アイン・アルワルを去る
旅立ちの朝は、アイン・アルワルらしくない冷たさを帯びていた。
本当の寒さではない。太陽がオアシスの上へ昇る前、砂が夜の名残を抱き、水路が昨日よりも静かに見える時間だけに漂う、僅かな冷気だった。
村の外れには、ビスカラの馬が用意されていた。
サーリムは馬の間を歩き、一頭ずつ馬具を確かめている。
村の守り手を信用していないわけではない。
だが、あのナツメヤシ園から何が現れたのかを見た者は、もう何一つ偶然に任せようとはしなかった。
ヌーリヤは低い石のそばへ座り、古い水路の線を小さな革片に描いていた。
古い井戸。
干上がった水路。
鍛冶小屋。
禁じられたナツメヤシ園。
それぞれの場所へ、細かな印をつけていく。
マヤは隣に立ち、その図を真剣に見つめていた。
ヌーリヤが一本の線を指す。
「ここには、水の痕跡が残っていなければなりません。砂の深いところでも、位置が変わらずに。もし読み取れなくなったら、怪物が現れるまで待たず、すぐに救援を求めてください」
マヤが尋ねる。
「痕跡が消えたら、中心がまた水を引き寄せ始めたということ?」
ヌーリヤは顔を上げ、疲れた顔に小さな笑みを浮かべた。
「理解が早いわね」
「水は、理解の遅い人を待ってくれないから」
ヌーリヤが小さく笑い、再び図へ目を戻す。
「ビスカラでは、砂の下に隠れた水を読む方法を学びます。水そのものが見えなくても、周囲に起きる変化は見える」
マヤは描かれた線を見つめた。
「アルマザでは、水を地上で戦わせる方法を学ぶわ」
「いつかまたビスカラへ来たら、水が姿を現す前に読む方法を教える」
「それなら私は、水らしさを失わせず、剣のように操る方法を教えるわ」
今度は、ヌーリヤもはっきりと笑った。
「約束ね」
少し離れた場所では、ジャラールがヤザンの前に立っていた。
別れの言葉を得意とする男ではない。
顔はいつもどおり険しく、視線はヤザンの包帯を巻いた肩と傷ついた両掌を行き来している。
人ではなく、戦闘後の被害報告を確認しているようだった。
「それだけ傷ついて、なぜまだ立っていられる?」
ヤザンは、掌に巻かれた新しい布を見た。
「苦労して立っています」
ジャラールが一度、瞬きをする。
それから胸の奥から、笑いになりきらない短い音が漏れた。
「お前らしい答えだ」
少し黙ってから続ける。
「お前は、アルマザの騎士のようには戦わない」
「知っています」
「ビスカラの戦士とも違う」
「それも知っています」
ジャラールは遠くのナツメヤシ園を見てから、ヤザンへ目を戻した。
「だが、お前は他の者を生かす場所に立つ」
ヤザンは返す言葉を見つけられなかった。
長く話しすぎたと後悔したのか、ジャラールはすぐに付け加える。
「それで早死にするな」
答えを待たずに背を向けた。
ヤザンは、その後ろ姿をしばらく見つめる。
温かい言葉ではなかった。
だが、嘘はなかった。
そのほうがよかった。
*
客舎の近くでは、ラカンがマスウードとアシールの前に立っていた。
マスウードは、ビスカラの地方印が押された小さな巻物を手にしている。
任務の正式な報酬ではない。
それは後日、騎士庁を通して支払われる。
この巻物は、封印が安定し、任務が完了し、アイン・アルワルが守られたことを証明するものだった。
マスウードが言う。
「アイン・アルワルを代表して、改めて感謝する。報告書はビスカラへ送り、そこからアルマザへ届けてもらう。あなた方がここでしたことは、忘れない」
ラカンの声は変わらなかった。
「感謝したことで、指示まで忘れるな」
マスウードが頷く。
「ナツメヤシ園へは近づかせない」
アシールが静かな厳しさを込めて言った。
「園だけではないわ。干上がった水路へ子供を近づけないこと。鍛冶小屋の周囲を掘らないこと。古い井戸の水位を変えないこと」
マスウードをまっすぐに見る。
「水の色が変わった時、普段より重くなった時、あるいは夕暮れに淀んだ水の臭いがした時は、すぐに救援を求めなさい」
「必ずそうする」
アシールが僅かに目を細める。
「私を安心させるために言うのではなく、次に私たちが村の残骸を拾い集めずに済むよう、実行しなさい」
マスウードが唾を飲み込んだ。
「必ず守らせる」
何人かの村人が、離れた場所から彼らを見ていた。
息子を見送るように近づいてはこない。
だが、旅立ちなど自分たちには関係ないというほど遠くにも立っていなかった。
その顔には、恥と警戒が入り混じっている。
