怒りが目覚める時
アズロンの指が、シグランの喉に食い込んでいた。
身体は宙に持ち上げられ、両足が届かない地面を探して空を蹴っている。両手でアズロンの手首を掴んでいるが、その腕は微動だにしなかった。
炎はもう、どこにも残っていない。
シグランの顔から少しずつ血の気が失われていく。
それでも、アズロンの眼差しは静かなままだった。
シグランの指に力がこもる。
罵ろうとした。
叫ぼうとした。
目の前の顔を炎で焼こうとした。
だが、喉から漏れたのは押し潰された呼吸音だけだった。
「その名に見合うものは、どこにある?」
数歩離れた場所で、ヤザンは片膝をついたままだった。
アズロンの威圧は、まだその身体にのしかかっている。立とうとするたびに腕が震え、空気は胸の奥まで入らない。
今度ばかりは、恐怖を無視できなかった。
それは心の中に浮かぶ考えではない。
骨の内側を走り、筋肉へ直接命じる何かだった。
逃げろ。
見るな。
地面に伏せていろ。
ヤザンは顔を上げた。
アズロンの手首にしがみつくシグランの両手。
宙に浮いた足。
そして、もう現れようとしない炎。
脳裏に、試験での光景が蘇る。
自分へ迫った一撃。
考えるより先に、その前へ飛び込んだシグラン。
そのあと、認めるのが不本意だとでも言いたげに告げた声。
『身体が勝手に動いた』
ヤザンは土を掴んだ。
片足を動かそうとする。
動かない。
もう一度、力を込めた。
「動け……」
自分にしか聞こえないほど、かすかな声だった。
足を地面へ押しつけ、震える脚を少しずつ持ち上げる。
「怖くても」
両膝が揺れた。
それでもシグランを見上げる。
「仲間がお前を必要としてる」
恐怖は消えなかった。
アズロンの威圧も弱まらない。
それでも、ヤザンは立ち上がった。
身体が一度大きく揺れた。
もう片方の足で踏みとどまり、近くに落ちていた小石を拾う。
アズロンに勝とうとは考えていない。
必要なのは、ほんの一瞬だけだった。
腕を振り、小石をシグランの首を掴む手へ投げる。
アズロンは見ようともしなかった。
空いている手の指がわずかに動く。
小石は空中で軌道を変え、遠くの岩へ弾かれた。
だが、ヤザンはすでにその後ろから走り出していた。
残った力だけで地面を蹴り、アズロンの腕へ飛びつく。手首を拳で打ち、両手で掴んでシグランの首から引き離そうとした。
動かない。
人間の腕ではなく、山の一部にしがみついているようだった。
アズロンが目を落とす。
初めて、その視線から完全な無関心が消えた。
「ケメンもない……」
震えるヤザンの脚へ目を向ける。
「倒れたままでいるべき時を教える頭もないか」
ヤザンは手首を掴む指に力を込めた。
「こいつだって……僕を見捨てなかった」
シグランの目が変わった。
アズロンが空いている手を振るう。
ヤザンは見切ることすらできなかった。
一撃が胸を捉え、身体が後方へ弾き飛ばされる。背中から木の幹へ叩きつけられ、頭上から何枚もの葉が落ちた。
そのまま地面へ崩れ落ちる。
肺から空気が消え、痛みが胸から背中へ突き抜けた。身体を起こそうとしても、かろうじて目を開けることしかできない。
シグランの抵抗が、一瞬止まった。
木の根元に倒れたヤザンを、見開いた目で見つめる。
「馬鹿……」
アズロンの指に喉を締められ、言葉は砕けていた。
もう一度その手首を押そうとするが、両腕から力が抜け始めている。
「逃げろ……」
ヤザンは動かない。
シグランは、喉が許す限り声を絞り出した。
「逃げろ……先生を呼べ!」
アズロンの片眉が上がる。
低い笑いが一度だけ漏れた。
ヤザンへ視線を向け、再びシグランを見る。
「恐れているのは、あの娘だけではないのか」
顔を近づける。
「お前は、全員を失うことを恐れている」
シグランの目に怒りが燃え上がった。
マヤ。
ヤザン。
何もできない自分。
喉を締める指。
そして、背負いきれない重荷のように投げつけられたザランの名。
胸の奥で、何かが動いた。
心臓の上に、小さな赤い火花が灯る。
すぐに消えた。
そして、再び現れる。
今度は胸から肩へ、さらに腕へと炎が伸びていった。いつものように拳から生み出されたのではない。
皮膚の奥へ閉じ込められていたものが、全身から漏れ出している。
