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血の継承【改訂版】  作者: Salhi smail
第五章 黒の帳編

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黒い迷宮

黒い円が、ヤザンの最後の一歩を呑み込んだ。


その姿が濁った闇の向こうへ消えると、封印を囲んでいた銀の光は細い糸となり、石の上でかすかに震えた。


演武場に、学生の姿はもうない。


封印に留められた九つの身体。


互いに出会うことのない隔離領域へ送られた、九つの意識。


無人の観客席に沈黙が満ちた。


治療官たちは回廊で封印箱のそばに待機し、三人の教官はハーマンが定めた線の外に立っている。


アルダは黒い円から目を離さなかった。


「封印は、どこまで彼らを中に留めるつもりですか?」


ハーマンの後ろに立つ士官の一人が答えた。


「意識と肉体の繋がりが切れる前に介入します」


アルダは彼を見なかった。


「いつ死ぬかを聞いたんじゃない」


士官が口を閉ざす。


ハーマンが、低く揺るぎない声で続けた。


「続行不能になれば、封印が肉体を外へ出す。ただし、中で見たものまで消してはくれない」


安心できる答えではなかった。


ハーマンも、彼女を安心させるために答えたのではない。


隣では、アドナンのいつもの笑みが消えていた。銀色の光が作る波紋を、黙って見つめている。


ラカンが見ていたのは、封印だけではなかった。


ヤザンが入ってから、ハーマンは一度も動いていない。


両手を背に回し、黒い円の前に立っている。


まるで、その内側で起きていることを、紙のない報告書として読んでいるかのように。


だが、ラカンには分かっていた。


この封印は、学生たちの勇気を試すためだけに開かれたのではない。


ハーマンは、何かを探している。


それが何なのかは、誰にも明かしていなかった。


     *


アナスが辿り着いたのは、闇の中ではなかった。


細い通路だった。


左右には、まったく同じ黒い扉が並んでいる。


頭上に天井はない。


それでも、空は見えなかった。


扉は果てしなく続き、その下から這い出した細い影が、アナスの足へ絡みつく。


扉の向こうから声が聞こえた。


一つを開けろと命じるアドナンの声。


立ち尽くす彼を嘲るアミールの声。


助けを求めるナーダの声。


そして、見えない場所から自分の声が響いた。


「間違った扉を開けば、二度と出られない」


アナスは動かなかった。


わずかに首を傾け、耳を澄ませる。


声が繰り返された。


順番も、口調も、言葉の間も同じ。


息遣いさえ、寸分違わず再現されていた。


最も近い扉へ手を伸ばす。


だが、触れる前に止めた。


足元から伸びる黒い筋を見る。


光などないのに、扉には影があった。


一方、アナス自身の影は、後ろへ向かって伸びている。


振り返る。


背後に扉はなかった。


あるのは、滑らかな黒い壁だけ。


アナスは近づき、掌を当てた。


声が囁く。


「道は前にある」


アナスは静かに言った。


「だから、後ろへ隠したのか」


掌に力を込める。


壁に亀裂が走った。


そこから細い白光が溢れ、通路も扉も声も、すべて呑み込んでいった。


     *


黒い円の表面が揺れた。


アナスが、ただの扉を抜けてきたかのような静かな足取りで現れる。


一度よろめいたが、すぐに体勢を整え、試験を終えた者たちの側へ移った。


アドナンの肩から、わずかに力が抜ける。


ハーマンが告げた。


「一人目だ」


士官が結果を書き留める。


ハーマンの表情は変わらなかった。


     *


