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血の継承【改訂版】  作者: Salhi smail
第五章 黒の帳編

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最高司令官の眼

アイン・アルワルを発ってから数日後。


太陽が西へ傾き始めたころ、アルマザの城壁が街道の先に姿を現した。


白い塔は、ヤザンが去った時と変わらずそびえていた。その上では、北風を受けた長い旗が翻っている。


城壁の向こうから、都の喧騒が幾重にも重なって届いてきた。


荷車の軋む音。


商人たちの呼び声。


石畳を叩く蹄の響き。


まるで何ひとつ変わらなかったかのように、人々の暮らしが続いている。


アルマザは変わっていないのかもしれない。


変わったのは、ここへ戻ってきた自分のほうなのかもしれなかった。


ヤザンが肩を動かすと、巻かれた包帯の下に痛みが走った。


深刻な傷ではない。


だが、忘れさせてくれるほど浅くもなかった。


手綱を握る力を緩め、もう片方の手で鞄の脇に触れる。


アマニの人形は、そこにあった。


その隣には、小さな布包みが入っている。


マルワンがかつて世話をしていたナツメヤシから、ターヒルが摘んでくれた実が包まれていた。


アイン・アルワルを出てから、一度も開いていない。


開く必要はなかった。


自分と共にある。


それだけ分かっていればよかった。


前方から、シグランの声が飛んできた。


「門に着く前に落馬するな。一本道で班員を一人失った理由を説明するのも面倒だ」


ヤザンは顔を上げた。


「お前が運んでくれると思っていた」


シグランが半分だけ振り返る。


心配しているように聞こえる言葉を口にした時、決まって浮かべる冷ややかな表情だった。


「自分を買いかぶるな」


ヤザンと並んで馬を進めていたマヤが言った。


「ヤザンは落ちないわ」


シグランは彼女を見る。


「忠告しただけだ」


「助ける羽目になる自分を心配しているように聞こえたけど」


シグランは前へ向き直った。


「お前たちは、人の言葉を面倒な方向に受け取りすぎる」


ヤザンの口元に僅かな笑みが浮かび、すぐに消えた。


ラカンは彼らの後方を進んでいた。


三人を同時に視界へ収められる距離を保ちながら。


もはや、シグランだけが先を行き、残る二人がその影を追うような班ではなかった。


マヤも、あらゆる沈黙を言葉で埋めようとはしなくなった。


そしてヤザンも、言葉を向けられるたびに身を縮める少年ではなくなっていた。


自分たちは仲間だと、口に出して確かめ合ったわけではない。


だが二つの任務は、そんな宣言よりも確かなものを三人の間に残していた。


城門に到着すると、衛兵たちは一行の書類と任務用の印章を念入りに確認した。


馬の識別印まで調べ、帰還者の名を記録と照合したのち、ようやく内側へ続く通路が開かれた。


アルマザは、教官が学院の徽章を身につけているというだけで、任務帰りの一隊を通すような国ではない。


門をくぐった瞬間、都の音が一斉に押し寄せてきた。


広い石畳の道。


まだ戸を閉ざしていない商店。


焼きたてのパンと香辛料、炭の匂い。


夕暮れの下を絶え間なく行き交う人々。


砂漠の静けさと果てのない広がりを見たあとでは、街全体が彼らの周囲へ迫ってくるように感じられた。


ヤザンは前だけを見ていた。


ナツメヤシの匂いを探そうとはしなかった。


ここにはないのだから。


学院へ到着すると、いくつもの顔が彼らを振り返った。


アイン・アルワルでの任務について、詳しい内容こそ知られていなかったが、噂だけは先に届いていた。


ラカン班が古い封印を調査するため、ビスカラへ向かったこと。


禁じられたナツメヤシ園が、一つの村を呑み込みかけたこと。


学生に任される等級を超えた任務だったこと。


いつものように、事実が残した空白を誇張が埋めていた。