アズロンの目が細くなる。
周囲の温度が上がった。
炎の縁にある赤が濃く変わり、その中心に細い青の筋が現れる。
一瞬だけだった。
青は消えた。
だが、先ほどよりもはっきりと再び現れた。
アズロンの笑みが広がる。
「ようやくか」
指を開く。
シグランは膝から地面へ落ちた。片手で喉を押さえ、激しく咳き込む。
だが、炎は一緒には落ちなかった。
肩と背中を取り巻き、激しく渦を巻いている。その中で青い筋が現れては消え、初めて目を開こうとする何かのように揺らめいた。
アズロンは、握力が弱まったからシグランを放したのではない。
見届けるために、手を離したのだ。
◆
音より先に、熱がラカンへ届いた。
遠く離れた場所から、木々と折り畳まれた距離を越え、炉から吹き出した風のように顔を打つ。
ラカンの目が変わった。
「くそ……」
マヤが顔を上げる。
「何が起きたの?」
ラカンは答えなかった。
炎を見なくても、誰のものか分かっている。
シグランだ。
スカイが笑った。
ラカンが熱の発生源へ振り返るのを待っている。
長すぎる一瞥。
怒りに任せた一歩。
残された二人への恐怖が強いる、どんな動きでもよかった。
だが、ラカンが背後を見たのは一瞬だけだった。
すぐに視線をマヤへ戻す。
手首を縛る黒い線。
周囲に浮かぶ黒い腕。
そして、地面を這う水の糸。
この空間にあるものは、すべて嘘をついていた。
岩は近づき、また遠ざかる。
マヤの声は、一呼吸ぶん遅れて届く。
スカイの影さえ、本人が動いていないのに形を変えている。
だが、水の糸だけは彼女と繋がったままだ。
弱い。
今にも消えそうなほど細い。
それでも、進む方向を一度も変えていなかった。
「俺をここへ導くために、この糸を残した」
「役目は果たした」
「いや」
ラカンの目が、スカイの足元を通る水の糸へ落ちる。
「まだだ」
スカイの笑みが、ほんのわずかに薄れた。
マヤが糸を見ようとする。
首元に浮かぶ黒い腕が、その動きに合わせて近づいた。
「動くな」
マヤの身体が固まる。
スカイは静かに言った。
「教師と生徒が目を合わせただけで、距離は壊せない」
「すべて壊す必要はない」
ラカンがゆっくりと手を上げる。
二本の指先に、わずかなケメンが集まった。
攻撃と呼べるほどの量ではない。
それでも、マヤを囲む三本の腕が反応する。
一本は首元。
一本は胸の前。
最後の一本は頭上。
「もう一歩動けば、どこに攻撃が届くかを決めるのはお前だ」
「分かっている」
ラカンは、首元にある腕へケメンの塊を放った。
スカイの目が即座に動く。
一本目がそれを遮るために伸び、二本目はマヤの胸へ近づいた。三本目は上から下がり、ラカンが飛び込む道を塞ぐ。
すべてが、スカイの想定どおりに動いた。
ただ一つ。
放たれたケメンは、攻撃ではなかった。
届く前に霧散する。
その瞬間、ラカンは水の糸を足で押さえた。
力任せではない。
閉じた扉を一度だけ叩くような、ごく小さな振動を送り込む。
マヤはそれを感じた。
視線が、袖口に隠していた小さな水滴へ移る。
もう一度ラカンを見る必要はない。
指を動かす。
水滴は黒い拘束の外へ向かうのではなく、手首の裏へ滑った。
水の糸と折り畳まれた空間が接続している場所へ。
スカイの動きが止まる。
目が見開かれた。
「やめろ――」
水滴が、何もない空間へ落ちた。
周囲が揺れる。
一瞬だけ、拘束の裏側に小さな結び目が姿を現した。
空間そのものが、自らに巻きつくように歪んでいる。
ラカンの目がそこを捉えた。
「そこか」
二本の指で空を打つ。
スカイでも、黒い腕でもない。
結び目だけを狙った。
音もなく、何かが壊れた。
マヤの首元にあった腕が、瞬きの半分ほど消える。手首を縛っていた黒い線も緩んだ。
それだけで十分だった。
ラカンが飛び出す。
真っ直ぐには進まない。
折り畳まれた空間に生まれた裂け目へ身体を滑り込ませ、マヤへ到達する。片腕で抱き寄せ、その身体を胸元へ引いた。
黒い腕が戻る。
ラカンは身体をひねり、背中をマヤと腕の間へ入れた。
一本が背後から肩を切り裂いた。
服が破れ、背中に赤い線が走る。
ラカンの身体が強張った。
「先生!」
「掴まってろ」
腕に力を込め、開いた空間を蹴る。