ラーイドは、ひび割れた石の平原に立っていた。


前方には、顔のない軍勢。


背後には、守られることを待つ仲間たちがいる。


足を動かそうとした。


だが、両脚は大地と繋がっていた。


皮膚が、ゆっくりと石へ変わっていく。


平原の奥から声がした。


「お前は倒れない」


腕に亀裂が入る。


「退かない」


石が肩まで達する。


「誰の力も必要としない」


ラーイドは背後を見た。


ワーイルとアスマーの姿は消えていた。


代わりに、二人に似た砕けた石像が転がっている。


迷宮が何を求めているのか、理解した。


動かずに立ち続け、そのまま砕けること。


強さと、動けないことを取り違えさせること。


ラーイドは石の拳を握り、自分の脚へ叩きつけた。


表面を覆う石が砕け、痛みが骨まで走る。


それでも、片足が自由になった。


一歩、前へ出る。


歩くたびに、身体を覆っていた石が剥がれ落ちていく。


「動かないことが、強さじゃない」


顔のない軍勢が進み始める。


ラーイドは待たなかった。


自らその軍勢へ踏み出した瞬間、足元の平原が割れた。


     *


ラーイドは二人目として現れた。


呼吸は重く、右腕は身体の脇に固く寄せられている。


アルダを見る。


彼女は何を見たのかとは尋ねず、短く頷いただけだった。


ラーイドはアナスの隣へ立った。


     *


シグランは、ザランの広間に立っていた。


彼が知る玉座の間とは違う。


さらに長く、さらに暗い。


柱は高く伸び、その先は闇の中へ消えていた。


一族の男たちと女たちが、左右に並んでいる。


顔はない。


それでも、胸に刻まれた紋章と、表情など必要としない裁きの視線だけで、誰なのか分かった。


広間の最奥には、ハーマンが立っていた。


最高司令官の外套は身につけていない。


幼い頃の記憶に残る姿のまま、背筋を伸ばしている。


遠く、冷たい。


シグランに向けるのは、足りないものを測るためだけの視線だった。


シグランの手に、赤い炎が灯る。


ハーマンの背後へ、もう一つの姿が現れた。


スカイ。


距離そのものに呑まれているかのように、顔が現れては消える。


それでも、笑みだけは消えなかった。


影たちが、同時に声を発した。


「ザランの後継者」


赤い炎が高くなる。


「最高司令官の息子」


炎が腕の周囲へ広がった。


「そのどちらでもなくなれば、お前には何が残る?」


シグランは指を握り込んだ。


炎が乱れる。


広間の奥から、ハーマンの声が届いた。


「取るに足らない」


炎が激しく揺れた。


火の舌が柱へ伸び、その先端で赤が鋭い青へ変わっていく。


迷宮は、彼を怒らせようとしている。


自分が取るに足らない存在ではないと証明するため、広間のすべてを焼かせようとしている。


黒いスカイが、一歩近づいた。


「見せてやれ。お前の力を」


シグランの足元で、地面が燃え上がった。


炎の中に、一つの光景が蘇る。


学院の訓練場に立つヤザン。


ケメンも、オーラもない。


身体には立ち続ける理由さえ残っていないのに、それでも倒れることを拒んでいた。


次に、黒いナツメヤシ園で、小さな藁人形を手にするヤザンの姿が浮かんだ。


ヤザンは、誰かを焼くことで自分の存在を証明したわけではない。


ただ、立っていた。


立ち続けることそのものが、答えであるかのように。


シグランは手を下げた。


周囲の炎が解き放たれようと押し寄せる。


それを、力ずくで縮めていく。


赤い炎が退いた。


指先に残ったのは、小さく、細く、揺るがない青い火だけだった。


シグランが言う。


「自分が何者か知るために、お前たちを焼かなければならないのなら……」


ハーマンの姿を見据える。


