ひとつの部隊
ライは、彼らに息を整える時間を与えなかった。
三人の正面に両足を据え、手の中で刃を返す。
口元から血が流れ、肩には青い炎による火傷が広がっていた。
それでも、痛みはその目の怒りを消していない。
むしろ、さらに鮮明にしていた。
ライの目は、シグランだけを捉えていた。
その隣に立ち、再び肩から血を流しているヤザンには、侮蔑を込めた一瞥しか向けない。
「邪魔だ。どけ」
ヤザンは動かなかった。
シグランが僅かに顔を寄せ、歯の間から言う。
「二度と割り込むな」
ヤザンは、ハーマンに部隊から外されそうになった自分を、シグランが庇った時のことを思い出した。
痛みに耐えながら、笑みを浮かべる。
「あの時、お前だって俺の許可を待たなかっただろ」
シグランの顎が強張った。
言い返す時間はない。
ライが踏み込んだ。
刃が空気を裂き、シグランの首へ走る。
シグランは前腕を上げ、その周囲へ青い炎を細く凝縮させた。
刃と炎が激突する。
洞窟内の湿気が熱せられ、二人の間で熱い蒸気が弾けた。
シグランが半歩下がる。
その白い蒸気の中へ、ライの姿が消えた。
ヤザンは視界を遮られる直前まで、その足を見ていた。
踵の向き。
肩の傾き。
姿を消す直前、反対側へ移った重心。
「左だ」
シグランは聞き返さなかった。
すぐに身体を回す。
ヤザンが示した場所からライが飛び出した。
そこへ短い青炎が放たれる。
ライは寸前で頭を傾けたが、炎が頬を掠め、髪の先を焼いた。
歯を食いしばりながら後退する。
同時に、マヤも動いていた。
手を伸ばし、炎の軌道から湿気を引き離す。
シグランの視界を覆うはずだった蒸気が、中央から裂けた。
続いて水をライの足元へ送り、一瞬だけ岩を滑りやすくする。
ほんの一瞬。
だが、シグランには十分だった。
踏み込み、炎を纏った拳を振るう。
ライは刃を上げて受け止めた。
それでも炎の力に押され、後方へ弾かれる。
倒れはしない。
足を地面へ食い込ませ、踏みとどまった。
そして初めて、三人全員を見た。
もう、シグランだけを見てはいなかった。
反対側では、カインの鎖が放たれた。
五本の鎖が岩と木の根の間を走り、鉄の蛇のように地面を打つ。
直接身体を狙っているのではない。
アルマズ隊の者たちの間を切り裂き、一人ずつ分断しようとしていた。
網が完成するより早く、ラカンが動いた。
ケメンで覆った手で最初の鎖を掴み、前腕へ一度巻きつける。
そのまま力任せに引いた。
カインの体勢が崩れる。
だが、その背後から二本目の鎖が飛び出し、ワーイルへ向かった。
「伏せろ」
アナスの声は静かで、迷いがなかった。
ワーイルは振り返らずに身を屈める。
鎖が頭上を通過した。
ラーイドがその軌道へ飛び込み、横から前腕を叩きつける。
止めることはできない。
それでも、洞窟の壁へ衝突させるだけの角度は変えられた。
岩の欠片が飛び散る。
ワーイルは怯えて後退した。
だが、離れすぎる前に両足を止める。
ラーイドが、ワーイルとカインの間へ立った。
「俺の後ろに隠れるな」
ワーイルが顔を上げる。
「だが、近くにいろ」
ワーイルは頷き、呼吸を整えた。
三本目の鎖が低く走り、地面を這ってラーイドの脚へ迫る。
放たれる前に、アナスがカインの肩の動きを捉えた。
「下だ」
ラーイドは鎖を跳び越えた。
同時にアスマーが、洞窟の天井を突き破った根から落ちていた太い枝を拾い、鎖の輪と輪の間へ差し込む。
鉄が軌道を外れ、横の岩へ激突した。
カインが片眉を上げる。
「思ったよりはやるな」
アスマーは答えない。
両手で枝を押さえ込み、鎖の輪をもう一瞬だけ固定する。
