死を招く絶望
ラカンの背後で、鎖が跳ね上がった。
ライの刃が動く。
イーラが、木の幹に掌を広げた。
次の瞬間、彼らの頭の中へ沈黙が落ちた。
森の音が消えたわけではない。
葉は揺れ続け、露は滴り、鎖は金属の唸りを上げて空気を切り裂いている。
だが、それらの音と意識との距離が、突然引き離された。
九人の生徒たちの身体が止まる。
目は開いたまま。
足も泥の上に立っている。
それでも、身体を動かしていた意思だけが、別の場所へ引きずり込まれていた。
シグランの掌に灯っていた青い光が、不安定な炎へ変わる。
マヤの指先へ集まった水は、命令に従う代わりに、彼女自身へ絡みついた。
ワーイルの息が止まる。
ラーイドの腕が強張る。
そしてヤザンは、存在しない三つ目の墓を見つめたまま動かなかった。
全員に同時に起きた変化を、ラカンは見逃さなかった。
「目に見えるものにしがみつけ! 声に答えるな!」
だが、その命令が届くより早く、鎖が迫った。
ラカンは軌道から身をかわし、鉄がワーイルの立っていた場所を通り抜ける直前、その身体を肩で突き飛ばした。
ワーイルの身体は自ら動こうとしない。
横倒しになっても、その目は誰にも見えない空白へ向けられたままだった。
鎖が近くの幹に当たり、宙で弧を描いてラカンへ戻る。
ラカンは頭を下げた。
頭上を通過した鉄が木の皮を剝ぎ取り、破片が両肩へ降りかかる。
反対側から、二本目の鎖が迫った。
狙いはラカンではない。
アスマーとナーダへ向かっていた。
ラカンはその軌道へ飛び込み、最初の輪が激突する瞬間、前腕をケメンで覆った。
力を完全には止められない。
それでも一撃の向きを押し上げると、鎖は二人の手前へ突き刺さり、足元の泥を深く裂いた。
衝撃が前腕を激しく揺らした。
木々の間で、カインが拳を握る。
二本の鎖が、帰る場所を知っているかのように地面を這い、彼のもとへ戻っていった。
カインが静かに言う。
「すべての攻撃の前に立ち続けることはできない」
ラカンは、生徒たちとカインの間に両足を据えた。
「お前には、一撃届けば十分だ」
カインの肩の上で、一本の鎖が動く。
「なら、やってみろ」
三本の鎖が同時に放たれた。
一本はラカンの頭へ。
二本目は両脚へ。
そして三本目は頭上を越え、真っすぐシグランへ向かった。
カインはラカンを倒そうとしているのではない。
選ばせようとしている。
ラカンは低い鎖を跳び越え、頭を狙う一本から身体を傾けると、シグランへ届く寸前の三本目を掴んだ。
鉄の重さに引かれ、身体が半歩前へ出る。
踏み込んだ足が泥へ沈んだ。
カインが腕を引く。
二人の間で鎖が張り詰めた。
ラカンは相手を見据えた。
ようやく狙いを理解した。
カインは異なる方向から生徒たちを狙い続ける。
ラカンが一人を守るたび、少しずつ彼らから引き離すために。
向かいの岩の上では、イーラが笑っていた。
最初は小さな笑いだった。
だが、アルマズの隊員たちが目の前で動けなくなっているのを見て、その笑みが大きくなる。
「これが、最高司令官の選んだ部隊?」
彼女の周囲を露の粒が巡る。
一粒ごとに、声や光景、古い傷が閉じ込められていた。
「九つの名前に、肩を飾るきれいな帯……でも、一人につき一つの傷を開くだけで、全員倒れてしまうのね」
生徒たちは、その声を耳で聞いてはいなかった。
イーラの言葉は、内側から届いていた。
*
ワーイルは一人で立っていた。
森はもう、どこにもない。
果ての見えない灰色の大地が広がり、遠くでは仲間たちの背中が離れていく。
追いかけようとした。
だが、足は動かなかった。
