拒まれた勝利
イザンは闘技場の円の中に立っていた。
反対側には、シグラン・ザラン。
観客席から響く歓声は、彼の名だけを呼んでいた。
「シグラン!」
「ザランの継承者!」
「早く終わらせろ!」
イザンには、その叫びが持つ意味のすべては分からなかった。
だが、一つだけ理解できた。
誰も、自分が勝つことを期待していない。
おそらく、抵抗することさえ期待されていなかった。
審判が二人の間に立つ。
最初にシグランを見て、次にイザンへ視線を移した。
「規則は明確だ。武器の使用は禁止。降参、続行不能、あるいは審判が重大な危険を認めた時点で試合を終了する」
その視線は、シグランの上でわずかに長く止まった。
「カマンの使用は認める。ただし、相手の命を脅かす力は禁止だ」
シグランの表情は変わらなかった。
一方、イザンは両手をどう構えればいいのかさえ分からなかった。
片方を少し上げる。
だが、すぐに下ろした。
戦いの構えなど教わっていない。
シャーミルから道中で学んだのは、疲れても身体を支えること。
痛みが胸を押し潰そうとした時、呼吸を続けること。
だが、それは戦いではなかった。
審判が手を上げる。
「構えろ」
短い静寂。
その手が振り下ろされた。
「始め!」
シグランの姿が消えた。
イザンが何が起きたのか理解した時には、拳が胸へ叩き込まれていた。
息が止まる。
両足が地面から浮き、そのまま背中から激しく倒れた。
肺の中の空気が、一気に吐き出される。
観客席から、まばらな笑い声が聞こえた。
シグランが言った。
「立て」
励ましではなかった。
あまりにも早く倒れた相手では、退屈を消すことさえできない。
そう告げるような、冷たい命令だった。
イザンは息を吸おうとした。
初め、胸が拒んだ。
次の瞬間、鋭い痛みと共に空気が入ってきた。
片手を地面へつく。
片膝を立てる。
そして、立ち上がった。
観客の間に小さなざわめきが走る。
感心したのではない。
試合がまだ終わっていないことへの驚きだった。
シグランが言う。
「いい」
そして、再び殴った。
◆
来賓席の最前列には、アリアン・タラインが座っていた。
その佇まいは静かだった。
だが肩にある水の徽章が、周囲の者たちに礼儀正しい距離を取らせていた。
隣では、息子のオースが、父よりも隠すことなく試合を見つめている。
「差がありすぎる」
アリアンはすぐには答えなかった。
二度目に倒されたイザンが、再び起き上がろうとする姿を見ていた。
やがて言う。
「差は、始まる前から明らかだった」
「なら、なぜ審判は止めない?」
「まだ立っているからだ」
オースは地面に倒れている少年を見る。
「かろうじて、だけど」
アリアンが答える。
「試験では、『かろうじて』も、まだ完全には倒れていないという意味だ」
二人の背後。
ほかの席よりも高い位置に、光から離れて一人の男が座っていた。
話さない。
動かない。
暗い外套には、目立つ徽章もなかった。
それでも、その近くに立つ兵士たちは、ほかの兵士よりも背筋を伸ばしていた。
男の視線は闘技場へ向けられている。
シグランではない。
何度倒されても立ち上がる少年へ。
◆
マヤは、少し前に自分の試験を終えていた。
先ほどの対戦相手が闘技場の外で治療を受ける中、彼女は参加者用の通路のそばに残り、次の試合を見ていた。
最初に目が向いたのは、シグランだった。
短い訓練で見せていた時よりも、速く、強い。
無駄な動きがない。
普通の打撃でさえ、最初から自分が優位だと知る者の確信に満ちていた。
マヤの内側に、静かな感嘆が生まれた。
シグランは、彼女が予想していた通りだった。
強い。
自信に満ちている。
そして、誰かの目の前に立っていても、他者から遠く離れている。
次に、イザンへ視線を移す。
三度目の転倒。
顔の片側は土に汚れ、唇から血が流れていた。
