涸れた水路
ラカンが命令を繰り返す必要はなかった。
「俺の後ろに続け」
その一言で、全員が動いた。
ラカンは真っ先に宿舎を飛び出した。
足より先に視線を走らせる。取り乱した者の走り方ではない。余計な一歩が、誰かの命を奪うと知る者の動きだった。
その後ろを、武器を手にしたサーリム、ヌーリヤ、ジャラールが追う。続いて、封印具を収めた道具袋を抱えたアシール。その周囲をシグラン、マヤ、ヤザンが固める。アシールの穏やかな顔は、すでに静かな鋭さへと変わっていた。
外へ出ると、アイン・アルワルの静けさはすでに失われていた。
子供たちは中庭の扉の向こうへ姿を消し、女たちは道に残った子の名を呼んでいる。男たちは砂運びの荷車やナツメヤシの幹を押し、用水路へ続く道を塞いでいた。
ロバが鳴き、家畜が囲いの中で騒ぐ。
その向こうから、再び悲鳴が上がった。
道の先に守り手が現れ、腕を大きく振った。
「こっちだ! 干上がった水路だ!」
サーリムが守り手を追い越しながら言う。
「表の道では家々を大きく迂回する。間に合わない!」
ヤザンが顔を上げた。
干上がった水路。
その言葉だけで、とうに消えたと思っていた村の地図が、記憶の中に開いた。
「近道があります」
走りながら、ラカンが振り返る。
「どこだ」
ヤザンは、白い石膏で造られた二軒の家の間を指した。
「あそこです。古いパン窯の裏を抜ければ、傾いた石のそばへ直接出られます」
サーリムが言った。
「あの路地は半分崩れている」
「右側だけは、まだ通れます」
サーリムは一瞬、ヤザンを見た。
アルマザの騎士が、なぜ村人さえ忘れかけた道を知っているのか。
けれどラカンは、問いに時間を使わなかった。
「ヤザン、俺の後ろから道を示せ。一人で先行するな」
「はい」
一行は路地へ入った。
シグランの肩が、石膏塗りの壁に触れるほど狭い。
古いパン窯から、灰と焼けた小麦の匂いが漂ってくる。ナツメヤシ材の扉が、彼らの通過に合わせるように内側から閉ざされていった。
ヤザンは考える必要さえなかった。
目より先に、足が曲がり角を覚えていた。
市場を避けたいとき、ここを走った。
年上の子供たちに「呪われた女の息子」と呼ばれれば、あの小屋根の陰に隠れた。
そして古いパン窯の前では、マルワンが小さなパンをひとつ買った。
二人分に分け、同じ大きさだと言い張った。
いつもヤザンの分だけが大きかった。
ヤザンは振り返らず、その場所を通り過ぎた。
今は、立ち止まるときではない。
路地を抜けると、中庭の裏手に広がる砂地へ出た。
その先に、干上がった水路が見えた。
水路の大半は砂に埋もれ、低く窪んだ両岸には、石膏のこびりついた古い石が並んでいた。その端には一本のナツメヤシが傾き、根だけで辛うじて地面にしがみついていた。
そのそばで、砂が動いた。
いや。
内側から膨れ上がっている。
そして、裂けた。
巨大な身体が飛び出し、砂の塊が水路の両側へ弾け飛んだ。
現れた怪物は頭を低く垂れ、背中を広く膨らませていた。砂漠の雄牛に、黒い岩と固まった砂の装甲を重ねたような姿だ。
額からは、途中で折れ曲がった骨の角が伸びている。
装甲の隙間からは、呼吸に合わせて黒い蒸気が漏れた。
片脚が持ち上がる。
地面へ落ちる。
水路の縁が震えた。
さらにその両脇から、ひと回り小さな怪物が二体、砂を掻き分けて姿を現した。
背は大きく曲がり、前脚だけが異様に太い。口は首元近くまで裂けていた。
サーリムが息を呑む。
「こいつら……」
二体を見据え、顔つきを変える。
「前の襲撃で逃げた二体だ」
ヌーリヤが湾曲刀を抜いた。
「戻ってきた。それも、前より厄介なものを連れて」
アシールが最初に見たのは、怪物ではなかった。
亀裂だった。
崩れ落ちた砂が、外へ広がらず、内側へ吸い込まれている。
道具袋へ手を入れたアシールは、細長い封印札を一枚取り出した。発動させず、二本の指の間に挟む。
「水路の底を攻撃しないで。怪物だけを、そこから引き離して」
ラカンが片手を上げ、即座に指示を飛ばした。
「サーリム、ヌーリヤ、ジャラール。小さい二体を引き受けろ。家の方へ行かせるな。シグランとマヤは装甲の大物を引き受けろ。ヤザンは道側に残り、住民の避難を手伝え。俺はアシールを守りながら亀裂を監視する」
