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血の継承【改訂版】  作者: Salhi smail
第五章 黒の帳編

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水の刻印

タライン家の食卓で、ただ一つ、水だけが自由に動いていた。


壁に沿って刻まれた細い水路を流れ、その静かな音が、二年以上ぶりに同じ食卓へ着いた四人の間を通り抜けていく。


マヤは母親の隣に座っていた。


部屋へ入ってからというもの、リアナは、使用人が料理を並べる時を除いて娘の手を離さなかった。


それからも時折、確かめるように腕へ触れている。


本当に帰ってきたのだと、その温もりで確かめているかのようだった。


リアナが言った。


「顔をよく見せて」


マヤは笑った。


「座ってからずっと見てるでしょ」


「二年分は、一度見ただけでは足りないわ」


リアナは娘の髪を撫で、こめかみのそばに残る小さな擦り傷で手を止めた。


「お父様は、大した怪我ではないと言っていたけれど」


マヤは上座に座るアリアンへ目を向けた。


「大した怪我じゃなかったよ」


アリアンが言う。


「治療官の報告にも、そう記されていた」


リアナは夫を見る。


「報告書は、怪我をした本人の心配まではしてくれません」


アリアンは静かに答えた。


「だから、心配する役目はお前に任せた」


リアナの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「いつもどおり、自分には一番簡単な役目を選んだのね」