訓練場の近くにいた学生たちが足を止め、第三班を見つめる。


最初に視線を集めたのはシグランだった。


まっすぐに伸びた背と鋭い存在感は、炎を出していなくても人の目を引いた。


隣を歩くマヤは、出発前よりも落ち着いて見えた。


歩みに迷いはなく、自分の判断を誰かに認めてもらうために視線を巡らせることもない。


そしてヤザンの周囲には、ケメンも、それが生む気配もなかった。


いつもと同じだった。


だが、その身体が語るものは、二年前とは違っていた。


肩には包帯が巻かれ、顔には疲労が残っている。


それでも、二人の間にいることを詫びるような歩き方はしていなかった。


何も持たない少年として自分を知る者たちの前を、ヤザンは俯かずに通り過ぎた。


ラカンは治療棟の前で足を止めた。


「中へ入れ」


シグランが眉を上げる。


「部屋へ戻れる」


「お前が治療官になったら、判断を任せてやる」


気に入らない返答だったようだが、シグランは馬から下りた。


ラカンは続けた。


「全員、診察を受けろ。そのあとは丸一日休め。訓練も、学院の外へ出ることも禁止だ」


マヤが尋ねた。


「新しい命令が届いたんですか?」


ラカンは彼女を見た。


帰還してからずっと、アルマザの中で何かが自分たちを待っているような感覚があった。


証拠はない。


ただ、同じ危険を指し示す報告が積み重なった時に生まれる、あの感覚だけがある。


「まだだ」


一拍置いて、付け加えた。


「届けば知らせる」


三人は治療棟へ入っていった。


ラカンはその場に残り、扉の向こうへ消えるまで彼らの背を見ていた。


シグランが先を歩く。


だが肩を満足に動かせないヤザンに合わせて、僅かに歩調を落としていた。


ヤザンを見ず、手を貸そうともせず、ただ彼が追いつける速さで歩いている。


マヤは気づいていた。


ラカンも気づいた。


誰も何も言わなかった。


     *


翌日の夜になっても、ラカンの部屋には明かりが灯っていた。


机の上には、三つの報告書が並んでいる。


一つ目は、前回の任務で受けた襲撃について。


マヤが、本来の距離が意味をなさない空間へ消えたこと。


そして、道そのものを折り畳む男が現れたこと。


二つ目は、ビスカラに存在した古い封印について。


三つ目は、帰還後の班員たちの状態についてだった。


ラカンはアシールの記録を読み直し、羽根ペンに墨を含ませて新たな一行を書き加えた。


起きたことを飾らない。


報告書が必要としていない英雄譚も加えない。


場所、判断、負傷、そして確かめられた事実だけを記していく。


ヤザンの名に差しかかったところで、その手が止まった。


ヤザン・ファドゥース。


一瞬だけ、墓石が脳裏に浮かんだ。


ラヒール。


知らない名ではない。


自分に確信できるのは、それだけだった。


どこで聞いたのかは思い出せない。


なぜ、ヤザンが暮らしていた小さな家のそばの墓石に刻まれていたその名が、胸の奥に短い痛みを残したのかも分からない。


羽根ペンが紙の上で止まる。


やがて、ラカンはそれを下ろした。


今ではない。


曖昧な感覚を疑惑に変えるつもりはなかった。


その向こうに何があるかも分からない扉を、上層部の前で開くつもりもない。


ヤザンの負傷について書き終え、報告書を閉じた。


その時、扉が叩かれた。


ラカンが顔を上げる。


「入れ」


騎士庁の兵士が入り、敷居の内側で立ち止まって一礼した。


「ラカン・ディヤーラン教官で間違いありませんか」


「ああ」


兵士は歩み寄り、黒い書状を差し出した。


封蝋は金色。


その中央には、最高司令部の紋章が刻まれている。


ラカンの目つきが変わった。


学院の印ではない。


任務局の印でもなかった。


書状を受け取り、封を切る。


命令文は短かった。


『候補に選定された三班は、各教官と共に、翌朝の日の出までに学院付属の帝国演武場へ集合せよ。


