69「最後の戦い」
気絶から復活したレンズは、ハッチとは別にある専用の出入り口から『フールブック号』に這入っていた。
荒らされた施設には戦闘不能の研究員たちが転がっている。レンズは自分が気を失っている間に生じた被害を想像し、気が遠くなった。
本日何度目かの『シットローズ号』への怒りを抱きながら、レンズは走る。ザナドゥの元へと駆け付け、彼の役に立つつもりなのだ。魚雷の爆撃と『フールブック号』との衝突により、体のあちこちがボロボロだが、クラーケンとしての怪物じみた生命力により、体内の回復は五割がた完了していた。これなら戦力のひとつとして復帰するのは十分可能である。
レンズは道を急ぐ。そんな彼女の行く手を阻むように立つ者がいた。
レンズは最初、それを何かの影かと思った。そんな見間違いをするくらい、それは上から下まで真っ黒だったのである。
影の正体は修道服を着た小柄な少女だった。少なくとも白衣とは真逆の色合いをしているその恰好から、彼女が『理解室』の一員でないことだけは明らかである。
「ひっ、ひいいいい!」
レンズから見つめられただけで、少女は元から顔じゅうにびっしりと貼り付いていた汗の量を更に増加させ、体を縮ませた。
完全に怯えている。これでは会話にならない。その反応だけ見れば、ただの無害なモブとしてスルーしても問題はないだろう。しかし、少女が両手で持っている一本のナイフが、彼女を無視できない存在にしていた。
「だれだ?」
レンズは問いかけた。
目の前の修道服の少女は十中八九『シットローズ号』の乗員だろうが、もしかしたらこの騒動に乗じて檻から逃げ出した実験体かもしれない。なので、念のための質問だ。
「りっ!」
「り?」
「り、りり、りりりり……」
「なに? どもりすぎて鈴虫の鳴き声みたいになってるけど」
修道服の少女が奏でる奇怪なメロディを不気味に感じたレンズは、思わず下がろうとした……その時。
彼女は気が付いた。
修道服の少女の周囲に白い羽が舞っていることに。
まるで天使の羽みたいだが、研究者という立場上、生物に詳しいレンズは、それが鳩の羽であることを悟った。
鳩?
このフロアに鳩は収容されていないはずだが……空中を浮遊していた何枚かの羽は、やがて少女の頭上で輪を形成する。
すると、
「『戦場作成』」
の言葉と共に、燃え上がった。
それと時を同じくして、レンズの背中に何かがぶつかる。振り返ってみるが、そこには何も見えない。不可視の壁だ。その存在により、大の大人よりも力があるレンズは、それ以上の後退が不可能となっていた。
『戦場作成』。
戦天使の寵愛である。
その効果はとても単純。『能力を解除しない限り外部からの干渉も内部からの脱出も許可しない、不可視の壁で閉ざされた空間を作成する』というものだ。
これを応用すれば、誰にも邪魔されないひとりきりの空間に閉じこもることだって出来るだろう。
しかし、この能力が真価を発揮するのは、他の誰かを領域内に招き入れた時だ。
外部からの援助も内部からの逃走も断たれた相手に残された道は、ただひとつ。その空間を作成した能力の本体を倒すことだ。
つまり、『戦場作成』とは、一対一の戦場を一瞬で作成する能力なのである。
「わ、私は『彷徨えるシットローズ号』の戦闘班に所属しているヘルと言います……あ、戦闘班と言っても、ヨルさんとリルさんとクサリちゃんに比べれば私なんて本当にダメダメで……たぶん、最近入った新入りさんにも負けちゃいますぅ……うう、きっとその内『先輩のくせにこんな弱いのか』って見下されるんだあ……」
「わたくしを閉じ込めて何の用? 足止めのつもり? それとも……」
言って、レンズは下半身の触手で握っている数多の武器を持ち上げた。
「わたくしに殺されにきたの?」
並の人間が受ければ膝が震え、呼吸が止まるであろう殺意を露わにする。
そんな殺意を一身に浴びたヘルは、今にも吐きそうなくらいに全身を痙攣させた。
