85「海上憲兵大佐・"風見鶏"のジキル」
チェレン国の王宮から西に離れた旧市街に、その建物はあった。設えてから年季が経っているものの、造り自体は大きく頑丈で、迂闊に近寄りがたい空気を放っている。
海上憲兵という組織には階級制度が存在し、鍛え上げた実力や、これまで積み上げてきた実績を元に、各人の階級が決定される。つまり、長い間鍛えてきた年嵩の兵士が上の位に就きやすい制度なのだが、それでも中には例外として若年にしてその地位を獲得する者もいる。
天使から寵愛を授かった者だ。
彼らは軒並み人外の如き異能を有しており、その威光は曹長や大尉のような席には収まらない。なので、『海上憲兵に入隊した寵愛持ちは最低でも大佐の役職からスタート』というのが基本なのである。
“風見鶏”のジキルもこの通例に則り、入隊直後から大佐として多くの軍人を率いていた。だが、彼をその立場に足る者としているのは、何もその身に宿る天使の寵愛だけではない。軍人としての才覚と、周囲の情勢に敏感な嗅覚こそが、彼の真骨頂なのである。
更にこれらに加えて、大佐よりも上の地位を目指す野心も備えているのだ。憲兵たちの間では、同期である”腕鳴らし”のメェケンが指名手配犯となり、”狂信”のヒヒオゥが療養中である今、もっとも出世の時が近い大佐はジキルだと噂されていた。
「まさかチェーン女王が逃げ出すとはな」
取り出した紙巻き煙草に火を点けつつ、ジキルは言った。
旧市街の建物のひとつを借りて設立された海上憲兵の基地は、施設内の全ての窓を木の板で封じている。雨風を通さないためだ。現在のチェレン王国の空は突き抜けるような快晴だが、その天候が近い内に崩れることを知っているジキルは、部下たちに窓の補強を命じていたのである。各所に置かれたランタンのみが、今の基地内を照らす光源だ。
「新王家と旧王家が睨み合ってる状況では、王宮の奥から出てこないと思っていたんだが……ストレスで精神が擦り切れて、迂闊な行動を取ってしまったのか? まあ、何にせよ、おれたちとしては好都合だな。だろう? お姫様」
問いかけながら顔を上げる。対面の席にはひとりの女が座っていた。夜空に座す月を思わせる美しい女だ。だというのに、彼女が着ているのは喪服のような黒いドレスであり、その所為で陰鬱な印象が与えられた。髪はロクに手入れもされずに伸びっぱなしであり、暗い影と物憂げに伏せられた瞳で飾られた顔はそれ以外の表情を知らないかのようだ。
「せっかくの美人がもったいない」と思うジキルだが、口には出さない。チェレン王国から遠く離れた別の島で出会ったときから、彼女が別の服を着たり、別の表情を見せたりしたことは一度だって無いからだ。ならば、言ったところで無駄だ。
チェレン王国先代王の娘、オーロラである。
「護衛もつけずに単身で逃げるなんて、どうぞ暗殺してくださいと言ってるようなものだぜ。念のため、海上憲兵よりこの国の地理に詳しい旧王家の部下に向かってもらったが……今までずっと、傀儡女王として王宮の中でぬくぬくと暮らしてきた箱入り娘ひとりなら、その辺のゴロツキでも殺れるぜ」
「……ではない」
「ん?」
「あの女は……『女王』ではないわ」
深い谷底から響くような声で、オーロラは訂正した。
「下等生物の分際でわたしたちが居ない間に国を奪った卑しい女に……王の称号は相応しくない……」
「……ああ、すまん。そうだな。訂正するよ」
普段は道端の枯れ木のように静かなくせに、たまに強い自己主張をするのだから、未だに付き合って慣れない女である。自分たちから国を捨てた癖に、いざその国が復興を遂げたと知ったら、その途端に舞い戻ってくるという面の皮の厚さも最悪だ。
旧王家が王権を取り戻した暁には海上憲兵及びジキルに治安周りの権力を任せるという契約を結んでいなければ、こうして面を合わせて話すことすらしたくない相手である。
「向かわせた部下たちには「最悪殺してもいい」と言ったけど……やっぱり生け捕りにして、ここまで連れてきてほしいわね。……あの女が無様な命乞いをするところをこの目で見てみたいもの……ねえ? お父様もそう思うでしょう?」
オーロラはそう言うと、両手で抱えている物体をつるりと撫でた。白い球のように見えるそれは、人の頭蓋骨だ。今は亡き先代王のものである。
死人に問いかけた所で、それがスケルトンとして悍ましい生を得でもしない限り、返事をすることはないのだが、オーロラにはたしかに声が聞こえているらしく、「うふふ」と薄い笑い声を漏らした。
「ああ、可哀そうなお父様……異国の地で死んでしまったお父様……最後に故郷を思いながら死んでいったお父様……貴方の無念を晴らすため、わたしはこうしてチェレンに戻ってきましたよ……必ずやあの女を潰して、わたしたちの国を取り戻してみせますわ……ええ。うふふ」
その顔は一切笑っていない。完全に正気を失っている。