その一瞬が、ラカンへ道を開いた。
ラカンはできた隙間へ飛び込み、掌底をカインの胸へ叩き込む。
カインは二歩後退した。
一本の鎖を地面へ突き立て、それを支えに倒れるのを防ぐ。
顔に大きな笑みが浮かんだ。
「さすが、有名になるだけはあるな、ラカン」
ラカンは答えなかった。
その目はカイン、イーラ、そして生徒たちの間を絶えず動いていた。
九人全員が鎖の間合いにいる限り、一人の敵へ意識を奪われるわけにはいかない。
カインが手を上げる。
鉄が、再び動いた。
「右肩にある鎖は囮だ」
アナスは鎖ではなく、カインの身体を観察しながら言った。
アミールが彼を見る。
「なぜ分かる?」
「肩が動いていない」
次の瞬間、近くの岩陰から別の鎖が現れ、ラカンの背中へ迫った。
ラカンは振り返り、届く寸前で掴み取る。
カインの目がアナスへ向いた。
笑みが一瞬消える。
「鬱陶しい目だ」
アナスは答えなかった。
位置を変え、観察を続ける。
カインの後ろでは、イーラが地面へ手をつき、立ち上がろうとしていた。
膝はまだ震えている。
呼吸は途切れがちで、顔からも幾分血の気が失われていた。
今度はヤザンを見ようとしない。
目を地面へ落としたままだった。
顔を上げれば、彼の意識の奥で垣間見たあの深みが、再び開くとでも思っているかのように。
カインは妹の様子に気づいた。
「イーラ」
「平気よ」
思っていたよりも弱い声が出た。
「平気には見えない」
イーラは意地を張るように顔を上げた。
「平気だと言ったでしょ」
濡れた地面に指を広げる。
その周囲で、薄い霧が形を作り始めた。
冷たい筋となって岩の間を抜け、アルマズ隊へ伸びていく。
触れた途端、数人の身体が強張った。
ワーイルの耳に、恐怖の残響が蘇る。
顔から血の気が引いた。
ラーイドの内側でも、矛盾した声が再び起き上がろうとする。
シグランは、あの古い言葉が耳に戻った瞬間、僅かに息を止めた。
――取るに足らない。
だが、霧は先ほどのようには届かなかった。
マヤが手を上げる。
洞窟の壁に付着していた水滴が震え、一つずつ離れていく。
湿気がイーラから遠ざかり、見えない風に引かれるように、その周囲の空気から抜き取られていった。
霧の筋が途切れる。
イーラがマヤを睨む。
「何をしているの?」
マヤが答えた。
「あなたの術を止める必要はない」
手首を回すと、水滴が細い輪となって腕の周囲へ集まった。
「私たちへ届かせなければ、それでいい」
イーラは再び術を押し広げようとする。
だが、霧は拡散する前に引き裂かれた。
マヤが通り道から湿気を奪い、何も運べない乾いた空気だけを残している。
イーラの目つきが変わった。
もう、目の前にいるのは恐怖へ抵抗するだけの少女ではない。
自分の術が、どの扉を通って侵入してくるのかを理解した者だった。
カインが言う。
「イーラ、下がれ」
「命令しないで」
イーラが掌をさらに強く地面へ押しつける。
亀裂の間から、新たな湿気の筋が立ち上った。
その身体が強張る。
腕には、再びあの震えが浮かんでいた。
一本の鎖が近づき、彼女の周囲へ巻きついて壁を作る。
今度のカインは攻撃していない。
妹を守っていた。
それを見たラカンは、間合いを詰めようとした。
だが、三本の鎖が同時に襲いかかる。
一本目を前腕で弾き、二本目をかわし、三本目を掴んで四本目の軌道へ引き込む。
鉄と鉄が激突し、鋭い火花が散った。
ラカンが叫ぶ。
「カインに分断させるな!」
ラーイドが陣形の中央へ動く。
「ワーイル、アスマーと一緒にいろ。互いに離れるな」
二人は命令に従った。