それでも、また身体を起こそうとしている。
マヤは眉を寄せた。
防ぎ方を知らない。
攻撃の仕方も知らない。
それなのに――
なぜ降参しないのだろう。
◆
イザンは、勝つことなど考えていなかった。
シグランへ届く道すら、見えない。
考えていたのは、地面のことだけだった。
手のひらの下にある感触。
そして、その上に留まれと命じる声。
だが、目を閉じるたび、別の光景が蘇った。
黒きナツメヤシの園で倒れるマルワン。
土を染める血。
何もできず、ただ立ち尽くしていた自分。
次に、アイン・アルワールが戻ってきた。
母親に人形を奪われた少女。
後ろから追いかけてきた囁き。
呪われた女の息子。
そして学院長の部屋。
シャーミルの声。
失敗すれば、俺の手で外へ出す。
戻りたくなかった。
村へも。
道へも。
マルワンの死を前にして、何もできなかったあの日へも。
手を地面へ伸ばす。
立とうとする。
審判が言った。
「降参してもいい」
イザンは顔を上げた。
答えない。
立ち上がった。
完全な勇気ではなかった。
恐怖だった。
ここで倒れれば、自分のために開かれた唯一の扉が閉じてしまう。
その恐怖。
シグランが苛立ったように見る。
「なぜ続ける?」
イザンには、どう答えればいいのか分からなかった。
おそらく、自分でも答えを持っていなかった。
途切れる声で言う。
「分から……ない」
シグランの顔に浮かぶ苛立ちが濃くなった。
「なら、倒れたままでいろ」
動いた。
◆
今度の拳は横から飛んできた。
イザンは遅れて腕を上げる。
シグランの拳がそこへぶつかり、肩が激しくねじれた。
両膝から落ちる。
体勢を戻すより先に、シグランの足が腹へ突き刺さった。
イザンは土の上を転がった。
観客席の一部から、低い抗議の声が上がる。
イザンを庇ったのではない。
試合が面白いものではなく、ただ一方的な辱めへ変わり始めたからだ。
審判の近くにいた係員が言う。
「少年には、ついていけていません」
審判が答える。
「分かっている」
「止めるべきです」
審判は、イザンの手が動くのを見ていた。
「まだ続行不能ではない」
「本当に負傷します」
だが、イザンは再び起き上がった。
先ほどより遅い。
姿勢も崩れている。
それでも立った。
観客席の一部を、奇妙な静けさが覆った。
笑い声が消えていく。
オースが言う。
「これは普通じゃない」
アリアンはイザンの呼吸と足の位置を見ていた。
「耐久力だけではない」
「どういうこと?」
「まだ分からない」
高い席にいる男は動かなかった。
だが、椅子の肘掛けを叩いていた指が止まった。
◆
シグランは長いあいだ、イザンを見つめた。
泣くと思っていた。
止めてくれと頼むか。
怒りに任せて、愚かな攻撃へ出るか。
だが、そのどれもなかった。
見えたのは、明らかな恐怖。
それでも立っている少年。
その姿が、シグランを苛立たせた。
イザンが強いからではない。
弱い。
それなのに、終わることを拒んでいる。
シグランが言った。
「退屈だ」
片手を上げる。
指の周囲へ、微かな熱が集まり始めた。
観客がすぐに反応する。
「炎を使うぞ!」
「終わった!」
シグランの掌に、小さな炎が生まれた。
大きくはない。
だが、内側へ圧縮されていくにつれ、輝きと密度を増していった。
審判の顔が変わる。
「シグラン!」
シグランは見向きもしなかった。
「抑えている」
審判が厳しい声で言う。
「圧縮しすぎだ。解け」
シグランは答える。
「死にはしない」
「それを決めるのはお前ではない」
それでも、炎は掌に残った。
イザンは後ろへ下がろうとした。
足がまともに動かない。
シグランが動くよりも先に、熱が届いた。
黒きナツメヤシの園が、再び目の前へ現れる。
怪物の口。
自分の前に立つマルワン。
そして、あの時と同じ無力感が身体を閉ざす。
動け。
足は動かない。
動け!