「俺は、お前たちが望んだものにしかなれない」


指を動かした。


青い炎が細い線となり、広間の床を走る。


柱には触れない。


影だけを、中央から切り裂いていく。


顔のない者たちが消えた。


玉座に亀裂が入った。


     *


三人目に現れたシグランは、力強く前へ踏み出した。


その身体を追うように、小さな青い炎が外へ漏れ、演武場の空気へ触れた瞬間に消える。


治療官が身構えたが、シグランは倒れなかった。


最初にハーマンを見る。


二人の視線が、一瞬だけ重なった。


ハーマンは満足も、否定も示さない。


シグランの目がラカンへ移り、次に、ヤザンとマヤが立つはずの空白を見た。


順位など気にしていないように、ラーイドとアナスの隣へ立つ。


それでも、視線はすぐに黒い円へ戻った。


     *


マヤは、水の底に沈んでいた。


目を開く。


遠い頭上に、光る水面が見える。


だが、そこまでは届かない。


両腕を動かすと、冷たい水流が手首へ絡みつき、さらに深く引きずり込んだ。


水中に、タライン一族の広間が現れる。


一族の者たちは水の壁の向こう側に立っていた。


その声だけが、はっきりと届く。


「オスのほうが強かった」


「オスは迷わなかった」


「オスは、タラインの水に恥をかかせなかった」


兄の姿が現れた。


本物のオスではない。


迷宮は、彼の顔と沈黙、苦しみを隠すときの目を借りていた。


オスが手を伸ばす。


「お前がもっと優れていれば、誰かに助けられる必要などなかった」


胸が締めつけられた。


スカイに閉じ込められた、折り畳まれた通路が蘇る。


上も下も分からなかった、あの無力感。


自分のもとへ道を切り開いたラカン。


恐怖の中でも動いたヤザン。


怒りを抑えながら白い槍を焼いたシグラン。


そして、黒いナツメヤシ園。


自分の水を信じてくれたヌーリヤ。


根の間で、必死に生きようとしていたアマニ。


マヤは目を閉じた。


さらに強い力で水へ逆らおうとはしなかった。


流れへ耳を澄ませる。


すべての水が、自分を下へ引いているわけではない。


冷たい流れの間を、わずかに温かな水流が首筋に沿って通り、上へ昇っていた。


その流れに合わせて指を動かす。


手首へ絡んでいた一つの拘束が止まった。


声が言う。


「お前は、水を導くには弱すぎる」


マヤは目を開いた。


「あなたには、水が姿を現した時しか見えない」


掌を返す。


押し潰そうとしていた激流が、二つに分かれた。


「私は、隠れている時の水も見ている」


もう一方の手も自由になる。


偽物のオスが近づいた。


「お前は、一族の名を汚す存在だ」


マヤは長く、その顔を見つめた。


攻撃はしない。


偽りの姿を、水で押し潰そうともしなかった。


「今の私は、まだあなたが辿り着いた場所には届かないかもしれない」


その顔へ手を伸ばす。


指が触れた瞬間、オスの姿は澄んだ水へ変わった。


「でも、私は恥じゃない」


温かな流れが、マヤの身体を押し上げる。


頭上の水面が砕けた。


     *


マヤは四人目に現れ、大きく息を吸い込んだ。


治療官が目と脈を確かめる。


顔を上げたマヤは、シグランを見つけ、そのあとでヤザンを探した。


まだ出ていない。


何も尋ねず、黒い円を見つめ続けた。


     *


五人目に現れたのはナーダだった。


出口を名乗る無数の光を一つずつ消し、目を閉じても変わらなかった、ただ一つの光だけを残して戻ってきた。


六人目はアミール。


顔のない敵に追われ続ける空間から現れた。速く走るほど敵は前へ現れ、やがて、自分が恐れているのは捕まることではなく、立ち止まった時に行き先を知らないと気づくことだと悟った。