アリアンの表情は変わらなかった。


だが、その目を見たマヤには、父がその一撃を受け入れたことが分かった。


学院での生活を経た今では、こうした会話が不思議に感じられた。


温かく、近い。


それでも、この家から消えずに残っている、もっと重い何かの上を流れていた。


向かい側には、オスが背筋をまっすぐに伸ばして座っている。


笑みを交わそうとはしなかった。


杯を口へ運びながら、その縁越しにマヤを見ている。


その視線に気づいたマヤの指が、無意識に匙を強く握った。


リアナが尋ねる。


「久しぶりに戻った家は、どう?」


マヤは壁際の水路と、幼い頃から細部まで覚えている青いアーチを見た。


「出ていった時のまま」


オスが言う。


「家は変わっていない」


責められたのか。


それとも、彼の口から出たからそう聞こえただけなのか。


マヤには分からなかった。


「変わったのは私よ」


オスは杯を置いた。


「それは、これから分かる」


マヤの手が、皿の上で止まる。


アリアンは息子を見たが、まだ何も言わなかった。


リアナが食卓へ温かさを戻そうとする。


「仲間のことを聞かせて。お父様は、何でも軍事報告にしないと話せないから」


「道中で話したよ」


「私は、道中一緒ではなかったもの」


リアナは興味深そうに身を寄せた。


「まずは、あの尊大な少年から」


マヤが眉を上げる。


「どっちのこと?」


アリアンさえ、彼女へ目を向けた。


自分が意図した以上のことを言ったと気づいたリアナを見て、マヤはこの家へ戻ってから初めて声を上げて笑った。


「シグランのことなら、外から見たところはあまり変わってない。今も、世界中の人間が自分の時間を無駄にしているみたいな話し方をするから」


「内側は?」


マヤは思い出した。


地面へ頭を打ちつける前に、ヤザンを受け止めたシグラン。


脇腹に傷を負いながら、そのそばへ残った姿。


そして、恐怖を怒りに満ちた侮辱の裏へ隠したこと。


「本人が認めるより、ずっと変わった」


リアナは、その声に浮かんだ安堵に気づいた。


「もう一人の少年は?」


マヤはわずかに止まった。


「ヤザン」


「ええ。肩を怪我した子」


オスが冷たく言う。


「ケメンを持たない少年でもある」


マヤの笑みが消えた。


リアナが息子へ目を向ける。


アリアンは、ただその名を呼んだ。


「オス」


声を張ってはいない。


だが、それだけで十分だった。


オスが言う。


「事実を口にしただけです」


アリアンが答えた。


「事実は灯りにも、刃にもなる。お前は自分がどちらを選んだのか分かっているはずだ」


オスは黙った。


だが、杯を握る指に力が入っていた。


リアナはマヤへ尋ねた。


「その子を信頼しているの?」


マヤは迷わず答えた。


「うん」


オスの目が、彼女へ移る。


今度のマヤは俯かなかった。


だが、兄を見ることもしない。


「ヤザンにはケメンがない。でも、私たちには見えないものを見てる。全部が崩れ始めても……そこに残るの」


洞窟が浮かんだ。


ライの叫び。


カインの鎖。


そして、ヤザンを見つめた直後、誰にも理解できない何かに怯えて膝をついたイーラ。


そのことは、最後まで口にしなかった。


リアナが言う。


「仲間が、とても大切になったのね」


マヤは頷いた。


「私たちは一つの部隊だから」


何気なく口にした言葉だった。


だが、食卓にはっきりとした余韻を残した。


父親の承認を探さずに娘がそう言ったことを、アリアンは見逃さなかった。


「それが、東の森でお前たちを生き残らせた」


オスが顔を上げる。


「ですが、任務は失敗しました」


再び沈黙が落ちる。


壁際では、水だけが流れ続けていた。


マヤが言う。


「敵には逃げられた」


「つまり、捕縛に失敗した」


「相手が部隊の仲間を殺すのは防いだ」


「スカイが彼らをどこへ運んだのかも分からない」


食卓の下で、マヤの指が衣服を掴んだ。


オスは続ける。


「負傷して戻り、標的の痕跡を失い、捕虜を一人も連れ帰れなかった。それを、ほかに何と呼ぶ?」


アリアンが答えた。


「生還だ」


オスは父親を見る。


「生き残ることが、成果になったのですか?」


アリアンは息子を見据えた。


「実戦では、そうだ」


「しかし、何も持ち帰っていません」


父親が答える前に、マヤが言った。


「何も持ち帰らなかったわけじゃない」


オスが彼女を見る。


最初の一言は震えた。


だが、次の言葉から声は落ち着いていた。


「スカイの術がどう働くのかを見た。黒の帳が、私たちが到着する前から待ち構えていたことも分かった。それに、イーラの領域が効果を運ぶには、湿気が必要だと突き止めた」


