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血の継承【改訂版】  作者: Salhi smail
第五章 黒の帳編

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拉致

怪物が、丈高い草の間から躍りかかった。


低く伏せた身体。背を覆う黒い突起は、尾の先まで連なっている。大きく開いた口から鋭い牙が覗き、粘つく唾液が糸を引いた。


リンは退かなかった。


怪物が迫るのを待ち、爪が届く寸前で身を傾ける。


巨体が脇を通り過ぎた。


リンはその動きに合わせて振り向き、後ろ脚へ剣を叩き込んだ。


刃が関節と骨の隙間へ食い込む。


怪物は足をもつれさせ、土の上へ転がった。それでもすぐに向き直り、起き上がろうとする。


すでにリンが間合いへ入っていた。


剣が一度だけ振り下ろされる。


咆哮が途切れた。


怪物の身体は草の中でしばらく痙攣し、やがて動かなくなった。


リンはその傍らに立った。呼吸一つ乱していない。布で刃を拭い、鞘へ収めた。


木の柵の向こうから、幼い声がした。


「死んだの?」


振り返る。


ナスリンが家の前に立ち、自分の腕より長い棒を握っていた。戦うつもりらしいが、震える膝がすべてを台無しにしている。


リンは眉を寄せた。


「中にいなさいと言ったでしょう」


ナスリンは棒を持ち上げた。


「手伝おうと思って」


「何をして?」


少女は手の棒を見て、それから巨大な怪物へ目を向けた。


「叩く」


「そのあとは?」


少し考える。


「逃げる」


リンは顔を伏せ、小さな笑みを隠した。


「見事な作戦ね」


布を怪物の死骸へ放り、家へ向かう。


二人を囲む丘は緑に覆われ、静かに連なっていた。低い木々の間に、苔むした岩が覗いている。


高い城壁も、塔もない。


一族の名を掲げる旗もない。


森の端に建つ、ただの木造の家だった。


ナスリンが近寄ってくる。


「また来る?」


リンは少女の頭へ手を置いた。


「今日は来ないわ」


二人は家へ入った。


小さな鍋の下で火が燃え、室内には薬草の匂いが満ちている。リンは剣を扉のそばへ置き、怪物の爪に裂かれた袖を繕うため腰を下ろした。


ナスリンは向かいに座り、針が布を行き来するのを眺めていた。


不意に尋ねる。


「ここに来る前にも、家があったの?」


リンの手が止まった。


少女を見る。


ナスリンは何年も前、怪物に両親を奪われた。リンが見つけた時には、横倒しになった荷車の中へ隠れ、泣き声を聞かれまいと自分の手を噛んでいた。


あの日から、過去について多くを尋ねたことはない。


リンは答えた。


「あったわ」


「大きかった?」


針が再び動き始める。


「大きすぎるくらいに」


「一人で暮らしてたの?」


糸が布を抜け、また止まった。


「弟がいた」


ナスリンの目に興味が灯る。


「リンより年上?」


「年下よ」


「守ってたの?」


リンは自分の指を見つめた。


「守ろうとした」


     *


ザラン宮を出たあと、リンはハーマンが選んだ家で暮らした。


囚人のように扱われたわけではない。


広い部屋を与えられ、使用人も教師も付き、外出のたびに護衛が同行した。


何一つ不足はなかった。


ただ一つ、彼女が望んだものを除いて。


リンが再びザラン宮を訪れるまで、数か月かかった。


飾り気のない服をまとい、馬車も護衛も伴わずに門前へ立ち、弟に会わせてほしいと願い出た。


衛兵は中へ通さなかった。


代わりに、ハーマンが出てきた。


指揮官の外套をまとい、鉄門の向こうへ立つ。その姿は、父娘の会話ではなく軍務に臨んでいるかのようだった。


リンが言う。


「あの子に会わせてください」


ハーマンは答えた。


「宮へ戻すつもりはない」


「戻りたいとは言っていません。ただ、会いたいだけです」


「お前を見れば、あいつは残れと言う」


「それの何がいけないのですか」


ハーマンは答えなかった。


リンは一歩近づく。


「私の弟です」


「あいつの将来に責任を負うのは私だ」