シグランが踏み込んだ。
審判が叫ぶ。
「止まれ!」
だが、攻撃はすでに放たれていた。
◆
イザンは両腕を顔の前へ上げた。
正しい防御ではない。
カマンの障壁を作る力もない。
逃げ方も知らない。
炎が迫る。
熱が身体へ触れた――
その瞬間。
何かが起きた。
炎ではない。
水でもない。
光でも、闇でもなかった。
一瞬だけ、イザンの周囲の空気が震えた。
目で捉えきれないほど薄い透明な層が、皮膚へ密着する。
そして、危険を押し返すように外側へ広がった。
炎が衝突した。
熱はイザンの身体へすべて入ることなく、周囲へ弾け飛んだ。
土煙が舞い上がる。
審判が半歩下がった。
マヤが息を呑んだ。
何かを見た。
色は分からない。
完全な気配と呼べるものでもない。
それでも、確かに存在した。
ほんの一瞬。
そして消えた。
イザンは地面へ倒れた。
静寂が広がる。
シグランでさえ、その場に立ったまま、倒れた少年を見ていた。
掌の炎が消えていく。
審判がすぐに叫ぶ。
「救護班!」
だが、誰かが到着するより先に――
イザンの指が動いた。
咳き込む。
そして顔を上げた。
上衣の端は焼けている。
両腕には赤みが広がっていた。
だが、あの攻撃なら残るはずの火傷は、身体のどこにもなかった。
オースが言う。
「どうして……?」
アリアンは答えなかった。
イザンの皮膚を見つめ、目を細める。
マヤが小さく言った。
「何かが、彼を覆った」
近くの参加者が振り返る。
「何だって?」
だがマヤは答えなかった。
自分が何を見たのか、確信できていなかった。
高い席では、謎の男がわずかに身を前へ傾けた。
試合が始まって以来、初めて見せた明らかな動きだった。
◆
イザンは地面へ手をつき、身体を押し上げた。
両腕が震える。
一度目は失敗した。
もう一度試す。
膝をついた姿勢まで起きる。
そして、立とうとした。
シグランはその姿を見ていた。
顔に恐れはない。
不安もない。
浮かんでいるのは、退屈。
あるいは、退屈に見せようとしている何か。
「もういい」
審判は試合を止めるため、手を上げた。
だが、シグランは背を向ける。
審判が言う。
「どこへ行く?」
「棄権する」
観客席に激しいざわめきが走った。
審判が言う。
「試合はまだ終わっていない」
「もう興味がない」
シグランは背後のイザンを見る。
少年は、まだ両足を安定させようとしていた。
「俺は戦士と試されるために来た。地面に転がることを拒むだけの訓練袋を殴るためじゃない」
審判が言う。
「棄権すれば、規則上はお前の敗北になる」
シグランは一瞬、足を止めた。
振り返ることなく答える。
「好きに呼べ」
そして闘技場を出ていった。
◆
観客は、初め何が起きたのか理解できなかった。
やがて、ざわめきは抗議へ変わった。
審判は闘技場の中央に立つ。
遠ざかるシグランを見る。
次に、ついに立ち上がったイザンを見た。
身体はわずかに曲がっている。
呼吸も途切れていた。
それでも、円の中に立っていた。
審判が手を上げる。
「シグラン・ザランの棄権により――」
騒音の中で、声がわずかに揺れた。
そして宣言する。
「勝者、イザン・ファドゥース!」
拍手は届かなかった。
代わりに、拒絶が押し寄せた。
「そんなものは勝利じゃない!」
「シグランは負けていない!」
「一度も攻撃していない奴が、なぜ勝者なんだ!」
「試合をやり直せ!」
「そいつを闘技場から出せ!」
その声は、シグランの拳よりも強くイザンを打った。
円の中央に、一人で立っていた。
審判は勝ったと言った。
だが、誰一人として勝者を見る目を向けなかった。
規則の間違いを見るように。
ふさわしくない結果を奪った異物を見るように。
アイン・アルワールが戻ってきた。
砂漠の中ではない。
呪われた女の息子という言葉も聞こえない。
だが、視線は同じだった。
言葉だけが変わった。
ファドゥース。
余所者。
弱者。
勝っていない勝者。
イザンは顔を伏せた。
嬉しくなかった。
勝ったとも思えなかった。
ただ感じた。
自分がたどり着いた、この大きな世界も――
自分を拒む方法を知っているのだと。
高い来賓席では、謎の男がイザンを見続けていた。
拍手もしない。
抗議もしない。
そして、誰にも気づかれないうちに立ち上がり、立ち去った。
マヤだけは、その場に残ってイザンを見ていた。
審判が勝者と宣言した少年を見ていたのではない。
炎に焼かれるはずだったのに――
焼かれなかった少年を見ていた。




