120「氷は溶けず、炎は消えない」
サーミィが何秒か戦った後に踵を返して走り出した時、ミルクはてっきり実力差を思い知った臆病者が逃走を選んだのかと思った。
永遠の氷の生産者を相手にたった数秒と雖も戦闘を継続できる時点で、サーミィの実力は凡人とは隔絶していると言えよう。だが、ミルクに致命打を与えられるほどの強さではない。ならば、己の命を優先して戦略的撤退を選ぶのも十分にあり得る手である。
逃げた格下をわざわざ追いかけて仕留めるほど、ミルクは暇ではない。彼女は、彼女が所属する『教会』は、『マクガフィン』の奪取という最重要任務を負っているのだから。一刻を争うミッションの真っ最中なのだ。
だからサーミィを見逃すという展開も十分にあり得た──彼女が走る方向が、神父が向かって行った方向と同じでさえなければ。
……無論、あの程度の戦士に遅れをとるほど、神父は弱くない。たとえミルクがいなくとも、両手に短剣を装備した暗殺者を相手に徒手空拳で戦えるほどに強いのだ。しかし、そんな神父の実力を初見で看破していたようなサーミィの口ぶり(「ガトーさんの元に向かわせちゃいけないのは、どう考えてもあっちの神父さんの方ですからね」)や、走る彼女の背中から感じられた目的に向かって突っ走っているような雰囲気から嫌な予感を覚え、ミルクは少し遅れて追いかけた。
その先で彼女が見たものは……、
「…………うそ」
血まみれで横たわっている神父の亡骸だった。体中を──特に両目を重点的に──刺されている。傷の形は、記憶にある白仮面の短剣とぴったり一致した。
「うぅ、うそ。うそうそうそうそうそ。うそよ。うぅ、う、ううぅぅー……ううううううううううぅぅぅぅ」
目の前の現実を否定する言葉はいつしか唸り声に変わり、最終的に泣き声になった。
神父の死体に覆いかぶさるように蹲る。伏せられた頬は濡れていた。滂沱の涙を流しながら、えんえんと泣く。周囲にまだ神父を仕留めた下手人がいるかもしれない、なんて警戒すらせず、幼子のように泣きじゃくる。数十人の軍人をまとめて氷結させた者と同一人物とは思えない。
正常な判断力を失っている。しかし、この行動は、ミルクがそれだけ神父のことを敬愛していたことの証左でもあった。父の代わりであり、兄の代わりであり、教師の代わりでもあった神父。氷点下の領域を司る人間兵器だからといって、大切な存在が死んで平気でいられるほど、ミルクは冷静でなければ冷徹でもなく、ましてや冷血でもなかった。
それから何分もの間、周囲の様子も気にせず泣きじゃくるミルク。しかし、こちらに近づく気配を感じ取ると、体を起こした。
そこには右結びのサイドテールの少女、クルミが立っていた。
もしも、ミルクがサーミィの『模倣演技』の寵愛を把握していたら、「このクルミはあの白仮面が演じている偽物なんじゃないか?」と疑心暗鬼に駆られていたかもしれない。しかし実際のところ、彼女はサーミィの寵愛どころか彼女の名前すら知らないし、十五部隊の基地を訪れていたサーミィが全く別の場所で暴れていたクルミを演じるなんてことは不可能だった。『模倣演技』を発動するには、『演じる対象の観察』が必須である。どれだけ腕のある役者でも、見ず知らずの存在を演じるのは不可能だ。
離れた地点で任務にあたっていたクルミが目の前に現れたことを、ミルクは少しも疑問に思わなかった。悲しみに暮れる姉の元に妹が駆けつけるのは、当たり前のことじゃないか。何の不思議がある。
メェケンがヴラッドを吹き飛ばした直後に、神父の死を目にした姉が精神の均衡を失っていることを姉妹間の超常的な直感とも言える何かで感じ取ったクルミは、すぐさま現場を離れ、この地を訪れていたのだ。
彼女は姉と神父を交互に見つめ、何があったか凡そ理解する。
「……んゃちーミ」
「クーちゃん……」
双子の姉妹は互いの名を呼び合うと、覚束ない足取りで駆け寄り、抱き合った。どちらからともなく泣き声をあげる。姉は先ほど以上の大声で、妹は逆さ喋りであっても胸に抱える悲しみが第三者に伝わるほどに、泣く。哭く。涙を流す。
ふたりの心の支えのひとつであった神父亡き今、彼女たちを導く者はいなかった。作戦の継続は絶望的。ミルクはいっそのことここから逃げ出してしまいたいと考えていた。
あの強く、正しく、清らかだった神父が、こうも無惨に殺害されたというのは、齢二十も超えていない少女の心を折るには十分なハプニングである。
あらゆる罪を見透かす裁定者でさえ負けてしまった敵を相手に、自分たちは勝てるのだろうか? という不安が脳内でぐるぐると加速した。そんな精神の不安定さ、言い換えれば年相応の未熟さが、強大な寵愛を持つミルクの弱点であった。
神父を喪った今、もし妹まで死んでしまったら……と考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。
どこかへ逃げてしまいたい。帝国どころか教国ですらない、遠く離れた、争いとは無関係などこかへ。そこで唯一の肉親である妹と一緒に過ごすのだ。少女ふたりの旅だと危険が山ほどありそうだが、永遠の氷と永続の炎を持つ自分たちなら、大抵の問題は解決できるだろう。むしろ、見知らぬ土地での生活に慣れるまでが困難かもしれない。だがゆくゆくは安定した生活を──と、ミルクの思考が文字通りの現実逃避に沈みかけた時。
彼女はふと思った……こんなとき神父ならどう言うか。
「決まっているでしょう。仲間が犠牲になろうと、僕たち『教会』の使命は最初からひとつです。それが変わることはありません──と、僕の中の天使様は仰っています」
血の海の中でとっくに事切れている神父がそう言った気がした。
『教会』の使命──『マクガフィン』の奪取──『マクガフィン』──『マクガフィン』、『マクガフィン』、『マクガフィン』、『マクガフィン』、『マクガフィン』……。
奪うべき魔剣の名前を脳内で繰り返すと、嵐の海に浮かぶ船のように不安定だったミルクの精神は、不思議なことに段々と落ち着いていった。
余計な雑念が排除され、「それを手に入れなくては」という欲求にも似た感情だけが残る。成し遂げなくてはならない仕事を再確認したことで、メンタルがひとりの少女・ミルクから『教会』のエージェントへとスライドしたのだろうか。
「……行かなきゃ。『マクガフィン』を奪いに」
抱擁を止めた姉が自分から離れながらそう呟いたのを耳にした時、クルミは驚いた。しかし、姉の顔に浮かぶ使命感に満ちた表情を目にすると、彼女も同じ表情を作り、決意を固めた。まるで鏡合わせのように。
かくしてミルクたちは向かう。帝国の中枢へ。
『マクガフィン』を奪う為に。
立ちはだかる敵を倒す為に。
神父が道半ばで成し遂げられなかった仕事を遂行するために。
「その調子ですよ、ミルク。タム天使教国の民としての誇りを胸に戦うのです──と、僕の中の天使様は仰っています」
と、ミルクの中の神父が言った──気がした。
おそらくそれは幻聴だろうけど、それでもいいと思った。向かうべき目標を示し、罰すべき罪人を明らかにし、自分を導いてくれる声は、この世のどんな歌声よりも心地よく聞こえたのだから。




