102「久しぶりの太陽」
憲兵は倒れているチェーン女王とその傍に居るロータローを見て驚いた。
しかし、戸惑いながらもまずは配達員にこれまでの事情を説明した。その話によると、現在ジキルが危険な状態にあるのだという。
元々、彼は権天使によって限界を超えた寵愛の使用を強制させられたのだ。そんなことをすれば、体の何処かに致命的な欠陥が生じるようになっても不思議ではない。むしろ、これまでよく保ったものである。
海上憲兵において天使の寵愛持ちという希少な人材であるジキルが危篤に陥っているだけでも深刻な状況なのに、問題は他にもまだ存在していた。チェーンが光天使と契約を結んだことによる、チェレンの国土および国民の消失である。
嵐に続いて発生したこの異常現象は、残された国民たちに混乱を齎していた。二十年前の『大いなる死』直後の暴動も斯くやである。
もはや、海上憲兵が治安への介入を狙っている場合ではない。このままだと、チェレン王国そのものが崩壊してしまうのだから。
「せめてオーロラがいれば、彼女が持つ女王という肩書で国民を鎮圧することが出来たかもしれませんが、いつの間にか姿を消していまして……。いったい何処に行ったのやら」
「…………」
憲兵の話を聞き終えた配達員は、押し黙ったままロータローとキロリッターの顔を見比べる。
事情は分かった。現在チェレン王国を襲っているいくつかの災害はチェーン女王がきっかけであり、ロータローたちはあくまでそれに巻き込まれ、応戦したに過ぎず、国の転覆を目論んでいたわけではない。
寧ろ、海上憲兵ですら対処できなかったチェーン暴走事件を解決してみせたという意味では、偉大なる貢献者と言っても良いだろう。功労賞が与えられてもおかしくない働きである。
けれども、『シットローズ号』が海上憲兵から追われる立場であるということは変わらない。
しかし。
しかし、だ。
一刻も早く解決すべき事態が山積みになっているチェレン王国の現状を理解した上で尚、勝てるかどうかも分からないキロリッターとの戦闘を選択するというのは些か愚行が過ぎるのではないだろうか。
「……仕方ありませんね」
優先順位を決定させた配達員は、歯を食いしばった後、ロータローたちを見た。
「今回は見逃してあげましょう。今は他にやることがありますし……それに、復帰直後に伝説の吸血鬼と戦うというのはやや荷が重い。ええ、本当に腹立たしいですよ、まったく」
「あら、まるで絶好調なら私といい勝負が出来たみたいな言い方じゃない? 雑魚ってすぐ体調とか状況を言い訳にして逃げるのよねえ~」
配達員はキロリッターの煽りに青筋を立てるなんて真似はせず、憲兵の方を向いた。その顔は相変わらずの無表情だというのに、見つめられた憲兵はまるで蛇に睨まれた蛙のように震えあがった。
「まずはジキル大佐の元に向かいましょう。最終的には本部に連れ帰って詳細な検査をする必要がありますけど、元天使の僕がいれば、ここでも応急処置程度のことはやれるはずですから」
配達員がそう言うと、彼と憲兵の頭上に輪が現れた。
「ああ、それと──」
そこで、配達員は横目でチェーンを見やり、彼女の真上にも輪を出した。
「彼女も連れて行って治療しましょう」
「えっ」
声を上げたのは憲兵だ。彼にとってチェーンは、つい数時間前まで暗殺対象だったのである。そんな人物を連れて行くどころか治療するという配達員の提案に、驚かないわけがなかった。
「彼女は今回の騒動の中心人物ですからね。二種類の天使と契約を結んでいるという資料価値の高さもあります。このまま野垂れ死にさせて終わりというわけにはいかないでしょう」
「そ、そうですが……」
憲兵は反論しようとしたが、続けて出た言葉は何もなく、結局そのまま口を閉じることとなった。