反対側では、アナスが声を上げることなく、アミールとナーダへ合図する。
ナーダは意味を理解して右へ動き、アミールが二つの岩の間にある狭い通路を塞いだ。
カインの作った網が狭まっていく。
だが、もう彼の望むように部隊を分断してはいない。
互いの位置を意識させていた。
ライが、再び攻撃へ移った。
連続する斬撃がシグランを襲う。
一撃目は胸へ。
二撃目は腿へ。
三撃目は炎に弾かれた直後、軌道を変えて首を狙った。
シグランは二撃を受け止めた。
三撃目をかわす。
だが、四撃目が防御を抜け、脇腹を掠めた。
衣服へ血が滲む。
ライが笑った。
「血が出ているぞ」
シグランは傷へ目を落とし、すぐにライを見返した。
「お前も息をしている。どちらも長くは続かない」
ライは叫び声を上げ、再び踏み込んだ。
今度は、シグランへ直接向かわない。
狙いをヤザンへ変えた。
自分の足運びを読む目のほうが、攻撃を防ぐ炎よりも危険だと理解したのだ。
ヤザンは、刃が動く前にライの肩が沈むのを見た。
止めようとはしない。
疲弊した身体では、正面からの衝撃に耐えられない。
突き出た岩のそばまで下がり、ライが近づくのを待った。
そして寸前で身体を傾ける。
刃が顔の横を抜け、岩へ突き刺さった。
切っ先が、ほんの一瞬だけ引っかかる。
ヤザンは掌でライの手首を打ち、その身体を無傷の肩で押し返した。
強い一撃ではない。
それでも、体勢を崩すには十分だった。
横からマヤが現れ、水の鞭でライの手を打つ。
刃を奪うことはできなかった。
だが、指から力を抜かせる一瞬を作った。
反対側から、青い炎が迫る。
ライは柄から手を放し、後方へ跳ぶしかなかった。
刃が岩の間へ落ちた。
ライは片足で着地し、武器を取り戻そうと手を伸ばす。
だが、ヤザンが足で蹴り飛ばした。
刃は岩の上を滑り、太い木の根の下へ入り込んだ。
ライがヤザンを睨み上げる。
「ケメンも持たずに、俺と戦えると思っているのか?」
ヤザンの呼吸は重くなっていた。
肩から胸へ痛みが広がり、視界の端が狭まり始めている。
それでも、ライの足から目を離さなかった。
「いや」
横へ一歩動き、刃へ続く道を塞ぐ。
「お前の望むようには戦わせないだけだ」
ライの顔に怒りが燃え上がった。
拳を固め、ヤザンへ飛びかかる。
だが、シグランが間へ入った。
炎に包まれた前腕へライの拳がぶつかり、皮膚が焼ける。
ライは後退を強いられた。
シグランが言う。
「お前の相手は俺だ」
「二人を殺した時から、お前は俺の敵だ!」
その声が洞窟へ響き渡る。
誰もが、二つの墓のことだと分かった。
ハルとキオ。
だが、なぜヤザンだけが他の者より長く沈黙したのかを知る者はいなかった。
ライが再びシグランへ襲いかかる。
動きは速くなった。
だが、精度を失っている。
怒りが身体を前へ押し、実行する前から次の判断を晒していた。
ヤザンは、その膝の向きを見た。
「攻撃のあと、右へ下がる」
マヤはその声を聞いた。
なぜ分かるのかとは尋ねない。
指を動かすと、細い水の筋が地面を這い、ライの背後へ回った。
ライが攻撃する。
シグランは拳を受け止める。
二人の間で炎が弾けた。
ヤザンの読みどおり、ライは右へ下がる。
足が水の上を滑った。
すぐに体勢を戻そうとする。
だが、ヤザンが小石を蹴り、その踵の下へ滑り込ませていた。
二度目の均衡が崩れる。
水が足首へ絡みついた。
シグランが踏み込む。
青い炎が拳の周囲へ凝縮された。
広く荒れ狂う炎ではない。
一点へ絞り込まれた、正確な一撃。
拳がライの胸へ突き刺さり、その身体を後方へ吹き飛ばした。
ライの背中が洞窟の入口にある木へ激突する。
