拉致
怪物が、丈高い草の間から躍りかかった。
低く伏せた身体。背を覆う黒い突起は、尾の先まで連なっている。大きく開いた口から鋭い牙が覗き、粘つく唾液が糸を引いた。
リンは退かなかった。
怪物が迫るのを待ち、爪が届く寸前で身を傾ける。
巨体が脇を通り過ぎた。
リンはその動きに合わせて振り向き、後ろ脚へ剣を叩き込んだ。
刃が関節と骨の隙間へ食い込む。
怪物は足をもつれさせ、土の上へ転がった。それでもすぐに向き直り、起き上がろうとする。
すでにリンが間合いへ入っていた。
剣が一度だけ振り下ろされる。
咆哮が途切れた。
怪物の身体は草の中でしばらく痙攣し、やがて動かなくなった。
リンはその傍らに立った。呼吸一つ乱していない。布で刃を拭い、鞘へ収めた。
木の柵の向こうから、幼い声がした。
「死んだの?」
振り返る。
ナスリンが家の前に立ち、自分の腕より長い棒を握っていた。戦うつもりらしいが、震える膝がすべてを台無しにしている。
リンは眉を寄せた。
「中にいなさいと言ったでしょう」
ナスリンは棒を持ち上げた。
「手伝おうと思って」
「何をして?」
少女は手の棒を見て、それから巨大な怪物へ目を向けた。
「叩く」
「そのあとは?」
少し考える。
「逃げる」
リンは顔を伏せ、小さな笑みを隠した。
「見事な作戦ね」
布を怪物の死骸へ放り、家へ向かう。
二人を囲む丘は緑に覆われ、静かに連なっていた。低い木々の間に、苔むした岩が覗いている。
高い城壁も、塔もない。
一族の名を掲げる旗もない。
森の端に建つ、ただの木造の家だった。
ナスリンが近寄ってくる。
「また来る?」
リンは少女の頭へ手を置いた。
「今日は来ないわ」
二人は家へ入った。
小さな鍋の下で火が燃え、室内には薬草の匂いが満ちている。リンは剣を扉のそばへ置き、怪物の爪に裂かれた袖を繕うため腰を下ろした。
ナスリンは向かいに座り、針が布を行き来するのを眺めていた。
不意に尋ねる。
「ここに来る前にも、家があったの?」
リンの手が止まった。
少女を見る。
ナスリンは何年も前、怪物に両親を奪われた。リンが見つけた時には、横倒しになった荷車の中へ隠れ、泣き声を聞かれまいと自分の手を噛んでいた。
あの日から、過去について多くを尋ねたことはない。
リンは答えた。
「あったわ」
「大きかった?」
針が再び動き始める。
「大きすぎるくらいに」
「一人で暮らしてたの?」
糸が布を抜け、また止まった。
「弟がいた」
ナスリンの目に興味が灯る。
「リンより年上?」
「年下よ」
「守ってたの?」
リンは自分の指を見つめた。
「守ろうとした」
*
ザラン宮を出たあと、リンはハーマンが選んだ家で暮らした。
囚人のように扱われたわけではない。
広い部屋を与えられ、使用人も教師も付き、外出のたびに護衛が同行した。
何一つ不足はなかった。
ただ一つ、彼女が望んだものを除いて。
リンが再びザラン宮を訪れるまで、数か月かかった。
飾り気のない服をまとい、馬車も護衛も伴わずに門前へ立ち、弟に会わせてほしいと願い出た。
衛兵は中へ通さなかった。
代わりに、ハーマンが出てきた。
指揮官の外套をまとい、鉄門の向こうへ立つ。その姿は、父娘の会話ではなく軍務に臨んでいるかのようだった。
リンが言う。
「あの子に会わせてください」
ハーマンは答えた。
「宮へ戻すつもりはない」
「戻りたいとは言っていません。ただ、会いたいだけです」
「お前を見れば、あいつは残れと言う」
「それの何がいけないのですか」
ハーマンは答えなかった。
リンは一歩近づく。
「私の弟です」
「あいつの将来に責任を負うのは私だ」
「その将来のために、愛する人をすべて失わせる必要はありません」
ハーマンの目に、かすかな変化が走った。
だが、声は揺るがない。
「お前が戻れば、私があいつから断ち切ろうとしてきたものまで戻る」
「私は、あの子を過去へ戻そうとしているのではありません」
