アシール・ガスカン
翌朝。
アルマザ騎士庁の廊下を、マヤは息を切らしながら駆けていた。
夜明け前には起きていた。
それでも、旅に必要な荷物を何度も詰め直し、水袋の口を確かめ、薬草の包みを数え直しているうちに、気づけば集合の刻限が迫っていた。
昨夜のヤザンの顔が、頭から離れなかったせいでもある。
――アイン・アルワル。
その名を聞いた瞬間、彼の表情から何かが消えた。
驚きとも恐怖とも違う。
遠い場所から突然、首を掴まれたような顔だった。
「まずい……!」
角を曲がった、その瞬間だった。
マヤの肩が誰かにぶつかった。
「あっ――!」
勢いを止められず、身体が後ろへ傾く。
だが、床に倒れる寸前、伸びてきた手が彼女の腕を掴んだ。
マヤが顔を上げる。
そこに立っていたのは、見覚えのない女だった。
年は二十代の終わりほどだろうか。
肩まで伸びた黒髪を簡素な紐で束ね、灰色の旅装をまとっている。袖口には銀糸で複雑な紋様が縫い込まれ、腰には短い黒木の杖が差されていた。
剣も、鎧もない。
それでも、その灰色の瞳には、相手を一目で測るような静かな鋭さがあった。
「す、すみません!」
女はマヤを立たせると、乱れた袖を軽く払った。
「遅刻は、怪我を増やしたところで軽くはならないわ」
穏やかな声だった。
だが、言い訳を挟める隙はなかった。
「はい……」
女の視線が、マヤの胸元に刻まれた紋章へ落ちる。
「タラインね」
「え?」
「走りながら、足もとにケメンを流していたでしょう。転ばないように身体を支えるために」
マヤは目を見開いた。
無意識だった。
焦ると、水のケメンを足へ集める癖がある。
「流れを作るのは悪くない。でも、向きを持たない水は道を作らない。ただ泥を増やすだけよ」
そう告げると、女は何事もなかったように廊下の先へ歩いていった。
マヤは数秒その背中を見つめ、慌てて後を追った。
騎士庁の待合室では、ラカンが壁際に立っていた。
その前には、すでにシグランとヤザンが揃っている。
「遅い」
ラカンの一言に、マヤは肩をすくめた。
「すみません。少し準備に時間がかかって……」
「少し、か」
窓際にいたシグランが腕を組んだまま口元を歪める。
「旅に家ごと持っていくつもりだったのか?」
「あなたの分の薬も入ってるんだけど」
「必要ない」
「なら怪我をしても使わないでね」
「しない」
「前の任務でも同じことを言ってたわ」
シグランが言い返そうとしたところで、扉が開いた。
先ほどの女が入ってくる。
マヤの身体がわずかに固まった。
女は彼女へ一瞬だけ目を向けたが、何も言わずラカンの隣に立った。
ラカンが三人を見渡す。
「紹介する」
室内の空気が静まった。
「アシール・ガスカン。アルマザ学院で初年度生を受け持つ教師であり、古代封印と結界の専門家だ。今回の任務に同行する。封印の近くでは、俺たちの判断より彼女の判断を優先する」
アシールは淡々と付け加えた。
「私の判断を誰かの判断より上に置く必要はないわ。ただ、理解できないものに触れないでくれれば、それでいい」
シグランの眉がわずかに動く。
ガスカン。
八氏族の一つ――闇を継ぐ一族の名だった。
アシールは三人の前へ進むと、まずシグランを見た。
「名前を」
「シグラン・ザラン」
ほんの一瞬、彼女の視線が止まった。
驚きではない。
その名が持つ重さを確かめるような間だった。
「重い名前ね」
シグランの表情が硬くなる。
「俺には関係ない」
「そう」
アシールは声を変えなかった。
「なら、自分で背負いなさい。名前に背負われるのではなく」
シグランの奥歯が、わずかに噛み合った。
脳裏に、あの男の声が蘇る。
――ザランの名が、お前を背負っている。
胸の奥に赤い火が灯りかけたが、シグランは何も言わなかった。
アシールの視線がマヤへ移る。
「マヤ・タラインです」
「もう覚えたわ。次からは、廊下の角にも流れをつけなさい」