目的は、帝国特務部隊への最終選抜試験。


試験は最高司令官ハーマンが直々に監督する』


ラカンの視線が、最後の一文で止まった。


ハーマン。


学生の試験に、最高司令官が立ち会う必要はない。


特務部隊の選抜であっても、将軍か任務局に任せれば済む。


それでもハーマン自身が来るということは、これは学生だけの問題ではない。


ラカンはゆっくりと書状を畳んだ。


兵士が尋ねた。


「命令を受領したと伝えてよろしいでしょうか」


「ああ」


兵士は一礼し、部屋を出ていった。


ラカンは一人残された。


目の前にある二つの任務の報告は、先ほどまでのように別々の出来事には見えなくなっていた。


空間を折り畳む技。


古い封印。


明確な痕跡を残さない動き。


そして、ハーマン自らが監督する試験。


ラカンは再び書状へ目を落とした。


「何を見つけた……学生まで必要とするほどの、何を」


部屋は何も答えなかった。


     *


日の出と共に、帝国演武場は閉鎖された。


観客席に学生の姿はない。


祝祭の旗もない。


好奇心で集まった教官たちもいなかった。


四つの入口には帝国兵が等間隔で配置され、脇の回廊には二人の治療官が、器具と封印された箱を携えて待機している。


演武場の中央には、三つの班が並んでいた。


左側にはアルダ班。


先頭に立つラーイドは、いつもどおり静かで自信に満ち、見る価値のあるものを見つけた時にしか視線を動かさない。


後ろにはワーイルがいた。


緊張を隠そうとはせず、それでも呼吸を整えようとしている。


恐怖は消えていない。


だが、もう彼を誰かの背後へ隠れさせるものではなかった。


その隣ではアスマーが、演武場と衛兵、そして中央の円形石盤を観察していた。


右側にはアドナン班。


アミールは腕を組み、目には届かない笑みを口元に浮かべている。


ナーダは静かに衛兵の配置と入口を確認し、アナスは他の学生たちよりも中央の石盤を見つめていた。


アミールが第三班へ顔を向けた。


「オアシスの英雄たちが、ちょうど間に合ったらしいな」


ヤザンは答えなかった。


代わりにシグランが彼を見る。


「お前は相変わらず、動く前から口だけは達者だ」


アミールの笑みが広がった。


「なら、いつでも試してみろ」


「試験の中で、まだ口を動かす余裕があればな」


アミールが顎を上げる。


しかしアドナンの手が、その肩に置かれた。


「力は、これから来るもののために残しておけ」


普段のような冗談めいた声音ではなかった。


アミールは黙った。


中央にはラカン班。


左にマヤ、右にシグラン。


ヤザンは二人の間から半歩後ろに立っている。


肩にはまだ包帯が巻かれていたが、傷が安定していることを治療官が確認したうえで、参加を許可されていた。


三人の教官が、それぞれの班の前に立つ。


アルダは厳しい表情を崩さない。


アドナンからは笑みが消えている。


ラカンは衛兵と石盤、そして向かい側の閉じられた回廊を見ていた。


アドナンが低い声で尋ねた。


「試験の内容を知っているか?」


「いや」


アルダがラカンを見る。


彼がこの答えを口にするのは珍しかった。


彼女が何か言うより先に、空気が変わった。


角笛は鳴らない。


衛兵が来訪者の名を告げることもない。


それでも、囁き声は一斉に消えた。


ワーイルは両足が重くなるのを感じた。


アミールの笑みが消える。


アナスが初めて明確な興味を示して顔を上げ、ラーイドはその場で足を固めた。


向かいの回廊から、ハーマンが入ってきた。


身にまとっているのは、最高司令官の外套。


裾は深い色に沈み、細い金の線が走っている。強く輝かずとも、誰の目にも見落とせない。


目立つ武器は持たず、大勢を従えてもいなかった。


後ろを歩くのは、二人の士官だけ。


それでも彼が入った瞬間から、演武場そのものが狭くなったように感じられた。


衛兵たちが頭を下げる。