いつもの皮肉な笑みは消えていた。


七人目はアスマーだった。


自分より強い者たちの後ろに並ばされ、前へ進むたびに見えない手に元の場所へ押し戻された。


伸びてきた手を初めて掴み、その主を闇から引きずり出す。


相手には、顔がなかった。


その瞬間、他人に決められた場所を受け入れるのをやめた。


アスマーはラーイドの隣へ立った。


彼を見ることはなかった。


残るのは、ワーイルとヤザン。


時間が過ぎ、黒い円を囲む光が乱れ始めた。


アルダの指が動く。


その先にケメンが集まったが、彼女は無理に鎮めた。


アドナンが尋ねる。


「どちらがまだ中にいるのか、外からは分からないのか?」


士官が答えた。


「領域は隔離されています。封印の外側に、個人の名は表示されません」


ラカンは闇から目を離さなかった。


ヤザンが最後になる。


そう分かっていた。


強いからではない。


彼の内側にあるものが、あまりにも重いからだ。


     *


ワーイルは走っていた。


いつから走り始めたのかも、何度同じ場所へ戻ったのかも分からない。


背後から、巨大な影が四つ足で追ってくる。


その影には、見覚えのある顔があった。


失望した目で自分を見るラーイド。


なぜここへ来たのかと尋ねるアスマー。


背を向けるアルダ。


迷い続けてきた自分を知る学生たちが、笑いながら指を差す。


「臆病者」


ワーイルは足を取られ、倒れた。


影が迫る。


目の前に、光の扉が現れた。


優しい声が囁く。


「今出れば、逃げたことは誰にも知られない」


扉へ向かって這う。


あと腕一本分もない。


手を伸ばし、止まった。


迷宮が本当に自分を外へ出したいのなら、こんなに簡単な扉を用意するはずがない。


背後を見る。


怪物たちが近づいている。


全身が震えた。


恐怖は消えない。


突然、勇敢になったわけでもない。


今までの自分を消してくれる、隠された力を見つけたわけでもなかった。


ワーイルは光から手を引いた。


震える膝で、どうにか立ち上がる。


影を見据え、言った。


「そうだ……僕は怖い」


怪物たちが一瞬、止まった。


ワーイルは唾を飲み込んだ。


「でも、外へ出るなら……どの扉を選ぶかは、僕が決める」


影が襲いかかる。


ワーイルは目を閉じた。


そして逃げる代わりに、怪物たちの中へ飛び込んだ。


最初の一体を突き抜ける。


その内側には、肉も骨もなかった。


空っぽだった。


残る影も、一斉に崩れ落ちた。


     *


ワーイルは封印から飛び出し、両手を石へついた。


呼吸が胸の中で乱れている。


治療官が駆け寄ったが、彼はまだ何かに追われているかのように身を引いた。


アルダが境界線まで進む。


越えはしなかった。


「ワーイル」


彼が顔を上げる。


青ざめた頬。


目には涙が滲んでいた。


それでも、アルダの姿を認識している。


「終わった」


ワーイルは苦しそうに頷いた。


治療官の手を借り、立ち上がる。


八人目だった。


だが、自分の意志で出てきた。


手の震えを隠しながら、アスマーの隣へ立つ。


彼女は笑わなかった。


しっかりしろとも言わなかった。


ただ半歩だけ動き、士官たちの視線からワーイルの身体を隠した。


封印の中に残っているのは、ヤザンだけだった。


     *


黒いナツメヤシ園が、目の前に広がっていた。


空はない。


幹は闇へ呑まれるほど高く伸び、頭上では葉が絡み合い、閉ざされた天井を作っている。


ヤザンはゆっくりと進んだ。


闇を照らすケメンはない。


迷宮が掴み、押し返せるようなオーラも、身体の周囲には存在しない。


だから迷宮は、残された唯一の場所へ入り込んだ。


ヤザンの記憶へ。


幹の間から、何かが擦れる音がした。


ヤザンはすぐには振り返らない。


足元の砂を見る。


砂粒が左から動いていた。


右へ跳ぶ。


直後、黒い塊がナツメヤシの間から飛び出した。


鉤爪が、負傷した肩のすぐそばを通り過ぎる。


地面を転がり、掌を砂へ突き立てて勢いを止めた。


痛みは本物ではない。


だが、身体にそれを理解することはできなかった。


怪物が向き直る前に立ち上がる。


倒そうとはしない。


肩の傾き。


鉤爪の間隔。


片脚へ体重が集まる瞬間。


怪物が再び襲いかかると、ヤザンはナツメヤシの幹に沿って身をずらした。


怪物が幹へ激突する。


木が大きく揺れ、黒い葉が落ちた。


ヤザンは走った。


木々の間から、さらに怪物が現れる。


より大きく。


より速い。


何体かは、幼い頃、幼獣を救うためにナツメヤシ園へ入ってきた怪物の姿をしていた。


形すら定まらないものもいる。


倒すことはできない。


ヤザンは地形と根、狭い通路を使った。


鉤爪の下を潜り、顎が閉じる前に根を飛び越える。


その動きは、ラカンから二年かけて叩き込まれたものだった。


息が短くなる。