頭上の枝が激しく揺れた。
片膝から地面へ落ちる。
肺から空気が押し出された。
それでも、完全には倒れなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
唇の端には血が溜まっていた。
ヤザンが刃への道を塞ぎ、
マヤが足を縛り、
シグランが最後の一撃を放った。
三つの別々の動き。
だが、敵にはその間にある切れ目が見えなかった。
カインの鎖を片足で押さえていたラーイドが、三人を見る。
「いつの間に、あれほど変わった?」
アナスも視線を三人へ向けた。
前に立つシグラン。
その背後で間合いを支配するマヤ。
そして二人が必要とする場所へ、求められる前から立っているヤザン。
アナスが答える。
「俺たちのいなかった場所でだ」
ラーイドが彼を見る。
アナスは静かな声で続けた。
「今、打ち合わせたんじゃない。全員が、他の二人が動く前から何をするか分かっていた」
鎖がアナスの顔のそばを通る。
身を傾けてかわし、ラーイドへ合図した。
「左」
ラーイドは振り向き、鎖がワーイルへ届く前に受け止める。
連携しているのは、三人だけではなかった。
その感覚は、少しずつ全員の間へ広がっていた。
圧力の中で。
訓練場では生まれない何かのように。
アミールが強い一撃を放ち、カインの鎖を一本押し上げる。
その下へナーダが潜り込み、軌道を変えた。
カインが鎖を引こうとした時には、アスマーが固定した二本の根の間に引っかかっている。
ワーイルも震える手で、彼女とともに枝の端を掴んでいた。
もう、誰も一人では戦っていなかった。
カインの笑みが狭まる。
イーラを見る。
まだ術を取り戻そうとしているが、マヤに周囲の湿気を奪われ、額には汗が浮かんでいた。
ライへ目を向ける。
三人の監視を受けながら、どうにか立ち上がろうとしている。
そして、再びラカンを見た。
「ずいぶん早く学んだようだな」
ラカンが答える。
「お前たちは、ここに長く残りすぎた」
踏み込む。
カインの前で、鎖が交差した。
だが、ラーイドが一本を横から引き、アナスが二本目の軌道を放たれる前に示す。
鎖の間に、細い隙間が開いた。
ラカンはそこへ飛び込んだ。
カインまで、あと一歩。
相手が鎖を上げるより早く、手を伸ばす。
その瞬間、空間が折れ曲がった。
カインは後退していない。
それでも、ラカンから遠ざかった。
たった一歩の距離が、長い回廊のように引き伸ばされる。
ラカンの手が宙で止まった。
目つきが変わる。
一瞬、洞窟の音が消えた。
カインの背後に細い黒線が現れる。
それは徐々に広がり、空間そのものを切りつけた亀裂となった。
地面へ立つ扉ではない。
宙に浮かぶ破断。
目が位置を定めようとするたび、縁が揺らいで見えた。
その中から、スカイが現れた。
静かな笑みを浮かべている。
まるで、この戦いが時間どおりに辿り着いた約束にすぎないかのように。
カインが冷たく言う。
「遅い」
スカイは、壊れた鎖と亀裂の走った岩を見た。
「必要な部分が終わる頃には間に合った」
ラカンは即座に動いた。
遠距離から攻撃はしない。
三歩で間合いを潰し、背後の亀裂が完成する前に、スカイの首へ手を伸ばした。
だが、二人の指先の間で空気が伸びる。
スカイは、触れられるほど近くにいる。
それでも、決して届かないほど遠かった。
ラカンが言う。
「そいつらを連れては行かせない」
スカイの笑みが深くなる。
「目的は果たした」
カインが鎖を一本放ち、イーラの身体へ巻きつけた。
倒れる前に自分のそばへ引き寄せ、二人で亀裂の縁まで下がる。
イーラは俯いていた。