教官たちも敬意を示して一礼した。


学生たちは、自分へ届く前から、すでに何かに測られているような感覚を覚えた。


ハーマンは円形石盤の前で立ち止まった。


最初に教官を見ることはなかった。


学生たちへ目を向ける。


その視線がラーイドを通る。


ラーイドは揺るがずに受け止めた。


次はワーイル。


身体が命じるままに頭を下げたい衝動を、どうにか抑え込む。


アミールへ移ると、残っていた最後の皮肉も消えた。


アナスに届いた時、彼は僅かに首を傾げた。


自分たちを読んでいる男を、逆に読もうとするかのように。


ハーマンの目がマヤへ移る。


マヤは体内の水が一瞬だけ重くなるのを感じ、ゆっくり息を吸って自分の律動を取り戻した。


そして、その視線がシグランで止まった。


ハーマンの表情は変わらない。


誇りもない。


愛情もない。


認める色さえ見えなかった。


そこにあるのは、冷たい測定だけ。


ハーマンは、ザランの名を背負う少年ではなく、シグランが到達すべき場所までの距離を見ているようだった。


シグランの指が強く握られる。


古い言葉が胸の底で蘇った。


――取るに足らない。


だが、炎は現れなかった。


ラカンはそれを見ていた。


ハーマンの目がヤザンへ移る。


演武場を満たす重圧が、胸を押していた。


脚が、半歩でも後ろへ下がれと命じてくる。


ヤザンは足を地面に固定した。


挑むように顔を上げることも、恐怖など存在しないと装うこともしない。


ただ、その場に立ち続けた。


ハーマンの視線は僅かな間だけ留まり、やがて通り過ぎていった。


なぜかヤザンは、刃が首筋のすぐそばを通り抜けたように感じた。


触れてはいない。


それでも、そこにあったことだけは分かった。


一方、ラカンが目にしたものは、もっと単純で、だからこそ不穏だった。


ハーマンは、ヤザンに目を留めた。


最高司令官が一歩進み出る。


「通常の騎士は、道を守る」


声を張ってはいない。


それでも演武場の隅々まで届いた。


「兵士は、壁を守る」


石盤の前で足を止める。


「だが、道から来ることもなく、壁の前に立つこともない敵がいる」


誰も動かなかった。


ハーマンは続けた。


「そういう敵は、まずお前たちの力を試すのではない。力の奥に何を隠しているかを試す」


視線が列をなぞる。


「自分の内に隠したものに襲われただけで折れる力では、欺瞞を糧にする敵を追うことはできない」


ラカンは理解した。


これは試験だけを語る言葉ではない。


ハーマンは、すでに何らかの脅威を知っている。


最高司令官は続けた。


「私が探しているのは、最も強い者ではない」


シグランの顎に僅かに力が入る。


「力そのものは測りやすい。だが、道を失い、師を失い、導く声さえ失った時、それでも一歩を選べる者がいる」


ハーマンの視線が、列全体に止まった。


「今日、私が見るのはそれだ」


一拍の沈黙。


「これは、互いに戦う試験ではない」


ハーマンが円形石盤を示した。


士官の一人が進み出て、縁に刻まれた窪みへ小さな黒い印章を置く。


もう一人が脇の石板へ手を添え、そこに嵌め込まれていた金属の輪を回した。


演武場の地下から、重い音が響いた。


石盤の内側に、最初の線が淡い銀色で灯る。


続いて二本目。


三本目。


やがて石の中へ隠されていた古い紋様が、網のように浮かび上がった。


光は交差しながら走り、次の瞬間、石盤の中央だけが暗く沈んだ。


ハーマンの影が伸びたわけではない。


地面が裂けたわけでもなかった。


だが、封印の内側にある光が中心へ引き寄せられ、空さえ映さない黒い円が生まれていく。


その縁で空気が揺れた。


まるで演武場そのものが息を吸ったかのように。


アナスが目を見開く。


「知覚系の領域封印……」


その呟きをアドナンは聞いたが、何も言わなかった。


ハーマンが告げる。


