68「理想郷の継承者」
思わず目を閉じたくなるほどの良い匂いが鼻翼を擽った、その直後。
「何をしているんだい?」
背後に男が立っていた。見るだけで息を呑みそうになるほどの美丈夫である。背丈と顔付きから窺える年齢は十代後半から二十歳前半くらい。風にそよぐ金色の短髪。こちらを見つめる瞳は虹色をしており、それだけで彼が只者でないことが分かる。
見覚えのない顔をしているが旅人だろうか? 腰に剣を提げているし、冒険者なのかもしれない。このご時世に冒険なんてよくやるものだ、と心配になる。
「花の匂いを嗅いでいるんだ」
僕は答える。
正確には花の『魂』というか『在り方』の匂いだ。この世のあらゆる生き物は、人だろうと、魚だろうと、獣だろうと、花だろうと、魂の匂いをもっている。何故かは知らないが、僕には生まれつきそれを感じ取る力があった。
魂の匂いが分かるなんて、自分でも訳が分からない話だと思う。なので、僕はそこまでは言わない。言ったところで気味悪がられるのがオチだからだ。特に、目の前の彼からは気味悪がられたくない。出会ってから数秒しか経っていないのに、何故か強くそう思わされた。
彼は遠くの地平線を指差した。その付近には灰色の景色が広がっていた。
魔王軍の手先により、大地が塗り替えられたのだ。あれではもう、草木が生え育つことも、人が暮らすことも不可能である。命の存在を許されない無臭の領域だ。
そんなものが目に見える距離にまで近づいているというのだから、村のみんなは毎日怯えていた。魔王軍から逃げるために村から出ていく人や、魔王軍に対抗するために警備を強めようとする人がいる。どちらも無意味な考えだと思うけど。
「たしか、この村の近辺には魔王軍の手が伸びつつあるんだろう? そんな時によく花の匂いを嗅いでいられるね」
「『そんな時』だからこそ嗅ぐんだ。ひょっとしたら明日にはこの辺りも灰色に染まるのかもしれない。だったら、今の内に嗅げるだけ嗅いで、記憶に焼き付けておかないと」
「へえ。なるほど。たとえこの土地が滅びても、その花の鮮やかな香りは君の記憶の中で残り続けるというわけか。とても素晴らしい理由だね」
彼はにっこりと笑い、僕の行動を称賛した。
「だけど、そんなことをする必要はないんじゃないかな」
「? どうして?」
「この土地は滅びないからさ」
言って、彼は腰に提げている剣を引き抜き、その切っ先を灰色の大地に向けた。
「今からあそこにいる魔王軍を倒してくるよ。そしたらここに危害が及ぶことはないし、いま急いで花の匂いを嗅ぐ必要はないだろう?」
「なっ⁉」
僕は自分の耳を疑った。
魔王軍を倒すだと?
