64「舐めて、舐められ、噛み砕く」
寵愛を与える。
天使は甘美な誘惑を囁いた。
『対価を要求するつ■りは全くありません。私はただ、あなたの戦いをこれ■らも見続けたいだけなのです。なので是非受け取って■ださい』
「……その寵愛とやらは強いのか?」
『ええ、もちろん。ただの寵■ではありません、こ■場の形勢を容易くひっ■り返せるどころか、島ひとつを支配下に置けるほどに強い、奇跡のよ■な寵愛を与えま■ょう』
声を聞くだけで分かる。この天使が膨大な力を有していることを。戦闘に塗れた日々を送っているヨルですら経験したことのない未知のエネルギーだ。
ヨルは想像する。もしもこれのほんの一部だけでも受け取ればどうなるか、足りない頭で想像する。
与えられた寵愛は、一瞬の内に自分の体を変え、そうして急激な成長を果たした自分は、スカルペルを倒すことが出来るだろう。
「は」
そんな未来を予想して。
「はは」
ヨルは大きく口を開き。
「はははっ! はははっはっはっはっはははぁーっ!」
爆笑した。
さっきまで茫然自失に陥りかかっていた相手が急にそんな行動を取ったものだから、スカルペルは驚く。天使も同様に、ノイズ混じりの沈黙で驚愕と困惑を表現していた。
ヨルはひとしきり笑った後、
「そうかそうか、おまえにとって儂は、そんなトンデモない力を手に入れない限り、この場を切り抜けられないような雑魚に見えていたのか! ここまで舐められると、笑いしか出てこないな!」
『み、見えてい■も何も、実際にあ■たは先ほど「もう打つ手が無く、戦うことさえ難しい」と絶望していたはずで■?』
「は? してないぞ? 絶望なんて生まれてこの方、死んでこの方感じたことがないが?」
頭の中に響く声と話しながら、ふらついていた体勢を元に戻す。
「てめーの力で変わっちまった体で勝ったところで、ぜんっぜん気持ちよくねーに決まってんだろ、ボケが。儂を舐めてるのか? 舐めてるな? 天使だろうと、儂を舐める奴はぶっ殺すぞ?」
『な……ッ!? そ、■れじゃあ私からの寵愛は!?』
「いらん!」
ヨルは龍の顎のタトゥーで挟まれている目をカッと見開くと、体の各部に力を込め、気合いの入った声で拒絶した。
「余計なお世話だ! 儂の体に宿るのは龍だけで十分! 天使の席なんてどこにもないわ!」
「で、■も……」
「分かったらさっさと帰れ!」
『…………!』
捲し立てるヨルに対して天使は絶句する。
それから暫くして、
『……分かり■した』
反骨精神の塊のような気迫に圧されたのか、それともこれ以上は何を言っても無駄だと判断したのか、そう言った。
その言葉を最後に、確かに感じられていた力の気配が、遠く離れていく。それが完全に消え去ったのを確認すると、ヨルは『ふんっ』と鼻を鳴らし、スカルペルに向き直った。
「すまねえな。邪魔が入った」
「邪魔? オジサンの目には、お前が独り言を叫んでいるようにしか見えなかったけど」
「ええと、そうだな、何があったかと言うと……あー……やっぱ説明するのナシな。めんどくせえし、あんな舐め腐った奴のことなんて、思い出すだけでムカッ腹が立つわ。それに、」
言って、ヨルは脚を開き、戦闘態勢に入る。
「どーせ今からブッ飛ばす奴相手にアレコレ話したところで、意味はねーだろ」
残った片腕には『フラグメント』が貫通した真新しい傷が残っている。……が、動かすことくらいならできる。ベストコンディションには程遠い腕をやっとの思いで動かして、眼前に拳を置いた。
それを見たスカルペルは、静かに刀を構える。そこにはもう、驚愕や困惑といった感情で乱れている様子はない。ただ冷たく、鋭い闘志のみが佇んでいる。刀を握る剣士でありながら、彼自体が一本の刀になっているかのようだった。
こうして、まるでさっきの焼き直しじみた対峙の構図が現れる。
「いいのかい?」 スカルペルが問うた。 「このままだとオジサンは、さっきの技をまた使うぜ? その拳がこちらに届くよりも何倍も早い時間で、お前の体を真上から両断してやる」
「ほう」
ヨルは答える。