肩の包帯の下で、痛みが目を覚ました。


そして突然、すべてが止まった。


怪物たちが消える。


ナツメヤシの間に、開けた場所が現れた。


シグランが倒れていた。


その隣には、動かないマヤ。


髪が顔に張りついている。


さらに遠い幹のそばでは、ラカンが木へ背を預けて座っていた。


頭が胸へ落ちている。


ヤザンの足が止まった。


闇の中から声がする。


「お前へ近づいた者は、皆、代償を払った」


三人へ近づこうとする。


だが地面が足元で動き、元の場所へ押し戻した。


「マルワン」


木々の間に墓が現れる。


「アマニ」


小さな人形が砂へ落ちた。


「マヤ」


身体の下で水が動き、黒く染まる。


「シグラン」


胸に青い焼け跡が広がっていく。


「ラカン」


彼が顔を上げた。


両目は開いている。


だが、何も見ていなかった。


ヤザンは一歩下がった。


身体が命じたのは、逃げることではない。


止まることだった。


ここに留まれ。


これ以上進めば、死者の名がまた一つ増える。


子供の泣き声が聞こえた。


振り返る。


痩せた少年が、木の間に座っていた。


両膝を胸へ抱えている。


顔を見るまでもなく、誰なのか分かった。


アイン・アルワルの家々の扉の向こうで、いつも一人だった子供。


黙っていれば、殴られる回数が減ると学んだ子供。


マルワンが帰ってこないのではないかと、毎晩怯えながら待っていた子供。


ヤザンは、その子へ近づいた。


少年が言う。


「動いちゃ駄目だ」


ヤザンは彼の前へ座った。


「僕たちが動けば、みんなが傷つく」


ヤザンは背後の身体を見た。


迷宮は、彼の恐怖を知っている。


だが、すべてを理解してはいない。


少年へ手を伸ばす。


「俺は、その痛みを知っている」


少年が顔を上げた。


ヤザンと同じ目だった。


「だから、俺はそこに残らない」


その手を握った。


指が触れた瞬間、少年の姿が消える。


ナツメヤシの間から、再び声がした。


今度は、女の声だった。


穏やかで。


温かい。


「ヤザン」


心臓が、一瞬止まった。


白い服を着た女が、道の先に現れた。


顔は見えない。


それでも迷宮は、その姿の中へ、ヤザンが生涯求めてきたものをすべて詰め込んでいた。


待っていてくれる母親。


自分の名を呼ぶ声。


一度も握ることのできなかった手。


「こちらへおいで」


足が動いた。


胸の中で、何かが割れた。


女が言う。


「ずっと、疲れていたでしょう」


一歩近づく。


「もう、戻らなくていいの」


さらに一歩。


怪物も、仲間たちの身体も、試験も、アルマザも消えた。


残ったのは、ずっと聞きたいと願っていた声だけだった。


女が両腕を広げる。


「私はここよ、ヤザン」


ヤザンは止まった。


唇が震える。


顔を上げ、女を見る。


「お前は、ラヒールじゃない」


女が動きを止めた。


「私が分からないの?」


「分からない」


女はわずかに首を傾けた。


「私は、あなたの母親よ」


胸の痛みが強くなる。


それでも、ヤザンは進まなかった。


「俺は、あの人の声を聞いたことがない」


木々が揺れる。


女が答えた。


「だから封印が、あなたへ声を与えたのよ」


ヤザンは、口元を伝う偽りの血を拭った。


「違う」


見つめるだけで、身体の内側が裂けていくようだった。


「俺が従うと分かっている声を、封印が作っただけだ」


白い衣服が、裾から黒く染まり始める。


「会いたくないの?」


ヤザンは一度、目を閉じた。


小屋のそばにあった小さな墓。


墓石へ刻まれた、ラヒールという名。


顔は知らない。


声も知らない。


腕に抱かれた記憶もない。


だが、その欠落は本物だった。


目の前にある偽りの優しさより、ずっと正しかった。


目を開く。


「俺は、お前の声を知らない」


女の顔に亀裂が走る。


「だから、お前に作らせるつもりはない」


影が叫んだ。


ナツメヤシ園のすべてが、ヤザンへ崩れ落ちてくる。


背を向け、走った。


出口は現れない。


導く光もない。


木々が倒れ、根が持ち上がり、怪物たちが四方から戻ってくる。


残された力で、その間を進んだ。


一歩。


もう一歩。


躓く。


立ち上がる。


根が肩へぶつかり、視界が回った。


外では、封印の中にあるヤザンの肉体が痙攣していた。


肩の筋肉が激しく強張り、まだ完全には塞がっていなかった傷が、包帯の下で再び開く。


迷宮が新しい傷を作ったわけではない。


だが、痛みを信じた身体が、古い傷を目覚めさせた。


ヤザンは園の中で倒れた。


怪物たちが迫る。


指が砂へ沈む。


ラカンの声が蘇った。


――一歩でいい。


周囲を倒せる力はない。


闇を裂けるケメンもない。


それでも、地面を押した。


一歩進めば、必ず生き残れるわけではない。