リンは父をまっすぐ見つめた。
「一人ではないと、思い出させたいだけです」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがてハーマンが言う。
「帰れ」
リンは別れを告げなかった。
二度と頼みもしなかった。
それでも、密かに宮の周囲へ戻ってきた。
ある時は、使われなくなった庭園の壁に隠れ、シグランが手首から血を流すまで一人で訓練する姿を見た。
ある時は、衛兵の間を顔を上げて歩く弟を見た。その身体は、着せられた外套よりもまだ小さかった。
ある時は、ハーマンの前で倒れるところを見た。
誰かが手を差し伸べるのを待った。
誰も動かなかった。
シグランは一人で立ち上がった。
リンは遠くから見守り、指が痛むほど外套の端を握り締めていた。
一度だけ、シグランが訓練場の中央で足を止め、リンの隠れている場所へ振り向いたことがある。
見えるはずはない。
それでも、長い間そこを見つめていた。
近づかれる前に、リンは身を引いた。
そんな訪問が何年も続いた。
そして、途絶えた。
迎え入れてくれた家を離れても生きていけるようになると、リンは行き先を告げずに旅立った。
アルマザから遠ざかった。
ザラン宮からも。
壁の向こうから弟を見守るため、何度も歩いた道からも。
それでも、シグランを思わない日は一日もなかった。
*
ナスリンの声が、リンを現在へ引き戻した。
「弟は、リンがどこにいるか知ってる?」
針が布の上で止まる。
「知らないわ」
「知ってほしくないの?」
リンは窓の外へ目を向けた。
森と丘のはるか向こうに、北がある。
しばらく黙ったあと、答えた。
「私が望むことなんて、もうあの子には大切ではないのかもしれない」
ナスリンは眉を寄せた。
「私に弟がいたら、知りたいって思うよ」
リンは少女を見る。
そして、目には届かない小さな笑みを浮かべた。
「だから、あなたは私より勇敢なのね」
*
日の光が届かない別の場所で、アズロンは長い石卓の上座に座っていた。
眼前にはアルマザの地図が広げられ、四隅を黒い金属片で押さえられている。
右側にスカイが立っていた。
向かいには、肩へ包帯を巻いたカインが座っている。その隣では、青ざめたイーラが震える指を卓の下へ隠していた。
ライだけは立ったままだった。
負傷した身体では楽に立っていられない。それでも、座ることを拒んでいた。
「スカイと一緒に行かせてくれ」
アズロンは彼を見なかった。
「駄目だ」
ライの顎に力が入る。
「シグランは、俺の仲間を二人殺した」
「その怒りのせいで、お前は洞窟で死にかけた」
ライは声を落とした。
「二度と同じことはしない」
アズロンが顔を上げる。
「そうはならない。お前は行かないからだ」
沈黙が落ちた。
カインは地図の上に置かれた金属片の一つを指で回した。
「アルマズ隊は、予想より早く学んだな」
スカイが言う。
「ラカンも、洞窟が目的ではなかったと気づくには十分なものを見た」
「だが、本当の目的までは分かっていない」
アズロンは、帝都を示す金属片へ触れた。
「ハーマンが我々を追うため、どの手を差し向けるのか。それをさらけ出させる」
カインがイーラを見る。
「さらけ出したのは、あの部隊だけじゃないようだがな」
イーラは顔を上げなかった。
アズロンが言う。
「話せ」
しばらく黙ったあと、イーラは口を開いた。
「ケメンを持たない、あの少年……」
言葉が途切れる。
ヤザンの意識へ術を差し込もうとした時、目の前に開いた深みが蘇る。
虚無でありながら、虚無とは違うもの。
眠ったまま、それでも彼女の存在に気づいた何か。
アズロンが尋ねる。
「何を見た?」
「分からない」
「ケメンか?」
「違う」
カインが片眉を上げた。
「ただの空っぽに、膝をつかされたのか?」
イーラは拳を握った。
「何もないとは言ってない」
