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血の継承【改訂版】  作者: Salhi smail
第四章 アイン・アルワル編

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アシール・ガスカン

翌朝。


アルマザ騎士庁の廊下を、マヤは息を切らしながら駆けていた。


夜明け前には起きていた。


それでも、旅に必要な荷物を何度も詰め直し、水袋の口を確かめ、薬草の包みを数え直しているうちに、気づけば集合の刻限が迫っていた。


昨夜のヤザンの顔が、頭から離れなかったせいでもある。


――アイン・アルワル。


その名を聞いた瞬間、彼の表情から何かが消えた。


驚きとも恐怖とも違う。


遠い場所から突然、首を掴まれたような顔だった。


「まずい……!」


角を曲がった、その瞬間だった。


マヤの肩が誰かにぶつかった。


「あっ――!」


勢いを止められず、身体が後ろへ傾く。


だが、床に倒れる寸前、伸びてきた手が彼女の腕を掴んだ。


マヤが顔を上げる。


そこに立っていたのは、見覚えのない女だった。


年は二十代の終わりほどだろうか。


肩まで伸びた黒髪を簡素な紐で束ね、灰色の旅装をまとっている。袖口には銀糸で複雑な紋様が縫い込まれ、腰には短い黒木の杖が差されていた。


剣も、鎧もない。


それでも、その灰色の瞳には、相手を一目で測るような静かな鋭さがあった。


「す、すみません!」


女はマヤを立たせると、乱れた袖を軽く払った。


「遅刻は、怪我を増やしたところで軽くはならないわ」


穏やかな声だった。


だが、言い訳を挟める隙はなかった。


「はい……」


女の視線が、マヤの胸元に刻まれた紋章へ落ちる。


「タラインね」


「え?」


「走りながら、足もとにケメンを流していたでしょう。転ばないように身体を支えるために」


マヤは目を見開いた。


無意識だった。


焦ると、水のケメンを足へ集める癖がある。


「流れを作るのは悪くない。でも、向きを持たない水は道を作らない。ただ泥を増やすだけよ」


そう告げると、女は何事もなかったように廊下の先へ歩いていった。


マヤは数秒その背中を見つめ、慌てて後を追った。


騎士庁の待合室では、ラカンが壁際に立っていた。


その前には、すでにシグランとヤザンが揃っている。


「遅い」


ラカンの一言に、マヤは肩をすくめた。


「すみません。少し準備に時間がかかって……」


「少し、か」


窓際にいたシグランが腕を組んだまま口元を歪める。


「旅に家ごと持っていくつもりだったのか?」


「あなたの分の薬も入ってるんだけど」


「必要ない」


「なら怪我をしても使わないでね」


「しない」


「前の任務でも同じことを言ってたわ」


シグランが言い返そうとしたところで、扉が開いた。


先ほどの女が入ってくる。


マヤの身体がわずかに固まった。


女は彼女へ一瞬だけ目を向けたが、何も言わずラカンの隣に立った。


ラカンが三人を見渡す。


「紹介する」


室内の空気が静まった。


「アシール・ガスカン。アルマザ学院で初年度生を受け持つ教師であり、古代封印と結界の専門家だ。今回の任務に同行する。封印の近くでは、俺たちの判断より彼女の判断を優先する」