「その将来のために、愛する人をすべて失わせる必要はありません」


ハーマンの目に、かすかな変化が走った。


だが、声は揺るがない。


「お前が戻れば、私があいつから断ち切ろうとしてきたものまで戻る」


「私は、あの子を過去へ戻そうとしているのではありません」


リンは父をまっすぐ見つめた。


「一人ではないと、思い出させたいだけです」


二人の間に沈黙が落ちた。


やがてハーマンが言う。


「帰れ」


リンは別れを告げなかった。


二度と頼みもしなかった。


それでも、密かに宮の周囲へ戻ってきた。


ある時は、使われなくなった庭園の壁に隠れ、シグランが手首から血を流すまで一人で訓練する姿を見た。


ある時は、衛兵の間を顔を上げて歩く弟を見た。その身体は、着せられた外套よりもまだ小さかった。


ある時は、ハーマンの前で倒れるところを見た。


誰かが手を差し伸べるのを待った。


誰も動かなかった。


シグランは一人で立ち上がった。


リンは遠くから見守り、指が痛むほど外套の端を握り締めていた。


一度だけ、シグランが訓練場の中央で足を止め、リンの隠れている場所へ振り向いたことがある。


見えるはずはない。


それでも、長い間そこを見つめていた。


近づかれる前に、リンは身を引いた。


そんな訪問が何年も続いた。


そして、途絶えた。


迎え入れてくれた家を離れても生きていけるようになると、リンは行き先を告げずに旅立った。


アルマザから遠ざかった。


ザラン宮からも。


壁の向こうから弟を見守るため、何度も歩いた道からも。


それでも、シグランを思わない日は一日もなかった。


     *


ナスリンの声が、リンを現在へ引き戻した。


「弟は、リンがどこにいるか知ってる?」


針が布の上で止まる。


「知らないわ」


「知ってほしくないの?」


リンは窓の外へ目を向けた。


森と丘のはるか向こうに、北がある。


しばらく黙ったあと、答えた。


「私が望むことなんて、もうあの子には大切ではないのかもしれない」


ナスリンは眉を寄せた。


「私に弟がいたら、知りたいって思うよ」


リンは少女を見る。


そして、目には届かない小さな笑みを浮かべた。


「だから、あなたは私より勇敢なのね」


     *


日の光が届かない別の場所で、アズロンは長い石卓の上座に座っていた。


眼前にはアルマザの地図が広げられ、四隅を黒い金属片で押さえられている。


右側にスカイが立っていた。


向かいには、肩へ包帯を巻いたカインが座っている。その隣では、青ざめたイーラが震える指を卓の下へ隠していた。


ライだけは立ったままだった。


負傷した身体では楽に立っていられない。それでも、座ることを拒んでいた。


「スカイと一緒に行かせてくれ」


アズロンは彼を見なかった。


「駄目だ」


ライの顎に力が入る。


「シグランは、俺の仲間を二人殺した」


「その怒りのせいで、お前は洞窟で死にかけた」


ライは声を落とした。


「二度と同じことはしない」


アズロンが顔を上げる。


「そうはならない。お前は行かないからだ」


沈黙が落ちた。


カインは地図の上に置かれた金属片の一つを指で回した。


「アルマズ隊は、予想より早く学んだな」


スカイが言う。


「ラカンも、洞窟が目的ではなかったと気づくには十分なものを見た」


「だが、本当の目的までは分かっていない」


アズロンは、帝都を示す金属片へ触れた。


「ハーマンが我々を追うため、どの手を差し向けるのか。それをさらけ出させる」


カインがイーラを見る。


「さらけ出したのは、あの部隊だけじゃないようだがな」


イーラは顔を上げなかった。


アズロンが言う。


「話せ」


しばらく黙ったあと、イーラは口を開いた。


「ケメンを持たない、あの少年……」


言葉が途切れる。


ヤザンの意識へ術を差し込もうとした時、目の前に開いた深みが蘇る。


虚無でありながら、虚無とは違うもの。


眠ったまま、それでも彼女の存在に気づいた何か。


アズロンが尋ねる。


「何を見た?」


「分からない」


「ケメンか?」


「違う」