視線を落とすと、泥が膝まで這い上がり、両脚を呑み込んでいる。
背後から声がした。
「また、みんながお前を待つ」
身体に力を込めるほど、地面が強く足を掴んだ。
「誰かが戻ってきて、お前を助ける。そして、お前の代わりに傷つく」
遠くにラーイドが現れた。
続いて、アスマー。
ワーイルは二人へ手を伸ばした。
だが、そのたびに距離が広がる。
「お前が生き残るのは、勇敢だからじゃない」
声が耳元まで近づいた。
「他の者がお前の代わりに、代償を払っているからだ」
現実では、泥の上でワーイルの指が震えていた。
それでも、身体は起き上がらない。
数歩離れた場所で、ラーイドは無数の声に満ちた闇の中にいた。
異なる方向から、幾つもの呼び声が届く。
前へ進めと求める声。
背後から助けを求める叫び。
そして、間違った方向を選んだと責める声。
完全な記憶は現れなかった。
あるのは、顔を背けるたびに倒れていく影だけ。
一つへ向かおうとすれば、反対側から別の声が聞こえる。
術は、ラーイドを迷わせようとしていた。
他者を支えることに慣れた男へ、次に足を置く場所を疑わせようとしている。
それでも、ラーイドの足は後ろへ下がらなかった。
別の場所では、アスマーが顔のない人々に囲まれていた。
ナーダの姿は、辿り着く直前で途切れる幾つもの道へ映し出されている。
アミールは走っていた。
何から逃げているのかも、どこへ向かっているのかも分からない。
どれだけ速く走っても、同じ場所へ戻ってくる。
アナスだけは、道を見なかった。
見えたのは、完全な闇だった。
だが、その闇が自分の知る静寂とは違うことに、最初から気づいていた。
あまりにも完全すぎる。
あまりにも丁寧に作られすぎている。
それでも、まだ身体を動かすことはできなかった。
*
マヤは、タラインの古い広間に立っていた。
冷たく真っすぐな柱が両側へ続き、その向こうには、顔の見えない一族の者たちが並んでいる。
広間の中央に、オスがいた。
怒った目で彼女を見ているわけではない。
血に濡れた衣服のまま、床に倒れていた。
マヤは駆け寄ろうとした。
だが、水が両足へ集まり、その場へ縛りつける。
オスが手を上げた。
「マヤ……」
マヤも手を伸ばす。
二人の間で、床が遠ざかった。
オスの隣に、意識を失ったヤザンが現れる。
その次にはシグラン。
炎は消え、首から血を流していた。
柱の向こうから、一族の声が響く。
「遅かった」
マヤは水を動かそうとした。
応じない。
「何が起きるか分かっていたのに、正確さが足りなかった」
指を強く握る。
「これは本物じゃない」
だが、オスの弱々しい声が返ってきた。
「それで、お前が間に合わなかったことが変わるのか?」
マヤの手が震えた。
現実では、手首に絡んだ水が透明な枷のように締めつけを強めていた。
そこから一歩離れた場所で、シグランはハーマンと向き合っていた。
広間も、森もない。
黒一色の空間。
その奥に、最高司令官が立っている。
演武場で見たときと同じ目で、ハーマンはシグランを見ていた。
怒りはない。
誇りもない。
ただ、冷たい測定だけがある。
闇の中から声がした。
「取るに足らない」
シグランの掌に、青い炎が灯った。
だが、前へは迸らない。
指へ絡みつき、そのまま持ち主を喰らおうとするように手首を這い上がっていく。
ハーマンは動かない。
「ザランの名を与えられてさえ、お前には自分の居場所を証明してくれる他人が必要だった」
シグランの背後に、マヤとヤザン、ラカンの影が現れた。
そして、砕け散る。
声が繰り返す。