オスが言う。


「失敗した任務の中で得た、小さな発見だ」


「その発見があったから、水門の記録を読み解けたの」


オスの動きが止まる。


マヤは声を上げなかった。


「あれがなければ、港の人たちは水を見ずに、封印だけを調べ続けてた」


アリアンが言った。


「マヤの言うとおりだ」


その言葉は、オスの表情が示した以上の重さで彼へ落ちた。


アリアンは続ける。


「経験は、常に勝利の姿で現れるとは限らない。先に代償を支払うこともある」


オスが言う。


「彼女の推論は、まだ証明されていません」


「だから、ラカンの許可が届き次第、港へ行く」


オスが眉を上げた。


「なぜ彼の許可が必要なのです? マヤはタラインの娘です」


「同時に、帝国特務部隊『アルマズ』の一員でもある」


アリアンはマヤを見る。


「ラカンの指揮下にいる以上、一族の名を使って彼の命令を越えるつもりはない」


マヤの胸から、わずかに力が抜けた。


父親がラカンへ許可を求めたのは、彼女の力を疑っているからではない。


この家の外で、彼女自身が選んだ居場所を認めているからだった。


リアナが言う。


「それから、食事を終える前に港へ行く者はいません」


夫をまっすぐに見た。


「将軍でもです」


アリアンは傍らの小さな記録簿から手を離した。


見つかった子供のようだった。


その後も食事は続いた。


だが、温かさが完全に戻ることはなかった。


マヤが口を開くたびに、オスの目がその言葉を測っているのを感じた。


そしてアリアンが記録を読み解いた娘の正確さを認めた時、オスが見たのは父親ではなかった。


マヤだった。


     *


翌朝、低い霧が屋敷の水盤を覆っていた。


マヤは、使用人が扉を叩く前に目を覚ました。


よく眠れなかった。


目を閉じるたび、食卓で聞いたオスの言葉が戻ってくる。


――失敗した任務。


――小さな発見。


――証明されていない推論。


寝台の端へ座り、肩へ手を伸ばした。


衣服の下。


背の上部には、水の刻印が静かに宿っている。


目で見なくても、その位置は分かっていた。


四本の交差する線に囲まれた、小さな青い雫。


生まれて間もなく肌へ現れ、彼女が選んだことのない、もう一つの名のように残り続けた印。


幼い頃から、それは贈り物だと教えられてきた。


だが、贈り物のせいで兄が、自分の存在を何かを奪った罪のように見ることなどあるだろうか。


マヤは訓練着へ着替え、部屋を出た。


オスの部屋の前で止まる。


扉は閉ざされていた。


叩こうと手を上げ、ためらった。


戦うこと自体が怖いわけではない。


彼の声が、自分を広い訓練場に立つ幼い少女へ戻してしまうことが怖かった。


タラインの名を失望させまいと、必死になっていた頃の自分へ。


マヤは扉を叩いた。


中から声が返る。


「入れ」


扉を開く。


オスは衣装棚の前に立ち、出かけるための腕当てを締めていた。


鏡越しにマヤを見る。


「何の用だ?」


「まだ、ラカンから許可が届いてない」


オスは続きを待った。


「届くまで、あなたと訓練したい」


彼は振り向いた。


「俺と?」


「うん」


オスの目が訓練着をなぞり、顔へ戻る。


「帝国特務部隊『アルマズ』から、もう十分に学んだと思っていたが」


皮肉は胸へ刺さった。


それでも、マヤはその場を動かなかった。


「知識を持っている人から学ぶべきだって、部隊で教わったの。たとえ、その人の話し方が嫌いでも」


オスの目が細くなる。


二人の間に長く引かれていた境界を、自分が越えたのかどうか、マヤには分からなかった。


しばらくして、オスが言う。


「あとから行く」


マヤは、彼が気を変える前に部屋を出た。


     *


屋敷の裏にある水の訓練場は、湖へ向かって開かれたアーチに囲まれていた。


中央には長い石造りの水槽が延び、そこへ繋がる細い水路が、青い血管のように床を走っている。


マヤは水槽の端へ立った。


片手を上げる。


水面が揺れ、透明な一筋が立ち上がって腕へ巻きついた。


形を安定させ、少しずつ圧縮しながら前へ伸ばす。


水は、細い矢へ変わった。


二年前なら、この形を保つだけで両腕が必要だった。


今は、片手だけで作れる。


背後から、オスの声がした。


「始めろ」


マヤは振り向いた。


オスは水槽の反対側に立ち、両手を背中へ回していた。


戦う構えには見えない。


防御姿勢を取られるより、それが腹立たしかった。


マヤは矢を放った。


水の矢は鋭い音で霧を裂き、オスの胸へ向かう。


彼は引きつけてから、二本の指を上げた。