一歩前へ出たシグランが言う。
「俺一人で――」
「マヤと組め。単独で動くな」
シグランの目に不満が浮かんだ。
だが、口答えはしなかった。
マヤが隣に立ち、水袋を持ち上げる。
シグランは彼女を見ずに言った。
「邪魔はするな」
水袋の口から流れ出た水が細い糸となり、マヤの手首へ絡みつく。
「あなたこそ、私の邪魔をしないで」
シグランの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「あいつを転ばせろ」
マヤは怪物の脚を見据える。
「まず、怒らせて」
装甲の怪物が突進した。
獣のような速さはない。
だが、その重さだけで地面の方が後退して見えた。折れた角が空気を裂き、足元の小石が跳ねる。
シグランが掌を上げた。
赤い炎が一気に燃え上がり、怪物の胸へ襲いかかる。
炎が巨体を呑み込んだ。
一瞬、その姿が見えなくなる。
だが、怪物は炎の中から飛び出した。
黒い装甲は赤く熱せられている。それでも歩みは止まらない。
小型の一体を短剣で迎え撃ちながら、サーリムが叫んだ。
「効いていない!」
「シグラン、動け!」
ラカンの声が飛ぶ。
シグランは寸前で身を捻った。
角が胸元をかすめ、外套の端を引き裂く。
その反対側から、小型の二体が迫っていた。
ビスカラの騎士たちは、ケメンを遠くへ放たなかった。
サーリムのケメンは短剣の表面に沿い、薄く圧縮されている。必要な瞬間にだけ刃とともに走り、一体目の顎を受け止め、その向きを逸らした。
ヌーリヤはもう一体の周囲を回りながら、ケメンを湾曲刀の内側に留め続けた。
怪物が飛びかかった瞬間、刃先だけに光が宿る。
一閃。
怪物の脇腹に、長い傷が刻まれた。
ジャラールは二体と家々を結ぶ道の間に立ち、槍を構えた。
派手さはない。
すべての動きが計算されていた。
一度の攻撃に流すケメンは、その一撃に必要な分だけ。
ヤザンは、ほんの一瞬その戦い方を見つめた。
戦いの最中でさえ、ビスカラは何ひとつ無駄にしない。
水も。
力も。
装甲の怪物が唸り、シグランへ向き直った。
「右脚」
マヤが告げ、細い水の鞭で砂を打つ。
水を吸った砂が一気に重くなり、怪物の右脚へまとわりついた。
足がわずかに沈む。
体勢が崩れた。
ほんの半歩。
だが、それで十分だった。
シグランは角の下を潜り抜けた。
指の間に、淡い青の炎が生まれる。
炎を広げることはしなかった。
小さな一点へと圧縮する。
熱で拳の周囲の空気が揺らめいた。
戦いながらそれを目にしたサーリムが、思わず呟く。
「なんて制御だ……」
シグランは肩口にある装甲の継ぎ目へ飛び込み、青い炎を叩き込んだ。
怪物の体内で、岩が割れたような音が響く。
初めて、怪物が咆哮した。
致命傷ではない。
だが、確かに痛みを与えた。
シグランが狙っていたのは、それだった。
砂の上へ着地すると、彼は片手を身体の陰へ隠した。
熱で袖口が黒く焦げ、指先がわずかに震えている。
マヤはそれに気づいた。
だが、何も言わなかった。
怪物が荒々しく身を回した。
尾が近くの中庭の外壁へ激突する。
石を積み、石膏で固めた壁が崩れ、その上に渡されていたナツメヤシの幹と葉の小屋根が落ちた。
悲鳴が上がる。
子供だ。
壁の向こうにあった中庭が剥き出しになった。
幼い少女が、弟の脚に落ちたナツメヤシの梁を必死に持ち上げようとしている。
小型の怪物が、その声へ振り向いた。
石膏の粉塵が舞い上がった一瞬を突き、ヌーリヤの脇を抜ける。
「ジャラール! 右!」
だが、ヤザンはすでに走り出していた。
水路に沿って駆け、細い亀裂を飛び越える。
粉塵の中から怪物が飛び出した。
ヤザンは頭を下げ、身体を斜めに滑らせる。
短い爪が肩のすぐ上を通り、外套の端を裂いた。
ヤザンは反撃しなかった。
狙いは怪物ではない。
子供たちだ。
二人のもとへ辿り着くと、ナツメヤシの梁を両手で掴み、片側を持ち上げる。
「引っ張れ!」
少女が弟を梁の下から引きずり出した。
「中へ! 止まるな!」
少女は弟の身体を支えながら走り出した。
怪物が瓦礫を飛び越える。
ヤザンに逃げる時間はなかった。