ヤザンを見ない。
一言も口にしなかった。
ライの足元で空間が再び折れ、その身体をスカイのもとへ引き寄せる。
ライは抗おうとし、地面へ指を食い込ませた。
だが、シグランの一撃を受けた身体は、もう言うことを聞かない。
顔を上げ、叫んだ。
「シグラン!」
シグランは動かなかった。
片手に青い炎を留めたまま、ライを見据える。
「次は、誰にも邪魔させない!」
シグランは隣に立つヤザンを見た。
そして、ライへ視線を戻す。
「なら、こいつをどかしてみろ」
ヤザンの目が僅かに開いた。
ライの顔は怒りに歪んだ。
スカイは亀裂の内側へ半歩入った。
だが、動きを止めてシグランを見る。
ヤザンには一度も目を向けない。
「今なら、アズロンがお前に目をつけた理由が分かる」
シグランの手を包む炎が強まった。
「そう伝えろ。用があるなら、自分で来いとな」
スカイが小さく笑った。
「いずれ、その時は来る」
指を閉じる。
カインとイーラ、ライの周囲で空間が歪み、三人の身体が亀裂の中へ引き込まれていく。
ラカンが再び踏み込んだ。
だが、手が縁を通過した瞬間に亀裂は閉じる。
掴んだのは、冷たい空気だけだった。
全員が消えた。
森の音が、一斉に戻ってきた。
枝の擦れ合う音。
戦った者たちの呼吸。
そして、マヤが手放したことで、洞窟の天井から再び落ち始めた水滴。
アルマズ隊の者たちは、その場から動かなかった。
誰も、何もない空間を追おうとはしない。
ヤザンは、まだシグランのそばに立っていた。
顔は青ざめ、傷ついた腕が身体の脇へ垂れている。
血は指先まで流れていた。
それでも、スカイの消えた場所から目を離さない。
深く息を吸おうとした。
だが、空気が肺の奥まで届かなかった。
周囲の音が遠ざかっていく。
洞窟が灰色に染まり、どこへ視線を定めればいいのか分からなくなった。
マヤが呼ぶ。
「ヤザン?」
彼女へ振り向いた。
少なくとも、振り向こうとはした。
唇が動いた。
声は出ない。
両膝から力が抜けた。
最も近くにいたのはシグランだった。
ヤザンの頭が地面へ落ちる前に腕を伸ばし、その身体を抱き止める。
自分も片膝をつき、ヤザンの重さが脇腹の傷へかかった瞬間、顔を歪めた。
それでも手を離さない。
ヤザンは腕の中で動かなかった。
目を閉じている。
呼吸は浅い。
シグランはその顔を見て、無傷の肩の後ろへ回した手に力を込めた。
低く苛立った声で言う。
「いつも無茶の代償を払いすぎなんだ……馬鹿が」
はっきり聞こえたのは、マヤだけだった。
マヤはすぐに二人の前へ膝をついた。
ヤザンの首へ指を当て、次に胸元へ移す。
「脈はある」
ラカンが近づく。
「状態は?」
マヤは肩口の衣服を慎重に開いた。
傷が再び裂け、古い包帯が血に染まっている。
「傷口が開いています。それに、前の任務から身体が回復しきっていません」
一瞬ためらってから、付け加えた。
「イーラの術で、見せていた以上に消耗したんだと思います」
シグランが顔を上げる。
「危険なのか?」
鋭い問いだった。
答えを求めているのではなく、要求しているような声だった。
マヤが答える。
「急いで戻れば大丈夫」
アミールが洞窟の入口へ進み、木々の間を探った。
「追うべきだ」
マヤが振り返る。
「何を言ってるの?」
アミールは強い口調で答えた。
「スカイがどこへ移したのかは分からない。だが、まだ森の中にいる可能性はある。今動けば、別の痕跡が消える前に見つけられるかもしれない」
亀裂の閉じた場所を見る。
「これはアルマズ隊としての最初の任務だ。任務が先だ」
マヤの拳が固く握られた。
指の関節に水滴が集まり、弾ける。