「これは、帝国に古くから伝わる領域型の封印だ。無から恐怖を作ることはない。お前たちの内に根を持たないものを、引きずり出すこともない」


黒い円が僅かに広がった。


「扉を開くだけだ」


ワーイルは黒い深みを見つめ、喉を鳴らした。


「一人ずつ入れ。封印の内側では、それぞれの意識が隔離された領域へ送られる。他の者と出会うことも、助けを得ることもない」


ハーマンは黒い円へ目を向けた。


「肉体は封印の内側に留まり、継続できない状態になれば領域が外へ吐き出す。治療官は待機しているが、教官は誰一人として後を追わない」


ラカンの顎が固くなる。


計算された試験だ。


だが、慈悲深い試験ではない。


ハーマンは続けた。


「合否は、外へ出る速さでは決まらない」


沈黙が落ちる。


「出てきた時、お前たちの何が残っているかで決まる」


そして左側の班を示した。


「始めろ」


最初に動いたのはラーイドだった。


黒い円の縁まで進み、その奥を一度だけ見下ろす。


そして足を踏み入れた。


音もなく、黒に呑み込まれた。


次にアスマー。


そのあとをワーイルが続く。


ワーイルは縁で足を止め、呼吸を速めた。


それでも指を強く握り込み、前へ進んだ。


続いてアドナン班。


アミールは歩きながら、どうにか笑みを取り戻そうとした。


「出口くらい、分かりやすくしてほしいな」


後ろにいたアナスが言った。


「分かりやすければ、試験にならない」


アミールが振り返る。


「お前の励まし方は、本当に腹が立つ」


返事を聞く前に、黒い円へ入った。


ナーダが続く。


最後にアナスが縁で立ち止まり、中から何かを聞き取ろうとするように耳を澄ませ、それから姿を消した。


残ったのは、ラカン班だった。


マヤが前へ出る。


一度だけラカンを見た。


ラカンは短く頷いた。


長い言葉は与えない。


恐れるなとも言わなかった。


マヤは中へ入った。


衣服の裾が黒に触れ、そのまま呑み込まれる。


次はシグランだった。


迷いのない足取りで円へ向かう。


ヤザンの横を通り過ぎる時、顔を向けずに言った。


「この領域に、自分のほうが賢いと思わせるな」


ヤザンは彼を見た。


「それは励ましているのか?」


シグランは半歩だけ止まった。


「勝手に意味を足すな」


そして黒の中へ入った。


領域がその姿を呑み込む。


ヤザンだけが残った。


背後にはラカン。


円の向こうには、ハーマン。


ヤザンは黒い深みを見つめた。


ナツメヤシ園は見えない。


村の声も聞こえない。


それでも身体は理解していた。


あの領域は、ナツメヤシ園にも、村に残された声にも手を伸ばせる。


怖かった。


その恐怖を追い払おうとはしなかった。


腰に下げた小さな鞄へ指を触れる。


布越しに、アマニの人形のざらつきが伝わった。


その隣には、ターヒルから渡されたナツメヤシの実を包む、小さな結び目がある。


アイン・アルワルから、自分と共に出てきたもの。


自分をあの場所へ引き戻す鎖ではない。


ヤザンは領域へ目を戻した。


何度も動けなくなった時に聞いた、ラカンの言葉が蘇る。


一歩でいい。


一歩だけで、いつも生き残れるわけではない。


だが、その場に留まらないためには十分だった。


ヤザンは進んだ。


円の縁へ立った時、ハーマンの視線が再び自分へ向けられたのを感じた。


最高司令官が何を探しているのか、ヤザンには分からない。


そしてハーマンもまた、目の前に何が立っているのか、まだ知らなかった。


ヤザンは足を踏み入れた。


背後の光が消え、領域が最後の足音まで呑み込んだ。


ラカンは黒い円を見つめたまま、やがてその向こうに立つ男へ目を上げた。


その時、ようやく理解した。


ハーマンは、試験を見物するために来たのではない。


まだ姿すら見えない敵を追わせる者たちを、自ら選びに来たのだ。

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