34「溢れる血、溢れる流水、溢れる記憶」
ヒヒオゥが周囲の地面から水流を飛び出させたのと、ロータローが抱えていた鞄を片手で握りしめたのは、同じタイミングだった。
「目当てのテントが見つかったぜ! 行くぞっ!」
ロータローは大きく振りかぶり、空中で身を捻りながら鞄を投擲する。穴ぼこだらけの体でそんな無茶をするものだから、全身の傷から溢れる血が量を増した。
ヒヒオゥは今しがたロータローが投げた鞄の中身を知らない。そもそも彼はロータローがどうしてマリィの肉体を求めてこの場に現れたのかさえ知らないのだ。
ヒヒオゥがロータローについてはっきりと知っていることがあるとすれば、それは『爆音と共に基地に侵入してきた爆弾魔』というくらいである。
爆弾魔。
そんな輩が中身不明の物体を投擲したという事実に危機感を覚えない程、ヒヒオゥは無能ではなかった。
「っ! 小癪な真似を!」
舌打ちを鳴らしながら、ロータローへと走らせていた水柱の軌道を変え、空中を飛ぶ鞄へと向かわせる。
何本もの水槍に貫かれる鞄。圧倒的な物量での破壊により、原型すら失い、僅かな布切れだけを散らすだけだった。
そう。
僅かな布切れを散らすだけ。
細切れになった鞄の中に、大したものは入っていなかった。
ヒヒオゥが危惧していた危険物も。
先ほどまでその中にあったはずのマリィの頭さえも……!
「なっ……!」
肩透かしを食らったヒヒオゥは目を見開く。
次の瞬間、彼の頭上でロータローの声が響いた。
「多分痛いだろうから今の内に謝っておく! 行くぞ、マリィ!」
「はいっ! お願いします!」
直後、ヒヒオゥの視界を女の生首が横切り、テントの中へと突っ込んでいった。
「あれは……間違いない。先日放流したはずのアンデッドじゃあないですか……!」
見覚えのある顔に、ヒヒオゥはそう呟いた。
ヒヒオゥの攻撃で地面に倒れていた際、ロータローは軽口を言いながらひとつの算段を立てていた。
その内容は以下の通りだ。
まずは予め鞄からマリィを出しておく。そして、空っぽの鞄をテントに投げ入れるのだ。これは囮である。ヒヒオゥの注意を引くためのスケープゴートでしかない。
本命はその次に投げるマリィの頭部だ。
ハズレの鞄の対処に水槍が消費された直後という最も安全なタイミングを狙って、ロータローはマリィの頭をテントに突っ込ませたのである。
無論、そうした所で事態が進むわけではない。
マリィが首ひとつでは何もできず、肉体が『何かで縛られていて力が出ない』以上、頭だけを投げ入れた所で何になるというのだろうか。
だが、少なくともこれでロータローに加えられる攻撃がマリィにまで及ぶ危険はなくなった。
それに。
自分が一杯食わされたという事実と、この場に現れるはずの無いアンデッドの姿を目にしたことで、ヒヒオゥは動揺していた。
それは次の瞬間には戻っているかもしれない、ほんの僅かな心の隙。
だがそれで十分である。
重力加速度を受けてグングンと落下しているロータローにとっては、その一瞬がヒヒオゥとの距離をグングンと詰めることが出来たのだから。
背に背負っていた剣を抜き、刃先を真下のヒヒオゥに向ける。
ロータローに剣の心得はなく、ましてや今のコンディションは最悪だ。まともに剣をふれるかどうかさえ怪しい。
だが、今はそんなハンデはあってないようなものだった。なにせ、このまま重力に従って落ちれば、それだけでヒヒオゥに高速の斬撃を浴びせることが出来るのだから。
「着地の心配は必要ねえよな! 落下で死ぬわけないんだからよ!」
剣の煌きと共に、ロータローはヒヒオゥ目掛けて落下する。これまでのペースからして、ヒヒオゥが流水や水槍を生成するよりも早く、剣を届かせることが出来るはずだ。
