87「光射す」
「昔──私が王様になるどころか、『大いなる死』が起きるよりももっと前、他の地域と地続きになっていた頃のチェレンには、まだ『国宝』が存在していなくてね。王宮がある中央はともかく、郊外にはよく魔獣が出ていたんだ」
空の翳りが増えてきた。雨が降るまで、あと半刻もないかもしれない。
チェレン王国は『大いなる死』よりも前までは平和な国だったとアヴァロンから聞いていたが、その安泰は比較的最近手に入ったという国宝の凄まじい武力によるものである。ならば、更に前の時代があったはずだ。平和ではなかった時代が。それが、今チェーンが語る話の時系列だった。
「当時の私は王家の人間とは認められていなかったから、王宮から遠く離れたその地域に住んでいたんだけど、ある日、野草を摘んでいた時に魔獣に襲われてしまってね。えーと、あれはなんだったかな、小竜だったかな。確実に言えることは、当時はまだ十にもなっていなかった私にとってそれは、生命の危機を感じるのに十分なバケモノだったということだね」
小竜。
ロータローのファンタジー知識にある生物である。たしか、翼が生えていて二本足が生えているタイプのドラゴンだ。
人間の子どもがそんなものに襲われてはひとたまりもないと思われるが、当事者であるチェーンは今もこうして生きている。それが意味することは、つまり──
「助けてくれた人がいたんだよ。と言っても、村の大人でなければ、中央の騎士でもない。それまで見たことがない旅の剣士だった。何人か仲間を引きつれていてね、太陽の光のような金髪と、雨が降った後の空に掛かる虹のような瞳をしていたよ。……まるで、世界に祝福されながら生きているみたいな美しさだったな」
昔のことを思い出しながら語っている所為だろうか。チェーンの表情は、先ほどよりも幼く見えた。
いや、顔から伺える感情は懐古だけではない。記憶の中の剣士に対して憧憬と崇拝を抱いていることが一目でわかるほどに、彼女の表情はうっとりと緩んでいた。
「そんな風貌をしていながら、見ず知らずの女の子を魔獣から助ける心も持っているんだから凄いよね。完璧超人だ。そんな彼に、私はすっかりときめいちゃってさ。……にへへ。もしかしたらあの感情は恋だったのかもしれないね」
「…………」
ここが逃走中の路地裏じゃなくて、御洒落なカフェで開かれている女子会の席なんじゃないかと思うくらいの惚気ぶりである。元からあまり無かった緊張感が更に減った気がした。
「光り輝く彼に、私はすっかり魅了されてしまってね。「この人の輝きをもっと見ていたい」「これからも傍にいたい」って思ったんだ」
記憶の中の剣士を思い出すだけで胸が高鳴るのか、チェーンは胸に手を当てた。
「溢れる想いを抑えきれなかった私は、こう頼んだんだ。「私もどうか、貴方の旅の仲間として同行させてください」──もちろん、すぐに断られたけどね。今思えば、ただの我儘だったなあ。子供が付いて行ったところで、何の役にも立たないどころか、逆にお荷物になっちゃうだけだし。きっと、あの人を困らせちゃっただろうな」
「そんなことはねえよ。自分に憧れてくれるその気持ちを受けて、きっと嬉しく思ってくれたはずさ」
「……どうしてそう思うの?」
「え? えーと、その、なんとなく、そうだったらいいなって…………ごめん、適当なこと言っちまった」
「ううん、別にいいよ。ありがとう」
にへ。
また笑う。
「私を助けてから数日後、彼は中央に行った後に、この国を去った。その際に、彼の仲間の手によって国宝『射し照らすフォトンブック』が王家に与えられたらしい。こうして、チェレン王国は聖剣の力による平和を掴めたんだ。そして私は結局、彼の旅についていくことが出来なければ、彼をチェレンに引き留めることもできなかったわけなのです。残念。──だけどね」
びゅうびゅうと風が吹く中、チェーンの声は不思議とよく通った。