ヤザンへ近づき、許しを求める者はいなかった。
肩へ触れ、昔から覚えていたと言う者もいない。
そのほうがよかった。
今さら素早く差し出された謝罪など、ヤザンには信じられなかっただろう。
広場の端では、子供たちがシグランの周囲に集まっていた。
最初は距離を空け、半円を作って立っている。
青い炎は、手を見つめ続ければ現れるのではないか。
そんな期待を込めた目で、シグランの両手を見ていた。
一人の子供が、恐る恐る尋ねる。
「青い炎は、痛くないの?」
シグランがその子を見る。
「痛くない」
別の子供が尋ねた。
「鳥の形にもできる?」
シグランが冷たく答える。
「鳥ごときにケメンを無駄遣いする気はない」
子供は僅かに後ろへ下がったが、目の輝きは消えなかった。
サーリムがシグランへ近づく。
「村の子供たちは、長い間お前の炎を語るだろう」
シグランは子供たちを見なかった。
馬のそばで、掌の包帯を締め直しているヤザンを見る。
「俺の炎だけじゃない。誰に救われたのか、ちゃんと覚えておけばいい」
サーリムが黙る。
子供たちの視線が、ヤザンへ移った。
昨日までとは違う目だった。
そこには、新しい疑問が浮かんでいる。
英雄は、いつも最も強く輝く者とは限らないのか。
ヤザンは視線に気づいていたが、顔を上げなかった。
シグランも、何も重要なことは言っていないような顔をしている。
だが、サーリムは理解した。
マヤにも聞こえていた。
離れた場所にいたラカンも、その言葉を聞き逃さなかった。
マスウードとの話を終えたアシールが、ラカンへ近づく。
第三班を見ながら言う。
「あなたの隊は、ランクから想像するより危険ね」
「分かっている」
アシールが横目で彼を見た。
「まだ、すべては分かっていないと思うけれど」
ラカンは答えなかった。
アシールの視線がヤザンへ移る。
「ファドゥースという少年は――」
ラカンが穏やかに遮った。
「俺の隊の一員だ」
アシールが一瞬、言葉を止める。
口元に、ごく僅かな笑みが浮かんだ。
「まだ何も聞いていないわ」
「分かっている」
短い沈黙が落ちる。
アシールは、それ以上問いを続けなかった。
ラカンが、問いを開く前に閉じたからだ。
*
マルワンの小屋へ続く道から、ターヒル老人が現れた。
杖をつき、ゆっくりと歩いてくる。
何かを求めるために来たのではない。
長い別れの言葉も持ってはいなかった。
ヤザンのそばで立ち止まり、馬を見てから、その先に続く道を見る。
「日差しが強くなる前に出るのか」
ヤザンが頷く。
「はい」
「そのほうがいい。昼の道は、旅人に優しくない」
ターヒル老人は、衣服の内側から小さく包んだ布を取り出し、ヤザンへ差し出した。
ヤザンは慎重に受け取る。
「これは?」
「マルワンのナツメヤシから採れた実だ」
ヤザンの手が止まる。
布を見る。
それから、老人の顔へ目を向けた。
「昔のような木ではなくなった。大きくなり、乾いた葉も増えた。それでも、まだ少しは実をつける」
ヤザンは布を開いた。
中には、色の濃い、少し乾いたナツメヤシの実が幾つか入っていた。
客へ出すようなものでも、市場で売るようなものでもない。
小屋のそばに立ち続けた木から採れた実だった。
ヤザンは、ゆっくりと布を包み直す。
「ありがとう」
「礼はいらない。持っていけ」
ターヒル老人は少し黙り、続けた。
「誰かに何かを証明するために、ここへ戻る必要はない」
ヤザンが顔を上げる。
「もし、いつか戻るのなら、村が胸に残した問いに引き戻されるのではなく、お前自身が望んだから戻れ」
ヤザンは、答えを見つけられなかった。
ただ頷く。
老人には、それで十分だった。
ターヒル老人は二歩離れたあと、足を止めた。
「何もかも一人で抱えているお前を見れば、マルワンは怒っただろうな」
ヤザンが低い声で答える。
「あの人は、黙って怒る人でした」
老人が笑った。
「ああ。そういう男だった」
そして、古い小屋の近くを通る道へ戻っていった。
振り返らない。
マルワンと同じように、長い別れを好まないのかもしれなかった。
*
一行は出発の準備を始めた。
最初にサーリムが馬へ乗り、続いてジャラールとヌーリヤが鞍へ上がる。
アシールも馬へ乗った。
ラカンは全員の準備を目で確かめてから、鐙へ足を掛ける。
マヤは自分の馬へ近づいたが、乗る前にヤザンを見た。
ラヒールの墓については、何も話していない。
母親についても尋ねなかった。
ヤザンが求めていない慰めを、差し出そうともしない。
ただ、静かな視線を向けた。