マヤは頬をわずかに赤らめた。
「……はい」
最後に、アシールはヤザンを見る。
彼は他の二人と同じ制服を着ていた。
だが、その身体からケメンの気配は感じられない。
オーラもない。
アシールはしばらく黙って彼を観察した。
「名前は?」
「ヤザン・ファドゥース」
「氏族は?」
「分かりません」
答えは短かった。
言い訳も、恥じる様子もない。
ただ、事実だけを口にしていた。
アシールは頷いた。
「なら、名前ではなく働きで覚えることにするわ」
哀れみも、疑いもなかった。
ヤザンは彼女を見返し、小さく答えた。
「はい」
一行は騎士庁の裏庭へ移動した。
そこには四頭立ての軽い公用馬車が用意されていた。通常の荷馬車より車輪が大きく、長い移動に耐えられるよう車軸と車体の縁が鉄で補強されている。
御者が水袋と食料を確認し、その横では職員たちが黒い箱をいくつも積み込んでいた。
箱の表面には、ガスカンの紋様が刻まれている。
封印を調べるための道具なのだろう。
ヤザンは地面に残されていた物資箱へ近づき、両手をかけた。
持ち上げた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。
呼吸がわずかに止まり、背中の傷が引きつった。
それでも箱を運ぼうとした彼へ、ラカンの声が飛ぶ。
「置け」
ヤザンは動きを止めた。
「運べます」
「運べるかどうかは聞いていない。置け」
数秒の沈黙のあと、ヤザンは箱を地面へ戻した。
ラカンが職員を呼び、代わりに運ばせる。
「傷が閉じたことと、治ったことは同じではない」
「……はい」
荷物の積み込みが終わると、アシールは馬車の前に立った。
「出発前に、いくつか決めておくことがあるわ」
彼女は三人を順に見る。
「今回の任務はB級。あなたたちは、昇格したばかりのC級チームよ」
シグランが口を開きかけたが、アシールは先に続けた。
「だからといって、自分たちが任務にふさわしいと証明する必要はない」
「では、なぜ俺たちが選ばれた?」
シグランが尋ねた。
「適任のB級チームと専門班が、現在すべて別任務に出ているからよ」
あまりにも率直な答えだった。
マヤが目を瞬く。
アシールはその反応を気にすることなく続けた。
「イドリース殿は別の部隊が戻るまで待つつもりだった。でも、アイン・アルワルの封印は待ってくれない。だから私は、最も強い部隊でなくても、ラカンが率い、命令系統を維持できる部隊なら任務は成立すると伝えた」
ラカンが腕を組む。
「つまり、お前たちの仕事は封印を破壊することではない。彼女が調査できる状況を作り、それを維持することだ」
アシールは腰から黒木の杖を抜いた。
杖の先には、欠けた円のような印が刻まれている。
「封印には触れない。叩かない。中へケメンを流さない。そして、一人で意味を読み取ろうとしないこと」
マヤが手を上げる。
「結界と封印は違うんですか?」
「違うわ」
アシールは杖の先で地面に一本の線を描いた。
「結界は、何かを通さないために境を作るもの」
その線の内側へ、小さな円を描く。
「封印は、すでに存在するものを閉じ込めるためのものよ」
円の一部を、杖の先で消す。
「結界を壊せば、守りが消える。でも封印を力ずくで壊せば――」
彼女は消えた部分を見下ろした。
「それが扉に変わることがある」
誰も口を開かなかった。
風が庭を抜け、馬のたてがみを揺らした。
アシールはマヤを見る。
「あなたは水の流れを感じても、封印の内側まで探ろうとしないこと」
「はい」
次にシグランへ視線を向ける。
「あなたは何かが現れても、合図より先に攻撃しない」
シグランは不満そうに眉を寄せた。
「攻撃されるまで待てと?」
「違う。見る前に燃やすなと言っているの」
ラカンの口元が、ほんのわずかに動いた。
シグランは舌打ちを飲み込み、顔を逸らす。