アズロンが尋ねる。
「もう一度、見つけられるか?」
ためらいが落ちた。
「分からない」
アズロンはしばらく彼女を見つめ、やがてスカイへ視線を移した。
「初めてザラン宮へ近づいた時のことを覚えているか?」
スカイの笑みは消えなかった。
だが、そこからわずかに嘲りが薄れた。
「覚えています」
*
三年前、二人は綿花と布を運ぶ隊商に紛れ、アルマザの帝都へ入った。
アズロンは裕福な商人の服をまとい、明るい色の布で髪を隠した。スカイはその後ろを歩き、荷の記録を扱う助手を装っていた。
他の商人たちと同じように門をくぐった。
荷車は調べられた。
木箱の数も確認された。
書類は入城する隊商の記録と照合された。
偽造された書類だった。
だが、それを作った者はアルマザの印章だけでなく、隊商の記録まで知っていた。
だから、検査を通過した。
二人は疑いを持たれることなく帝都へ入った。
すぐにザラン宮へ近づきはしなかった。
二日間を市場で過ごした。布を少しずつ売り、綿花を大量に買う家について尋ね、辺りにいることが不自然ではなくなるまで待った。
三日目、宮の向かいを通る道へ入った。
門は高く、衛兵は入口と屋根の上へ配置されていた。並の者が利用できる死角など、どこにもない。
だが、スカイが探していたのは死角ではなかった。
距離だった。
ゆっくりと知覚を伸ばし、門と壁、その壁と内庭の間にある空間をたどっていく。
越えようとはしない。
ただ測っていた。
その時、内門が開いた。
ザランの紋章を掲げた、黒い箱馬車が現れる。
中に誰がいるのか、アズロンには見えなかった。
衛兵も、乗っている者の名を告げなかった。
少数の騎士に囲まれた馬車が、道へ進み出る。
二人の前を通り過ぎた瞬間、スカイの知覚が、距離とは異なる何かへ触れた。
足が止まる。
馬車の背後で、巨大な気配が広がった。
それは通りへ噴き出しはしなかった。
人々を叫ばせることも、馬を怯えさせることもない。
宮へ見えない手を伸ばしていたのは、二人だけだった。だからこそ、その気配に触れたのも二人だけだった。
一瞬、スカイは、この場所そのものが閉じて身体を押し潰すような感覚に襲われた。
アズロンの肺からは、空気が消えた。
力の源がどちらなのかは分からない。
馬車か。
宮か。
それとも、あの瞬間に二つの間を通った何かなのか。
ただ一つ、それが自分たちに気づいたことだけは分かった。
スカイは即座に知覚を引いた。
二人とも、二度と馬車へ目を向けなかった。
そのまま歩き続ける。
最初の路地を曲がり、さらに次の路地へ入り、宮の衛兵から十分に離れた。
そこでようやく、スカイが壁へ手をついた。
こめかみを汗が伝っている。
アズロンが尋ねた。
「感じたか?」
スカイはゆっくり息を整えた。
「はい、首領」
「ハーマンのものか?」
スカイは首を横に振った。
「違います」
顔の脇を伝う汗を拭う。
「あの男の気配なら、以前にも知覚したことがある。今の力は、ハーマンのものではありません」
アズロンは路地の先へ目を向けた。
馬車はもう見えない。
それでも、その扉に刻まれていたザランの紋章が目に残っていた。
「なら、あの家には別の何かがいる」
スカイが言う。
「あの力が馬車から出たのかどうかも分かりません」
「馬車が宮を出たのと同時だった」
「同時に起きたというだけでは、証拠になりません」
アズロンは笑った。
「だが、始まりにはなる」
古い光景が蘇った。
顔にこびりついた土。
口の中の血。
立ち上がることさえできない、小さな身体。
あの日、若きハーマンは初めてアズロンの前に立っていた。拳の周囲で空気が縮んでいた。
何を言われたのか、すべては覚えていない。
覚えているのは、あの時の感覚だけだ。
弱かった。
小さかった。
自分を見ることさえなく押し潰せる力の下にいた。
意識が路地へ戻る。
アズロンは親指で唇をなぞった。古い血の味を今も感じているかのように、笑みを深める。