「取るに足らない」
現実で、炎が膨らんだ。
シグランの指の間から不規則に漏れ、足元の濡れた葉へ火の粉が落ちる。
細い煙が立ち上った。
ライは、それを見ていた。
シグランの正面で足を止め、刃を身体の脇へ下ろしている。
揺れる炎へ目を向けた。
「目を開けろ」
シグランは動かなかった。
ライが刃先で二つの墓を示す。
「理由を知るまでは、死なせない」
ラカンはシグランへ向かおうとした。
だが、二本の鎖が目の前で交差する。
一本目に後退を強いられ、二本目が肩へ落ちてきた。
身体を回すと、鎖の輪が背中すれすれを通り、衣服の端を引き裂いた。
ラカンが叫ぶ。
「そいつから離れろ!」
ライは振り向かない。
「自分の相手から目を離すな」
カインの鎖が、再び襲いかかった。
*
ヤザンは、アイン・アルワルにいた。
近づく前に、扉が閉ざされる。
窓から覗いていた顔が消える。
細い道を進む彼の背を、幾つもの声が追いかけてくる。
「呪われた女の息子」
道の先に、マルワンがいた。
立ってはいない。
黒いナツメヤシの根元に倒れ、身体の下から血が土へ広がっていた。
ヤザンは走ろうとした。
だが、ナツメヤシ園が遠ざかっていく。
反対側にラヒールの墓が現れ、その手前には、濡れて引き裂かれたアマニの人形が落ちていた。
その向こうに、ラカンとマヤ、シグランが立っている。
声が言う。
「お前に近づいた者は、皆、代償を払った」
三人の周囲で影が動く。
ヤザンは手を伸ばした。
届かない。
「マルワンは、お前を守ったから死んだ」
マルワンが消えた。
「ラカンは、お前のもとへ戻るから傷つく」
ラカンが倒れる。
「マヤとシグランも……」
二人の足元へ闇が這い上がる。
「次は、あいつらだ」
ヤザンは立ち止まった。
術が求めているのは、ただ彼を怖がらせることではない。
恐怖の中に、一つの結論を作ろうとしていた。
一人でいれば、誰も自分のせいで傷つかない。
戻らなければ、誰も自分を助けに来る必要はない。
現実で、ヤザンの頭が僅かに下がった。
イーラの目が彼へ向く。
笑いは一瞬止まり、すぐに前よりも軽く、さらに侮蔑を帯びて戻った。
ヤザンの周囲には、ケメンの痕跡がない。
彼女を押し返す気配もない。
行く手を遮る抵抗もなかった。
「こいつは?」
身体を前へ傾け、ヤザンを眺める。
「ケメンもない……守りもない」
短い笑い声が漏れた。
「本当にアルマザの人間なの?」
二本の指を上げる。
ヤザンの近くにあった露の粒が動き、頭の周囲で静止した。
イーラが言う。
「お前が一番簡単だ」
目を閉じ、術をさらに深く押し込んだ。
イーラは、犠牲者の限界を知っていた。
これまで入り込んだどの精神にも、必ず何らかの抵抗があった。
ケメンが作る壁。
侵入者を外へ押し出そうとする本能。
開かれることを拒む記憶。
どれほど壊れた心にも、いずれ辿り着く底があった。
だが、ヤザンの内側には壁がない。
ケメンが作る境界すらなかった。
道は開かれている。
イーラは笑みを浮かべた。
村の声を越える。
マルワンの死を越える。
ラヒールの墓と、そこへ絡みつく恐怖も越える。
さらに深くへ降りていった。
そして、止まった。
その先に、別の記憶はなかった。
底もない。
何かがいた。
姿は見えない。
形もない。
声もない。
ケメンの痕跡さえない。
それでも、そこに何かが存在していると分かった。
イーラは近づこうとした。
その瞬間、感覚が変わった。
これまで彼女は、他人の精神を開き、その奥に隠されたものを見る側だった。
だが、いつから自分が見られる側へ回ったのか、分からなかった。