心底不気味な女だ──気を悪くしたジキルは、煙草を吸う。貴人との一対一の席でありながら、このような態度を取る辺り、彼もそうとうな人物であった。
すると、基地の入り口から、何者かが入ってきた。チェーンの元に向かわせた旧王家の部下たちだった。
無事任務を遂行した──ようには見えない。チェーンをとらえていなければ、殺害の証である返り血も浴びていないからだ。
「ほ、報告です! チェーンに逃げられました! 追い詰める寸前まではいったのですが……そこに突然、横槍が入りまして」
「新王家の兵士か?」 ジキルは口内で遊ばせた煙を吐き出しながら問うた。
「いえ、船乗りのような恰好をした少年です。無論、ただの子どもではなく、どこからともなく剣を取り出す異能と、わたしたちでも敵わないほどの剣術を持っていまして……」
「…………」
これは面倒なことになった。
これが新王家側の反抗ならば、まだ政治の問題だ。対処はしやすい。
しかし、現れたのが全くの第三者である子供だとは。オーロラの部下たちは、ただの木偶ではない。外海へと出た旧王家が、自分たちの護衛に相応しいと認めて雇った腕利きの兵士ばかりである。そんな彼らがこどもひとりに返り討ちにあうとは、思いもよらない事態だった。
ここ数日は新王家と旧王家の仲裁(実際のところはかなり旧王家に肩入れした立ち位置になっているけども)として国内の情勢にアンテナを張っていたため、外からの入国者にはあまり意識を向けていなかった。ジキルは近くにいた憲兵に、港に泊まっている船を調べ、件の船乗り風の少年の素性を明らかにするように命じた。
「やはり、ここは……わたしが出るしかないのかしら。偽りの王を撃ち滅ぼすのは、真なる王……ということ? ふふふっ」
オーロラは父の頭蓋を愛おしそうに撫でた。硬質な表面を這う手は、やがて眼窩に伸びて行く。
それを見た部下たちは、兜の隙間から見える顔色を蒼白に染めた。
「その前に、失敗した部下へ罰を与えないと……そうよね? お父様? ええ、うふふ」
「お、オーロラ様! お待ちになってくださ──」
「『射し照らすフォトンブック』」
慌てて制止しようとする声は無視された。
父の右眼窩に手を突っ込み、すぐに引き抜く。そこには一本の剣が──否、柄が握られていた。
本来それと一体になっているはずの刃は、存在していない。これでは『何かを斬る』という剣の根本的な機能すら果たすことができないだろう。だというのに、それを目にした部下たちは、断頭台にかけられた罪人のように絶望に塗れた顔になっている。傍らで見守っているジキルも、緊張を隠せないでいた。
「なあ、オーロラ。一応具申しておくが……いくら失敗したとはいえ、そいつらはお前にとっての貴重な部下なんだぜ? 限られた人的資源だ。別に裏切ったってわけじゃあるまいし、ここで無暗に罰するのは」
ジキルは椅子から腰を上げつつ、オーロラの行動を諫めようとしたが、彼の言葉を遮るように『ヂュンッ』と音が鳴った。それよりも前に彼が咥えている煙草の先端が切断され、床に落ちた。
「限られた人的資源? ……何を言ってるの? この国を取り戻せば、そんなものいくらでも手に入るでしょう? ……ああ、おかしいわ。おかしいったらありゃしない。うふふふ……」
「…………」
オーロラは完全に狂っている。自分の勝利を狂信しているのだ。無論、正気であるジキルの目から見ても、現状の王権争いはオーロラ率いる旧王家に分があると見て間違いないだろう。しかし、だからといってこんなことは──いや、もう何も言うまい。ジキルは無言のまま、上げかけた腰を下ろした。
彼が口を挟まない以上、この場に女王の凶行を止められる者はいない。
「だから、無暗に罰するわ……ええ、無暗にね」
オーロラは刃無き柄をブンと振り回した。
すると、それと時を同じくして、部下たちの体は彼らが断末魔を上げるよりも前に、重厚な鎧ごと細切れになり、血飛沫と化して飛び散った。一瞬の間に何十もの剣閃が走ったかのような光景だ。
「う、ふ。うふふふ……」
ひとりの女を取り逃がした失敗への罰にしては、あまりに苛烈な虐殺が行われた場に、オーロラの笑い声が響く。その顔は、依然として笑っていない。不思議なことに、彼女の体には返り血ひとつ付着していなかった。いったい、いかなる魔剣の術理があれば、斯様な現象を引き起こせるのか。
「どうやら、あの女を守ったのは異能を持つ者のようね……とはいえ、わたしとあなたの敵ではないでしょう……わたしにはお父様から継承した国宝『射し照らすフォトンブック』が、そしてあなたには……ええと……」
「嵐天使」
ジキルは己に寵愛を授けた天使の名前を口にした。
「嵐天使の『暴嵐育成』は既に発動した。この島はあともう少しで嵐に襲われる。視界を覆う暴風と豪雨は、何が起きても隠すぜ──たとえ、外を逃げ回っているチェーンが不慮の事故で死んだとしてもな」