アシールは最後にヤザンを見る。
「あなたは一人で動かないこと。特に日が落ちてからは」
「分かりました」
「あなたに限った話ではないわ」
彼女は三人全員へ視線を戻した。
「日没後は、誰も単独で動かない。封印から声が聞こえても、知っている人間の姿が見えても、必ず他の者を呼ぶこと」
マヤの顔から、わずかに色が引いた。
「そんなことが……?」
「古い封印の近くでは、あり得ないと決めつけないほうが長生きできる」
アシールは杖を腰へ戻した。
ラカンが地図を開き、馬車の側面へ押し当てる。
「アルマザから南へ下り、スティランの街道を通る。ビスカラの国境までは、馬を替えながらおよそ六日だ」
指が、地図の南側をなぞる。
「国境では、ビスカラ騎士団の三名が待っている。サーリム、ヌーリヤ、ジャラール。最初の襲撃に対応した者たちだ」
マヤが地図を覗き込む。
「今はアイン・アルワルにいないんですか?」
「首都から村へ増援として派遣されていたが、封印の亀裂を確認したあと、俺たちを迎えるため国境へ移動するよう命じられた」
アシールが続ける。
「彼らは亀裂を直接見ている。それに、村までの道も知っているわ。国境から先はビスカラの馬に乗り替える。オアシスへ続く砂道は、この馬車には向かないから」
地図の端で、ヤザンの視線が止まっていた。
ラカンは彼を見た。
「ヤザン」
「はい」
「アイン・アルワルについて、覚えていることはあるか?」
ヤザンは少しだけ沈黙した。
胸の奥に、乾いた風が吹いた。
黒いナツメヤシ。
砂に埋もれた細い道。
暗闇の向こうで、何かを引きずる音。
「ナツメヤシの林の場所は分かります。村の道も、いくつかなら」
「水路は?」
「全部ではありません。でも、古いものは少し」
アシールが問いかける。
「封印らしい石を見たことは?」
ヤザンの眉がかすかに動いた。
「石は見ました。でも、封印だとは知りませんでした」
「それで十分よ」
アシールは彼の顔を見た。
「記憶は、どこで戦うべきかを教えてくれるとは限らない。でも、どこに立ってはいけないかを教えてくれることはある」
ヤザンは答えなかった。
今、無理に思い出そうとすれば、記憶より先に音が戻ってくる気がした。
アシールはそれを察したように言う。
「今は探らなくていい。道のほうから、勝手に思い出させてくるわ」
御者が出発の準備が整ったと告げた。
アシールが最初に馬車へ乗り込む。
ラカンは扉の近くに腰を下ろし、外を確認できる位置を選んだ。
シグランは迷いなく中へ入る。
その目には、わずかな熱が戻っていた。
B級任務。
彼が興味を持っているのは、ビスカラでも古代封印でもない。
そこに、どれほど強い敵がいるか。
ただ、それだけだった。
マヤは一度ヤザンを振り返ったあと、先に乗り込み、彼が座れる場所を空けた。
ヤザンは馬車の踏み台を見下ろした。
身体には、まだ痛みが残っている。
胸も、背中も、完全には治っていない。
それでも、彼は誰の手も借りずに足をかけた。
ラカンは止めなかった。
昨日、彼はヤザンに一度だけ選ばせた。
戻るか。
ここに残るか。
同じことを二度尋ねるつもりはなかった。
ヤザンが馬車へ乗り込み、扉が閉じられる。
御者が手綱を引いた。
四頭の馬がゆっくりと歩き始め、鉄で補強された車輪が石畳の上を回りだす。
アルマザの塔が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていった。
二年前。
ヤザンは、同じ道を逆の方向へ進んだ。
あのときは、アイン・アルワルから逃げるようにアルマザへ向かった。
今度は、自分の意志で戻っていく。
その違いが何を変えるのか、まだ分からない。
だが、車輪が最初の角を曲がったとき――
アイン・アルワルが、すでに自分の胸へ近づき始めているのを、ヤザンは感じていた。