カインが片眉を上げた。


「ただの空っぽに、膝をつかされたのか?」


イーラは拳を握った。


「何もないとは言ってない」


アズロンが尋ねる。


「もう一度、見つけられるか?」


ためらいが落ちた。


「分からない」


アズロンはしばらく彼女を見つめ、やがてスカイへ視線を移した。


「初めてザラン宮へ近づいた時のことを覚えているか?」


スカイの笑みは消えなかった。


だが、そこからわずかに嘲りが薄れた。


「覚えています」


     *


三年前、二人は綿花と布を運ぶ隊商に紛れ、アルマザの帝都へ入った。


アズロンは裕福な商人の服をまとい、明るい色の布で髪を隠した。スカイはその後ろを歩き、荷の記録を扱う助手を装っていた。


他の商人たちと同じように門をくぐった。


荷車は調べられた。


木箱の数も確認された。


書類は入城する隊商の記録と照合された。


偽造された書類だった。


だが、それを作った者はアルマザの印章だけでなく、隊商の記録まで知っていた。


だから、検査を通過した。


二人は疑いを持たれることなく帝都へ入った。


すぐにザラン宮へ近づきはしなかった。


二日間を市場で過ごした。布を少しずつ売り、綿花を大量に買う家について尋ね、辺りにいることが不自然ではなくなるまで待った。


三日目、宮の向かいを通る道へ入った。


門は高く、衛兵は入口と屋根の上へ配置されていた。並の者が利用できる死角など、どこにもない。


だが、スカイが探していたのは死角ではなかった。


距離だった。


ゆっくりと知覚を伸ばし、門と壁、その壁と内庭の間にある空間をたどっていく。


越えようとはしない。


ただ測っていた。


その時、内門が開いた。


ザランの紋章を掲げた、黒い箱馬車が現れる。


中に誰がいるのか、アズロンには見えなかった。


衛兵も、乗っている者の名を告げなかった。


少数の騎士に囲まれた馬車が、道へ進み出る。


二人の前を通り過ぎた瞬間、スカイの知覚が、距離とは異なる何かへ触れた。


足が止まる。


馬車の背後で、巨大な気配が広がった。


それは通りへ噴き出しはしなかった。


人々を叫ばせることも、馬を怯えさせることもない。


宮へ見えない手を伸ばしていたのは、二人だけだった。だからこそ、その気配に触れたのも二人だけだった。


一瞬、スカイは、この場所そのものが閉じて身体を押し潰すような感覚に襲われた。


アズロンの肺からは、空気が消えた。


力の源がどちらなのかは分からない。


馬車か。


宮か。


それとも、あの瞬間に二つの間を通った何かなのか。


ただ一つ、それが自分たちに気づいたことだけは分かった。


スカイは即座に知覚を引いた。


二人とも、二度と馬車へ目を向けなかった。


そのまま歩き続ける。


最初の路地を曲がり、さらに次の路地へ入り、宮の衛兵から十分に離れた。


そこでようやく、スカイが壁へ手をついた。


こめかみを汗が伝っている。


アズロンが尋ねた。


「感じたか?」


スカイはゆっくり息を整えた。


「はい、首領」


「ハーマンのものか?」


スカイは首を横に振った。


「違います」


顔の脇を伝う汗を拭う。


「あの男の気配なら、以前にも知覚したことがある。今の力は、ハーマンのものではありません」


アズロンは路地の先へ目を向けた。


馬車はもう見えない。


それでも、その扉に刻まれていたザランの紋章が目に残っていた。


「なら、あの家には別の何かがいる」


スカイが言う。


「あの力が馬車から出たのかどうかも分かりません」


「馬車が宮を出たのと同時だった」


「同時に起きたというだけでは、証拠になりません」


アズロンは笑った。


「だが、始まりにはなる」


古い光景が蘇った。


顔にこびりついた土。


口の中の血。


立ち上がることさえできない、小さな身体。


あの日、若きハーマンは初めてアズロンの前に立っていた。拳の周囲で空気が縮んでいた。


何を言われたのか、すべては覚えていない。


覚えているのは、あの時の感覚だけだ。


弱かった。


小さかった。


自分を見ることさえなく押し潰せる力の下にいた。