目は見えない。
それでも、その深みにいる何かが、彼女の存在に気づいた。
イーラの息が止まる。
術を引き戻そうとした。
応じない。
初めて、内側に閉じ込められたのはヤザンではなかった。
閉じ込められていたのは、イーラだった。
現実で、両目が大きく開く。
顔から笑みが消えた。
唇が動く。
だが、声が出ない。
岩の上で一歩退いた。
さらに一歩。
踵が縁へ当たり、両膝から崩れ落ちる。
指を濡れた苔へ食い込ませ、身体を激しく震わせた。
その目は、ヤザンへ向けられていない。
誰にも見えない空白へ縫いつけられていた。
喉の奥から、壊れた声が漏れる。
「出して……」
カインが、その声を聞いた。
振り返る。
初めて、冷静さが顔から崩れた。
「イーラ?」
ラカンへ向かっていた鎖が軌道を外れ、木の幹へ激突した。
カインは岩の上にいる妹を見る。
両膝をつき、肩を震わせ、短い呼吸を繰り返していた。
「イーラ!」
妹へ向かって動く。
ラカンは鎖の乱れを利用した。
だが、カインの背を襲うことはしない。
生徒たちへ駆け戻り、自分の身体を彼らとライとの間へ置いた。
カインが太い鎖を岩の上へ放つ。
鎖はイーラを包み、鉄の壁となって彼女を守った。
「何があった?」
イーラは答えない。
片手を頭へ伸ばし、そこに残った何かを引き剝がそうとするように指を立てる。
「出して……あそこから、出して……」
カインには、彼女の言う「あそこ」がどこなのか分からなかった。
問い返す時間もない。
イーラの集中が途切れた。
宙に浮かんでいた露が、一斉に落ちる。
葉や岩、人々の顔へ短い雨のように降り注いだ。
そして、「死を招く絶望」の支配が砕けた。
*
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
ワーイルは大きく息を吸い、深い水から引き上げられたように泥の上へ身体を折った。
アスマーが片膝をつく。
ナーダは胸へ手を当て、呼吸を取り戻そうとしていた。
アミールは、現実では踏み出してすらいなかった一歩の途中で止まっていた。
ラーイドの目には、ワーイルへ迫る鎖が映った。
自分がどこにいたのか理解する時間はない。
駆け出し、ワーイルの肩を掴んで引き寄せた。
鎖が二人の頭上を通過し、地面へ激突する。
二人は濡れた葉の上を転がった。
ワーイルが顔を上げる。
目には、まだ恐怖が残っている。
ラーイドが言う。
「立て」
「俺は……」
「まず立て」
ワーイルは掌を地面へ押しつけた。
腕が震える。
それでも、立ち上がった。
左側では、アナスが目を開いた。
イーラには目を向けない。
見たのはカインだった。
肩の位置。
両腕に巻かれた鎖。
その動きを観察する。
「鎖が戻る前に、右手が下がる」
アミールは、すぐには意味を理解できなかった。
アナスは、まだ焦点の定まらないその目を見ると、衣服の端を掴んで後ろへ引いた。
直後、鉄の輪がアミールの胸元を通過する。
アミールの目が見開かれた。
アナスが言う。
「動く前に見ろ」
アミールは体勢を立て直し、自分を掠めかけた鎖を見る。
「見ていた」
「見る方向が違う」
言い返す時間はなかった。
鎖がカインのもとへ戻り始める。
右側では、ラーイドがワーイルとアスマーの前へ立った。
アナスは左側の仲間とカインを同時に視界へ収められる場所を取る。
ラカンは二人を見ていた。
術を破ったわけではない。
恐怖を打ち負かしたわけでもない。
それでも、支配が砕けたあと、最初に他者を守るために動いたのは二人だった。
ラカンはそれを記憶へ刻み、再びカインへ目を戻した。