胸の傷を庇い、肩を衝撃の方へ向ける。
怪物の身体が激突した。
ヤザンは向かいの壁まで吹き飛ばされ、肺から一気に空気を吐き出した。
古い痛みが肋骨の奥で燃え上がり、背中まで走る。
新たな衝撃のせいで息が止まったのか。
それとも、まだ治りきっていない傷のせいなのか。
一瞬、自分でも分からなかった。
片膝をつく。
裂けた口から黒い唾液を垂らし、怪物が迫ってくる。
ヤザンは砂を一掴みし、その目へ投げつけた。
怪物が反射的に頭を逸らす。
ほんの一瞬。
だが、ジャラールにはそれで十分だった。
槍が粉塵を貫き、怪物の脇腹へ突き刺さる。
そのままヤザンから引き離し、地面へ縫い止めた。
怪物は二度大きく痙攣し、動かなくなった。
ジャラールがヤザンへ手を伸ばす。
「立てるか?」
ヤザンはその腕を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
「はい」
ジャラールは彼の肩を見た。
続いて、激突した壁を見る。
ヤザンの身体を包むオーラはない。
ケメンの気配もない。
それでも、立っている。
「オーラもないのに……」
ジャラールは低く呟いた。
「それでも、折れなかった」
ラカンが二人のもとへ来ると、ヤザンの全身を素早く確認した。
「後ろへ下がれ」
「まだ動けます」
「できるかどうかは聞いていない」
ラカンはまっすぐ彼を見た。
「後ろへ下がれと言った」
ヤザンは反論を呑み込んだ。
「はい」
ラカンは水路へ向き直る。
その頃には、サーリムとヌーリヤが残る一体を追い詰めていた。
サーリムが短い斬撃を重ねて注意を引きつける。
背後へ回ったヌーリヤは、最後の瞬間にだけ湾曲刀へケメンを流した。
光が首を横切る。
頭部が砂の上へ落ちた。
だが、装甲の怪物はまだ立っていた。
傷を負い、さらに凶暴になっている。
角を振るうたびに地面が抉れ、尾が動くたびに水路の縁が崩れ、石が砕けた。
それでも、シグランはもう闇雲に炎を放ってはいなかった。
怪物の周囲を巡り、攻撃しては退き、マヤが選んだ場所へ誘い込む。
マヤは声を荒らげない。
視線は常に脚へ。
関節へ。
砂へ。
放つ水の一本一本に、明確な目的があった。
脚元の砂へ水を含ませる。
二つの石の隙間へ水圧をかけ、足場を傾ける。
舞い上がる粉塵を払い、シグランの視界を一瞬だけ開く。
使わずに残した水は、一滴も砂へ落とさない。
それを見ていたヌーリヤが言った。
「力任せに水を放っているんじゃない……」
水路から目を離さないまま、アシールが答える。
「その必要がないのよ。あの子は、水をどこへ、どれだけ流すべきか選んでいる」
装甲の怪物が再びシグランへ突進した。
「左!」
マヤが叫ぶ。
左脚の下へ水を走らせ、砂を一気に重くする。
怪物の脚が関節近くまで沈み、巨体が低く傾いた。
シグランは崩れた壁の欠片を踏み台にして跳んだ。
掌を持ち上げる。
今度の青い炎は、球ではなかった。
掌の前で、山に棲む獅子の顎を形作る。
二本の青い牙と、燃え上がる顎の輪郭。
その頭部さえ、まだ完成していない。
サーリムが目を見開いた。
「青い炎……」
シグランが歯を食いしばる。
「倒れろ」
獅子の顎が、剥き出しになった怪物の片目へ食らいついた。
轟音が村中の壁を震わせた。
炎。
粉塵。
黒い蒸気。
装甲の怪物が、初めて後退した。
だが、まだ死んではいない。
片目を潰され、怒りに狂い、シグランへ突進する。
予想を超える速さだった。
シグランは着地したばかりで、まだ体勢を立て直せていない。
「危ない!」
ジャラールが叫ぶ。
ラカンが動く。
だが、マヤの方が近かった。
二本の水を傷ついた脚へ巻きつけ、怪物が全体重をかけた瞬間に引く。
踏み込みが外れた。
角はシグランの胸を貫かず、すぐ脇を通過する。
シグランは砂の上を転がり、顔を上げた。
肩口に開いた装甲の隙間が、正面にある。
「今!」
マヤの声が飛ぶ。
シグランは反対の掌を上げた。
先ほどよりもさらに圧縮された青い炎が燃える。
熱に耐えきれず、腕が震えた。
それでも、狙いが完全に定まるまで放たない。
そして、撃った。
青い炎が、先ほどと同じ亀裂へ突き刺さる。
怪物の突進が止まった。
一歩。