意識が路地へ戻る。


アズロンは親指で唇をなぞった。古い血の味を今も感じているかのように、笑みを深める。


「あれが何だったのか、知りたい」


スカイが彼を見た。


     *


アズロンは帝都の地図から手を離した。


スカイが言う。


「三年、待ちました」


アズロンが答える。


「その間に、他の者とは異なる炎を持つザランの後継者が現れた」


カインが言った。


「だから、あの時感じた力はそいつのものだと決めたわけか」


「決めてはいない」


アズロンは顔を上げた。


「確かめる」


イーラを示す。


「もう一人の少年の内にあったものには名がなく、こいつも二度と触れられない」


それから、地図に描かれたザラン宮へ指を置いた。


「だが、シグランなら名も、血も、炎も見えている」


イーラが低い声で言う。


「あの少年は、弱くない」


「弱いとは言っていない」


アズロンはスカイへ向き直った。


スカイは小さな紙片を取り出し、地図の上へ置いた。


「訓練は日暮れ前に始まる。終了後、ハーマンは指揮棟へ戻る。後継者はケメンが落ち着くまで、内庭に残る」


カインが尋ねる。


「衛兵は?」


「持ち場を離れない」


スカイの顔に薄い笑みが浮かぶ。


「通り抜ける必要もない」


アズロンが尋ねた。


「確かな情報か?」


「三年前、入城用の書類を寄越したのと同じ経路から届きました」


短い沈黙が落ちた。


その情報源が誰なのか、誰も尋ねなかった。


アズロンが言う。


「ザラン宮の守りは?」


スカイは宮の図を見つめた。


「三年前の私には、あれほどの防御の内側にある、見えない距離を折り畳むことはできなかった」


視線を上げる。


「今は、内庭の位置も、彼がそこにいる時刻も、最も近い回廊までの距離も分かっている」


「連れ出せるか?」


「遅れなければ」


アズロンが言う。


「殺すな」


スカイが笑う。


「商品の価値は分かっています」


アズロンの目つきが変わった。


スカイの笑みが、わずかに薄れる。


「商品ではない」


アズロンはザラン宮を示す印の上で、指を握り込んだ。


「扉だ」


そして、命じた。


「ザランの後継者を、生きたまま連れてこい」


     *


日暮れが近づく頃、ザラン宮の訓練場は炎の熱に満ちていた。


シグランが前へ踏み込む。


青い炎が、身体の輪郭を越えない薄い層となって前腕を包んでいた。


ハーマンは、ケメンを一切表へ出さずに立っている。


シグランはその胸へ拳を放った。


ハーマンがわずかに身を傾け、拳は肩のすぐそばを通り過ぎる。


シグランは、その動きを無駄にしなかった。


足元から短く炎を噴かせ、空中で身体の向きを変える。回転した脚が、ハーマンの脇腹へ迫った。


ハーマンは前腕を上げる。


蹴りがぶつかった。


二人の間で青い炎が弾け、石床から薄い塵が舞い上がる。


着地したシグランは、すぐに身を沈めてハーマンの手をかわした。


指先が髪の上を掠める。


二歩退く。


炎は広げない。


すべてを拳へ引き戻し、さらに青く、さらに小さくなるまで圧縮した。


ハーマンは、その手を見ていた。


「炎を圧縮することに気を取られ、肩の守りを忘れている」


シグランは肩を見なかった。


「なら、狙ってみろ」


ハーマンが動く。


シグランには、踏み出した瞬間が見えなかった。


見えたのは、がら空きの肩へ迫る手だけだった。


身体をひねり、拳を開く。


二人の間を、青い炎が短い弧となって走った。


ハーマンは追撃を止め、半歩だけ足を引いた。炎が外套の前を通り過ぎる。


すべてが静止した。


青い火の粉が石床へ降り、消えていく。


シグランは父の足元を見た。


半歩。


それだけだった。


だが、これまで一度も、父にその半歩を退かせたことはなかった。


顔を上げる。


ハーマンも自分の足元を見ていた。


やがて、引いた足を元の位置へ戻す。


シグランは待った。


ハーマンが言う。


「まだ遅い」


シグランの顎が強張る。


再び踏み込んだ。


今度は、ハーマンが待ち受けていた。