先ほどまで冷静に戦っていた男は、今では妹への道を開こうと、さらに激しく鎖を振るっている。
ラカンが言う。
「冷静さを失えば、妹は守れない」
カインの目が細くなる。
「妹のことを語るな」
二本の鎖が放たれた。
ラカンは迎え撃つ構えを取った。
*
マヤが目を開いた。
最初に残ろうとしたのは、オスの顔だった。
伸ばされた手。
血。
その声に込められた責め。
だが、冷たい一滴が頬へ落ちた瞬間、広間の光景が揺らいだ。
マヤは手を上げ、それに触れる。
冷たい。
澄んでいる。
本物だった。
オスの顔が消える。
森が戻ってきた。
鎖の壁に守られたイーラ。
術が支配を失い、空から落ちた水滴。
マヤは自分の手首を見た。
先ほどまで枷となっていた水が、皮膚の上で崩れていく。
疲れた声で言う。
「術は、声だけに宿っていたんじゃない」
ナーダが近づいた。
「何?」
マヤは葉の上へ散った露を見た。
「水を通り道にしたのよ」
それ以上説明する時間はなかった。
目の前で青い炎が燃え上がる。
シグランが、立ったまま現実へ戻った。
掌から炎が一気に噴き出す。
広く、不安定な炎。
だが、木々へ届く前に指を閉じ、その内側へ押さえ込んだ。
火が縮む。
暴れる波から、手を覆う薄い青の層へ変わった。
シグランが顔を上げる。
目の前にはライがいた。
ライが言う。
「二人を見ろ」
何を示しているのか、シグランには聞く必要もない。
ライの背後に二つの墓がある。
「見た」
ライが刃の柄を強く握った。
「今度こそ、名前を覚えておけ」
踏み込む。
シグランは、まだ完全には体勢を取り戻していない。
それでも、炎は間に合った。
刃と圧縮された火の層がぶつかり、二人の間に薄い蒸気が立ち上る。
シグランは広範囲の炎を放たなかった。
火を身体の近くへ留め、刃が触れた場所だけで受け止める。
ライが半歩下がり、すぐに方向を変えた。
二撃目が下から迫る。
シグランは身体を傾けてかわし、胸元へ短い炎を放った。
ライは近くの幹の後ろへ跳ぶ。
身体ではなく、衣服の端だけが焼けた。
反対側から、さらに速く姿を現す。
怒りに駆られていても、技量を失ってはいなかった。
木々で肩の動きを隠す。
根を踏み台にして、足運びの高さを変える。
残った湿気で、刃の光を隠していた。
ラカンが叫ぶ。
「シグラン! 木々の間まで追うな!」
シグランは命令を聞いた。
追わない。
その場に足を据え、炎を掌の内側へ戻した。
ラカンはそれを確認した。
だが、それ以上見ている余裕はない。
カインの鎖が、目の前へ落ちてきた。
*
ヤザンの身体も、他の者たちと同時に解放された。
だが、意識は完全には戻っていない。
まだアイン・アルワルの道に立っている。
家々や壁の向こうから、森の輪郭が滲み出し始めていた。
イーラの声と、村の声が重なる。
「お前に近づいた者は、皆、代償を払った」
マルワンが、もう一度倒れる。
だが遠くで、鉄が木へ激突する音を聞いた。
ラヒールの墓が見える。
ラカンがシグランを呼ぶ声も聞こえた。
水の中へ沈むマヤの姿が映る。
そして、傷ついた肩で、本物の痛みが脈打った。
その痛みは、記憶の一部ではない。
ヤザンは指を肩へ押し当てた。
痛みが強くなる。
足元の偽りの道に亀裂が走った。
イーラの声が言う。
「ここにいれば、誰もお前のせいで傷つかない」
ヤザンは顔を上げた。
崩れかけた壁の向こうに、現実のシグランが見える。
ライが一本の木の後ろへ退く姿も見えた。
シグランは刃の位置を追っている。
ヤザンが見たのは、足だった。