さらに一歩、よろめきながら後退する。
装甲の一枚に亀裂が走り、濃い黒煙が噴き出した。
前脚から力が抜ける。
巨体が横倒しになり、地面が大きく揺れた。
短い静寂が落ちた。
やがて、柵の向こうから守り手たちの歓声が上がる。
サーリムはシグランから目を離せないまま言った。
「これでC級班だと?」
残った水を震える糸のまま水袋へ戻すマヤを見て、ヌーリヤが続ける。
「階級だけでは、何も分からないみたいね」
アシールが静かに言った。
「階級が示すのは、彼らが今どこにいるかだけ。どこまで行くかではないわ」
ジャラールの視線が、ヤザンへ移る。
ヤザンは道のそばに立ち、片手で脇腹を押さえていた。衣服も顔も白い粉塵にまみれている。
ジャラールは何も言わなかった。
だが、その目に、オーラを持たない騎士への疑念はもうなかった。
アシールが装甲の怪物へ近づく。
封印札は、まだ指の間に挟まれていた。
身を屈め、腹側の装甲を見つめる。
石のような板の隙間に、細く規則的な黒い線が幾重にも走っている。
封印を身体の内側へ埋め込み、その上から装甲が育ったかのようだった。
アシールの目つきが変わる。
ラカンが尋ねた。
「何を見つけた」
アシールは黒い線に触れなかった。
「自然にできた痕ではないわ」
さらに言葉を続けようとした、そのとき。
亀裂の奥から、何かが擦れる音が聞こえた。
装甲の怪物が立てた音ではない。
砂が崩れる音でもない。
もっと鋭い。
石を内側から引っ掻く音だった。
全員が水路へ振り返る。
守り手の一人が一歩退いた。
「何だ……?」
傾いたナツメヤシの根元。
砂と暗闇の境目から、三つの影が這い出した。
装甲の怪物より小さく、軽い。
だが、腕だけが異様に長い。
背を地面につきそうなほど曲げ、身体の前へ垂らした両腕の先には、鎌のように湾曲した爪が伸びていた。
その顔は、獣のものではない。
黒くひび割れた皮を被った悪夢そのものだった。
細い黄色の目が開き、三つの頭が別々の方向へ揺れる。
守り手が掠れた声を漏らした。
「こいつらは……今まで一度も現れなかった」
一本の爪が、水路の縁を擦った。
乾いた音。
鋭い音。
ヤザンの呼吸が止まった。
守り手の声が消える。
サーリムの足音も。
新たな命令を飛ばすラカンの声さえ、聞こえない。
ヤザンは爪を見ていた。
違う。
見ていたのではない。
あの日へ、引き戻されていた。
黒いナツメヤシの間。
十三歳の自分。
砂の上に広がる血の匂い。
自分を後ろへ突き飛ばす、マルワンの硬い手。
そして、あの音。
爪がナツメヤシの幹を擦る。
爪が地面を裂く。
爪が、マルワンの身体の上へ振り上げられる。
ヤザンの指先から熱が消えた。
肩の痛みも。
水路も。
家々も。
すべてが消えた。
残ったのは、二年前の黒いナツメヤシ園だけだった。
まるで、あの日から一日も経っていないかのように。
「ヤザン?」
シグランが呼んだ。
動かない。
マヤが、さらに強く名を呼ぶ。
「ヤザン!」
一体目が跳んだ。
狙いはシグランでも、マヤでもない。
ヤザンだ。
こちらへ来るのが見えた。
どこへ足を置けばいいかも分かる。
右へ半歩。
それだけで爪の軌道から外れる。
ラカンに何百回も叩き込まれた動きだ。
身体は知っている。
だが、記憶が両脚を掴んでいた。
ヤザンは動かなかった。
「ヤザン! 動いて!」
マヤが叫ぶ。
シグランが駆け出す。
だが、二体目がその前へ割り込み、長い爪を振るった。
青い炎が拳を包み、爪と激突する。
「ヤザン! 動け、この馬鹿!」
マヤが三体目を止めようと水を放つ。
怪物は飢えた影のように身を翻し、水の糸を砂へ逸らした。
一体目は、すでにヤザンの目の前にいた。
ラカンが、その姿を見る。
ラカンの目に映ったのは、怪物を恐れて立ち尽くす少年ではなかった。
二年前の光景に囚われた、十三歳の少年だった。
「ヤザン!」
怪物が爪を振り上げる。
爪が落ちてくる。
だが、ヤザンの目に怪物は映っていなかった。
マルワンが倒れる。
頭が垂れる。
血が砂を染めていく。
十三歳の自分が叫んでいる。
けれど今のヤザンの喉からは、何の声も出なかった。
そして爪が胸へ届く、その直前――
白い光が、砂塵を切り裂いた。




