89「権天使・プリンセル」
「な……ああ……?」
自分の体が地面に頭を擦りつけるほどに低く跪くという、己の意志と反する行動を取ったことに、オーロラは酷く困惑した。
なぜ自分は、チェーンの命令に従って跪いているのか? そうすべきなのは、目の前の彼女の方だったはずでは? ──立ち上がろうと、足腰に力を込める。しかし、頭は少しも上がらず、低く屈んだ体勢を維持するのみだった。
「ぐっ、『射し照ら』──」
「【動くな】」
たった一言で、オーロラは全身の筋肉が一瞬で石になったかのように固まった。こうなっては、いかに操作性に優れている『フォトンブック』であっても、一ミリたりとも振ることができない。
「あ、違うか。念のために──【その剣を私に渡せ】」
『フォトンブック』を握っていた方の腕だけの硬直が緩み、チェーンに向かって軽く放り投げる。父から譲り受けた国宝を命よりも大事に思っているオーロラが取る行動としてはあり得ないものだった。チェーンは投げ渡された『フォトンブック』をキャッチすると、背後で倒れるロータローの方へと振り返った。
「にへへ」
ロータローは片方だけの視界で、笑い声のする方を見上げる。
聖剣の使い手と海上憲兵をたった一言で戦闘不能にしたばかりであるチェーンの顔には、先ほどと変わらず、にこやかな笑顔が浮かんでいた。まるで、穢れを知らぬ幼女がそのまま月日の化粧を施されたみたいだ。
チェーンはロータローの傍でしゃがむと、彼の頬を両手で挟んだ。
「酷い傷……でも、少しずつ回復しているね。今は君にあまり動いてほしくないし、このまま放っておいた方がいいかな」
「ど、どういうことだ……? その力は……?」
「ああ、これ?」
どこかに雷が落ち、路地裏に強烈な光が差し込む。それに照らされたチェーンの頭上には、冠が浮かんでいた。──違う。冠型の輪が浮かんでいた。余計な装飾は一切ないが、放射状の形から放つ金色の輝きは、それだけで見た者に貴き印象を与えている。
「権天使だよ」
この世界を構成する天使たちの一柱、権力を司る天使の名を、チェーンは明かした。
与えられた寵愛の名は『強権命令』。発動者であるチェーンと他者の力関係に関わらず、彼女が口にした命令は、相手にとって絶対遵守のものと化す。彼女が『跪け』と言えば跪くし、『動くな』と言えば一切の行動が不能になるのだ。極端な話、『死ね』と言えば自死するのである。
声を掛けるという単純な行為だけで、一国の運営さえ可能となる異能だ。
「最初はね、曖昧だったんだ」
頬を撫でながら、チェーンは続ける。
「ふと、懐かしい気配を感じたの。ずっとずっと探していた、忘れるはずもない気配……そしたら居ても経ってもいられなくなってね。にへへ、王宮の外に出てきちゃった」
まるで、悪戯がバレた子供のように笑う。事実、今のチェーンの心は子供と同じなのだろう。二十年前と同じ、勇者に想いを寄せる乙女のままだ。十は年下なロータローに対して、年上を見上げるような目を向けているのである。
「それでも感じた気配は曖昧だったから、探すのに難儀したんだけど、旧王家の追手のおかげで助かっちゃったな。ああやって私がピンチになったところに、君が駆けつけて来てくれたんだからね」
「じゃ……じゃあ、お前が言っていた『探しもの』って……」
「うん。君のことだよ」
目と目を合わせてはっきりと言う。
ロータローの瞳の奥に潜む何かと対話するかのように、真っすぐ、見つめる。
「昔は君に付いていく力もなければ、君をこの国に留まらせる力もなかったけど、権天使の寵愛を受けている今は、絶対に逃がさない……でも、出来ることなら、君にこの力を使いたくないな。だから、ねえ──」
お願い、と。