だが、同じ場所で死なないためには十分だった。


動く。


背後の地面へ、鉤爪が突き刺さった。


もう一度、動く。


二本の木の間に、遠い白い亀裂が現れた。


出口なのか。


新しい偽りなのか。


分からない。


だが、砂がその方向へ吸い寄せられている。


本物の空気が流れていた。


ヤザンは走ることを選んだ。


     *


他の者たちより、長い時間が過ぎていた。


黒い円の波紋が、不規則な脈動へ変わる。


銀色の線が一つ消え、再び灯った。


治療官の一人が前へ出る。


「意識と肉体の繋がりが弱まっています」


ラカンが言う。


「封印は、まだあいつを外へ出していない」


「これ以上低下すれば、強制的に介入します」


ラカンは答えなかった。


歯を噛み締め、円の中央を見続けている。


隣では、マヤが両手を胸元で握っていた。


「ヤザン……」


シグランが、低く鋭い声で言う。


「あの馬鹿……止まり時も分からないのか」


その声に、嘲りはなかった。


アミールが、いつもの口調を取り戻そうと口を動かす。


「やはり、あの役立たずは――」


封印の表面が激しく揺れ、残りの言葉を呑み込んだ。


ラーイドが半歩進む。


アナスが顔を上げた。


ワーイルさえ震えを忘れ、闇を凝視している。


銀色の線が、二本同時に消えた。


ラカンが低く言った。


「ヤザン」


呼びかけではなかった。


噛み締めた歯の間から漏れた、ただ一つの名前だった。


ハーマンは沈黙を守っている。


目がわずかに細められ、すぐに冷たい静けさへ戻った。


だが、背後の士官は、彼の指が一度だけ強く閉じられたのを見た。


黒い円から手が飛び出し、石を叩いた。


もう一方の手。


続いて、ヤザンの頭と肩が現れる。


封印に吐き出されたのではない。


自ら境界を越えようと、身体を引きずっている。


闇が脚へ閉じかけた。


ヤザンは最後の足を押し出し、円が閉じる前に外へ出した。


自分の意志で、境界を越えた。


直後、片膝が石へ落ちる。


マヤが駆け出した。


だが、先に治療官が到着し、彼女は足を止めた。


一人がヤザンの目を確認し、もう一人が肩の包帯を持ち上げる。


布の上に、小さな血の染みが広がっていた。


「古い傷が負荷で開いただけです。深くはありません」


ヤザンは激しく息を切らしていた。


石へ置いた両手が震えている。


どうにか顔を上げる。


隠そうとしても隠しきれない恐怖が、マヤの目にあった。


その隣には、険しい顔のシグランが立っている。


ヤザンが呟いた。


「俺は……倒れなかった」


シグランが答える。


「遅い」


ヤザンの口元が、疲れたようにわずかに上がった。


「迷宮が……急いでなかった」


「ひどい言い訳だ」


「分かってる」


治療官が、立ち上がることを許した。


マヤは手を伸ばし、途中で迷う。


ヤザンは何も言わず、その手を取った。


マヤの支えで体勢を整える。


彼女は手を離したが、遠くへは行かなかった。


ハーマンが告げる。


「九人目」


最後の名が記録された。


ヤザン・ファドゥース。


     *


簡単な診察を終えた九人は、出てきた順に並び直した。


最後尾にはヤザン。


肩には新しい包帯が巻かれている。


顔は青ざめていたが、治療官が用意した椅子へ座ることを拒んだ。


ハーマンが前へ出る。


「全員が迷宮を突破した」


ワーイルの目が、驚きに揺れた。


ハーマンは続ける。


「外へ出た順番は、合否の基準ではない。早く扉を見つけた者もいれば、それを見えなくしていたものと向き合う必要があった者もいる」


視線が、一瞬ヤザンで止まる。


「だが、封印に強制排出された者はいない。全員が、自らの意志で外へ出た。それで合格には十分だ」


ワーイルがゆっくり息を吐いた。


自分が失格ではないことを、まだ身体が信じきれていないようだった。


ハーマンが言う。


「ただし、封印を突破したことと、実戦へ出る資格があることは同じではない」


短い安堵が消えた。


二人の士官が前へ出る。


一人は、黒い木で作られた細長い箱を持っていた。


最高司令官の前で蓋を開く。


中には、八つの金属製の徽章が並んでいる。


一つ一つに刻まれているのは、不完全な円の内側にある短い剣。


ラカンが、その数を確認した。


八つしかない。


ハーマンが告げる。


「ここ数週間、既知の道を使わない移動と、明確な痕跡を残さない侵入に関する報告が、各地から届いている。これから追う敵は、力だけに頼る者ではない」


学生たちを見渡す。


「情報、時機、欺瞞。そして、距離そのものを信用できなくする手段を使う」


全員の脳裏に、空間を折り畳んだ男の姿が蘇った。


ラカンの表情が固くなる。


「そのため、帝国特務部隊『アルマズ』を編成する。名誉のための部隊ではない。学生として与えられてきた保護も、ここでは受けられない」


声は変わらない。


「所属する者は、通常の部隊では辿り着けない場所へ送られる」


