冷たい家の息子
ヤザンが学院へ続く道を遠ざかっていったあとも、シグランはザラン宮の門前に立ち尽くしていた。
雑踏がその背中を呑み込むまで、ずっと見送っていた。
ほんの少し前、口を開きかけた。
――ここに泊まっていけ。
だが、その言葉は出なかった。
自分自身、一度も招かれたと感じたことのない家へ、誰かをどう招けばいいのか分からなかった。
シグランは門へ向き直った。
近づくと、衛兵たちはすぐに門を開き、規律正しく頭を下げた。
その間を抜け、広い石造りの中庭へ入る。
多くの者が行き交っているにもかかわらず、ザラン宮は静かだった。
入口を守る衛兵。
回廊を進む使用人。
音もなく開閉する扉。
すべてがあるべき場所にある。
すべてが己の役目を果たしている。
そして、どこにも家らしいものはなかった。
侍従長が近づき、深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ、シグラン様」
使用人の一人が荷物を受け取ろうとすると、シグランは鞄を持ち上げた。
「必要ない」
使用人はすぐに退いた。
シグランが尋ねる。
「父上は?」
「執務棟にいらっしゃいます。先ほど、新たな報告が届きました」
シグランは頷き、歩き出した。
だが、執務棟へは向かわなかった。
家族の居住棟へ続く長い回廊を進み、何年も開けていない扉の前で足を止める。
封蝋で閉ざされているわけではない。
衛兵が立っているわけでもない。
それでも使用人たちは、その扉が見えていないかのように通り過ぎていった。
リンの部屋。
シグランは取っ手へ手を伸ばした。
指が一瞬ためらい、それから扉を押す。
蝶番が小さく軋んだ。
部屋へ入る。
棚の縁には埃が積もっていたが、寝台は整えられていた。
窓の両側には幕が束ねられ、鏡は曇り一つなく磨かれている。
そばには、小さな木箱が今も残っていた。
誰かが、この部屋を死なせない程度には手入れしていた。
それ以上は、何もせずに。
シグランはゆっくりと進んだ。
本。
木の櫛。
リンが髪を結ぶ時に使っていた、暗い色のリボン。
一つずつ視線を移し、机の前で止まる。
そこには、小さな騎士の藁人形が置かれていた。
丸い頭。
暗い糸で結ばれた身体。
胸元を覆う灰色の布切れ。
脇には、細い木剣が留められている。
片方の腕だけが、わずかに短い。
腰のあたりには、古い縫い目が残っていた。
シグランは近づいた。
人前では決して見せない慎重さで、藁人形を手に取る。
指先が古い糸へ触れた瞬間、忘れていたはずの声が蘇った。
寝台のそばで、苦しげに息をしていた女の声。
*
ヌールが死んだ時、シグランはまだ幼かった。
あの夜のすべてを覚えていられるほど、大きくはなかった。
記憶に残っているのは、身体を焼く熱と、目を開けるたび揺れて見えた天井、そして汗を拭う冷たい手だけだった。
ヌールは寝台のそばに座っていた。
顔は青ざめ、呼吸も苦しそうだった。
それでも、シグランの額から手を離さなかった。
病は何か月も前から、その身体を蝕んでいた。だが、幼いシグランには、それが何を意味するのか分からなかった。
部屋の反対側には、リンが立っていた。
シグランより四つ年上なだけの少女だった。
長い寝間着をまとい、扉の端を掴んだまま、不安そうに母親を見つめている。
ハーマンが入ってきた。
シグランを見て、それから身体を冷やすために使われた水へ目を向ける。
「熱が上がったのは、いつだ」
ヌールが答えた。
「日が沈む前です。すぐに医師を呼びました」
ハーマンは寝台へ近づいた。
シグランが一瞬だけ目を開く。
父親の顔が、自分の上にあった。