掌ほどの厚みしかない、傾いた水膜が目の前へ広がる。


矢は水膜へ衝突した。


砕けることなく表面を滑り、オスから逸れて、脇の水路へ落ちる。


必要以上の水を一滴も散らしていなかった。


「もう一度」


マヤは二本目の矢を作った。


先ほどより速く、強く圧縮する。


放つ。


結果は同じだった。


オスは異なる角度で水膜を出し、矢を身体の外側へ回して背後へ落とした。


「もっと大きく」


マヤは歯を食いしばった。


水槽からさらに多くの水を引き上げ、長い槍へまとめる。


槍は肩の周囲を一度回り、オスへ突き進んだ。


今度は、オスが掌を動かした。


槍を正面から受け止めるのではなく、その下の水を持ち上げる。


穂先は上へ押され、オスの頭上を越えて背後の石柱へ激突した。


飛沫が散る。


「もっと速く」


マヤは両腕を上げた。


三本の矢が同時に浮かび、異なる角度から放たれる。


オスが動かしたのは、半歩だけだった。


薄い水の層が全身の周囲を回る。


矢を止めるのではない。


先端へ触れ、その軌道をわずかにずらす。


一本目は肩の横を抜け、二本目は頭上を通り、三本目は足元の石を打った。


マヤの両手が下がる。


呼吸は速くなっていた。


オスが言う。


「大きく。速く。数を増やす」


一歩、前へ出る。


「それでも、お前は同じ間違いを続けている」


「何が間違ってるの?」


オスが手を上げると、水槽から一滴だけ水が離れた。


指先の上で静止する。


「水を、槌のように扱っている」


その雫を、マヤへ放つ。


危険などないような遅さで進んできた。


マヤは正面へ水の壁を作る。


だが、触れる直前に雫が三つへ分かれた。


一つは壁の上を越える。


一つは縁を沿うように滑る。


最後の一つは足元へ落ち、マヤが水を引き出している水路へ入り込んだ。


次の瞬間、水の壁全体が震えた。


マヤと水との繋がりが切れ、壁は一息に崩れ落ちる。


オスが言った。


「水は、勢いがあるから勝つのではない」


指を上げると、三方向から雫が戻ってきた。


「どこへ入ればいいかを知っているから勝つ」


マヤは、足元に散った水を見た。


正しい言葉だった。


だからこそ、痛かった。


「お前は、自分がもう弱くないと証明しようとする者のように水を動かしている」


オスの目が彼女へ上がる。


「証明したがること自体が、お前を弱くする」


マヤは再び水を集めた。


「私は弱くない」


「なら、見せろ」


右側から水の弧を放ち、左側から矢を続ける。


オスが手を上げた。


二つが届く前に、空中で指を閉じる。


マヤ自身の腕へ巻きついていた水が震えた。


流れへの感覚が乱れ、弧は逸れ、矢は崩れた。


「怒りが、水より先に動いている」


マヤはもう一度攻撃した。


失敗する。


さらにもう一度。


オスは、放たれる前から方向を読んでいた。


力を増すほど、彼には防ぎやすくなった。


防がれるたび、古い家の声が頭へ戻ってくる。


――遅い。


――ためらっている。


――タラインの名にふさわしくない。


マヤの周囲へ湿気が集まり始めた。


完全な制御によるものではない。


乱れた呼吸に影響されていた。


オスはそれに気づいた。


「変わったのは、それだけか?」


マヤは答えない。


「二年間ここを離れ、大きな術と、特務部隊の話を持ち帰った」


その手が震えた。


「だが、その下にあるものは変わっていない」


マヤが顔を上げる。


「どういう意味?」


「足りないと言われるたびに泣く、あの子供のままだという意味だ」


呼吸が止まった。


涙は落ちなかった。


だが、瞳が光った。


オスはそれを見た。


意図していた以上に冷たい、小さな笑みが口元へ浮かぶ。


「少なくとも、今も得意なことは残っているらしい」


何を言われるのか、マヤには分かっていた。


「泣くことだ」


その言葉は、東の森で負ったどの傷よりも古い傷へ突き刺さった。


唇が震える。


その顔を見た瞬間、オスの冷たさの奥で、長く埋もれていた何かが動いた。


年月の下へどれほど押し込めても、消えなかった記憶。


     *


母親が二人目の子を身籠ったと知った時、オスは十歳だった。


リアナの隣へ座り、腹の中から声が聞こえるのを待つように耳を当てた。


「男の子?」


リアナは笑い、息子の髪を撫でた。


「まだ分からないわ」


オスはしばらく聞き続けた。


「女の子だと思う」


顔を上げる。


「女の子?」


「嫌なの?」


少し考えてから、勢いよく首を横に振った。


「ううん。泳ぎ方を教える」


「歩くより先に?」


「両方、俺が教える」


母親が再び笑う。