アシールは淡々と付け加えた。


「私の判断を誰かの判断より上に置く必要はないわ。ただ、理解できないものに触れないでくれれば、それでいい」


シグランの眉がわずかに動く。


ガスカン。


八氏族の一つ――闇を継ぐ一族の名だった。


アシールは三人の前へ進むと、まずシグランを見た。


「名前を」


「シグラン・ザラン」


ほんの一瞬、彼女の視線が止まった。


驚きではない。


その名が持つ重さを確かめるような間だった。


「重い名前ね」


シグランの表情が硬くなる。


「俺には関係ない」


「そう」


アシールは声を変えなかった。


「なら、自分で背負いなさい。名前に背負われるのではなく」


シグランの奥歯が、わずかに噛み合った。


脳裏に、あの男の声が蘇る。


――ザランの名が、お前を背負っている。


胸の奥に赤い火が灯りかけたが、シグランは何も言わなかった。


アシールの視線がマヤへ移る。


「マヤ・タラインです」


「もう覚えたわ。次からは、廊下の角にも流れをつけなさい」


マヤは頬をわずかに赤らめた。


「……はい」


最後に、アシールはヤザンを見る。


彼は他の二人と同じ制服を着ていた。


だが、その身体からケメンの気配は感じられない。


オーラもない。


アシールはしばらく黙って彼を観察した。


「名前は?」


「ヤザン・ファドゥース」


「氏族は?」


「分かりません」


答えは短かった。


言い訳も、恥じる様子もない。


ただ、事実だけを口にしていた。


アシールは頷いた。


「なら、名前ではなく働きで覚えることにするわ」


哀れみも、疑いもなかった。


ヤザンは彼女を見返し、小さく答えた。


「はい」


一行は騎士庁の裏庭へ移動した。


そこには四頭立ての軽い公用馬車が用意されていた。通常の荷馬車より車輪が大きく、長い移動に耐えられるよう車軸と車体の縁が鉄で補強されている。


御者が水袋と食料を確認し、その横では職員たちが黒い箱をいくつも積み込んでいた。


箱の表面には、ガスカンの紋様が刻まれている。


封印を調べるための道具なのだろう。


ヤザンは地面に残されていた物資箱へ近づき、両手をかけた。


持ち上げた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。


呼吸がわずかに止まり、背中の傷が引きつった。


それでも箱を運ぼうとした彼へ、ラカンの声が飛ぶ。


「置け」


ヤザンは動きを止めた。


「運べます」


「運べるかどうかは聞いていない。置け」


数秒の沈黙のあと、ヤザンは箱を地面へ戻した。


ラカンが職員を呼び、代わりに運ばせる。


「傷が閉じたことと、治ったことは同じではない」


「……はい」


荷物の積み込みが終わると、アシールは馬車の前に立った。


「出発前に、いくつか決めておくことがあるわ」


彼女は三人を順に見る。


「今回の任務はB級。あなたたちは、昇格したばかりのC級チームよ」


シグランが口を開きかけたが、アシールは先に続けた。


「だからといって、自分たちが任務にふさわしいと証明する必要はない」


「では、なぜ俺たちが選ばれた?」


シグランが尋ねた。


「適任のB級チームと専門班が、現在すべて別任務に出ているからよ」


あまりにも率直な答えだった。


マヤが目を瞬く。


アシールはその反応を気にすることなく続けた。


「イドリース殿は別の部隊が戻るまで待つつもりだった。でも、アイン・アルワルの封印は待ってくれない。だから私は、最も強い部隊でなくても、ラカンが率い、命令系統を維持できる部隊なら任務は成立すると伝えた」