熱に浮かされ、現実なのかどうかも分からなかった。
それでも、その目だけは覚えている。
その日、父の目に浮かんだものが恐れだったのか、怒りだったのか、シグランには分からなかった。
ハーマンは、そのどちらも砦に生じた亀裂を見定める指揮官の目の奥へ隠すことに長けていた。
ハーマンが言う。
「この身体では、ただの熱にも耐えられない」
ヌールが彼を見上げた。
「この子は病気なのです」
「ザランの後継者だ」
「後継者である前に、あなたの息子です」
ハーマンの目が、ヌールへ移る。
その言葉のあとに落ちた沈黙は、怒鳴り声よりも重かった。
「哀れみは、こいつを強くしない」
「冷酷さも、病を治しません」
ハーマンの顔が固くなる。
「お前が、こいつを自分なしでは立てないようにしている」
ヌールは熱に浮かされた子供を見た。
「この子には、私が必要です」
「いつか、お前がいない日が来る」
シグランの額に置かれた手が震えた。
その日が近いと、分かっていたのかもしれない。
「なら、その日が来る前に、温もりを知ることくらい許してください」
ハーマンの目が鋭くなる。
「温もりは、ライスに己が何者かを忘れさせた」
ヌールはゆっくりと顔を上げた。
ライスの名は、ザラン宮で口にしてはならない言葉の一つだった。
「ライスは、自分が何者かを忘れてなどいません」
「お前が擁護するその心も、あいつを救いはしなかった」
ヌールの目に悲しみが浮かぶ。
それでも、視線は下がらなかった。
「でも、あの人を人間でいさせました」
二人の間の空気が、刃のように張り詰める。
ハーマンが言った。
「私の家で、その名を口にするな」
ヌールは疲れたように、かすかに笑った。
「ザラン家は、あなたより先にあの人の名を知っていました」
ハーマンは答えなかった。
ヌールが立ち上がろうとする。
その身体が大きく揺れた。
手から器が落ち、寝台のそばで砕ける。
リンが駆け寄った。
「お母様!」
床へ倒れる前に、ハーマンがヌールの両肩を掴んだ。
ほんの一瞬だけ、その顔に何かが露わになる。
恐怖。
現れたかと思うと、すぐに消えた。
リンでさえ、本当に見たのか分からないほど速く。
ハーマンはヌールを抱き上げ、医師を呼んだ。
シグランは再び熱の中へ沈んでいった。
何年か経ったあと、覚えていないことをリンが教えてくれた。
ヌールは、それから数日生きた。
シグランの熱が下がり、身体が回復していくかたわらで、ヌールは少しずつ息ができなくなっていった。
最後の夜、リンは母親のそばに座っていた。
ヌールは震える手を、娘の頬へ置いた。
「弟のことをお願い」
リンは泣いた。
「お母様がするの」
ヌールは、ごくわずかにしか笑えなかった。
「あの子を、一人きりで大人にしないで」
リンは八歳。
シグランは四歳だった。
誰かの母親になるには、幼すぎた。
それでもヌールが死んだ夜、リンは四年分を飛び越えて大人にならなければならなかった。
*
母親が死んでから、シグランは夜中に目を覚ましても、なぜ怖いのか分からなかった。
死の顔は覚えていない。
ただ、いつも額に触れていた手が消えたことだけを覚えていた。
ある夜、リンは一人で座っているシグランを見つけた。
灯りもつけずに部屋へ入り、その隣へ腰を下ろす。
「怖い夢を見たの?」
シグランは首を横に振った。
嘘だった。
リンは、その嘘を暴こうとはしなかった。
掛け布を持ち上げ、隣へ入る。
「眠って」
「行くの?」
リンは一瞬、動きを止めた。
「あなたが眠るまでは行かない」
夜明けに目を覚ますと、リンはまだそばにいた。
寝台の端で身体を丸め、片手をシグランの腕へ置いたまま眠っている。
