77「よみかきレッスン」
「そろそろ文字を学んだらどう?」
『フールブック号』の一件から数週間が経ったある日の夜、いつものように吸血を終えて満腹になったキロリッターが前触れなくそう言ったものだから、ロータローは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
一瞬何を言われたか理解できず、思考がフリーズしかける。
モジヲマナンダラ? ……ああ、『文字を学んだら』か。
たしかにロータローは異世界の文字を知らないのだから、当然と言えば当然の提案だ。もっとも、それがキロリッターの口から飛び出たというのは驚愕に値するけども。
ロータローは驚きを隠せないまま、震える口を開いた。
「きゅ、急に何を言い出すんだよ?」
「ほら、アンタって言葉を喋ることはできるけど文字を読み書きすることはできないのよね? 今の所それで困ったことはないらしいけど、いくら何でもこのまま放っておくべきではないでしょ?」
「おお……」
すごくマトモな理由だ。
あれ? キロリッターってこんなキャラだったっけ? 割と面倒見の良い所は前からあったけど、理由や脈略もなくロータローのためになることを言うような性格ではなかったはずだ。この前みせたロータローが抱える問題への興味の無さは何処に行ったのか。
ひょっとして、どこかでマリィの爪の垢を煎じて飲んだのだろうか? 初対面時とは違って、今のマリィには爪がちゃんとあるし。
ショックのあまり、ロータローの思考がそんなバカげた妄想に突入しかけていると、キロリッターは机の上に置いていた赤い表紙の本に手を伸ばした。
「それで提案なんだけど、まずは本を……人間のこども向けの本を読んでみるところから始めるのはどうかしら」
「具体的な教育方法まで既に考えているのかよ⁉」
以前の世界では引きこもり化して教育を受ける権利を放棄したロータローを甘やかして放っておいた両親よりも教育熱心だ。
「どうしたキロリッター⁉ 誰かから『勉強させた人間は上手い血を作る』とでも吹き込まれたのか⁉」
「違うわ」
「それとも『フールブック号』で俺の体に打たれた薬が実はまだ残っていて、それを吸ったせいで頭がパァになったのか⁉ いや、この場合はマイナスにマイナスをかけてプラスになるように、パァからマトモになったと考えるべきか……⁉」
疑念に駆られるロータロー。
だが、しばらくするとようやく現実を受け入れた。
そもそも、折角の善意を疑うなんておかしいじゃないか。素直に受け取らないのは失礼極まるだろう。
今のロータローの心中にあるのは、キロリッターがようやく見せたヒロインっぽい思いやりに対する深い感謝と感動だった。
「それでね、ロータロー。アンタってこの船に私以外にも客人が何人かいるのは知っているわよね?」
「? 知ってるけど」
「その内のひとりにツーテルクトップってゾンビがいてね、かなりの読書家なの。彼女の部屋には大量の本が並んでいるわ」
「ははあ、なるほど。つまりお前が今持ってるその本はツーテルクトップって奴から借りてきた本だと言いたいわけだな」
「ええ、そうよ」
ロータローは感極まって泣きそうになった。
まさか自分の教育の為にわざわざ本を借りてきてくれるなんて……!
ロータローが本格的にキロリッターを見直そうとした、その瞬間だった。
「というわけでこの本をツーテルクトップに返しておいてくれる?」
キロリッターがそう言って、本を差し出してきたのは。
受け取って、試しにページを開いてみる。そこに書かれている内容は一文字たりとも理解できないが、二段組の構成に細かい字がびっしりと並んでいることから、少なくとも子ども向けの本ではないことは理解できた。こんな本が文字も読めない人間の教育に使われることはまずありえないだろう。キロリッターが個人で楽しむ用の本としか思えない。
「今日返す約束だったんだけど、うっかり忘れていたのよね。まあ、まだ日付は変わっていないんだし、今から返せばギリギリセーフでしょ。たしかアイツって子供向けの本も持っていたはずだし、ついでに借りてきなさいな」
「オッケー! 任せろ! ……って、後半はともかく前半はただの使い走りじゃねえか! 自分で借りた本なら自分で返せよ⁉」
「いや、私は今から寝るから無理」
「吸血鬼なのに夜に寝るのか⁉」
「お腹いっぱいになったら眠くなってきたんだし仕方ないじゃない。私ほどの規格外の吸血鬼なら『吸血鬼は昼に寝て夜に活動する』なんて常識すらもぶち壊して寝たいときに寝るのよ」
「まるでダメ人間みたいな生活習慣だ……!」 自分のことは棚に上げるロータローだった。
「それにアイツの部屋に行くのは……ちょっと」
「ちょっと?」
「ううん、何でもないわ。それじゃ、よろしく頼んだわよ」
そのままキロリッターは大きな欠伸をひとつして、ベッドに横になり、本当に寝た。
そのまま牛になっちまえ、とロータローは思った。
◆
つまりキロリッターはロータローに本の返却係を押し付ける体のいい理由として文字の学習の機会を与え、ツーテルクトップの元に向かわせたわけなのだが、ロータローはこれをいい機会だと思った。
と言うか、そう思わないとやってられない。
そもそも、キロリッターから勧められずとも、いつかは文字を読めるようにならないといけないと思っていたのは事実である。同じ船に読書家がいるのなら、これを逃す理由はない。
というわけでロータローはツーテルクトップの部屋の前を訪れた。と言っても、キロリッターと同じ客人である以上、その場所はキロリッターの部屋からそう遠く離れていない。
ロータローはドアノブに手を伸ばす。
すると、勝手にドアが開いた。
ついに機関長の有り余る技術力によって船内のドアが自動式になったのかと思ったが、そうではない。
室内から大量の本が飛び出して、ロータローの視界を埋め尽くした。まるで雨期のニュースでよく見る、貯水量が限界を超えたダムの放水みたいだった。きっとドアはこの重量に耐え切れずに開かれたのだろう。
突如として目の前に現れた本の洪水を避けられる瞬発力なんてロータローにあるはずもなく、そのまま飲み込まれてしまう。圧死しそうになるほどの重みが体にのしかかった。肺が潰れ、踏まれた爬虫類みたいな声が喉から漏れる。
これが本ではなく水だったら、流水に弱い吸血鬼である自分は死んでいたかもしれない……そんなことを思いながら、ロータローは本の下からやっとの思いで這い出る。ただ本を返しに来ただけとは思えない疲労が、全身に纏わりついていた。
「ったく、本を沢山持っている読書家とは聞いていたけど、こりゃねえだろ。一言文句を言ってやらねえと気が済まねえぜ!」
ロータローはツーテルクトップの部屋をキッと睨みつけ、気勢を上げながら乗り込もうとした。その時、彼の耳に女の声が飛び込んだ。
「たすけて~」
その声は小さかった。
声の主がロータローに危害を加えてしまった申し訳なさから身を縮こまらせているのかとおもったが、そうではない。
室内を見ると、いくつもの本が積み上げられている。また、床に目を落とせば開かれたままで散乱している本もあった。まるで、秋の森林を本で再現しているみたいな光景だ。
そんな本の森の中央に、一際大きな本の山がある。人ひとりくらいなら余裕で覆えそうな大きさだ。
声はその中からした。
「誰かは知らないけど、こんばんは。私の名前はツーテルクトップ。『部屋が散らかってきたし、今日はキロリッターちゃんが本を返しに来るはずだから掃除をしよう』と思っていたんだけど、いつの間にかこうなっちゃってさ。……悪いんだけど、助けてくれないかな?」