今日び、そんなことを言うのは無知な子供か気の狂った病人くらいだ。だというのに、目の前にいるこの美丈夫は、平然と、正気を保ったまま、当たり前のように言ってのけたのである。
また、僕が真に驚かされたのは、戯言としか思えない発言ではなく、それを聞いて『この人なら本当に出来るかもしれない』と信じかけた自分の心だった。他者に無根拠な確信を抱かせる何かを、彼は有していたのである。
「あ、貴方は……いったい何者なんだ?」
彼は見た目も中身も僕の知識にはないタイプの人間だ。だから名前を知りたい。初めて見つけた動物の名前を図鑑で探すように、正体も詳細も不明な彼をどう呼べばいいのかはっきりさせたかった。
「エデン」
彼は名乗った。
「魔王軍を倒す為に世界中を旅している勇者だ」
◆
操縦席に向かっていたロータローたちは、その最中でサスライと会った。
彼女を視認したメェケンは
「忘れるはずもない! その燃えるように赤い髪は……オマエェ~! ここで会ったが百年目だア~ッ!」
と叫びながら、真っ先に飛び出した。
右肩の傷は塞がっている。元から数十分で治る傷と言っていたし、ここに来るまでの間に『肉体再生』による回復が完了したのだろう。
復讐心を胸に猪突猛進するメェケン。しかし、サスライの手に握られている『ハネモギ』を見た途端、
「げえええぇぇぇぇぇ⁉ そ、その銃はあああああああ⁉」
と叫び、前進した倍以上の距離を後退していった。
元気の良さを発揮しているクズは放っておき、ロータローはサスライに声を掛けるため、近づこうとする。が、その最中に彼女の向こう側で倒れ伏している何かを目にし、足を止めた。それは肉塊としか表現できないほどにめちゃくちゃな造形をしていたが、頭にあたる部分には見覚えがある。ロータローはそれがザナドゥだと気が付いた。
「こ、殺したのか……?」
「こいつが不死身の化物じゃない以上、そうなるね……まあ、元から亡霊みたいな奴だったんだ。生きていようが死んでいようが、そこに大した差は生じないさ」
ドライな言い方をするサスライだったが、その表情にはどこか憂いじみた感情が混ざっているように見えてならなかった。
「さて」 感傷を断ち切るように両手を鳴らすと、サスライは通路を歩き始めた。 「このままここで立ちっぱなしってのもナンだ。まずは操縦席に向かおうじゃあないか。アンタには色々と聞きたいことがあるからね。特に、『なんでいつぞやアタシが倒したはずの海上憲兵がここに居て、アンタと一緒にいるのか?』とか」
「あー、ええと、それはだな……」
ロータローが本日二度目の説明をしつつ、サスライの後を追おうとする。その時だった、床で転がっていたザナドゥの指が動いたのは。
一同は一斉に強張る。どうやらザナドゥはまだ息があったらしい。だが、彼が指を動かす以上に何かをすることはなかった。というより、それ以上のことができそうにない。指を動かすだけで精いっぱいといった感じである。まるで、夏の終わりに道端で仰向けになって震えている死にかけの虫みたいだ。
「そこに居るのは『混ざり物』の少年ですかな?」
ザナドゥは譫言のような声で呟いた。
「謝罪させてもらいます。わたくしが間違っていましたな……」
「こういう状況で今まで俺の体にアレコレぶち込んだことを謝られるのって複雑だけど……」 かと言って、ここで突き放すようなことを言うのも、なんだか後味が悪い。 「……分かった。許すよ」
「いえ、わたくしが間違っていたのはそれではありません。貴方を吸血鬼と人間の『混ざり物』だと認定してしまったことですな」
「は?」
ザナドゥから飛び出た予想外の言葉にロータローは愕然とした。
「何を言っているんだ? 俺はたしかに半吸血鬼で……」
「たしかに貴方の体は吸血鬼との『混ざり物』ですな。しかしもっと奥深く……魂の領域で違うものと混ざり合っている」
動揺するロータローを置いてけぼりに、ザナドゥは語る。
「初めて出会った頃から思っていたのですな……何故か懐かしさを感じさせる匂いだと。今までそれが何なのか分かりませんでしたが、走馬灯めいた記憶の湧出と共にはっきりと分かりましたな」
語りながら、ザナドゥは泣いた。
「そこに居たのか……エデンさん」
まるで旧友との再会を祝福するように、滂沱の涙を流す。
「この二十年、ずっと貴方を追いかけていた……それでも貴方の背中すら見れなかったけど……最期になってようやく僕の前に……」
「おい! 待て! ザナドゥ!」
「ああ、もう何も見えない……真っ暗だ。何も聞こえない。ずっと嗅ぎ続けてきた僕自身の匂いが薄れていく……」
「急に何を言ってるんだ! おい!」
「でも幸せだ。貴方の存在を感じながら逝けるのだから」
「ザナドゥーッ!」
ロータローはザナドゥの傍でしゃがみ、肩を掴んで必死に揺すった。しかし彼がそれ以上何かを言うことはない。
子どもの寝顔のように安らかな死に顔だった。