オスも笑い、腹へ手を置いた。


「誰にも傷つけさせない」


その時、本気で約束した。


マヤが生まれた日、オスは入室を許されるまで母親の部屋の前から離れなかった。


あまりにも小さくて、怖くなるほどだった。


白い布に包まれ、赤い顔と閉じた目だけが覗いている。


リアナが尋ねた。


「抱いてみる?」


オスは両手を伸ばしかけ、引いた。


「落としたら、どうしよう」


「落とさないわ」


リアナは隣へ座り、赤ん坊を腕の中へ置いた。


オスの身体は、石のように固まった。


マヤが動き、小さな指を開く。


その指が、オスの指先を掴んだ。


彼は驚いて妹を見た。


リアナが言う。


「あなたが分かったみたい」


オスは顔を寄せ、小さく囁いた。


「俺は、お前の兄だ」


それから毎朝、妹の部屋へ通った。


泣けば、誰よりも先に揺り籠へ近づいた。


眠っている時はそばへ座り、小さな胸が上下するのを黙って眺めた。


使用人が部屋から出そうとすると、決まって答えた。


「守るって言ったから」


だが、それは長く続かなかった。


マヤの誕生から数日後、家族の居住棟を流れる水が変わった。


誰も触れていない水盤が震えた。


小さな雫が揺り籠の周囲へ浮かび、幼いマヤへ頭を垂れるように、その身体の上で静止した。


着替えさせようとリアナが布を外した時、背の上部に印が現れていた。


四本の交差する線に囲まれた、青い雫。


水の刻印。


その日の夕刻、タライン一族の長老たちは、水の広間へ集められた。


オスに出席は許されなかった。


それでも、険しい顔で入っていく評議員たちを見た。


閉ざされた扉の向こうで、自分の名が何度も繰り返されるのを聞いた。


脇の回廊から忍び込み、広間の端に垂れた厚い幕の裏へ隠れた。


アリアンは評議会の上座に座っていた。


新たな子供の誕生を喜ぶ父親の顔ではない。


自分の一言が、一族の未来を変えると知る将軍の顔だった。


長老の一人が尋ねる。


「水の刻印は、オスに現れたのですか?」


幕の裏で、子供は答えを待った。


オスは、自分の名を理解し始めた頃から、水の刻印について聞かされてきた。


水の最古の遺産。


それを宿す者は、タラインの水と最も澄んだ生来の調和を持って生まれる。


幼少期から最強になるわけではない。


だが、その資質を鍛えれば、一族で最も強い者へ到達し得る。


アルマザが統一される以前、水の刻印を宿す者はタライン一族の長となり、戦士たちを率いた。


統一後は、水の将軍位を継ぐ最有力候補として、一族を皇帝の前で代表することを期待されるようになった。


オスは、アリアンの長男だった。


だから、大人になったら何になりたいかと尋ねられたことはない。


誰もが、なるものを教えた。


次代の水の将軍。


アリアンが言う。


「オスには現れなかった」


長老たちの間に動揺が走る。


一人が言った。


「すでに十歳です。今まで応じなかったのなら、今後も現れないでしょう」


別の者が続けた。


「新しい世代の子供たちにも、いまだ宿った者はいない。我々の代で、水の刻印の系譜が途絶えるというのか?」


アリアンは卓上へ掌を置いた。


「途絶えてはいない」


広間が静まる。


長老が顔を上げた。


「何と?」


「水の刻印は現れた」


複数の男が身を乗り出した。


「どこに?」


「誰にです?」


アリアンは無言で彼らを見渡したあと、告げた。


「私の二人目の子供だ」


言葉の意味が届くまで、一瞬の間があった。


一人の長老が眉をひそめる。


「二人目?」


理解した瞬間、その顔が変わった。


「娘に?」


アリアンが答える。


「マヤだ」


沈黙が広間へ落ちた。


床下を流れる水の音さえ、先ほどより鮮明に聞こえた。


一人が言う。


「あり得ない」


「この目で印を確かめた」


「不完全な痕跡かもしれません」


「血統の水が、マヤへ応じた」


別の長老が言う。


「しかし、女児です」


アリアンの表情は変わらない。


「自分の娘の性別は知っている」


「タラインの創設以来、水の刻印を宿した女はいません」


「ならば、マヤが最初だ」


長老たちは、不満を隠しきれない視線を交わした。


長老の筆頭が言う。


「簡単な問題ではありません。水の刻印が示すのは、水との調和だけではない。統一以前、その保持者は一族を率いた。今では、水の将軍位の第一後継候補と見なされます」


「自分の家の歴史を忘れたことはない」


「娘をタラインの代表とすることを、お認めになるのですか?」


「必要な力と経験を身につけ、その資格を証明したならば」


別の長老が異を唱える。


「では、オスは? あなたの長男です。幼い頃から、その地位を目指して鍛えられてきた」