腕の届く間合いへ入った瞬間、手首を打たれて拳が逸れる。ハーマンはそのまま脇へ回り、掌を胸の前へ置いた。


手は、触れる寸前で止まった。


だが、そこから濃密な圧力が炸裂した。


シグランの身体が後方へ弾かれた。石床を滑った両足が、訓練場の縁でようやく止まる。


腕を覆う炎の一部が消えた。


ハーマンが言う。


「相手に殺す気があれば、二手目で終わっていた」


シグランは重い息を吐いた。


「だが、父上は退いた」


ハーマンはしばらく黙っていた。


「それでも、お前の負けだ」


一人の士官が訓練場へ入ってきた。


だが、ハーマンが目で許可を与えるまで、端で足を止めていた。


近づき、一礼する。


「最高司令官、指揮棟へ緊急報告が届いております」


「どこからだ」


「東部国境の監視員からです」


ハーマンはシグランへ最後の一瞥を向けた。


「訓練場を出る前に、呼吸を整えろ」


士官とともに背を向ける。


シグランが言った。


「訓練はまだ終わっていない」


ハーマンは振り返らずに足を止めた。


「私に一撃も入れられなかった時点で、終わっている」


そのまま歩き去った。


シグランは、父の姿が回廊の向こうへ消えるまで見送った。


四つの扉には、今も衛兵が立っている。上階の回廊でも、別の巡回隊がいつもどおりの時刻に動いていた。


内庭は無人ではない。


それでも、静けさはすぐに戻ってきた。


シグランは一本だけ立つ木のそばにある石の縁へ腰を下ろした。


片手を上げる。


炎を圧縮し続けたせいで、指がわずかに震えていた。


鞄を開き、騎士の藁人形を取り出す。


短いほうの腕を見つめた。


腰に残る暗い縫い目を、指でなぞる。


――大切な人が、怖がらずに済むように力を持つの。


空へ目を向ける。


学院へ続く道を遠ざかっていったヤザンの背中が、再び脳裏へ浮かんだ。


――ここに泊まっていけ。


シグランは唇を噛み、藁人形を見る。


「馬鹿らしい」


人形へ言ったのか、自分へ言ったのかは分からなかった。


背後で空気が動いた。


風ではない。


揺れていた木の葉が、途中で止まった。


シグランは顔を上げる。


向かいの扉は元の場所にある。


なのに、急に遠くなったように見えた。


自分と回廊の間にある石床が伸び、次の瞬間には縮む。


振り返った。


空中に細い黒線が浮かんでいた。


中央から広がり、両端が内側へ折れ込んでいく。


そこからスカイが現れた。


近い。


内庭の入口とシグランの座る場所、その距離が許すよりもはるかに近かった。


シグランは即座に立ち上がった。


藁人形を握り、もう片方の手へ青い炎を灯す。


スカイが言った。


「首領がお待ちだ。ザランの後継者」


シグランは退かなかった。


背後の空間の裂け目を一瞥し、次にスカイの笑みを見る。


「自分では来ず、手下を寄越したのか」


拳を包む炎が強まる。


「臆病者め」


返事を待つことなく踏み込んだ。


足元から炎を噴かせ、一気に加速する。


燃える拳が、スカイの顔へ迫った。


二人の間の距離が折れ曲がる。


スカイの足は動いていない。それでも、一歩、二歩と遠ざかっていく。


だが、シグランは攻撃を止めなかった。


拳を開き、折り畳まれた距離の中へ、炎を細い線となって放つ。


炎はスカイの肩を掠め、肩口を焼いた。


その笑みが薄れる。


シグランは勢いのまま身体を返し、横から蹴りを放った。


スカイが、再び空間を折り畳む。


脚は目の前を空振りした。


だが、そこから放たれた炎は最後の瞬間に軌道を変え、スカイの頬へ触れた。


スカイの顔が傾く。


頬に、細い赤い線が浮かんだ。


指先についた血を見てから、シグランへ目を上げる。


今度は、笑っていなかった。


「聞いていたより、いい炎だ」


「お前の首領に、自分で試しに来いと伝えろ」


シグランは空へ掌を向けた。


鋭い青炎が打ち上がり、内庭の壁を越え、警報の合図となって宮の上空へ昇った。


同時に、回廊から衛兵たちの声が響く。


シグランは最も近い扉へ向き直った。


スカイを倒そうとはしなかった。


衛兵のところへ辿り着くだけでいい。