それからは、夜中に物音がするたび、リンが来るようになった。
隣で眠ることもあった。
床へ座り、寝台へ背を預けたまま眠ってしまうこともあった。
ヌールがしていたように掛け布を直し、記憶に残る母親の手つきを真似て髪を撫でた。
母親になる方法など、知るはずもなかった。
失った女を真似ようとする、一人の子供にすぎなかった。
だが、シグランにはそれで十分だった。
リンは姉だった。
そして、彼に残された、母親に最も近い存在だった。
*
シグランが七歳になると、本格的な訓練が始まった。
ザラン宮の訓練場に立ち、小さな掌を前へ向ける。
その上で、赤い炎が震えていた。
ハーマンが言う。
「圧縮しろ」
シグランは炎を小さくしようとした。
だが、火は逆に膨れ上がり、前腕を包むように広がった。
ハーマンが指を閉じる。
見えない手に握り潰されたように、炎が消えた。
「もう一度」
シグランは息を整え、再び火を灯した。
「もっと小さく」
試みる。
炎は広がった。
ハーマンが一瞬で目の前へ移動し、指先で手首を打つ。
ケメンが散り、シグランは体勢を崩して膝をついた。
「立て」
手首が痛んだ。
制御を失った炎に焼かれ、腕の皮膚も熱を持っている。
それでも、立ち上がった。
ハーマンが言う。
「従わせる前に放たれた力は、お前の力ではない」
シグランの前に立つ。
その身体は、両肩の向こうに太陽が隠れるほど大きく見えた。
「お前を殺す機会を待つ脅威だ。あるいは、お前の隣に立つ者を殺す」
シグランは、もう一度掌を伸ばした。
炎が現れる。
今度は、より狭い範囲へ閉じ込めようとした。
指が震え、火が横へ弾ける。
ハーマンに脚を払われ、倒れた。
「もう一度」
シグランは立った。
倒れた。
そして、また立った。
繰り返すたびに、呼吸は重くなり、手首の痛みは増していった。
最後の試みで、炎を拳ほどの大きさまで圧縮した。
ほんの一瞬、形が安定する。
シグランは父親を見上げた。
言葉を待った。
どんな言葉でもよかった。
だが、ハーマンは言った。
「遅い」
そのまま背を向け、訓練場を出ていった。
父親の姿が回廊の奥へ消えるまで、シグランは立っていた。
見えなくなった途端、膝から力が抜ける。
地面へ座り込み、焼けた腕を抱えた。
背後からリンの声がした。
「押さえないで」
シグランは振り返った。
十一歳のリンが、濡らした布と治療室から持ち出した軟膏を抱えていた。
目の前へ座る。
「見せて」
シグランが言う。
「痛くするな」
リンは顔を見て、それから震える指へ目を落とした。
「分かってる」
そっと握り込んだ手を開かせる。
リンの指も震えていた。
だが、軟膏を塗ることに集中するふりをして、それを隠した。
「遅いって言われた」
「でも、できたでしょう」
「上手くなかった」
「これから上手くなる」
リンは、炎の訓練について何も知らなかった。
それでもシグランは、炎のすべてを知る男の言葉より、姉の言葉を信じた。
軟膏が肌へ触れ、痛みに身を縮める。
リンが言った。
「泣いてもいいよ」
シグランは、ハーマンが消えた回廊へ素早く目を向けた。
リンは声を落とした。
「大きな声じゃなくていい」
シグランの唇が震える。
リンは手首へ布を巻きながら続けた。
「でも、痛みを全部、自分の中へ閉じ込めないで」
結び目を留め、シグランの頭へ手を置く。
「私がいるから」
シグランは泣かなかった。
ただ、姉の肩へ触れるまで、ほんの少し身体を傾けた。
リンは、弟の手の震えが止まるまで、ずっと隣にいた。
*
七歳の誕生日の夜、ザラン宮で祝いは開かれなかった。