三人は輪に飲み込まれ、ここではない何処かへと飛んで行った。
「…………」
移動の刹那、配達員はこれからやる仕事のことを考えて、頭痛を感じていた。パトロールのつもりで来てみれば、国家を揺るがす大事件が起きていたのだ。そりゃ頭痛のひとつやふたつは感じても仕方あるまい。
しかし彼は、この事態を面倒に思うと同時に、大きなチャンスだと考えていた。
チェーンが意識不明の重体になり、オーロラは姿を消した現在、チェレン王国を率いる存在はいないも同然である
では、このタイミングで、新王家とも旧王家とも異なる新しい勢力である海上憲兵が国の運営に介入すれば、チェレン王国の支配権をスムーズに得ることができるのではないだろうか。
ジキルの治療を終えたら、すぐさま憲兵たちを率いて人命救助や暴徒鎮圧をおこない、国民たちを落ちつけた後に、国の中枢に手を伸ばそう。あっという間にチェレン王国を掌握できるはずだ。なにせ、邪魔となる存在はいないのだから。
海上憲兵の加盟国を増やせば、配達員が敬愛してやまないアトランティス総帥は喜んでくれるかもしれない。いや、喜んでくれるだろう。喜ぶに決まってる。
そんな妄想をしていると、機能を失って久しい頬の筋肉が緩んだような気がした。『シットローズ号』を見逃すことになったことは心底悔しいが、喜ぶアトランティスの顔を想像すれば、その悔しさも多少は晴れると言うものであった。にこにこ。
去って行く配達員たちを見届けたロータローは、一触即発の状況から解放された安堵感を噛み締めていた。
疲れからか体から力が抜け、地面に倒れ込む。雨に濡れた地面の感触は不快だったが、そんなことを気にしていられないほどに体が疲れ切っている。
指先ひとつ動かせそうにない。誰かの手を借りなくては『シットローズ号』への帰還は不可能である。
「……なあ、キロリッター」
ロータローは視線だけを動かし、キロリッターが居る方向を見た。そこには誰も居なかった。
「嘘だろ⁉ 普通置いていくか⁉」
誰にも届かないツッコミが響き渡る。
事が済んだらさっさと帰るとは……。どこまでも自己中心的なキロリッターだった。
このまま雨に打たれ続けるのかと危惧するロータロー。──しかし、そうはならなかった。
背後から足音が聞こえる。首を動かせないロータローは、振り向かないまま言った。
「……リルか?」
「そうっすよ、ロータローくん。どうやら、チェーンの件はなんとかなったようっすね。お互い無事で何よりっす」
光速で吹き飛ばされたばかりとは思えないほどに軽妙な口調で喋るリルだが、その足取りはふらついており、肉体に与えられたダメージを隠せずにいた。
「頑丈さが売りのゾンビっすからね。蹴りを一発食らったくらいじゃ死なないっすよ。ロータローくんを抱えて船に戻るくらいはできると思うっす。それともアレっすか? 船の護衛にあたってるマリィちゃんを呼んできたほうが良いっすかね」
「マリィを俺の運搬係みたいに言うのはやめろ」
ともあれ、リルが来てくれて助かった。このまま誰も来なければ、雨に打たれ続けていただろう。ひょっとするとキロリッターは、付近にリルがいるのを察して、「だったらコイツに運ばせよう」と考えたのかもしれない。この前のツーテルクトップへの本の返却と言い、他人に仕事を押し付けがちな吸血鬼である。
「んー、そうかもしれないっすけど、キロリッターの姉さんが船にすぐ戻ったのは別の理由もあるんじゃないすかね」
リルはそう言って、空を見上げた。
その時、ロータローは気が付いた。降り注ぐ雨の量が急激に減少していることに。
滝のようだった豪雨は小雨程度にまで衰え、真っ黒な曇天はその厚みを段々と薄めている。やがて雲に切れ間ができ、路地に光が射しこむ。
肌に突き刺さることがない、柔らかくて暖かい日光だった。