三歩、進む。


内庭を出る一歩を踏み出した瞬間、再び目の前にあの木が現れた。


同じ場所へ戻されていた。


シグランの目が一瞬だけ止まる。


距離は、道を閉ざしたのではない。


彼を引き戻したのだ。


背後からスカイが襲いかかる。


シグランが身を沈めると、手が頭上を通り過ぎた。すぐに身体を回し、胸へ青い炎を放つ。


スカイが掌を開く。


炎は空中で折り畳まれ、細い亀裂へ呑まれて、その身体へ届く前に消えた。


衛兵たちが扉から駆け込んでくる。


ほんの数歩の距離だった。


だが、衛兵とシグランの間の道が突然伸びた。いくら足を動かしても、距離は縮まらない。


一人がシグランの名を叫んだ。


振り返らない。


残った炎を全身へ集め、前方へ一気に爆発させた。


スカイへ届く。


焼けた肩を掴み、指を食い込ませる。


二人の間で青い炎が燃え上がった。


スカイの目が痛みに細まる。


だが、その手がシグランの手首を掴んだ。


空間が折り畳まれる。


足元から地面が引き抜かれるような感覚が走った。


シグランはもう片方の拳で、騎士の藁人形を強く握った。


折り畳まれる空間へ抗い、全身から炎を一度に噴き上げる。


内庭が震えた。


足元の石がひび割れる。


それでも、あらゆる方向から距離が閉じてきた。


スカイが耳元へ顔を寄せる。


「時間切れだ」


シグランは顔を上げた。


その目は、まだ揺らいでいない。


「まだ始めてもいない」


声が亀裂の中へ消える。


空間が閉じた。


騎士の藁人形が石床へ落ちる。


一度だけ転がり、短い腕を扉へ向けたまま止まった。


次の瞬間、衛兵たちが内庭へ到達した。


残されていたのは、青い炎の痕跡と、ひび割れた石、そして焼けた布の匂いだけだった。


     *


指揮棟で、ハーマンは東部国境から届いた報告書を読んでいた。


頁をめくる手が止まる。


目が見開かれた。


棟の壁を隔てた遠い場所で、一瞬だけ空気が歪んだ。


空間の折り畳み。


宮の中だ。


ハーマンは動いた。


向かいに座っていた士官の耳へ届いたのは、扉が壁へ叩きつけられる音だけだった。


ハーマンが内庭へ着いた時には、亀裂はすでに閉じていた。


入口で足を止める。


虚空へ手を伸ばしはしなかった。


シグランの名も呼ばない。


ただ、見た。


石床に残った青炎の痕跡。


壁の上へ伸びた焼け跡。


そして、藁人形。


近づかなかった。


持ち主を失った広い内庭に、小さく横たわっている。


一人の衛兵が拾おうと身を屈めた。


ハーマンが言う。


「触るな」


衛兵の手が止まった。


ハーマンは内庭へ足を踏み入れた。


焼け跡の位置、ひび割れの向き、石の縁から扉までの距離を目でたどる。


警報として放たれた炎の痕跡。


出口へ向かった、一度きりの試み。


シグランがどう戦ったのかを理解した。


そして、連れ去った男がどの扉からも入っていないことも。


衛兵たちへ顔を上げる。


「宮を封鎖しろ」


男たちは即座に動いた。


「調査が終わるまで、誰も出入りさせるな。訓練の時刻と場所、それに東部国境から届いた報告について知っていた者を、全員洗い出せ」


近衛隊長が尋ねる。


「最高司令官、侵入者の足取りを追いますか?」


「空間の痕跡を追え。あの男は、お前たちが歩いて追える道など残していない」


ハーマンは、数分前に自分が通った回廊へ目を向けた。


東部からの報告。


訓練の時刻。


内庭。


それぞれ異なる人間が握っていた情報だ。


だが、何者かが一つに集め、敵の手へ渡した。


ハーマンが命じる。


「ラカンを呼べ」


一度言葉を切り、付け加えた。


「アルマズ隊も全員集めろ」


     *


三十分も経たないうちに、指揮棟に併設された作戦室の扉が閉ざされた。


長い卓の上には、アルマザの地図が広がっている。


ラカンは、ハーマンと向かい合う位置に立っていた。


その隣にヤザンとマヤがいる。


二人の間には、誰も座らない椅子が一つ残されていた。


ラーイド、アスマー、ワーイルのアルダ班と、アミール、ナーダ、アナスのアドナン班も集められていた。