「あれが何だったのか、知りたい」
スカイが彼を見た。
*
アズロンは帝都の地図から手を離した。
スカイが言う。
「三年、待ちました」
アズロンが答える。
「その間に、他の者とは異なる炎を持つザランの後継者が現れた」
カインが言った。
「だから、あの時感じた力はそいつのものだと決めたわけか」
「決めてはいない」
アズロンは顔を上げた。
「確かめる」
イーラを示す。
「もう一人の少年の内にあったものには名がなく、こいつも二度と触れられない」
それから、地図に描かれたザラン宮へ指を置いた。
「だが、シグランなら名も、血も、炎も見えている」
イーラが低い声で言う。
「あの少年は、弱くない」
「弱いとは言っていない」
アズロンはスカイへ向き直った。
スカイは小さな紙片を取り出し、地図の上へ置いた。
「訓練は日暮れ前に始まる。終了後、ハーマンは指揮棟へ戻る。後継者はケメンが落ち着くまで、内庭に残る」
カインが尋ねる。
「衛兵は?」
「持ち場を離れない」
スカイの顔に薄い笑みが浮かぶ。
「通り抜ける必要もない」
アズロンが尋ねた。
「確かな情報か?」
「三年前、入城用の書類を寄越したのと同じ経路から届きました」
短い沈黙が落ちた。
その情報源が誰なのか、誰も尋ねなかった。
アズロンが言う。
「ザラン宮の守りは?」
スカイは宮の図を見つめた。
「三年前の私には、あれほどの防御の内側にある、見えない距離を折り畳むことはできなかった」
視線を上げる。
「今は、内庭の位置も、彼がそこにいる時刻も、最も近い回廊までの距離も分かっている」
「連れ出せるか?」
「遅れなければ」
アズロンが言う。
「殺すな」
スカイが笑う。
「商品の価値は分かっています」
アズロンの目つきが変わった。
スカイの笑みが、わずかに薄れる。
「商品ではない」
アズロンはザラン宮を示す印の上で、指を握り込んだ。
「扉だ」
そして、命じた。
「ザランの後継者を、生きたまま連れてこい」
*
日暮れが近づく頃、ザラン宮の訓練場は炎の熱に満ちていた。
シグランが前へ踏み込む。
青い炎が、身体の輪郭を越えない薄い層となって前腕を包んでいた。
ハーマンは、ケメンを一切表へ出さずに立っている。
シグランはその胸へ拳を放った。
ハーマンがわずかに身を傾け、拳は肩のすぐそばを通り過ぎる。
シグランは、その動きを無駄にしなかった。
足元から短く炎を噴かせ、空中で身体の向きを変える。回転した脚が、ハーマンの脇腹へ迫った。
ハーマンは前腕を上げる。
蹴りがぶつかった。
二人の間で青い炎が弾け、石床から薄い塵が舞い上がる。
着地したシグランは、すぐに身を沈めてハーマンの手をかわした。
指先が髪の上を掠める。
二歩退く。
炎は広げない。
すべてを拳へ引き戻し、さらに青く、さらに小さくなるまで圧縮した。
ハーマンは、その手を見ていた。
「炎を圧縮することに気を取られ、肩の守りを忘れている」
シグランは肩を見なかった。
「なら、狙ってみろ」
ハーマンが動く。
シグランには、踏み出した瞬間が見えなかった。
見えたのは、がら空きの肩へ迫る手だけだった。
身体をひねり、拳を開く。
二人の間を、青い炎が短い弧となって走った。
ハーマンは追撃を止め、半歩だけ足を引いた。炎が外套の前を通り過ぎる。
すべてが静止した。
青い火の粉が石床へ降り、消えていく。
シグランは父の足元を見た。
半歩。
それだけだった。
だが、これまで一度も、父にその半歩を退かせたことはなかった。
顔を上げる。
ハーマンも自分の足元を見ていた。
やがて、引いた足を元の位置へ戻す。
シグランは待った。
ハーマンが言う。
「まだ遅い」
シグランの顎が強張る。
再び踏み込んだ。
今度は、ハーマンが待ち受けていた。
腕の届く間合いへ入った瞬間、手首を打たれて拳が逸れる。ハーマンはそのまま脇へ回り、掌を胸の前へ置いた。
