90「希望の光」
チェーンは権天使の『強権命令』により一切の犠牲を払わずに『射し照らすフォトンブック』を強奪してみせた。
握る者に英雄の如き力を授けるアヴァロンの剣の内の一振りであるそれは、並外れた戦力だと言えるだろう。
しかしチェーンは不満そうに、
「いいや、これじゃ全然足りない。力不足だ。これくらいならまだ、手元に無い方がマシだよ」
と、国宝に下すとは思えない評価を口にした。
「この薄汚い女がァ……! それ以上……聖剣を侮辱するな……!」
「ええー、事実を言ってるだけだよ? たかが英雄になれる程度の剣で、英雄を越える勇者を捕まえられるわけがないでしょ?」
噛み付きそうなくらいの勢いで憤るオーロラに対し、チェーンは滔滔と語る。
彼女は『フォトンブック』を両手で包み込むように持ち、掲げた。その姿はまるで、天に供物を捧げるかのようだった。
「省略」
豪雨が地面を叩く音と暴風が空間を突き抜ける音が響く路地裏に、鈴のような声が響いた。
すると、それまでチェーンが持っていた『フォトンブック』が細かな光の粒子と化し、空気中に溶けて行った。
「なッ⁉」
父の遺産である聖剣が一瞬で消えたのを目撃したオーロラは、普段は変化に乏しい表情に初めて驚愕の感情を表出させた。他の海上憲兵たちも、同様の反応を見せている。
「な、なにをしたというの……?」
「寵愛を授かる儀式のために、天使へ捧げただけだよ」
「嘘を吐くな! この売女が!」
オーロラが罵声と共に否定したのは、何も『フォトンブック』が天使に捧げる供物として失われたことを認めたくない心情のみが原因ではない。
たしかに、国宝級の剣であれば、天使に捧げる供物としては十分だろう。そこら辺の人間を何人も捧げるよりも、より上質な寵愛を貰えるに違いない。
だが、そもそも天使との契約と言うのは、捧げる物を用意すれば即契約可能になるものではないのだ。天使側から契約を持ち掛けてくる場合のような例外を除けば、その天使に相応しい場所や時間といった環境を整えてようやく可能となるものなのである。それなりの手順が要されるというわけだ。かつてスピア国にて、強力な守護騎士であるマリィを供物にして新たな力を手に入れようと目論んでいたヒヒオゥが、即座に儀式を開始出来ていなかったのも、これが大きな原因である。
だから、チェーンが今しがた口にしたように、ついさっき手に入れたばかりの『フォトンブック』を捧げて寵愛を得るなんてことはあり得ないはずなのだが──その時、ようやくオーロラはひとつの可能性に辿り着く。天使との契約を経験しているジキルが正気を保ったままだったら、もっと早く気が付いていたかもしれない。
『フォトンブック』は寵愛の対価として天に捧げられたわけではなく『省略』──天使との契約の儀式に至るまでにある様々な条件や過程を省略する対価として、捧げられたのだ。
理論上は可能かもしれないが、正気の沙汰ではない。先ほども述べたように、『フォトンブック』はそれだけでも国家防衛に用いられるほどの兵器であり、仮に寵愛の供物として使えば強力な力を得られる対価として機能するだろう。それをまさか、本来ならば正統な手順を踏むべきところを丸々飛ばしてしまった無礼を許してもらうためだけに使うとは。
その事実を知ったオーロラは、発狂したかのように叫ぶ。ありったけの罵倒と殺意が込められた声だった。
しかし、どれだけ声を張り上げようとも、『強権命令』が作用している状態では、身動きひとつ取ることが出来ない。
それに天に捧げられた今となっては、どんな手段を用いても『フォトンブック』を取り戻すことはできない。
彼女はオーロラの叫びを無視し、天を見上げて口を開くと、
「私の権力下にあるチェレンの国土の十分の一と三十五歳以上の国民を捧げます。その代わりに、私に彼を捕まえる力をください」
続けてふたつのものを差し出した。
それと同時にチェレン王国の北端にある海辺の土地が光の粒となって消えた。足場を失った人々は重力に引かれて落ちて行くが、その途中で一定の年齢以上の大人のみが体から光を放ち、次の瞬間には天へと飲み込まれていった。
王宮の床を掃除していた召使が、大通りにある酒場の主人が、窓から外を眺めていた住民が、嵐に怯えている子供をあやしていた親が、その他多くのチェレン王国民が──まったく同じタイミングで、悲鳴も残さず消えた。酷く静かな消失だった。
女王の身でありながら国土と国民を犠牲にしたが、チェーンの心はちっとも痛まなかった。彼女にとって、エデンはこの世の何よりも大切な物なのだから。それに比べれば、国宝や人命なんて、道端に転がっている石も同然である。
こうして対価を渡した以上、それに見合う報酬が与えられる。その証として、チェーンの頭上には、冠型の輪に重なるようにして、もうひとつ新たな輪が浮かんでいた。一見、地球におけるオーソドックスな天使の輪みたいだが、よく見ると大気光学現象における光冠のように眩しい輪だった。
「なるほど、これが光天使の力か」
権天使の力を振るっていた先ほどよりも更に人から外れた存在と化したチェーンは満足そうに呟いた。光の性質が強い聖剣である『射し照らすフォトンブック』を省略の代償として使ったことにより、光を司る天使と繋がったのだ。
先ほどまで罵声を発していたオーロラは、目の前に現れた天使の力を目にし、息を呑んだ。
「そ、それだけ多くの物を犠牲にするなんて……狂ってる……正気じゃないわ……」
「にへへ、二十年前に国を捨てて逃げたあなたには言われたくないなあ。それに、別にこれが初めてってわけじゃないからね」
言って、チェーンは権天使の輪を指差した。たった一言で万人を従えられる権力の寵愛。それを手に入れた時には、果たして何を捧げたのだろうか。想像するだけで悍ましい。
その後、チェーンは『とん』と地面を蹴り、真上に飛んだ。光の速度で上空百五十メートルに到達し、その場でバレリーナのようにくるりと回る。視界の中に港を捉えると、回転を止めた。そこには漁船や旅の行商船などの船がいくつか並んでいる。
「あの中のどれかが『シットローズ号』なんだよね。この嵐じゃ逃げられないだろうけど、光天使の力試しついでに念のため破壊しておこっと」
両の掌を合わせ、花のように開かせると、港に向ける。指先のそれぞれから目を焼かんばかりに眩しい光線が発射された。光線が直撃した船は船体に大きな穴を開け、炎上していく。しかし一隻だけ、光線を防いだ船があった。その船首には、首の無い剣士が立っていた。まさか、光速で迫る攻撃をその手に握る剣で弾いてみせたのか?
「…………」
チェーンは不快そうに眉を歪めると、続けて五発の光線を発射した。守護者が船首に立っているのなら、そこ以外を狙えばいい。何発かはデュラハンに向かわせ、残りは船の後部へと走らせた。見事命中し、船尾に大きな穴が開く。その内沈没するだろう。
チェーンは興味を失ったように港から視線を外し、己の真下に在る市街地に目を向けた。ロータローを抱えて逃げている獣人を探す為に。




