65「納得と不安」
正義を為すためならば、いかなる行為にも手を染めるというその性格から“狂信”の異名を持つ男、ヒヒオゥは、現在発狂していた。
ずる。
ずる、ずる。
ずるるるる。
頭の中を百足が這いずり回るような感覚がする。痛みとも痒みとも判別しがたい不快感だ。そんなものを味わえば、どれほど強靭な精神を持つ者であろうと、たちまちの内に狂人へと堕ちてしまうのである。
「あ、ぎぎ、い、いいぃ、あ、はぁ……」
涎と鼻水を垂れ流しながら、渾沌としている声を上げるヒヒオゥ。
どうして彼がそんな精神的苦痛を受けているのかと言うと、その原因は『理解室』によって投与された薬品にあった。
スピア国でザナドゥから眠らされたヒヒオゥが次に目を覚ました時、彼は『フールブック号』の中で拘束されていた。自分が置かれている状況を確認した直後、彼はすぐさま『流水操作』の力を使おうとした。
生物の体を切って開いて弄る実験が日常茶飯事な研究船である『フールブック号』には、清らかな水なんていくらでもある。ならば、ヒヒオゥの独壇場も同然だ。
しかし、周囲の水に意識を向けようとした瞬間、彼の視界は歪んだ。(真面目なヒヒオゥに酒を嗜む趣味はないが)悪酔いの酩酊と二日酔いの頭痛を合わせて、更に酷くしたような感覚だった。これでは『流水操作』をする上で欠かせない意識上の操作レバーはまともに動かない。
『理解室』はスピア国の海上憲兵仮設基地にあった資料からヒヒオゥが持つ寵愛の発動条件が本体の精神に依存していることを知っており、彼が目を覚ますよりも前にその対策になる薬品を投与していたのだ。彼らがヒヒオゥに求めるのはあくまで海上憲兵として鍛えられた肉体だけ。頭がどうなろうが知ったことではない。
こうしてヒヒオゥはあっさりと無力化され、管理用の檻に入れられていた。
「ひぃっ、うぐううぅ、あぎあぎあぎ……」
歪む歪む。世界が歪む。この感覚はどれだけ長い間味わっても慣れそうにない。
揺れる揺れる。視界が揺れる。時間と空間の認識なんて、とっくの昔に曖昧になっていた。
「うぇっ、上が下で、下が右で、手が海で、目が緑。おしゃしゃぽぽぽな機関銃みたいです……」
わけの分からない台詞を吐く。言っている彼自身ですらその意味を理解していない。だが、意味不明であっても何か言い続けていないと、頭の中がたちまちの内に狂気で満たされて破裂しそうだ。意識はとっくに曖昧になっているというのに、なぜかそのような確信だけはしっかりとあった。
ヒヒオゥが現実と夢の狭間で悶えて、百足のようにうねっていると、檻の前を誰かが通った。彼は生気を失って久しい瞳で、それを見る。通り過ぎたのはデュラハンの女騎士だった。彼女の横には他にもみっつの人影があり、そのひとつはヒヒオゥと面識のある少年だった。
彼らはこちらには目もくれずに檻の前を素通りし、どこかに向かって走って行った。いや、仮に檻の中に目をやったところで、すっかり変わり果てているヒヒオゥを見て、それが彼だと気づけたかどうかは怪しいが。
「…………」
ヒヒオゥは暫くの間、呻くのも止めて、呆然としていた。もしかしたら、思わぬ再会の衝撃が、彼の崩れかけていた精神に何らかの影響を与えたのかもしれない。
が。
「あっ! あぐっ! ひょひひ揚げた紙芝居だっ!」
体内にまだ残留している薬の効果は、戻りかけていた正気をあっさりと崩壊させ、百足の真似事を再開させた。
◆
マリィから『シットローズ号』の面々が『フールブック号』に乗り込んでいる情報を教えられたロータローは、とても驚いた。同時に、船員たちとの絆めいた何かを感じて、不覚にも泣きそうになる。とはいえ実際の所、彼の救出を第一目標にして『フールブック号』に乗り込んでいるのはマリィだけなのだが……まあ、そのことは知らない方が幸せだろう。
そして現在、ロータローたちは操縦席を目指して走っていた。
マリィ曰く、そこに機関長とサスライが先行し、『フールブック号』の支配権を奪っているらしい。そのことを知ったロータローは『あれ? じゃあさっきの揺れは……?』と思い返して悲しくなった。