シグランはいつもどおり夕食を取り、自分の部屋へ戻った。
リンが両手を背中へ隠しながら入ってくる。
「目を閉じて」
シグランは疑わしげに見た。
「なぜだ?」
「私がそう言ってるから」
「理由になってない」
リンはため息をついた。
「贈り物があるの」
シグランの表情は変わらなかったが、視線だけがリンの背後へ動いた。
「先に目を閉じて」
シグランは言われたとおりにした。
軽い何かが、両手へ置かれる。
目を開けた。
小さな騎士の藁人形だった。
顔の前へ持ち上げる。
「人形じゃないか」
リンが言う。
「騎士よ」
「騎士には見えない」
「私が作ったの。目の前で侮辱しないで」
シグランは、人形の脇へ留められた小さな木剣を動かした。
「どうして剣を持っている?」
リンは弟の前へ座った。
「騎士は、人を守るものを持つから」
「父上は、力があれば人は自分を恐れると言っていた」
リンの笑みが、わずかに薄れた。
「怖がらせるために、力を持たないで」
人形の頭へ触れる。
「大切な人が、怖がらずに済むように持つの」
シグランは藁人形を見つめた。
美しい人形ではなかった。
頭は傾き、両腕の長さも揃っていない。
剣は短すぎて、何かに届きそうにもない。
それでも、自分が子供だから与えられた、初めての物だった。
後継者だからではない。
シグランが小さな声で尋ねる。
「俺のものか?」
リンは笑った。
「そのために作ったの」
扉が開いた。
リンの笑みが消える。
入口にハーマンが立っていた。
リンを見て、次にシグランの手にある人形へ目を向ける。
部屋へ入った。
「それは何だ」
リンが答える。
「小さな贈り物です」
ハーマンが手を差し出した。
シグランはためらったあと、人形を渡した。
ハーマンは指の間でそれを裏返す。
「藁でできた騎士か」
「ただの玩具です」
ハーマンがリンを見る。
「訓練のあとは傷の手当てをし、夜には部屋へ入る。今度は、私がこいつにお前への依存を捨てさせようとするたび、縋る物まで与えるのか」
リンは目を伏せた。
「私の弟です」
「私の後継者だ」
「両方でいられます」
ハーマンは、しばらくリンを見つめた。
そして人形の両端を掴み、引き裂いた。
糸が切れる。
藁が床へ散り、小さな木剣がシグランの足元へ落ちた。
ハーマンが言う。
「騎士を目指す者に、自分を欺く玩具など必要ない」
二つに裂けた人形を落とし、扉へ向かう。
部屋を出る前に、振り向かずに告げた。
「二度とこいつの部屋へ入るな、リン」
扉が閉じた。
リンは床に散った藁を見た。
シグランは寝台に座ったままだった。
長い沈黙のあと、言った。
「どうでもいい」
それは、彼が初めて口にした冷たい嘘の一つだった。
リンは弟が眠るまで待った。
それから戻ってきた。
床へ座り、藁と糸と灰色の布切れを拾い集める。
泣き声を殺しながら、身体を縫い合わせた。
元どおりにはできなかった。
片方の腕が短くなり、腰には暗い縫い目が残った。
それでも、人形は戻った。
朝になると、シグランは机の上に置かれた人形を見つけた。
誰が直したのかは尋ねなかった。
リンに会っても、礼を言わなかった。
ただ人形を手に取り、寝台の下の小さな箱へしまった。
その日、シグランは、言葉にできないことを一つ知った。
ハーマンは、弱さだと思ったものを、すべて壊した。
そしてリンは、そのあとに残ったシグランを直していた。
*
年月が過ぎた。
シグランは成長し、手の中の炎も大きくなった。
リンも大人へ近づいていった。
だが、ヌールの遺した言葉だけは、いつまでも彼女の年齢より重かった。
訓練が終わるたび、水と包帯を持って現れた。
悪夢が戻れば、そばへ座った。