ハーマンは列の前を歩き、自ら徽章を配った。


アナス。


ラーイド。


シグラン。


マヤ。


ナーダ。


アミール。


アスマー。


ワーイル。


士官が箱を閉じる。


ヤザンにだけ、徽章はなかった。


最初は、誰も動かなかった。


マヤは手の中の徽章を見た。


次にヤザンを見る。


士官が数を間違えたのではないかと疑っているようだった。


シグランの指が、徽章を強く握る。


ラーイドがハーマンへ目を上げた。


アミールの顔から皮肉が消える。


アナスは黙って見ていた。


ワーイルは、自分の徽章へ不安げに目を落とす。


震えながら出てきた自分が選ばれ、ヤザンが外された。


アルダがラカンを見る。


彼でさえ、この形で決定が下されるとは知らなかった。


ヤザンは何も言わない。


列の最後で、両手を身体の脇へ下ろしている。


顔に驚きは現れなかった。


選ばれないことなら、よく知っていた。


学院へ来る前から、扉は理由も告げずに閉じられるものだと学んでいた。


ハーマンが言う。


「ヤザン・ファドゥースは迷宮を突破した。だが、アルマズには加えない」


マヤが奥歯を噛み締める。


ハーマンは、同じ揺るぎない声で続けた。


「ケメンを持たず、保護された封印の中で肉体が崩壊寸前まで追い込まれた。部隊が対峙する敵について、領域の性質も、交戦時間も保証できない」


一度、言葉を切る。


「意志だけでは、その戦場で生き残るための手段が欠けている事実を埋められない」


侮辱ではなかった。


冷たい軍事判断だった。


だからこそ、反論は難しい。


ヤザンは自分の両手へ目を落とした。


シグランが動いた。


一歩、前へ出る。


ラカンが即座に言った。


「シグラン。位置へ戻れ」


シグランは退かなかった。


ラカンの声が強くなる。


「お前の前にいるのは最高司令官だ」


それでも動かない。


今のシグランは、評価を待つ息子としてハーマンの前に立っているのではない。


認められることを求める後継者でもなかった。


第三班の一員として立っていた。


「俺は、自分の位置にいる」


ハーマンが目を向ける。


怒りは見せない。


声を荒らげることもなく、空気だけを重くした。


「言ってみろ」


シグランは徽章を握る力を緩めた。


炎は一つも現れない。


「道も、導く者も失った時、それでも一歩を選べる者を探していると言ったな」


ハーマンの表情は変わらない。


シグランは続けた。


「ヤザンは、俺たちの誰よりも長く領域の圧力に耐えた。身体は一番弱く、守るためのケメンもなかった。それでも封印には吐き出されなかった」


新しく巻かれた肩の包帯を見る。


「自分で境界を越えた」


ハーマンが答えた。


「それは、試験に合格した理由だ。死ぬ可能性の高い戦場へ送る理由ではない」


「こいつは、その前に二つの戦場へ送られている」


シグランの声は低くなった。


それでも、鋭さを増していく。


「俺たちは、こいつを運んでいない。俺たちがすべてを終えるまで、後ろで待っていたわけでもない。俺たちに見えなかったものを見て、誰も届かなかった時に動いた」


ヤザンを見ることはなかった。


この言葉を、感情的な場面へ変えることを拒んでいるかのように。


「アルマズが、感覚を欺き、道を折り畳む敵を追うなら、目と頭で戦う人間を、身体にケメンがないというだけで外すのは、実戦的な判断じゃない」


アミールが息を止めた。


学生がハーマンへ、これほど正面から意見をぶつける。


それが実の息子なら、なおさらだった。


ラカンが言う。


「もういい、シグラン」


シグランは振り返らない。


「まだ終わっていない」


ラカンの顎が固くなる。


だがハーマンが指を一本上げ、介入しようとする彼を止めた。


シグランが続ける。


「第三班は、三人で二つの任務へ入った」


一度、言葉を切った。


「第三班は三人だ」


その言葉が終わると同時に、マヤが選抜者の列から出た。


ヤザンの隣へ立つ。


何も言わない。


その必要はなかった。


ヤザンはマヤを見る。


次に、シグランへ目を向けた。


迷宮の中にいた時よりも、今目の前で起きていることを理解できていないようだった。


ハーマンは息子を見つめていた。


彼の怒りも、傲慢さも知っている。


名の重みに押し潰されそうになるたび、炎を前へ突き出してきたことも。


だが、自分へこれほど抑制された態度で逆らう姿は、初めて見た。


自分を守るためではない。


認められるためでもない。


他の誰かのために立っている。


ハーマンは、その驚きを変わらない顔の奥へ隠した。


視線をラカンへ移す。


「お前が、部隊の野戦指揮官候補だな」


ラカンが答える。


「はい」


「その少年にはケメンがない。お前の教え子たちが譲らないからといって、危険評価を書き換えるつもりはない。アルマズへ入れるなら、現場で下されるすべての判断について、お前が責任を負え」