手は、触れる寸前で止まった。
だが、そこから濃密な圧力が炸裂した。
シグランの身体が後方へ弾かれた。石床を滑った両足が、訓練場の縁でようやく止まる。
腕を覆う炎の一部が消えた。
ハーマンが言う。
「相手に殺す気があれば、二手目で終わっていた」
シグランは重い息を吐いた。
「だが、父上は退いた」
ハーマンはしばらく黙っていた。
「それでも、お前の負けだ」
一人の士官が訓練場へ入ってきた。
だが、ハーマンが目で許可を与えるまで、端で足を止めていた。
近づき、一礼する。
「最高司令官、指揮棟へ緊急報告が届いております」
「どこからだ」
「東部国境の監視員からです」
ハーマンはシグランへ最後の一瞥を向けた。
「訓練場を出る前に、呼吸を整えろ」
士官とともに背を向ける。
シグランが言った。
「訓練はまだ終わっていない」
ハーマンは振り返らずに足を止めた。
「私に一撃も入れられなかった時点で、終わっている」
そのまま歩き去った。
シグランは、父の姿が回廊の向こうへ消えるまで見送った。
四つの扉には、今も衛兵が立っている。上階の回廊でも、別の巡回隊がいつもどおりの時刻に動いていた。
内庭は無人ではない。
それでも、静けさはすぐに戻ってきた。
シグランは一本だけ立つ木のそばにある石の縁へ腰を下ろした。
片手を上げる。
炎を圧縮し続けたせいで、指がわずかに震えていた。
鞄を開き、騎士の藁人形を取り出す。
短いほうの腕を見つめた。
腰に残る暗い縫い目を、指でなぞる。
――大切な人が、怖がらずに済むように力を持つの。
空へ目を向ける。
学院へ続く道を遠ざかっていったヤザンの背中が、再び脳裏へ浮かんだ。
――ここに泊まっていけ。
シグランは唇を噛み、藁人形を見る。
「馬鹿らしい」
人形へ言ったのか、自分へ言ったのかは分からなかった。
背後で空気が動いた。
風ではない。
揺れていた木の葉が、途中で止まった。
シグランは顔を上げる。
向かいの扉は元の場所にある。
なのに、急に遠くなったように見えた。
自分と回廊の間にある石床が伸び、次の瞬間には縮む。
振り返った。
空中に細い黒線が浮かんでいた。
中央から広がり、両端が内側へ折れ込んでいく。
そこからスカイが現れた。
近い。
内庭の入口とシグランの座る場所、その距離が許すよりもはるかに近かった。
シグランは即座に立ち上がった。
藁人形を握り、もう片方の手へ青い炎を灯す。
スカイが言った。
「首領がお待ちだ。ザランの後継者」
シグランは退かなかった。
背後の空間の裂け目を一瞥し、次にスカイの笑みを見る。
「自分では来ず、手下を寄越したのか」
拳を包む炎が強まる。
「臆病者め」
返事を待つことなく踏み込んだ。
足元から炎を噴かせ、一気に加速する。
燃える拳が、スカイの顔へ迫った。
二人の間の距離が折れ曲がる。
スカイの足は動いていない。それでも、一歩、二歩と遠ざかっていく。
だが、シグランは攻撃を止めなかった。
拳を開き、折り畳まれた距離の中へ、炎を細い線となって放つ。
炎はスカイの肩を掠め、肩口を焼いた。
その笑みが薄れる。
シグランは勢いのまま身体を返し、横から蹴りを放った。
スカイが、再び空間を折り畳む。
脚は目の前を空振りした。
だが、そこから放たれた炎は最後の瞬間に軌道を変え、スカイの頬へ触れた。
スカイの顔が傾く。
頬に、細い赤い線が浮かんだ。
指先についた血を見てから、シグランへ目を上げる。
今度は、笑っていなかった。
「聞いていたより、いい炎だ」
「お前の首領に、自分で試しに来いと伝えろ」
シグランは空へ掌を向けた。
鋭い青炎が打ち上がり、内庭の壁を越え、警報の合図となって宮の上空へ昇った。
同時に、回廊から衛兵たちの声が響く。
シグランは最も近い扉へ向き直った。
スカイを倒そうとはしなかった。
衛兵のところへ辿り着くだけでいい。
三歩、進む。