アリアンは、しばらく黙った。


幕の裏で、オスの呼吸が止まる。


やがて父親が言った。


「オスはこれからも私の息子であり、タラインで最も強い者の一人だ」


子供の耳には、欠けた一言だけが残った。


――一人。


最も強い者ではない。


後継者でもない。


アリアンは続けた。


「だが、将軍位の候補は、我々の望みや出生順だけで決まるものではない」


長老たちを見る。


「水の刻印が選んだ」


一人が杖の先で床を打った。


「頭を上げることさえできない少女が、タラインを率いるというのですか?」


アリアンの声が、静かな冷気を帯びた。


「生まれた日のオスも、頭を上げることはできなかった」


男は口を閉ざした。


別の者が言う。


「一族に分裂を招きます」


「タラインを分裂させるのは、水の刻印の選択ではない」


アリアンの目が、彼らを一人ずつ通り過ぎる。


「お前たちが、待ち望んだ形ではなかったという理由で、その選択を拒むことだ」


そして、交渉の余地を一切残さない声で告げた。


「水の継承者を決めるのは、我々ではない」


広間の中央を流れる水路へ目を向ける。


「水が選んだ後継者は、マヤだ」


幕の裏で、オスは胸から何かを引き抜かれたように感じた。


一族の歴史も、将軍評議会が持つ重みも、水の刻印がなぜ一人を選び、別の一人を選ばないのかも理解できなかった。


まだ十歳の子供だった。


ただ一つだけ理解した。


歩き始めた頃から自分のものになると約束されていた場所が、まだ目を開けることさえ覚えていない赤ん坊の未来になった。


誰にも見つからないうちに、広間から逃げた。


母親の居住棟を通り過ぎる。


リアナは眠っていた。


その隣の小さな揺り籠には、マヤがいる。


オスが近づくと、赤ん坊が動いた。


目を開き、小さな手を彼へ伸ばす。


数日前なら、その手へ指を差し出していただろう。


だが、この時は距離を置いたまま動かなかった。


マヤが泣き始める。


リアナが目を覚まし、娘を腕の中へ抱いた。


オスは回廊へ退いた。


その瞬間、妹を憎んだわけではない。


だが、彼女が泣くたび、皆が彼女へ駆け寄ったことを思い出すようになった。


背に水の刻印を見るたび、水そのものが自分を通り過ぎ、妹を選んだことを思い出した。


愛情は、心のどこかに残っていた。


だが、子供には理解できないほど大きな何かの下へ埋もれていった。


     *


オスは訓練場へ戻ってきた。


目の前には、今もマヤが立っている。


手を伸ばしてくる赤ん坊ではない。


泣く姿を見せれば、また一つ勝利を与えることになるとでもいうように、涙を堪えている少女だった。


マヤが震える声で尋ねる。


「そんなに、私が嫌いなの?」


オスはすぐには答えなかった。


二人の間で静まった水を見る。


「タラインの名が、その未来を、ふさわしいと証明していない者へ与えることが嫌いだ」


マヤには、彼が何を指しているのか分かった。


手が肩へ向かう。


「水の刻印……」


オスの目が上がった。


「全部、刻印のせいなの?」


彼は、笑みのない笑いを漏らした。


「ただ肌に刻まれた印でしかないように言うんだな」


「そんなこと言ってない」


「お前が生まれただけで、長老たちは集まった。水は、お前がその名を知る前から選んだ。お前は父上の後継者であり、水の将軍位の第一候補とされた。その一方で、俺は水の刻印に選ばれなかった息子以上の存在だと、一生証明し続けなければならなくなった」


マヤは、一つの言葉で止まった。


「生まれた時から?」


いくつもの記憶が頭をよぎる。


一度も自分を抱いてくれた覚えのないオス。


近づくたびに離れていった兄。


自分の失敗を、水の刻印が誤った者を選んだ証拠のように扱った人。


マヤが言う。


「あなたも、水の刻印が現れた時は子供だった」


オスの顎が固くなる。


「お前が生まれるまでは、俺が後継者だった」


「私が奪ったんじゃない」


「だが、水はお前を選んだ」


一粒の涙が、マヤの頬を流れた。


拭わなかった。


顔も伏せない。


「そう。私を選んだ」


オスの目に、一瞬だけ驚きが浮かぶ。


マヤは続けた。


「私は水の刻印を求めてない。お父様の地位も求めてない。言葉を覚える前から、みんなにあなたと比べられたいなんて頼んでない」


一歩、前へ出る。


脚は震えていた。


それでも、止まらない。


「何年もの間、自分が知らないところで何か悪いことをしたんだと思ってた。部屋へ入るたび、私がいるだけであなたを苛立たせる気がした。訓練していても、教官より先にあなたの声が聞こえた。一度失敗するたび、水が私を選んだのは間違いだったって信じた」