アルダとアドナンの姿はない。


数日前、二人には別の命令が届き、それぞれ別部隊とともに帝都を発っていた。


なぜ、この時刻に学生まで呼ばれたのか。


誰も尋ねなかった。


ハーマンの顔を見れば、問いなど口にできなかった。


近衛隊長が短い報告書を卓へ置き、後ろへ下がる。


ハーマンが告げた。


「二十七分前、シグランがザラン宮の内庭から拉致された」


マヤの息が止まる。


地図のそばに置かれた器の中で、水が動いた。


一滴が縁から浮かび上がり、マヤが指を握ると同時に落ちる。


「怪我はしているのですか?」


ハーマンはマヤを見た。


「連れ去られるまで抵抗した」


マヤは卓の下で拳を握った。


怖がっていたのかとは聞かなかった。


答えは分かっている。


たとえ、空間を折り畳む敵と一人で向かい合っていても、シグランは誰にも恐れを見せない。


ヤザンは動かなかった。


ハーマンが自分を部隊から外そうとした日、その前へ立ったシグランの姿が蘇る。


守ってほしいと頼んだわけではない。


シグランも、ヤザンの許可など待たなかった。


あの時の声が、沈黙を貫く。


――こいつが外れるなら、そんなものは俺の部隊じゃない。


ヤザンは空席の背もたれを強く掴んだ。


ラカンが口を開く。


声は落ち着いていた。


だが、地図の端を掴む指が紙へ食い込み、皺を作っている。


「襲撃には、どれほどかかりましたか」


ハーマンが答える。


「侵入口が現れてから空間が閉じるまで、十秒未満だ」


「衛兵は相手を見ましたか」


「最後の瞬間だけだ」


「人相は?」


「お前の報告書にあった男と一致する」


ラカンの目が細くなる。


「スカイ」


「そうだ」


ラカンが尋ねる。


「シグランは何か痕跡を残しましたか」


「青い炎。警報の合図。それに、出口へ向かった一度の試みだ」


ラカンは黙った。


届かないと分かっている敵へ向かっていくシグランの姿が、脳裏に浮かぶ。


低い声で言った。


「あいつなら、当然抵抗する」


ワーイルは作戦室を囲む厚い壁を見た。


「衛兵を通らずに……ザラン宮へ入ったのか?」


声は震えていた。


それでも、卓から退かなかった。


アナスが答える。


「俺たちが守れる入り方をしなかったんだ」


彼はハーマンではなく、地図を見ていた。


やがて顔を上げる。


「シグランが一人になる時刻を、どうやって知った?」


重い沈黙が落ちた。


アミールの顔から、最後に残っていた笑みが消える。


アスマーとナーダが短く視線を交わした。


ハーマンが言う。


「誰かが教えたからだ」


続ける。


「今夜、我々が突き止めるべきものは二つある。これは、その一つだ」


アナスが尋ねた。


「もう一つは?」


「連中がシグランを連れ去った場所だ」


ナーダが言う。


「空間を折り畳む術は、騎士が追える道を残しません」


ハーマンは地図の東側を指した。


「ケメン観測班が、拉致の直後、東の森の上空に短い乱れを捉えた。正確な位置までは割り出せなかったが、黒の帳の動きが最近確認された地域と重なる」


ラカンが彼を見る。


「最高司令官が訓練場を離れたのも、東部国境から届いた報告が原因ですか」


「そうだ」


アナスの目が、地図に示された場所へ移った。


「その直後、同じ方角で空間の乱れが現れた」


ラカンが言う。


「報告が届いた時刻も、偶然ではない」


ハーマンの声は冷たかった。


「この作戦に、偶然など一つもない」


ラーイドが地図へ歩み寄る。


「この痕跡自体、わざと残された道かもしれません」


ラカンが答えた。


「おそらく、そうだ」


「また罠ということですか」


ハーマンが答える。


「そうだ」


マヤの拳に力が入る。


「でも、シグランはそこに一人でいる」


声は大きくなかった。


それでも、全員が彼女へ顔を向けた。


マヤは続ける。


「道が安全だと確認できるまで待てば、別の場所へ移されます」


アミールが言う。


「俺たちを追わせたいのなら、追いつけるだけの時間は残すはずだ」


アナスが答える。


「だが、すべてに備えられるほどの時間はくれない」