ヤザンも何も言わなかった。
馬へ乗り、鞍の後ろに小さな荷物を固定する。
その中には、藁人形が入っていた。
砂と風から守られている。
ヤザンが最後に準備を終えた。
サーリムが出発の合図を出そうとした時、道の端から声がした。
「ヤザン!」
全員が動きを止める。
大声ではない。
それでも、広場全体へ届くほどはっきりとした声だった。
ヤザンが振り返る。
村の外へ続く道に、アマニが立っていた。
今度は、両手に何も持っていない。
藁人形は、ヤザンのもとにある。
母親は、半歩後ろに立っていた。
娘の手を握っていない。
後ろへ引こうともしなかった。
それだけでも、以前にはなかったことだった。
村人たちはアマニを見てから、母親を見た。
そして、ヤザンへ目を向ける。
ヤザンは馬の上で、黙って待った。
アマニが、恐れることなく言う。
「いつか……また来て。あなたが来たいと思ったら」
必ず戻ってきて、とは言わなかった。
許して、とも言わない。
アイン・アルワルがもう一度、彼の故郷になったとも言わなかった。
ただ、彼が望むならと言った。
そこには、村が今までヤザンへ与えなかったものがあった。
選ぶ権利。
ヤザンは、アマニの背後を見た。
ナツメヤシの間に並ぶ、白っぽい石膏造りの家々。
細い水路。
朝のかまどから立ち上る薄い煙。
そして、アマニへ視線を戻す。
笑みは見せなかった。
だが、顔を逸らすこともしない。
「……たぶん」
小さな言葉だった。
約束ではない。
だが、扉を完全に閉ざす拒絶でもなかった。
アマニは、その言葉をそのまま受け取った。
ゆっくりと頷く。
背後で、母親が一瞬だけヤザンへ目を向けた。
すぐに、その目を伏せる。
謝罪はしなかった。
長い年月を、一言で終わらせようともしない。
だが、娘がヤザンの名を呼ぶことを止めなかった。
それが、馬を進める前にヤザンが見た、最後のアイン・アルワルだった。
*
馬たちが動き出した。
一行は広場を離れ、石膏造りの家々の間にある細い道を進む。
今度は、扉が慌てて閉じられることはなかった。
住民たちは家の入口へ立っている。
手を振る者はいない。
ただ、彼らを見送っていた。
ヤザンが通り過ぎると、一人の老人が頭を下げる。
女が胸へ手を当てる。
幼い子供がヤザンの名を囁き、父親に見られて口を閉じた。
だが、父親は叱らなかった。
それは愛ではない。
遅れて差し出された歓迎でもなかった。
もっと小さなものだった。
知ろうとすることの始まり。
最後の家を越えると、背後にオアシス全体が見えた。
アイン・アルワルのナツメヤシ。
白っぽい石膏造りの家々。
細く伸びる水路。
そして、まだ終わっていない秘密のように、外れで沈黙する禁じられたナツメヤシ園。
一行は、砂の道を黙って進んだ。
それぞれが、自分の中に何かを抱えていた。
しばらくして、シグランがヤザンを見る。
道について話しているかのように言った。
「お前の馬は、ほかより遅いな」
ヤザンが答える。
「疲れてるんだ」
「馬だけじゃないだろ」
ヤザンは答えなかった。
少しして、シグランが続ける。
「国境へ着く前に落ちるな。面倒だ」
ヤザンが横目で彼を見る。
「迷惑をかけないよう努力する」
「そうしろ」
シグランは前方へ目を戻した。
先頭を進むサーリムの顔に、一瞬だけ笑みが浮かんだ。
ラカンは隊列の最後尾を進み、全員を見守っている。
ラヒールという名が、再び頭へ浮かんだ。
顔も、答えも持たないまま、そこに残っている。
ラカンは尋ねなかった。
まだ開く時ではない扉を、無理にこじ開けようともしなかった。
ヤザンは、ターヒル老人から受け取った布包みを取り出した。
僅かに開き、マルワンのナツメヤシから採れた実を見る。
一つ手に取る。
指の間で、しばらく転がした。
そして、口へ入れた。
甘く、少し硬かった。
アイン・アルワルそのもののように。
笑みは浮かばない。
だが、道が僅かに軽くなった。
背後で、村が小さくなっていく。
ヤザンは長く振り返らなかった。
一度だけ見る。
ナツメヤシ。
遠くに残る、禁じられた園の黒い線。
恐怖しか残っていないと思っていた場所。
それから、前方の道へ顔を戻した。
ヤザンは、誰にも名を呼ばれない、よそ者の騎士としてアイン・アルワルへ入った。
そして、村中の人々の前で一人の少女に名を呼ばれ、その名を持って村を出た。
アイン・アルワルは、彼に両腕を広げなかった。
それでも今度は、彼が出ていく前に扉を閉ざさなかった。