オスの手が強く握られる。


「本当に、間違いだったのかもしれない」


その言葉は、マヤを傷つけた。


だが、今度は俯かせなかった。


片手を上げる。


水槽から細い一筋が立ち上がった。


「なら、証明して」


オスの目が細くなる。


「何を?」


「水が間違えたって、私に見せて」


先に動いたのはオスだった。


水槽から円形の波が立ち上がり、六つの流れへ分かれる。


異なる方向から、マヤを囲んだ。


命を奪う攻撃ではない。


だが、単純な試しでもなかった。


マヤは迫る水を見る。


少し前までなら、もっと大きな壁を作っていただろう。


力で押し返そうとしたはずだ。


今度は、そうしなかった。


オスの言葉を思い出す。


――水は、勢いがあるから勝つのではない。


六つの流れを見る。


大きさは見なかった。


それらへ水を送り込む道を見た。


手を下げる。


細い水の筋が石の隙間を進み、下側から水路へ入った。


迫る波にはぶつけない。


六つへ枝分かれする起点まで届かせる。


そして、その流れを回した。


一つ目の軌道が崩れる。


二つ目へ衝突する。


続いて三つ目と四つ目が逸れ、六つの波は飛沫の幕となってマヤの周囲で弾けた。


マヤは中央に立ち続けていた。


だが、オスは止まらない。


掌を伸ばし、彼女の周囲に散った雫を引き寄せる。


それらは背後へ集まり、短い水槍となった。


マヤが気づいた時には遅かった。


振り向く。


壁で防ぐには近すぎる。


指先を伸ばした。


槍を止めようとはしなかった。


自分のもとへ残していた水の筋で、その側面へ触れる。


表面の一点だけを押す。


穂先が指一本分だけ逸れ、肩のそばを通り過ぎた。


先端が訓練着を裂く。


その一瞬、肌の上で青い光が現れた。


水の刻印。


印は静かに輝いた。


新たな力が噴き出したわけではない。


奇跡に従うように、水が持ち上がったわけでもない。


ただ、周囲にある一滴一滴の感覚が、より鮮明になった。


以前なら探さなければならなかった道が、指で触れられる線へ変わったようだった。


オスは、それを見た。


十五年前、赤ん坊の背に見たものと同じ印。


ほんの一瞬、動きが止まった。


それだけで十分だった。


マヤは細い流れを、オスの手首の周囲にある水へ滑り込ませた。


縛ろうとはしない。


向きを変えただけだった。


握っていた指が開き、準備していた術が崩れる。


そして、小さな雫が一つ浮かび、オスの頬へ触れた。


彼を倒したわけではない。


マヤが兄より強くなったわけでもない。


戦いが続いていれば、オスには、彼女がまだ知らない方法で倒す手段がいくつもあった。


それでも、彼女の水は防御を抜けた。


オスは頬の雫を拭い、マヤへ目を戻す。


マヤは苦しそうに息をしていた。


膝には力が入っていない。


頬には、まだ涙が残っている。


それでも、頭は下がっていなかった。


「あなたから水の刻印を奪ったんじゃない、オス」


オスは黙っている。


「水が、私を選んだの」


衣服の下から漏れていた青い光が弱まり、消える。


マヤは細い水の筋を握るように、指を閉じた。


「でも、水の刻印が、私をタラインを率いるにふさわしい者にしてくれるわけじゃない」


オスを見据える。


「そうするのは、私自身よ」


彼は動かなかった。


マヤが続ける。


「いつか水の将軍位へ届くなら、私が学んだことと、守った人たちと、立ったまま帰ってきた戦いによって、そこへ届く」


声が揺れた。


それでも最後まで言い切った。


「水がお兄様を選ばなかったことを、私は残りの人生ずっと謝り続けたりしない」


訓練場に沈黙が満ちた。


オスには、生まれた日に腕へ抱いた赤ん坊が見えていた。


同時に、今、目の前に立つ少女も見えている。


自分が強いと言ってもらうことを、もう彼へ求めていない。


それを信じるために、兄の許可を待ってもいなかった。


やがて、オスが言った。


「一度防いだだけで、水の将軍位を継ぐ準備ができたことにはならない」


マヤが答える。


「分かってる」