内庭を出る一歩を踏み出した瞬間、再び目の前にあの木が現れた。
同じ場所へ戻されていた。
シグランの目が一瞬だけ止まる。
距離は、道を閉ざしたのではない。
彼を引き戻したのだ。
背後からスカイが襲いかかる。
シグランが身を沈めると、手が頭上を通り過ぎた。すぐに身体を回し、胸へ青い炎を放つ。
スカイが掌を開く。
炎は空中で折り畳まれ、細い亀裂へ呑まれて、その身体へ届く前に消えた。
衛兵たちが扉から駆け込んでくる。
ほんの数歩の距離だった。
だが、衛兵とシグランの間の道が突然伸びた。いくら足を動かしても、距離は縮まらない。
一人がシグランの名を叫んだ。
振り返らない。
残った炎を全身へ集め、前方へ一気に爆発させた。
スカイへ届く。
焼けた肩を掴み、指を食い込ませる。
二人の間で青い炎が燃え上がった。
スカイの目が痛みに細まる。
だが、その手がシグランの手首を掴んだ。
空間が折り畳まれる。
足元から地面が引き抜かれるような感覚が走った。
シグランはもう片方の拳で、騎士の藁人形を強く握った。
折り畳まれる空間へ抗い、全身から炎を一度に噴き上げる。
内庭が震えた。
足元の石がひび割れる。
それでも、あらゆる方向から距離が閉じてきた。
スカイが耳元へ顔を寄せる。
「時間切れだ」
シグランは顔を上げた。
その目は、まだ揺らいでいない。
「まだ始めてもいない」
声が亀裂の中へ消える。
空間が閉じた。
騎士の藁人形が石床へ落ちる。
一度だけ転がり、短い腕を扉へ向けたまま止まった。
次の瞬間、衛兵たちが内庭へ到達した。
残されていたのは、青い炎の痕跡と、ひび割れた石、そして焼けた布の匂いだけだった。
*
指揮棟で、ハーマンは東部国境から届いた報告書を読んでいた。
頁をめくる手が止まる。
目が見開かれた。
棟の壁を隔てた遠い場所で、一瞬だけ空気が歪んだ。
空間の折り畳み。
宮の中だ。
ハーマンは動いた。
向かいに座っていた士官の耳へ届いたのは、扉が壁へ叩きつけられる音だけだった。
ハーマンが内庭へ着いた時には、亀裂はすでに閉じていた。
入口で足を止める。
虚空へ手を伸ばしはしなかった。
シグランの名も呼ばない。
ただ、見た。
石床に残った青炎の痕跡。
壁の上へ伸びた焼け跡。
そして、藁人形。
近づかなかった。
持ち主を失った広い内庭に、小さく横たわっている。
一人の衛兵が拾おうと身を屈めた。
ハーマンが言う。
「触るな」
衛兵の手が止まった。
ハーマンは内庭へ足を踏み入れた。
焼け跡の位置、ひび割れの向き、石の縁から扉までの距離を目でたどる。
警報として放たれた炎の痕跡。
出口へ向かった、一度きりの試み。
シグランがどう戦ったのかを理解した。
そして、連れ去った男がどの扉からも入っていないことも。
衛兵たちへ顔を上げる。
「宮を封鎖しろ」
男たちは即座に動いた。
「調査が終わるまで、誰も出入りさせるな。訓練の時刻と場所、それに東部国境から届いた報告について知っていた者を、全員洗い出せ」
近衛隊長が尋ねる。
「最高司令官、侵入者の足取りを追いますか?」
「空間の痕跡を追え。あの男は、お前たちが歩いて追える道など残していない」
ハーマンは、数分前に自分が通った回廊へ目を向けた。
東部からの報告。
訓練の時刻。
内庭。
それぞれ異なる人間が握っていた情報だ。
だが、何者かが一つに集め、敵の手へ渡した。
ハーマンが命じる。
「ラカンを呼べ」
一度言葉を切り、付け加えた。
「アルマズ隊も全員集めろ」
*
三十分も経たないうちに、指揮棟に併設された作戦室の扉が閉ざされた。
長い卓の上には、アルマザの地図が広がっている。
ラカンは、ハーマンと向かい合う位置に立っていた。
その隣にヤザンとマヤがいる。
二人の間には、誰も座らない椅子が一つ残されていた。
ラーイド、アスマー、ワーイルのアルダ班と、アミール、ナーダ、アナスのアドナン班も集められていた。