「ひっ! ひえええ! 殺されにきたなんて……ち、違います。ぜんぜんぜんぜんぜんぜん違います!」
「そう? じゃあ他に何の目的が……」
「殺しに来たんです」
ヘルはカタカタと震えるナイフの切っ先をレンズに向けながら、空調の音にかき消されそうなくらいに小さな声で言った。
「私、この船に乗ってからずっと隠れていたんです。でも、ふと『このまま隠れっぱなしで何の手柄も上げなかったら、みんなから要らないものだと思われて捨てられちゃうんじゃないかなあ』と思ったら、急に不安になっちゃって……」
「だから、わたくしを殺すと?」
「はい」
つまり、ヘルは自分の身の安全を保障するためにレンズに刃を向けているのだ。なんともふざけた理由である。
元からレンズは内向的で陰気なヘルに良い印象を抱いていなかったが、今しがた耳にした台詞で、彼女の苛立ちは最高潮に達した。
「今のわたくしは体のあちこちがズタボロだから、殺すのは簡単だと思ってるの? 随分と舐められたものだね」
腰から下に力を込める。次の瞬間、レンズはロケットじみた速度で飛び出した。
八本の触手が揺らめく。それらが握る武器はどれもが巨大だ。どれかひとつでもヘルにぶつかれば、彼女の短躯は粉々に砕け散ってしまうだろう。
「わたくしは早くザナドゥさんの役に立たなくちゃいけないんだ! お前みたいな奴は一瞬で片づけてやる! 叩いてぶつけて殴って」 三方向から飛んでくる鈍器の隙間を縫うようにして、ヘルは飛び上がり、その上に乗っかった。まるで曲芸を披露する猿のような身のこなしだ。 「潰して圧して」 走りながら足元の触手を切り裂いていく。残る五本の触手も、一本しかない足場の上で器用に避けながら、すれ違いざまに刃傷を負わせていた。 「砕いて壊して」 顔面の近くまで到達。まずは正面から三度、ナイフを突き刺す。 「殺し」 レンズの頭頂部に手を置いてジャンプし、背後に回る。着地と同時に片手で首を絞め、もう片方の手で握ったナイフで背中を六回突き刺した。 「てや」 心臓部に深々と突き刺さっていたナイフを引き抜き、頭頂部目掛けて振り下ろす。人間で言えばまだ十代を越えていないレンズの頭蓋骨は非常に小さいため、貫通した刃が顎から飛び出た。 「る!」 レンズは血を撒き散らしながら倒れた。
一瞬の内にこれだけの傷を負えば、クラーケンの要素を持つ彼女と雖も絶命は免れない。復活の可能性は絶望的である。
しかしヘルは手を止めず、倒れたレンズを更に切り刻む。
何度も、何度も。
切って。裂いて。刻んで。突いて。刺して。殺して、殺す。
死体を殺し続ける。
ロータローが生きていた地球において、殺人事件の犯人が被害者の体を何度も傷つけた場合、その情報は犯人の猟奇性の証左としてセンセーショナルに語られることが多いが、実のところ、人が人を殺しすぎる理由は猟奇性が原因ではない。
犯人は恐れるのだ。
殺したはずの死体が起き上がる可能性を。
ヘルがレンズの体を執拗に切り刻むのも、また同じ理由だった。
ましてや、この世界において、一度死んだ生物がアンデッドとして復活するのは、決してあり得ないことではない。ヘルはそのことをよく知っている。身をもって経験している。
だから彼女は殺す。
殺し続ける。
復活することがないように。復活しても復讐してこないように。
何度も、何度も。
切って。裂いて。刻んで。突いて。刺して。殺して、殺す。
死体を殺し続ける。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……でも、仕方ないですよね。貴方を殺しておかないと、私がクビになるかもしれないんですから」
ヘルがようやく手を止めたのは、レンズが床のシミと見分けがつかない状態になった頃だった。
それと同時に、彼女の周囲を覆っていた不可視の壁は、蜃気楼のように消え去った。