オスの目に、小さな変化が生まれた。


怒ると思っていた。


崩れると思っていた。


あるいは、その言葉の中に隠された賞賛を探すと思っていた。


マヤは、どれもしなかった。


再び手を上げる。


「だから、訓練を頼んだの」


オスは腕へ巻きつく細い水を見る。


「流れへ入り込むのが遅かった」


マヤの口元へ笑みが浮かびかけた。


だが、すぐに隠した。


「でも、入れた」


「俺が止まったからだ」


「戦いの最中のためらいは失敗。それは、いつもお兄様が言ってたことよ」


オスの目が細くなる。


今度の視線には、侮蔑だけがあるわけではなかった。


彼が手を上げる。


二人の間で、水が再び立ち上がった。


「もう一度だ」


マヤは構える。


「今度は退かない」


オスが言った。


「それは、これから分かる」


訓練場を見下ろす回廊で、リアナが柱の陰に立っていた。


隣にはアリアンがいる。


二人の子供の間で、水が再び持ち上がるのを見ていた。


リアナが小さな声で尋ねる。


「このまま続けさせるの?」


アリアンが答えた。


「何年も言葉で二人の間へ入り続けた。それでも、何一つ直せなかった」


兄の攻撃より先に動くマヤを見つめる。


「今回は、あの子に代わって私が話す必要はない」


リアナはオスを見た。


「あの子は、マヤを愛していたわ」


アリアンが言う。


「今も愛している」


リアナが夫へ顔を向けた。


アリアンは息子を見つめたまま続ける。


「だからこそ、あれほど長く傷つけることができた」


その声に、オスを正当化する色はなかった。


ただ、重さを知る者の事実だけがあった。


一人の衛兵が回廊へ近づき、頭を下げる。


「将軍閣下」


封じられた書状を差し出した。


アリアンは受け取り、帝国特務部隊『アルマズ』の印章を見る。


「ラカンから返答が届いた」


リアナの表情が止まる。


「港へ行くことを許したの?」


アリアンは書状を開き、目を通した。


「港の調査を許可する。ただし、戦闘には参加させないこと。護衛の力では抑えられない危険が現れた場合、直ちに帰還させることが条件だ」


リアナは娘を見た。


「昨日、帰ってきたばかりなのに」


「だからこそ、日が沈む前には戻す」


マヤが最後の攻撃を終えた。


オスには当たらなかった。


それでも、訓練を始めてから初めて、彼の両足を動かした。


アリアンは、息子の足が石床へ残した濡れた跡を見る。


そして、娘を呼んだ。


「マヤ」


マヤが振り向く。


アリアンは印章が見えるように、書状を持ち上げた。


「準備しろ。一時間後、港へ出る」


マヤは頷いた。


「分かった」


オスが言う。


「私も同行します」


アリアンが答えた。


「初めから、その予定だ」


オスはマヤのそばを通り、回廊へ向かった。


肩を並べたところで、わずかに足を止める。


彼女を見ないまま言った。


「古い水路へ着いても、俺が調べるまでは水に触れるな」


以前と変わらない命令に近かった。


だが、マヤにはもう、同じようには聞こえなかった。


「お兄様より先に危険を見つけたら、待たない」


オスが振り向く。


マヤは、その目の前で縮こまらなかった。


腕には細く穏やかな水が巻きついている。


「無茶はするな」


「お兄様も、間違った場所を見ないで」


そう言い残し、マヤは回廊へ歩いていった。


オスは訓練場へ残り、その背中を見つめた。


水の刻印の光が消えた場所。


そして、自分の手の上に残された一滴。


その手を閉じる。


謝罪はしなかった。


二人の間にあるものも、終わってはいない。


それでも、十五年ぶりに。


オスが見送ったのは、自分を追い越した水の刻印ではなかった。


妹だった。


マヤは、兄がどんな目で見ているのかを確かめるために振り返らなかった。


もう、それを必要としていなかった。


生まれた日、水はマヤを選んだ。


だが、その選択を背負って進む道は――


マヤ自身が選んだ。

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