ラカンが腕を組む。


「つまり、お前たちの仕事は封印を破壊することではない。彼女が調査できる状況を作り、それを維持することだ」


アシールは腰から黒木の杖を抜いた。


杖の先には、欠けた円のような印が刻まれている。


「封印には触れない。叩かない。中へケメンを流さない。そして、一人で意味を読み取ろうとしないこと」


マヤが手を上げる。


「結界と封印は違うんですか?」


「違うわ」


アシールは杖の先で地面に一本の線を描いた。


「結界は、何かを通さないために境を作るもの」


その線の内側へ、小さな円を描く。


「封印は、すでに存在するものを閉じ込めるためのものよ」


円の一部を、杖の先で消す。


「結界を壊せば、守りが消える。でも封印を力ずくで壊せば――」


彼女は消えた部分を見下ろした。


「それが扉に変わることがある」


誰も口を開かなかった。


風が庭を抜け、馬のたてがみを揺らした。


アシールはマヤを見る。


「あなたは水の流れを感じても、封印の内側まで探ろうとしないこと」


「はい」


次にシグランへ視線を向ける。


「あなたは何かが現れても、合図より先に攻撃しない」


シグランは不満そうに眉を寄せた。


「攻撃されるまで待てと?」


「違う。見る前に燃やすなと言っているの」


ラカンの口元が、ほんのわずかに動いた。


シグランは舌打ちを飲み込み、顔を逸らす。


アシールは最後にヤザンを見る。


「あなたは一人で動かないこと。特に日が落ちてからは」


「分かりました」


「あなたに限った話ではないわ」


彼女は三人全員へ視線を戻した。


「日没後は、誰も単独で動かない。封印から声が聞こえても、知っている人間の姿が見えても、必ず他の者を呼ぶこと」


マヤの顔から、わずかに色が引いた。


「そんなことが……?」


「古い封印の近くでは、あり得ないと決めつけないほうが長生きできる」


アシールは杖を腰へ戻した。


ラカンが地図を開き、馬車の側面へ押し当てる。


「アルマザから南へ下り、スティランの街道を通る。ビスカラの国境までは、馬を替えながらおよそ六日だ」


指が、地図の南側をなぞる。


「国境では、ビスカラ騎士団の三名が待っている。サーリム、ヌーリヤ、ジャラール。最初の襲撃に対応した者たちだ」


マヤが地図を覗き込む。


「今はアイン・アルワルにいないんですか?」


「首都から村へ増援として派遣されていたが、封印の亀裂を確認したあと、俺たちを迎えるため国境へ移動するよう命じられた」


アシールが続ける。


「彼らは亀裂を直接見ている。それに、村までの道も知っているわ。国境から先はビスカラの馬に乗り替える。オアシスへ続く砂道は、この馬車には向かないから」


地図の端で、ヤザンの視線が止まっていた。


ラカンは彼を見た。


「ヤザン」


「はい」


「アイン・アルワルについて、覚えていることはあるか?」


ヤザンは少しだけ沈黙した。


胸の奥に、乾いた風が吹いた。


黒いナツメヤシ。


砂に埋もれた細い道。


暗闇の向こうで、何かを引きずる音。


「ナツメヤシの林の場所は分かります。村の道も、いくつかなら」


「水路は?」


「全部ではありません。でも、古いものは少し」


アシールが問いかける。


「封印らしい石を見たことは?」


ヤザンの眉がかすかに動いた。


「石は見ました。でも、封印だとは知りませんでした」


「それで十分よ」


アシールは彼の顔を見た。


「記憶は、どこで戦うべきかを教えてくれるとは限らない。でも、どこに立ってはいけないかを教えてくれることはある」


ヤザンは答えなかった。


今、無理に思い出そうとすれば、記憶より先に音が戻ってくる気がした。


アシールはそれを察したように言う。


「今は探らなくていい。道のほうから、勝手に思い出させてくるわ」


御者が出発の準備が整ったと告げた。


アシールが最初に馬車へ乗り込む。


ラカンは扉の近くに腰を下ろし、外を確認できる位置を選んだ。


シグランは迷いなく中へ入る。


その目には、わずかな熱が戻っていた。


B級任務。


彼が興味を持っているのは、ビスカラでも古代封印でもない。


そこに、どれほど強い敵がいるか。


ただ、それだけだった。


マヤは一度ヤザンを振り返ったあと、先に乗り込み、彼が座れる場所を空けた。


ヤザンは馬車の踏み台を見下ろした。


身体には、まだ痛みが残っている。


胸も、背中も、完全には治っていない。


それでも、彼は誰の手も借りずに足をかけた。


ラカンは止めなかった。


昨日、彼はヤザンに一度だけ選ばせた。


戻るか。


ここに残るか。


同じことを二度尋ねるつもりはなかった。


ヤザンが馬車へ乗り込み、扉が閉じられる。


御者が手綱を引いた。


四頭の馬がゆっくりと歩き始め、鉄で補強された車輪が石畳の上を回りだす。


アルマザの塔が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていった。


二年前。


ヤザンは、同じ道を逆の方向へ進んだ。


あのときは、アイン・アルワルから逃げるようにアルマザへ向かった。


今度は、自分の意志で戻っていく。


その違いが何を変えるのか、まだ分からない。


だが、車輪が最初の角を曲がったとき――


アイン・アルワルが、すでに自分の胸へ近づき始めているのを、ヤザンは感じていた。

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