「ならば儂は、それを正面から叩きのめしてやろうじゃねえか」
それは先ほどと全く同じ台詞だった。
その言葉を切欠にスカルペルは床を蹴り、『フラグメント』を振り下ろした。その速度はまさに神速。空気の壁も音の壁も切り裂く速度。伝説の剣と卓越した技術が合わさって初めて成り立つ異能だ。
違う時間と空間の中で動いているのではないか思わされる剣は、ヨルの頭頂に向かって吸い込まれるかのように駆けていく。
剣を振るスカルペルに対し、ヨルは拳を……放っていなかった。
あまりの速度に体が反応できていないというわけではない。そもそも攻撃しようとしていないのだ。
「はははっ、手も足も出ないとはまさにこのことかな! そのまま無抵抗に叩っ切られな!」
スカルペルがその台詞を言い終わった頃、彼の動きは止まっていた。
ヨルが眼前に構えていた拳で、『フラグメント』を摘まむようにして受け止めていたからだ。
「は……え、なんだと?」
『分かち断つフラグメント』は『刀剣作成』によって生み出された『万物切断』の魔剣だ。その刃に触れれば、肉だろうと岩だろうと霊だろうと一切合切が切り刻まれる。
しかし、それはあくまで『刃に触れれば』の話だ。
側面や峰にまで『万物切断』の特性が及んでいるわけではない。
だから、こうしてヨルがやったように、白刃取りじみた受け方をすれば、それだけで刃の進行を正面から止めることができるのだ。
「だ、だがそれは理論上の話だ! 現実として、神速で動くこの剣を止められるはずがない! ……はっ! 待てよ。まさか、さっきの独り言は……もしかして、天使から何らかの寵愛を受け取ったんじゃ」
「んなわけねえだろうがああああああああああああああああっ!」
ヨルは叫び、蹴り上げた。
凄まじい衝撃を受けたスカルペルは真上に飛ぶ。体内に流れ込んだポルターガイストにより、内蔵の四割と筋肉の三割が一瞬にしてぐちゃぐちゃに破壊された。
「目に見えない程度の速さしかなくて、オマケにどこから来るか分かってる剣を止めるのに、どうして天使の力を借りなきゃならねーんだよ、アホが! んなモン、一度経験してタイミングを知ってりゃ、目ぇ瞑ってても止められるわ!」
ヨルが言ってることはめちゃくちゃだ。しかしながら、彼はその理屈で神速を討ち破ってみせたのである。天使が虜になるのも納得な破天荒ぶりだった。
蹴り上げられたスカルペルは血を吐きながら落下する。その無防備な体に向かって、ヨルは畳み掛けるようにして拳を放った。神速には及ばずとも、全身全霊を込めた、トドメの一撃を真っ直ぐに。
スカルペルはその拳に、大きく口を開けてこちらを噛み砕こうとする龍の姿を幻視した。
直後、凄まじい衝撃が彼の顔面を襲う。その勢いのまま吹っ飛ばされると、通路の突き当たりに轟音を立てて衝突し、壁に磔になった。それから数秒が経つ。スカルペルは動かない。完全に再起不能になっていた。
「おああああああああああああああああああああ! 勝ったぞぉ! これが天まで届く儂の武勇伝だああああああっ!」
ヨルは喝采を上げ、そのまま背中から床に倒れた。
「あれ?」
起きられない。どれだけ力を込めようとしても、体がぴくりとも動かない。
先ほどヨルは神速の白刃取りを当たり前のことのようにこなしたが、そのタイミングを見極める集中力と指先で刀を受け止める握力は並大抵のものではない。それに見合った莫大な量の体力を、短時間の内に消費したのだ。おまけに、今の彼の体は刀傷でボロボロである。ならば、こうして体力が尽きて倒れるのは当然のことだった。
天井しか映っていないヨルの視界に、こちらを見下ろす影が現れる。リルだった。周辺の『理解室』を片付けた彼は、ヨルの元へ駆けつけたのである。
「あーあー、ヨルさん。随分と酷くやられちゃったっすねえ」
「ああん? なに舐めたこと言ってんだ? ワンパンで余裕だったぞ!」
「そういう強がりはせめて、両腕がある状態で言ってくださいっすよ」
まあ、強がりを言うだけの元気があるということは、死ぬ心配はないだろう。リルはそう考えた。