アルダとアドナンの姿はない。
数日前、二人には別の命令が届き、それぞれ別部隊とともに帝都を発っていた。
なぜ、この時刻に学生まで呼ばれたのか。
誰も尋ねなかった。
ハーマンの顔を見れば、問いなど口にできなかった。
近衛隊長が短い報告書を卓へ置き、後ろへ下がる。
ハーマンが告げた。
「二十七分前、シグランがザラン宮の内庭から拉致された」
マヤの息が止まる。
地図のそばに置かれた器の中で、水が動いた。
一滴が縁から浮かび上がり、マヤが指を握ると同時に落ちる。
「怪我はしているのですか?」
ハーマンはマヤを見た。
「連れ去られるまで抵抗した」
マヤは卓の下で拳を握った。
怖がっていたのかとは聞かなかった。
答えは分かっている。
たとえ、空間を折り畳む敵と一人で向かい合っていても、シグランは誰にも恐れを見せない。
ヤザンは動かなかった。
ハーマンが自分を部隊から外そうとした日、その前へ立ったシグランの姿が蘇る。
守ってほしいと頼んだわけではない。
シグランも、ヤザンの許可など待たなかった。
あの時の声が、沈黙を貫く。
――こいつが外れるなら、そんなものは俺の部隊じゃない。
ヤザンは空席の背もたれを強く掴んだ。
ラカンが口を開く。
声は落ち着いていた。
だが、地図の端を掴む指が紙へ食い込み、皺を作っている。
「襲撃には、どれほどかかりましたか」
ハーマンが答える。
「侵入口が現れてから空間が閉じるまで、十秒未満だ」
「衛兵は相手を見ましたか」
「最後の瞬間だけだ」
「人相は?」
「お前の報告書にあった男と一致する」
ラカンの目が細くなる。
「スカイ」
「そうだ」
ラカンが尋ねる。
「シグランは何か痕跡を残しましたか」
「青い炎。警報の合図。それに、出口へ向かった一度の試みだ」
ラカンは黙った。
届かないと分かっている敵へ向かっていくシグランの姿が、脳裏に浮かぶ。
低い声で言った。
「あいつなら、当然抵抗する」
ワーイルは作戦室を囲む厚い壁を見た。
「衛兵を通らずに……ザラン宮へ入ったのか?」
声は震えていた。
それでも、卓から退かなかった。
アナスが答える。
「俺たちが守れる入り方をしなかったんだ」
彼はハーマンではなく、地図を見ていた。
やがて顔を上げる。
「シグランが一人になる時刻を、どうやって知った?」
重い沈黙が落ちた。
アミールの顔から、最後に残っていた笑みが消える。
アスマーとナーダが短く視線を交わした。
ハーマンが言う。
「誰かが教えたからだ」
続ける。
「今夜、我々が突き止めるべきものは二つある。これは、その一つだ」
アナスが尋ねた。
「もう一つは?」
「連中がシグランを連れ去った場所だ」
ナーダが言う。
「空間を折り畳む術は、騎士が追える道を残しません」
ハーマンは地図の東側を指した。
「ケメン観測班が、拉致の直後、東の森の上空に短い乱れを捉えた。正確な位置までは割り出せなかったが、黒の帳の動きが最近確認された地域と重なる」
ラカンが彼を見る。
「最高司令官が訓練場を離れたのも、東部国境から届いた報告が原因ですか」
「そうだ」
アナスの目が、地図に示された場所へ移った。
「その直後、同じ方角で空間の乱れが現れた」
ラカンが言う。
「報告が届いた時刻も、偶然ではない」
ハーマンの声は冷たかった。
「この作戦に、偶然など一つもない」
ラーイドが地図へ歩み寄る。
「この痕跡自体、わざと残された道かもしれません」
ラカンが答えた。
「おそらく、そうだ」
「また罠ということですか」
ハーマンが答える。
「そうだ」
マヤの拳に力が入る。
「でも、シグランはそこに一人でいる」
声は大きくなかった。
それでも、全員が彼女へ顔を向けた。
マヤは続ける。
「道が安全だと確認できるまで待てば、別の場所へ移されます」
アミールが言う。
「俺たちを追わせたいのなら、追いつけるだけの時間は残すはずだ」
アナスが答える。