ライは消えたのではない。
角度を変えている。
ラカンの言葉が蘇った。
現実にあるもの。
ヤザンは、泥に残った足跡を見た。
次に、近くにいるマヤの肩。
そして、シグランの掌に閉じ込められた青い炎。
三つの現実。
足を動かす。
恐怖は消えなかった。
声も止まらない。
それでも、ヤザンは一歩でそこから抜け出した。
*
左側の木の陰から、ライが姿を現した。
シグランはそれを捉えた。
炎を向ける。
だが、それが本命ではなかった。
衝突の直前、ライは方向を変え、高く盛り上がった根へ足を置く。
そこから身体を横へ押し出し、炎を顔のすぐそばへ通過させた。
二本の木の間にある影へ退く。
右肩が動いた。
シグランには、正面の刃が見えた。
ヤザンが見たのは、後ろ足だった。
足先は、別の場所を向いている。
「後ろだ」
シグランが振り向き始めた。
遅い。
ライが別の角度から現れる。
首筋のすぐ近く。
刃は、殺すために大きな力を必要としない短い軌道を走っていた。
マヤが叫ぶ。
「シグラン!」
シグランは掌を上げようとした。
炎が、ほんの僅かに遅れる。
だが、ヤザンはライが予想したよりも近くにいた。
戦いが始まってからずっと、シグランの一歩後ろに立っていた。
踏み込む。
身体から光は出ない。
持ってもいないケメンを纏うこともない。
無傷の肩をシグランの背へぶつけ、刃の軌道から押し出した。
シグランは体勢を崩し、片手を地面につく。
ライの刃が、直前まで首のあった場所を通過した。
刃先が、ヤザンの傷ついた肩へ触れる。
肩口の衣服が裂け、その下の包帯も開いた。
痛みが肩から胸へ走り、一滴の血が葉の上へ落ちる。
ヤザンは片膝をついた。
それでも、刃は命を奪う場所を外していた。
ライは目の前で足を止めた。
一瞬、驚きが顔を横切る。
ケメンを持たない少年。
墓の前で、誰にも気に留められなかった少年。
その少年が、ザランの少年にも見抜けなかった一撃を読んだ。
驚きが苛立ちへ変わる。
「どけ」
ヤザンは顔を上げた。
ライとシグランの間に立ったまま、退かない。
背後でシグランが起き上がり、険しい顔をヤザンへ向けた。
目にある怒りは、ライだけへ向けられたものではない。
「何をしている?」
ヤザンは苦しげに息をした。
「あのままなら、斬られてた」
シグランの顎に力が入る。
炎が遅れたことは分かっていた。
刃が、届かせてはならない距離へ入ったことも。
それでも言う。
「攻撃してくることくらい分かっていた。俺の戦いに口を出すな」
ヤザンはすぐには答えなかった。
一瞬、演武場が見えた。
ハーマンが立っている。
冷たい声で、ヤザンを部隊から外そうとしていた。
その前へ、シグランが初めて父に逆らって進み出た。
第三班は三人だ。
ヤザンの顔に小さな笑みが浮かぶ。
嘲笑ではなかった。
「あの時、お前だって俺の許可を待たなかっただろ」
シグランは黙った。
目の鋭さは消えていない。
だが、口にしかけた言葉は止まった。
マヤが二人の隣へ駆けつける。
手を上げると、周囲の水滴が彼女へ集まり始めた。
正面では、ライが身体を低くし、次の攻撃へ備えている。
右側では、ラーイドがワーイルとアスマーの前に立っていた。
左側では、アナスがカインの鎖を見据え、アミールとナーダもその背後で位置を取り戻している。
ラカンは、新たな命令を出さなかった。
それでも、シグランが半歩前へ出た。
ヤザンはその隣へ立つ。
前でも、後ろでもない。
反対側には、マヤが位置を取った。
シグランはライを見据えた。
今度は、ヤザンに離れろとは言わなかった。