あとで機関長に文句のひとつでも言ってやろう。どうせ、見下すような目で返されるのがオチだろうけど。
階段を駆け上がり、一番上のエリアにあるという操縦席を目指す。ちなみに、操縦席の場所は、マリィの登場と共に吹っ飛ばされた『理解室』の研究員のひとりに聞いた。剣ひとつで人間の集団を紙塵のように吹き飛ばすデュラハンであるマリィが問えば、あっさりと吐いてくれたのだ。
「あの、ところでロータローさん。ひとつ聞きたいことがあるんですが」
「おう、どうした?」
「一緒にいる銀髪の方は誰ですか?」
「メェケンだよ。前にどっかで話したことがなかったっけ?」
「メェケン……ああ、ロータローさんが『シットローズ号』に乗ってから初めて上陸した島で遭遇したという、あの……ええっ⁉」
マリィは大声を上げて仰天した。
「ロータローさんの話だとたしか、メェケンはとんでもなく悪い人でしたよね⁉ 出合頭に発砲してきて、ロータローさんの体を躰天使の力で爆散させたという……どうしてそんな人と一緒に行動して、服を貸しているんですか⁉」
「ええと、これには事情があってだな……」
『一緒に行動していることはともかく、服を貸していることもそんなに気になるのか?』と思いながらロータローが説明しようとすると、傍を走っていたメェケンがこちらに首を突っ込んできた。
「ん? ナニナニ? 私の話ぃ~? 悪口だったら許さないよん?」
「お前ってそのキャラで自分の評判を気にするタイプなのかよ……」
「モチのロン! 私に搾取される為に生まれてきたモブ相手ならともかく、それ以外のヒトからはよく思われとかないと、色々と面倒なことになるからさア~。そこら辺をしっかりしてなきゃ、大佐の地位にまで登れるわけないでしょ? 島に居た頃は、そこでやっていた色んなことを本部に隠す為に、嘘の報告書や賄賂を送りまくったものだよ」
「しみじみと懐かしむような目をしながら過去の悪行を語るな!」
ツッコミを入れた後、ロータローはマリィに向き直り、
「見ての通りこいつはヤバイ奴なんだけどさ、持っている力は強いから一緒に行動していたんだよ。で、ここまで来たら途中で見捨てるわけにもいかなくなってさあ。でも、安心していいと思うぜ、今は『これ』であいつの手綱を握れてい」 「ホギャーッ⁉」
ロータローが懐から『ハネモギ』を取り出そうとした瞬間、メェケンが悲鳴を上げた。
『ハネモギ』に驚いたわけではない。見ると、クサリに肩を噛まれていた。元からそこに刻まれていた傷は、万力じみた咬合力によって出血量を増加させている。
今のメェケンは隻腕。しかも残っている方の腕も、神経が切れていてまともに動かない。そんな状態では、グールもどきの牙を引き剥がすなんて不可能である。
先ほどのエンジンルームで再会した際、クサリは床に倒れている『理解室』には目もくれずにロータローに噛みついてきたのだが、何故か今はメェケンに噛みついている。そういえば、現在のメェケンの一張羅はロータローから借りたものだ。それには当然ロータローの匂いが染みついているだろう。と考えると、もしかしたらクサリはロータローと誤認してメェケンに噛み付いているのかもしれない。
「ちょっ、やめろ! 私ってここ数日は物陰に隠れるドブネズミみたいな生活をしていたから全然美味しくないって! どうせ食うなら、檻の中でヌクヌクと過ごしている奴らから狙ってよオ~ッ!」
「お前って口を開くたびにヘイトを溜めないといけないルールでも課せられているのか⁉」
助けなければという意思が激減するのを感じながら、ロータローはクサリを引き剥がすために駆け寄って行った。
その姿を見ながら「メェケンをこのまま連れて行って大丈夫なのだろうか」と不安に思うマリィだったが、たっぷり悩んだ後で、「まあ、彼女と一番因縁が深いロータローさんが同行を許しているのなら」「暴走させずに制御しているようですし」「仮にその制御すらも振り切って暴れようとしたら、私が何とかしましょう」と納得した。
納得した……はずなのだが。
それでもやはり、不安が拭えなかった。