シグランが落ち着くのを待つうちに、寝台の脇の椅子で眠ってしまうこともあった。
ハーマンは一度、警告した。
二度目もあった。
やがて、夜間にシグランの居住棟へ入ることを禁じた。
リンは父親の前では従った。
そして使用人用の通路を通り、弟のもとへ戻った。
ある夜、シグランは息ができずに目を覚ました。
叫び声を上げるには、もう大きくなりすぎていた。
だが、掴もうとするたび消えていく母親の姿を、一人で受け止められるほど大きくはなかった。
部屋を出て、リンの扉へ向かう。
小さく叩いた。
扉はすぐに開いた。
リンは、起きたまま待っていたかのようだった。
弟の顔を見て、回廊へ目を向ける。
「入って」
シグランは寝台の端へ座った。
リンが肩へ掛け布をかける。
「はっきり見えなかった」
誰のことか、リンには分かった。
「お母様?」
シグランは頷いた。
「顔を思い出そうとすると、消える」
リンは隣へ座る。
「私は覚えてる」
シグランが彼女を見る。
「お前は、母上に似ていたか?」
リンは寂しそうに笑った。
「お父様は、そう言うわ」
その言葉がどれほどの痛みを抱えていたのか、当時のシグランには分からなかった。
「母上は強かった?」
「みんなが思っていたより、ずっと強かった」
「父上よりも?」
リンは少し考えた。
「お父様には理解できないやり方でね」
シグランは姉の肩へ頭を預けた。
リンが腕を回す。
「眠って。ここにいるから」
シグランは目を閉じた。
何日かぶりに、握り締めていた手から力が抜ける。
扉が開いた。
リンが立ち上がった。
シグランもすぐに目を覚ます。
入口にはハーマンがいた。
シグランを見て、それから離すのが遅れたリンの腕を見る。
「警告したはずだ」
リンは頭を下げた。
「怖がっていました」
「なら、恐れぬことを覚えさせろ」
リンはわずかに顔を上げた。
「命じられただけで、恐怖は消えません」
ハーマンは部屋へ入り、背後の扉を閉じた。
「私がこいつに一人で立つことを教えるたび、お前は腕の中へ戻す」
リンが言う。
「いつも一人で立たなければならないわけではありません」
「お前は、私の後継者を駄目にしている」
シグランの身体が固まった。
リンを見る。
姉は怯えていた。
衣服を掴んだ指と、途切れた呼吸で分かった。
それでも、リンは顔を上げた。
「この子が人間のままでいることが、あなたの後継者を駄目にするというのなら……私は従いません」
沈黙が落ちた。
ハーマンは怒鳴らなかった。
表情も変わらない。
だが、目の奥で何かが閉じた。
「なら、お前はここには置けない」
リンの顔から血の気が引く。
「何を……」
「夜明けに、ここを発て」
シグランが立ち上がった。
「駄目だ」
ハーマンは息子を見なかった。
リンが尋ねる。
「どこへ行けというのです?」
「ザラン家と親しい家の屋敷だ。お前の面倒は、そこで見る」
「ここが、私の家です」
「もう違う」
シグランが動き、二人の間へ立った。
「リンは行かない」
ハーマンが、ようやく息子を見る。
「部屋へ戻れ」
「嫌だ」
声は震えていた。
それでも、言葉になった。
父親の命令を正面から拒んだのは、初めてだった。
ハーマンが近づく。
一瞬、殴られると思った。
だが、目の前で止まっただけだった。
「朝になれば、ここからいなくなる」
シグランが言う。
「俺は、あなたの後継者だ」
幼い頃から聞かされてきた言葉を使い、歯を食いしばる。
「リンに、ここへ残れと命じる」
ハーマンは長い間、息子を見つめた。
そして言った。
「だから、お前はまだ後継者として未熟なのだ」
扉を開き、部屋を出ていく。