ヤザンは地図の東側を見つめた。


「なら、そこから始める」


マヤが振り向く。


二人の視線が重なった。


シグランを連れ戻すとは言わなかった。


マヤも、約束を求めなかった。


二人の間には、それで十分だった。


ラカンはハーマンへ目を上げた。


「最高司令官が追跡を指揮なさるのですか」


「いや」


何人かの顔に驚きが浮かんだ。


ラカンの表情は変わらない。


ハーマンが言う。


「この作戦を立てた者は、ザランの後継者を奪えば、私が帝都を離れると考えている」


地図を見渡す。


「そして、シグランの拉致は攻撃の半分にすぎない可能性もある。内側から敵へ道を開く者がいる間、最高司令官のいないアルマザを晒すつもりはない」


ラカンが言う。


「大部隊を動かせば、相手はシグランを移すでしょう」


「あるいは、殺す」


ハーマンの声は変わらない。


「アルマズ隊は小さく、速い。それに、お前たちはすでにスカイとその仲間に遭遇している」


ラカンをまっすぐ見る。


「敵のやり方を知っている。現場の指揮はお前に任せる」


ラカンは迷わず答えた。


「私が連れ戻します」


ハーマンの目が、彼を捉える。


「連れ戻すのは、部隊だ」


ラカンは黙った。


ヤザンとマヤを見る。


さらに、地図を囲む全員へ目を向けた。


瞳の奥にある懸念は消えていない。


だが、それはもう、一人の学生だけを案じる教官のものではなかった。


全員の命を背負う指揮官の重さへ変わっていた。


「我々が連れ戻します」


ラーイドが尋ねる。


「第一目標は、救出と拠点の追跡、どちらですか」


ハーマンが答えた。


「黒の帳の拠点を特定し、捕虜を生きたまま奪還する。二つが両立しない場合は、捕虜の命を優先しろ」


視線が一瞬だけ、シグランの空席へ止まった。


すぐにラカンへ戻る。


ラカンが尋ねた。


「内通者については?」


ハーマンは作戦室の閉ざされた扉を見る。


「私に任せろ」


それから、隊員たちを一人ずつ見渡した。


「東門から出ろ。観測班が、乱れを最後に捉えた地点を伝える。門を出たあとの判断は、ラカンに任せる」


そして、ヤザンへ目を向けた。


短い視線だった。


それでも、ヤザンはその重みを感じた。


数日前、ハーマンはヤザンをこの部隊から外そうとした。


その前へ最初に立ったのが、シグランだった。


今、最高司令官は残れとも、行けとも言わなかった。


選択を二人の間へ置いたままにした。


ヤザンは空席の背もたれから手を離した。


地図へ一歩近づく。


ハーマンは、ヤザンから視線を外した。


ラカンが命じる。


「準備しろ。十分後に出る」


全員が即座に動き、扉へ向かった。


ワーイルは青ざめたまま、それでも歩き出した。


アナスは小さな地図を折り畳み、外套の内側へしまう。


ナーダとアスマーは、観測道具と治療具を分け始めた。


ラーイドは馬を確認するため、先に部屋を出た。


アミールは、皮肉の一つも口にしなかった。


マヤは一瞬だけ、シグランの椅子のそばへ残った。


指で背もたれをなぞり、手を離す。


ヤザンが隣へ立った。


マヤは彼を見ずに言う。


「辿り着くわ」


ヤザンが答えた。


「ああ」


方法は、どちらにも分からなかった。


それでも、二人は並んで扉へ向かった。


ラカンはその後ろに立ち、部隊の全員が去っていくのを見ていた。


スカイが残した道は、待ち伏せへ続いているかもしれない。


敵は、彼らをそこへ踏み込ませるためにシグランを選んだ。


それでも、ラカンにはもう一つ分かっていることがあった。


もし他の誰かがシグランの立場にいたなら、真っ先に飛び込んでいくのはシグランだ。


そして、他の者の遅さが気に入らないだけだと、きっと言い張る。


ラカンは空席を最後に一度だけ見た。


それから、作戦室を出た。


その道が罠かもしれないと、全員が分かっていた。


だが、その先ではシグランが待っている。


誰一人、彼をそこへ置き去りにするつもりはなかった。

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