チェーンは命令ではなく、改めて願いを告げる。
「わたしと一緒にこの国に住も?」
ロータローがこの世界に来てから何度目かになる、あまり好ましくないシチュエーションでの告白っぽい台詞だった。
実際、ロータローにとってこの提案は悪くないものだ。チェーンから敵意らしきものは感じない。少なくとも、行き先も分からない幽霊船での吸血鬼の餌係としての生活よりかは遥かにマシな生活が望めるだろう。それに、ロータローが抱える謎に踏み込んだ発言をするチェーンと共にいれば、いつかはその謎が明らかになるかもしれない。
それでも一回目の提案を断った時と同じく、ロータローには『シットローズ号』がある。それに、今のチェーンは、なんというか、その……恐怖を感じる存在だった。
故に、ロータローが答えを返せずに黙っていると──チェーンは少しだけ悲しそうな顔をした後、諦めたように首を横に振り。
「仕方ないか……じゃあ──【私の】」
「タアアアァァァァンマ! ちょっと待つっす!」
路地裏の奥から声が響いた。
チェーンは咄嗟に振り向いたが、視界の先には服従のポーズを維持しているオーロラと海上憲兵たち以外には何もない。代わりに銀色の風がそばを横切って行った。先ほどまで地面に倒れていたはずのロータローが消えている。
振り向いていた首を元に戻すと、道の向こうへと駆けて行く影が見えた。銀色の髪色をしている獣人だった。
「え⁉」
「ひぃ~ッ、ヤババババ。ヤバイっす! 『嵐が来るのにロータローくんが中々戻ってこないなー』と思って探しに来てみたら、なんだかヤバそうな奴と一緒にいるじゃないっすか! 何すかアレ。頭の輪的に、寵愛持ちっすよね⁉」
『シットローズ号』の戦闘班の構成員であるリルは、血まみれのロータローを抱きかかえて走りながら叫んだ。
振り落ちる雨ではない液体を顔中に張り付かせ、狼の獣人だけに酷く狼狽しているにもかかわらず、彼の速度は音を置き去りにするほどに速く、瞬く間に路地の闇へと消えて行った。
「…………そっか、そう言えば君には、同じ船に乗る仲間が居たんだよね。……ええと、たしか『彷徨えるシットローズ号』だっけ」
ならば、ロータローが連れ去られる先は、その船に他ならないだろう。
そのように推測したチェーンは、リルが去って行った方向とは真逆──跪く襲撃者たちの方へと近づき、その内のひとりであるジキルの前に立った。
「【答えなさい】。この嵐を生み出したのはあなたでしょ?」
「はい」
ジキルは強制的に返答させられた。人間味の感じられない無機質な声だった。
「そう、それじゃあ……【この嵐をもっと強くしなさい】」
嵐の強化なんて簡単に言ったが、そう易々と行えるものではない。そもそも、先ほどまでの時点で、ジキルの『暴嵐育成』は最大限の効果を発揮していたのだ。故に──
「ああああああああああああああああああああ⁉ ひへへへへふふふはああああああああああはははああああああああああああああ⁉」
ジキルは悶絶の声を上げた。頭上には、台風の渦のような輪が形成されている。『暴嵐育成』の上限をチェーンの命令によって強制的に超えさせられたことにより、天使の力が通常以上に流れ込んでいる証である。オーバーヒートだ。
彼の正気を代償に発動された『暴嵐育成』の効果は凄まじかった。チェレン王国の上空で渦巻く気流は力を強め、雲は更に分厚くなった。振り落ちる雨の量は倍以上になっている。
これほどまでの悪天候では、出航なんて不可能だ。どれだけ強大な戦艦でも、海に出た途端にひっくり返って沈没するに違いない。
「ひとまずこれで、この国から逃げることは出来なくなったね」
手の中で『射し照らすフォトンブック』を回しながら、チェーンは呟いた。風の勢いは更に増していた。