背後で裂け目が閉じた。
本物の空気が、マヤの顔を打った。
岩は元の位置へ戻り、影も地面の上で静止している。
二人は罠の外へ出ていた。
ラカンは片膝をついた。
それでも、マヤを離さない。
背後を振り返る。
折り畳まれた空間の中で、スカイはマヤがいたはずの場所を見つめていた。
穏やかな表情は消えていない。
だが、その目は細くなっていた。
切れた水の糸。
砕かれた結び目に残る、小さな水滴。
順に視線を移す。
「餌を、逃げ道に変えたか」
ラカンは立ち上がった。
「間違えたのは、餌じゃない」
マヤをもう一度抱き上げる。
「噛みつかないと思った、お前だ」
スカイの笑みが消えた。
ラカンは木々の間を駆け出す。
背後で再び距離が折り畳まれ始めたが、壊された空間はスカイの命令にすぐには応じなかった。
スカイはその場に立ち、二人の残した痕跡を見つめる。
やがて、静かに口を開いた。
「いい手だ、ラカン」
ゆっくりと笑みが戻る。
「だが、もう遅い」
◆
ラカンは、ようやく道が安定した場所まで走り抜けた。
肩から流れる血が服を濡らし、腕の中ではマヤの呼吸がまだ乱れている。
「降ろして。走れる」
「足の感覚が戻ってからだ」
「でも、シグランとヤザンが――」
「分かっている」
不意に足を止めた。
近くの木の幹に、黒く斜めの線が残されている。
目を凝らす。
灰だ。
急いだ手で樹皮へ擦りつけられ、岩の間を通る道を示している。
誰が残したのか、すぐに分かった。
「よくやった、ヤザン……」
ラカンは奥歯を噛む。
「この馬鹿が」
次の瞬間、アズロンの威圧が届いた。
直接向けられたものではない。
すでに弱まり、木々を抜けてきた残滓にすぎない。
それでも、ラカンの顔つきが変わった。
生徒を追うために送り込まれた者の気配ではない。
作戦の一部だけを任された戦闘員のものでもない。
灰の印が示す方向を見た。
「あそこで二人を待っているのは……ただの手駒じゃない」
マヤが尋ねる。
「どういうこと?」
木々の向こうから、再び熱が吹きつけた。
先ほどより近い。
そして、さらに強い。
赤い炎の中で、まだ定まらない別の何かが生まれようとしている。
鋭い色が現れ、すぐに消える。
「遅れれば、救出では済まなくなる」
ラカンは走り出した。
傷が走れる状態かどうかなど、確かめもしない。
マヤも、背中を伝う血が増えているとは告げなかった。
その目は前方の道に向けられている。
灰の印。
そして、色を変え始めた炎へ。
◆
シグランはゆっくりと顔を上げた。
片手は喉を押さえ、もう片方は地面についている。呼吸は途切れ、胸が激しく上下していた。
それでも、周囲の炎は広がり続ける。
もう拳から飛び跳ねるような燃え方ではない。
身体を取り巻き、不安定な輪を描いている。
細すぎて一つの炎とは呼べず、幻にしては明瞭すぎる青い筋が、赤の中に再び現れた。
木の根元で、ヤザンがかすかに目を開く。
変わっていく炎を見た。
咳も、震える脚も感じていないかのように立ち上がるシグランを見た。
胸の奥に、再び恐怖が這い上がる。
今度は、アズロンに対してだけではない。
「シグラン……」
声は届かなかった。
シグランは振り返らない。
アズロンは正面に立ち、穏やかな笑みを浮かべていた。
目の前の変化に驚いた男の顔ではない。
探し求めていたものを、ようやく見つけた者の顔だった。
わずかに両腕を開く。
「見せてみろ。その名の奥に残っているものを」
シグランは足を踏みしめた。
手は震えている。
それでも、拳を上げた。
「殺す」
アズロンは、今にも崩れそうな立ち姿を眺める。
「まず、まともに立て」
片手を向けた。
「それから試してみろ」
シグランの足元で地面が燃え上がった。
踏み込む。
今度は、シグランだけが前へ出たのではない。
炎そのものが一緒に走った。
道をすべて呑み込もうとするように身体へ巻きつき、その中心には、シグラン自身にも生み出し方が分からない青い筋が伸びていた。
止め方も、分からない。
アズロンは退かなかった。
片手を上げ、笑みを深める。
「そうだ……それだ」
炎が掌へ激突した。
赤が裂けた。
その瞬間、二人のもとへ向かっていたラカンが顔を上げる。
木々の向こうで、夜が青く染まった。