「私は確信していたよ。いつかまた彼がここを訪れてくれるって。だから王に任命された私には、この国を守り続ける理由があったんだ。いつか彼がまた、ここを通りすがってくれるように。その時には、ただの無力な子供ではなく、ひとりの大人として迎えられるように」
それは何の根拠もない予想であり、希望の域を超えていない。
しかしチェーンは絶対の運命であるかのようにそれを信じ、国家復興の動機としてこれまでの二十年を過ごしてきたのである。
ロータローはそれを、なんだか、とても凄いことだと思った。
遠くの空から獣の鼾のような低い音が鳴る。チェーンの手元にある果実は完食されていた。
そろそろ移動を開始しようと歩き出したロータローだったが、チェーンが袖を掴んだことで、その動きは止められた。
「……君は凄いよね」
「急にどうしたんだよ。さっき俺が褒めたのを受けてのお返しか?」
「ううん、本当に、心からそう思ったの。私を助けてくれた勇気や、異能じみた力──それと、あの剣技」
チェーンが挙げたのは、どれもロータローが他人から借りた物ばかりだ。それを称賛されたところで分不相応な名誉でしかない。気まずさに目を逸らす。
「それで……お願いなんだけど、もしよかったら、このままこの国で客人として暮らさない?」
「暮らす?」
「こんな世界で船旅をするよりも、王宮での生活の方が絶対安全だよ。今のチェレンは旧王家との問題があるから、長居するのに不安があるかもしれないけど、どうせすぐに解決する。絶対に解決させる。だから大丈夫だよ。どうかな?」
「…………」
それは魅力的な提案だった。
この世界に来て間もない頃のロータローだったら、二つ返事で受け入れていただろう。しかし、今の彼の答えは──
「……ごめん。無理」
だった。
「それって『シットローズ号』から降りるってことだろ? それはちょっとな……目的の無い幽霊船でも、俺を拾ってくれた恩がある。この前だって、マッドサイエンティストに攫われたところを助けて貰ったばかりなんだ」
ぽつぽつと、口から出てくる言葉と共に、空から雨が降り始めてきた。
「とても強くて立派なのに俺なんかを慕ってくれる剣士がいるし、普段はそっけないけど話せば楽しいところがある堕天使だっている。性格が最悪な吸血鬼もいるけど、一応は恩人だし、一緒にいて全然楽しくないクソみてえな奴ってわけじゃあねえ。──それに」
「それに?」
「今の俺には、目標があるんだ。自分が何者なのかを知るって目標が。そのためには旅を続けて、色々と学ばなきゃならねえ。だから、この国に居続けるわけには──」
「君が何者かだって? そんなの分かり切ってることでしょ」
ロータローが言い切るよりも前に、チェーンは口を開いた。
「君はエデンだよ」
「え」
「かつて私を小竜から救ってくれたときに見せてくれた剣捌きは今でもはっきりと覚えている。だから、さっき君が旧王家の兵士たちを倒した時はとても驚いたよ。その太刀筋が、私の記憶の中のそれとまったく同じだったんだからね。最初は半信半疑だったけど、これまで話してみて確信できた──君はあの時私を助けてくれた勇者、エデンだよ」
どうしてそんな姿になってるかは分からないけど、とチェーンは言った。
その時になってロータローは気が付いた。チェーンがこちらに向ける双眸が、昔話をしていた時と同じように憧憬と崇拝と恋慕の情に染まっていることに。
その目はロータローに向けられていながら、ロータローを見ていない。
動揺し、思わず一歩退がる。その時、曇天から降り注ぐ淡い光が、建物の隙間を通り、ロータローの顔に射さった──否。刺さった。
「ぎ」
触れられないはずの光が、まるで刃のような形を持ち、ロータローの右目に深々と突き刺さっていたのである。
「ぎゃあああああああああああああああああああっ! アツッ、イタあああああああ⁉」
視界の半分が熱い刺突で潰された。
残る半分に映る世界。そこではチェーンが目を丸めて驚いている。──その背後の暗闇に、柄だけの剣を握った黒ドレスの女と、何人もの海上憲兵が居た。