「ヤザンは?」
アミールはヤザンを見た。
それから、洞窟の入口へ視線を戻す。
「行き先を突き止めてから連れ帰る。今戻れば、二度目の機会はない」
ラーイドがワーイルのそばから立ち上がった。
前腕の傷から血を流している。
それでも声は揺れなかった。
「アミールの言うとおりだ。追跡できる痕跡が残っているなら、今しかない」
マヤは信じられないという目で彼を見た。
アナスは黙っていた。
閉じた亀裂からヤザンへ目を移し、次に洞窟の外の木々を見る。
どちらにも賛成せず、反対もしない。
判断を下す前に、痕跡を探していた。
シグランも何も言わなかった。
まだヤザンを抱えている。
歯を食いしばり、こめかみに筋が浮くほど顎へ力を込めていた。
スカイの消えた道を見る。
次に、腕の中の青ざめた顔を見る。
どちらを選ぶのか、声に出すことができなかった。
マヤがラカンを見上げる。
「ラカン教官――」
ラカンが遮った。
「ここでは、お前の教官じゃない、マヤ」
沈黙が落ちた。
マヤの息が一瞬止まる。
ラカンは部隊の全員を、一人ずつ見た。
声に怒りはない。
だからこそ、さらに厳しく響いた。
「俺はこの部隊の指揮官だ。俺の役目は、お前たちが望む決断を下すことじゃない。任務を達成させることだ」
マヤの目が大きく開く。
ワーイルは地面へ視線を落とした。
アミールさえ、その形で同意を得るとは思っていなかったようだった。
ラカンが言う。
「そして、アミールの判断は正しい」
洞窟を、重い沈黙が満たした。
シグランは動かなかった。
だが、顔を上げてラカンを見る。
掌の炎はすでに消えていた。
それでも、その目には炎よりも熱いものが残っている。
ラカンは続けた。
「追跡できる痕跡が一つでも残っていれば、どれだけ負傷者がいようと、俺は追撃を命じていた」
スカイが消えた場所へ向かう。
その前で腰を落とし、空気と地面の上へ指を走らせた。
何も残っていない。
歪みも。
方向も。
生きたケメンの痕跡もなかった。
ラカンは立ち上がる。
「だが、スカイが通路を閉じた瞬間、奴らはもう俺たちの手の届かない場所へ移った。追跡もできず、追うべき方向すらない」
アミールを見る。
「痕跡もなく動くことは、任務の遂行ではない」
次にラーイドへ目を向ける。
「他に幾つの待ち伏せが残っているかも分からない土地で、負傷した部隊を無駄に消耗させるだけだ」
全員へ向き直った。
「帰還する。負傷者を運び、拾える証拠をすべて回収し、指揮部へ報告する」
マヤの拳が、ゆっくりと下がる。
ラカンは謝らなかった。
ヤザンのために下した決断だとも言わない。
その必要はなかった。
マヤは身を屈め、再び包帯を固定し始めた。
シグランも、頭が安定したことを確かめるまで、ヤザンを抱えたまま動かなかった。
アナスとナーダは洞窟の奥を調べ、アスマーとワーイルも地面や根の間を探した。
だが、持ち帰れるものは何も見つからなかった。
ラカンは洞窟の入口に立った。
地面に残る鎖の跡。
イーラが術に利用した湿気。
ライが叩きつけられた木。
スカイの言葉が頭に蘇った。
――目的は果たした。
幾つもの断片が、ラカンの中で形を作り始めていた。
だが、まだ名前は与えない。
背後では、マヤがヤザンを運ぶ準備を整えている。
シグランは自分も傷ついているにもかかわらず、そのそばを離れなかった。
残る者たちも、二度目の命令を待つことなく、負傷者の周囲へ配置につく。
ラカンは、洞窟の入口に残る彼らの足跡へ目を落とした。
その時、ようやくすべてが繋がった。
囮だったのは、洞窟ではない。
俺たちだった。