「だが、すべてに備えられるほどの時間はくれない」
ヤザンは地図の東側を見つめた。
「なら、そこから始める」
マヤが振り向く。
二人の視線が重なった。
シグランを連れ戻すとは言わなかった。
マヤも、約束を求めなかった。
二人の間には、それで十分だった。
ラカンはハーマンへ目を上げた。
「最高司令官が追跡を指揮なさるのですか」
「いや」
何人かの顔に驚きが浮かんだ。
ラカンの表情は変わらない。
ハーマンが言う。
「この作戦を立てた者は、ザランの後継者を奪えば、私が帝都を離れると考えている」
地図を見渡す。
「そして、シグランの拉致は攻撃の半分にすぎない可能性もある。内側から敵へ道を開く者がいる間、最高司令官のいないアルマザを晒すつもりはない」
ラカンが言う。
「大部隊を動かせば、相手はシグランを移すでしょう」
「あるいは、殺す」
ハーマンの声は変わらない。
「アルマズ隊は小さく、速い。それに、お前たちはすでにスカイとその仲間に遭遇している」
ラカンをまっすぐ見る。
「敵のやり方を知っている。現場の指揮はお前に任せる」
ラカンは迷わず答えた。
「私が連れ戻します」
ハーマンの目が、彼を捉える。
「連れ戻すのは、部隊だ」
ラカンは黙った。
ヤザンとマヤを見る。
さらに、地図を囲む全員へ目を向けた。
瞳の奥にある懸念は消えていない。
だが、それはもう、一人の学生だけを案じる教官のものではなかった。
全員の命を背負う指揮官の重さへ変わっていた。
「我々が連れ戻します」
ラーイドが尋ねる。
「第一目標は、救出と拠点の追跡、どちらですか」
ハーマンが答えた。
「黒の帳の拠点を特定し、捕虜を生きたまま奪還する。二つが両立しない場合は、捕虜の命を優先しろ」
視線が一瞬だけ、シグランの空席へ止まった。
すぐにラカンへ戻る。
ラカンが尋ねた。
「内通者については?」
ハーマンは作戦室の閉ざされた扉を見る。
「私に任せろ」
それから、隊員たちを一人ずつ見渡した。
「東門から出ろ。観測班が、乱れを最後に捉えた地点を伝える。門を出たあとの判断は、ラカンに任せる」
そして、ヤザンへ目を向けた。
短い視線だった。
それでも、ヤザンはその重みを感じた。
数日前、ハーマンはヤザンをこの部隊から外そうとした。
その前へ最初に立ったのが、シグランだった。
今、最高司令官は残れとも、行けとも言わなかった。
選択を二人の間へ置いたままにした。
ヤザンは空席の背もたれから手を離した。
地図へ一歩近づく。
ハーマンは、ヤザンから視線を外した。
ラカンが命じる。
「準備しろ。十分後に出る」
全員が即座に動き、扉へ向かった。
ワーイルは青ざめたまま、それでも歩き出した。
アナスは小さな地図を折り畳み、外套の内側へしまう。
ナーダとアスマーは、観測道具と治療具を分け始めた。
ラーイドは馬を確認するため、先に部屋を出た。
アミールは、皮肉の一つも口にしなかった。
マヤは一瞬だけ、シグランの椅子のそばへ残った。
指で背もたれをなぞり、手を離す。
ヤザンが隣へ立った。
マヤは彼を見ずに言う。
「辿り着くわ」
ヤザンが答えた。
「ああ」
方法は、どちらにも分からなかった。
それでも、二人は並んで扉へ向かった。
ラカンはその後ろに立ち、部隊の全員が去っていくのを見ていた。
スカイが残した道は、待ち伏せへ続いているかもしれない。
敵は、彼らをそこへ踏み込ませるためにシグランを選んだ。
それでも、ラカンにはもう一つ分かっていることがあった。
もし他の誰かがシグランの立場にいたなら、真っ先に飛び込んでいくのはシグランだ。
そして、他の者の遅さが気に入らないだけだと、きっと言い張る。
ラカンは空席を最後に一度だけ見た。
それから、作戦室を出た。
その道が罠かもしれないと、全員が分かっていた。
だが、その先ではシグランが待っている。
誰一人、彼をそこへ置き去りにするつもりはなかった。