ラカンはヤザンを見る。


二年前、シャミルに連れられて学院へ来た子供ではない。


生き残れるはずのなかった二つの任務から、帰ってきた学生が立っている。


ハーマンへ目を戻した。


「責任を引き受けます」


「生きて帰ると保証できるか?」


「今説明された任務で、誰かの生還を保証できる者はいません」


沈黙が落ちた。


ラカンは続ける。


「弱点を隠すつもりはありません。ケメンを持たず、身体的な耐久の限界も他の学生より低い」


ヤザンをまっすぐに見る。


「ですが、実戦で証明したものまで否定するつもりもありません。野戦指揮官として俺に決定権があるなら、彼を部隊に加えます」


ハーマンは長く、ラカンを見つめた。


やがて言う。


「アルマズへの参加は、野戦指揮官による選抜として記録する。責任はお前に残る」


「承知しました」


ハーマンは箱を持つ士官を見る。


「予備の徽章を」


士官は箱を下ろし、側面に隠された金属片を押した。


底に細い空間が開く。


中には、裏面に名前の刻まれていない九つ目の徽章があった。


士官が取り出し、ハーマンへ渡す。


最高司令官は、それを二本の指で持った。


「ヤザン・ファドゥース」


ヤザンが顔を上げる。


「受け取れ」


前へ出た。


距離は短い。


だが迷宮から出る道よりも、長く感じられた。


ハーマンの前で止まり、手を差し出す。


最高司令官が、掌へ徽章を置いた。


近い距離から、ハーマンは表情に出さず少年を観察した。


空気の揺れ。


ケメンの脈動。


領域の圧力に、あれほど長く耐えた理由となる何か。


何一つ、見つからない。


目の前にいるのは、疲れ果てた少年だけだった。


手は冷たく、身体の周囲にオーラはない。


ヤザンは徽章を握った。


ハーマンが言う。


「指揮官の決定を、誤りにするな」


ヤザンは、疲れていながらも明瞭な声で答えた。


「しません」


列へ戻る。


マヤが隣に立った。


シグランも、謝ることなく元の位置へ下がった。


ハーマンは全員を見渡した。


「今日から、お前たちは帝国特務部隊『アルマズ』の所属となる。最初の作戦説明の日程は、各教官へ通知する。それまで学院の外へ出ることも、ここで起きたことを話すことも許可しない」


三人の教官へ目を向ける。


「実戦ではラカンが部隊を指揮する。共同作戦中、アルダとアドナンは彼の指揮下へ入れ。意見の相違は動く前に解決しろ。作戦中ではない」


三人が頷いた。


ハーマンは背を向け、演武場を出ていく。


二人の士官が続いた。


シグランを振り返ることはない。


ヤザンへ、もう一度目を向けることもなかった。


だがラカンには分かっていた。


最高司令官は、ここへ来た時と同じ疑問を抱えたまま去ったのではない。


     *


その夜。


最高司令官の執務室を照らしていたのは、一つの灯りだけだった。


机の片側には、試験の報告書。


反対側には、アルマザの大きな地図が広げられている。


国境、港、街道。


まだ繋がりを見いだせていない事件の発生地点に、いくつもの印が置かれていた。


監察官ダリウスが、細い書類を脇に抱えて机の前に立っている。


ハーマンは地図から顔を上げた。


「ヤザン・ファドゥース」


ダリウスは、続く言葉を待った。


「シャミルが学院へ連れてきた少年だ。分かっていることは?」


ダリウスが書類を開く。


「公式記録は限られています。母親は、シャミル・ガスカンの亡き姉です。外国人の男と結婚してアルマザを離れ、その後ビスカラへ移り住みました」


ハーマンが呟く。


「死んだ姉か……」


古い記憶を探すように、わずかに目を上げた。


「確か、アルマザの外の男と結婚し、そのまま国を出たと聞いていた」


「記録も、その内容と一致しています」


ダリウスがページをめくる。


「父親の名は、アルマザ国内の登録一族とは結びつきません。少年は父方の姓、ファドゥースを名乗っています。ビスカラのアイン・アルワルで育ち、母親は出産時に死亡。その後、シャミルに連れられて学院へ入るまで、同地で暮らしていました」


「ケメンの検査結果は?」


「観測可能な経路は存在しません。自然発生するオーラも、記録されている元素への反応もない。入学時に行われた検査では、ケメンを持つことを示す結果は一つも確認されませんでした」


ハーマンは一度、目を閉じた。


黒い円。


次々と外へ出てきた学生たち。


そして、他の誰よりも長く領域の圧力に晒されたあと、石を叩いたヤザンの手。


ダリウスが尋ねる。


「父方の血筋について、調査を開始しますか?」


ハーマンは目を開いた。


「いや」


ダリウスが動きを止める。


「シャミルを呼び、事情を聴取しますか?」


「必要ない」


迷いのない返答だった。


ダリウスは書類を半分閉じた。


「では、何を?」


ハーマンは試験報告書に記された名を見る。


ケメンを持たない少年。


意識と記憶を圧迫するために作られた領域へ入り、他の誰よりも長くその圧力に晒された。


封印に排出される寸前まで追い込まれながら、自分の意志で境界を越えた。


「監視だけでいい」


「学院の中からですか?」


「遠くからだ」


「何を探せば?」


ハーマンはしばらく黙り、再び地図へ目を落とした。


「何が、ケメンを持たない少年を、他の誰よりも長く領域の圧力に耐えさせたのか」


地図の印を見つめたまま、続ける。


「そして、封印に排出される前に、自ら境界を越えさせたのか」


ダリウスは書類を閉じた。


一礼し、執務室から出ていく。


ハーマンだけが残った。


灯りが試験報告書の上で揺れる。


その光は、最後に記された名の上で止まっていた。


ヤザン・ファドゥース。

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