しかし、ヒヒオゥの顔には焦りはなかった。ロータローの策に引っかかったことによる動揺はすっかり消え失せており、その代わりに冷たく、熱い怒りが表出されている。
「まさかアンデッドなどという低俗な輩から一杯食わされるとは……私もまだまだのようですね。精進しましょう」
その言葉と同時に、今までの攻撃でヒヒオゥの周辺に散らばっていた水が、ズズズズと軟体生物じみた動きを始める。それらはやがて、いくつかの細長い槍となった。
ヒヒオゥが今まで手加減していたのか、怒りにより能力の性能が向上したのかは定かではないが、今回の水槍はその数や完成までの速度がこれまで以上のものだった。
秩序の代行者の殺意が具現化したかの如き光景だ。『水槍が飛んでくるよりも前に、ヒヒオゥを斬る』というロータローの考えは完全に計算違いになってしまう。
飛び上がった水槍の群れはロータローの視界を埋め尽くした。上下左右、三百六十度に逃げ場のない攻撃だ。初回であった先ほどならいざ知らず、既に全身が傷で覆われている状態でこんなものを浴びれば、いかに吸血鬼もどきのロータローであっても、生き残れるかどうか……。
──あ、マズいかもしれねえ。
吸血鬼の身であっても死を覚悟する状況で、ロータローの脳内に走馬灯が流れた。
それは水泳に励んだ少年期や、中学生の頃の淡い初恋の記憶、『努力なんて無駄』だと確信した苦い思い出など……ではない。
それは前触れもなければ前兆もなく。
一切の予兆も予感もないままに。
まるで、湧き水の如く溢れ出した。
存在しないはずの記憶だった。
それは誰かの記憶だ。
少なくともロータローの記憶ではない。記憶の中にあるような経験を、彼は夢の中でだってしたことがないのだから。
それは、ひどく朧気で、古いビデオテープを再生しているかのような記憶だった。
記憶の中の誰かは、剣を握っている。
剣を握り、握って、握っていた。
剣を持ち、持って、持っていた。
剣を振るい、振るって、振るっていた。
記憶の中の誰かは剣を使って、色んなモノを斬っていた。
人里を襲う小さな魔物だったり、山のように大きな巨体をしている竜だったり、海さえ丸飲みできそうな海獣だったり……そして。
魔王。
そう形容することしかできない悍ましい怪物さえも、斬っていた。
「え?」
存在しないはずの記憶を見たロータローは、驚きの声を上げる。
今の記憶は何だ? 死に際の脳が見せたバグのような映像か?
そんな疑問が飛び出てくるが、慌ただしい脳内とは裏腹に、彼の体は冷静にひとつの行動を選択していた。
剣を握り、振る。一瞬と言える時間の中で、その動作を四回ほどおこなった。その速度と動きは卓越したものであり、素人の剣とは思えない。
その技はロータローの知るものではなく、ましてやマリィに教えてもらった剣術ですらなかった。
ロータローの意志とは関係なく放たれていた斬撃により、彼の肌を貫かんと迫っていた水槍の群れの殆どは霧散する。
しかし、知らない技で慣れない動きをした結果、元々ズタボロだったロータローの傷は更に広がった。肉が裂けて血が飛び散る。まともに動けないはずの体であんな芸当を成し遂げたのだから当たり前だ。これ以上は、ある程度回復しなくては指先ひとつ動かせまい
また、水槍の殆どは先の斬撃で消し飛ばされたが、たったひとつ残っていた水槍があった。真横の方向から飛んできているものである。いかに凄まじき斬撃とはいえ、それを放ったのが死にかけのド素人だったため、ミスが生じてしまったのだ。
こうして、一本だけ残っていた水槍に貫かれたロータローは、不幸なことに、ヒヒオゥに向かっていた落下の軌道を大きくズラしてしまった。……いや。
ここは『不幸なことに』ではなく、『幸いなことに』と言うべきだろうか。
なにせ、ロータローが水槍で吹っ飛ばされた先には、先ほどマリィを投げ入れたテントがあったのだから。




