伝説の勇者エデンと関りがあるのではないかと思ったことがあるし、サスライから否定された後もその説を完全に捨ててはいない。しかし、だからといって他の可能性を全く考えていないのかというと、そうでもないのだ。そんなあやふやな状態で、自分のことをエデンだと信じ込んでいるチェーンについていくというのは、実に危うい選択である。いつ炸裂するか分からない爆弾の傍で暮らすようなものだ。もしも何らかのきっかけでその前提が崩壊したら、ただでは済まないだろう。考えるだけで背筋が凍る。
以上の考えをロータローが述べると、リルは頷く。
「そうっすか。じゃあこのプランはナシっすね」
いつ稲光や光線が飛んでくるかも分からない状況なら、もっと粘り強く説得するのではないかと思われたが、あっさりとそう言っ──空の一部が光った。そう視認した時には、権力と光の女王が目の前に来ていた。
「【背負っているものを下ろせ】」
今度は、雑談じみた会話がなければ交渉もなく、『強権命令』が即座に発動された。リルの神経と筋肉は、その命令を達成するためだけの存在となり、すぐさまロータローを地に下ろす。一連の行動を終えた後、ようやく命令から解放されたリルはすぐさま戦闘態勢に入ろうとした。その動きは、熟練の戦士だからこそ為せる卓越した動きだったが、光の速度で動くチェーンの前では何もかもが遅かった。
ロータローが離れた瞬間、掌打が放たれる。光速で打ち込まれたそれはリルに突き刺さり、路地の彼方まで吹き飛ばした。いかに頑丈な体をしている屍人と雖も、これほどまでの攻撃を受ければ、戦闘不能に陥るだろう。
「にへへ、あのままくっついていたら、君まで巻き込んでしまうからね。離れてもらったの」
「…………」
まるで自分が褒められるべき気遣いをしたかのように言いながら笑うチェーンを見て、ロータローは絶句した。
この世の何よりも輝いていながら、この世の何よりも深い闇を感じさせる女を前に、膝が震える。今にも悲鳴を上げそうになるが、どれだけ叫んだところでロータローを守る存在は誰もいない。この窮地を脱するプランはもう……、
(……いや、待てよ)
直前までリルと交わした会話を思い出す。彼は最後に言っていた。「じゃあこのプランはナシっすね」と──『このプラン』。
では、他にどんな計画があるのだろうか?
仮にあったとして、それはロータローひとりで実行可能なものなのか?
「……あ」
光天使の力にも劣らぬ閃きが、ロータローの脳内に走った。
権天使の力で海上憲兵たちを跪かせた後に、チェーンは「君にはあまりこの力を使いたくない」と言っていた。
そして今も、リルを光天使の力で吹き飛ばす前に、わざわざロータローを巻き込まないために下ろさせていた。
彼女がロータローのことをエデンだと思い込んでいるのなら当然の行動である。いったいこの世の何処に、敬愛と恋慕の情を向けている相手を好き好んで傷つける者がいるだろうか。
それでも、ロータローが抵抗を続ければ、チェーンは仕方なく寵愛を使用するだろう。だがそれは逆に言うと、抵抗しなければなにもしないのである。
ならば、「大人しく言うことをきく」とでも言って近づき、隙を狙って不意打ちをするというのは可能性のあるプランではないのだろうか?
…………。
それは難しい作戦だ。
今のロータローの体調は最悪という表現でも生ぬるいくらい最悪だし、言うことさえ聞いていればチェーンが絶対に寵愛を使わないというのも絶対的な確信があるわけではない。
「わ、分かったよ……もう逃げない。お前と一緒に暮らすことにするよ」
しかし現状取れる選択と言えば、これくらいしかなかった。
決心したロータローはチェーンと顔を合わせる。
「ほんと⁉」
快い返事を聞いたチェーンは、元々にこやかだった表情を更に明るくした。腹に一物あるロータローに対し、何の邪気も感じられない雰囲気だった。これでおっかない思い込みで暴走していなければ普通に素敵なはずなのに、と思った。
近づいてくる彼女の一挙一動に注目し、不意を討つ機会を探す。一般人であるロータローにそんな暗殺者みたいな観察力は皆無だが、だからといって投げ出しては全てが終わりだ。
一歩、二歩……元からそこまでの距離が無かった両者の距離は狭くなっていく。
三歩、四歩……いや、流石に近すぎないか? 違和感を覚えた瞬間、チェーンは両腕を開き、
「うれしいっ!」
思いっきりハグをした。
チェーンが隙を晒すか、もしくは寵愛を使ってこないかということばかりに意識を向けていたロータローにとって、これは予想外の行動だった。
「やっと! やっと分かってくれたんだね! にへへっ! 嬉しすぎて涙が出ちゃいそう!」
何を不思議なことがあろうか。長年探し続けてきた思い人がようやく自分の物になると知って、抱擁を我慢できる方がおかしいのである。
結局のところ、ロータローは何度も確認していたはずであるチェーンの思いを、未だに軽く見てしまっていたのだ。その結果がこれだった。
そして、予想外の事態は更にもうひとつあり──
「あっ⁉ はあ? え、あああああああああああアツツツああああああああああああああ⁉」
想像を絶する痛みがロータローを襲った。チェーンと触れている箇所から走っていた。
現在の彼女は、光天使との契約により、光の性質が非常に強くなっており、存在そのものが吸血鬼に対する特攻性能を獲得していた。
そんな相手に抱き着かれれば、光の聖剣『射し照らすフォトンブック』に刺された時と同じような激痛を感じるのは必至であり、予期せぬ激痛に体を包まれたロータローは悲鳴を上げていた。
「ぐ、ぎいい、あああああああああああああ‼」
「ずっと君を探していたんだよ。何度か挫けそうになったこともあったけど……諦めなくて良かった! もう離さない!」
陶酔しているチェーンは、光天使の体質でロータローが傷ついていることに気付いておらず、完全に自分の世界に没入している。ロータローを抱擁する力を少しも緩めていない。まるで鎖のように、がっちりと絡みついている。
これでは隙の発見なんて出来るわけがなく、むしろ痛みに狂い悶えるロータローの方が隙だらけだった。