シグランは、その場から動けなかった。
ハーマンが出ていくと、壁まで一緒に消え、部屋だけが虚空へ取り残されたようだった。
リンへ向き直る。
「連れていかせない」
リンは答えない。
「父上と話す」
リンが近づき、シグランの両肩を掴んだ。
「シグラン」
「訓練をしないと言えば――」
「聞いて」
「俺なら――」
リンは弟を抱き締めた。
声が途切れる。
姉の身体が震えていた。
今度は、涙を隠しきれなかった。
「行くな」
リンは両手で弟の顔を包む。
「自分の心を憎まないで」
シグランは首を横に振った。
「リンを奪うなら、そんなものはいらない」
一粒の涙が、リンの目から落ちた。
「そんなこと言わないで」
「俺も一緒に行く」
「それはできない」
「できる!」
リンは、壊れたような笑みを浮かべた。
「あなたは残らなきゃいけない」
「どうして?」
幼いシグランを見つめていたヌールと同じ目で、弟を見た。
失う前に、その顔を覚えておこうとするように。
「大人になるから」
「なりたくない」
「それでも、なるの」
親指で頬を撫でる。
「その時は……お父様のようにならないで」
夜明けとともに、馬車がザラン宮の門前へ止まった。
ハーマンが選んだのは、ザラン家と親交の深い家の一つだった。
十分な数の使用人と護衛も伴わせ、リンが一人きりにされることはないと、誰の目にも分かるようにしていた。
だが、シグランが見たものは変わらない。
姉が、自分の家から引き離されていく。
駆け寄り、衣服の裾を掴んだ。
「リン!」
リンは振り返り、最後に弟を抱き締めた。
耳元で言う。
「生きて、シグラン……この家が冷たくなっても」
リンはシグランの腕をそっとほどき、足が自分を裏切る前に馬車へ乗り込んだ。
シグランは、馬車が動き出すまで門前に立っていた。
姿が見えなくなるまで、見送り続けた。
翌日、箱から騎士の藁人形を取り出し、リンの机へ置いた。
帰ってきた時、待っているものがあるように。
だが、扉は閉ざされたままだった。
人形も、そこに残り続けた。
*
シグランは現在へ戻った。
騎士の藁人形が、両手の中にある。
縫い目を指でなぞり、壊さないように、そっと握った。
どれほど立ち尽くしていたのか、自分でも分からなかった。
部屋を出た時には、夜が中庭を覆っていた。
衛兵と使用人の間を、誰にも声をかけずに通り抜ける。
ザラン宮の裏手にある石造りの中庭へ向かい、一本だけ立つ木のそばで、低い縁へ腰を下ろした。
鞄を隣へ置く。
人形は、手に持ったままだった。
学院へ向かって遠ざかっていったヤザンの姿が蘇る。
肩には包帯。
隠そうとしていたが、歩みも遅かった。
そして、シグランの喉で止まった言葉。
――ここに泊まっていけ。
藁人形へ目を落とす。
大切な者が恐れずに済むように、力を持つのだと、リンは言っていた。
あの頃は、物語の中の騎士について話しているのだと思っていた。
だが今は、自分が姉の言葉の半分しか受け継いでいないことが分かる。
誰かの隣に立つ方法は覚えた。
それでも、誰かに自分の隣へ立ってほしいと頼む方法は、まだ知らなかった。
シグランは立ち上がり、騎士の藁人形を鞄へしまった。
何年も前、リンが戻ってきた時、何かが待っているようにと、あの部屋へ残した人形だった。
今度は、それを自分で持っていく。
学院へ続く遠い道へ目を向けた。
ハーマンは、誰かに残ってほしいなどと頼むなと教えた。
リンは、大切な者を置き去りにするなと教えた。
だからシグランは、ヤザンに残ってくれとは言えなかった。
それでも、傷を負ったヤザンが隣を歩いた時、シグランは歩調を落とした。




