選択の罠
最後の言葉を口にしてから、アズロンは動かなかった。
岩の狭間に佇み、果てのない夜を外套のように背負っている。
二人はまだ、目の前の男の名すら知らない。
それでも、その静かな立ち姿だけで分かった。
この男は、脅すためだけに現れたのではない。
シグランの拳に炎が灯る。
火勢は安定していなかった。荒い呼吸に合わせて膨らんでは縮み、足元の草を焦がしながら、その顔を揺れる赤に染めていく。
その数歩後ろで、ヤザンがようやく足を止めた。
脇腹を押さえ、乱れた呼吸を隠そうとしている。シグランを追って走っただけで、胸の痛みはぶり返し、両脚には重さがまとわりついていた。
アズロンはシグランだけを見た。
「先に来たのは、お前か」
「マヤはどこだ」
アズロンはわずかに首を傾げる。
「まだ、問いを間違えている」
言葉が終わるより先に、シグランが踏み込んだ。
足元で炎が爆ぜ、その身体を矢のように押し出す。燃え上がる拳がアズロンの顔面へ伸び、その軌跡にあった草が黒く焼けた。
アズロンは退かなかった。
ほんのわずか、顔を傾ける。
拳は頬をかすめ、髪を一本だけ焼き切った。
シグランが体勢を立て直すより早く、アズロンの二本の指がその手首に触れた。
打撃ですらない。
ただの接触だった。
それでも、シグランの突進は別の方向へねじ曲げられた。
肩から大きく流され、地面に叩きつけられる。土の上を転がりながらも、シグランは片手を突いて身体を止めた。
「シグラン!」
ヤザンが駆け寄ろうとする。
だが、シグランはすぐに立ち上がった。
頬には土がつき、口元から細い血が流れている。それを手の甲で拭い、拳に再び炎をまとわせた。
「力は悪くない」
アズロンの視線が、シグランの足元へ落ちる。
「だが、どこへ運ぶべきかを知らない」
シグランの顔に怒りが燃え上がった。
「黙れ」
三つの炎弾が同時に放たれた。
一つはアズロンの胸へ。
一つは足元へ。
最後の一つは、避けるとすれば選ぶはずの方向へ。
だが、アズロンは避けなかった。
ただ、片手を上げる。
炎弾が届く寸前、その軌道が歪んだ。
三つの炎は冷たい岩を避ける水流のようにアズロンの周囲を回り込み、背後で互いに衝突して炸裂した。
赤い光が岩場を揺らす。
ヤザンは動きを止めた。
アズロンは炎を防いだのではない。
炎が進む方向そのものを変えたのだ。
シグランは爆煙の中へ飛び込んだ。
相手の脇腹を狙って身を低くする。
だがアズロンは、拳の前にある見えない何かを掴むように指を閉じ、そのまま横へ引いた。
シグランの拳が再び逸れる。
炎をまとった一撃が岩を砕き、赤熱した破片が飛び散った。
振り返るより先に、アズロンの掌がシグランの肩へ置かれる。
「怒りのほうが、お前より先に届く」
押した。
見えない重圧が、シグランの頭上から落ちた。
両膝が地面を打ち、足元の土がひび割れる。顔を上げようとしても、空気そのものが身体を地面へ押しつけていた。
ヤザンが息を呑む。
圧力は自分に向けられたものではない。
それでも、傷の残る胸が締めつけられた。
アズロンが初めて、ヤザンへ視線を向ける。
好奇心でも、明確な関心でもなかった。
戦いの場にいるはずのないものを一瞥するような目だった。
「シグラン……そいつは力の向きを変えてる。正面から行くな」
アズロンが一瞬、黙った。
視線がヤザンからシグランへ戻る。
「負傷者のほうが先に見抜いたか」
シグランは地面を掌で打った。
腕から炎が爆ぜ、重圧を押し返す。その一瞬で立ち上がると、怒りに燃えた目をヤザンへ向けた。
「下がってろ」
「でも――」
「下がってろと言った!」
シグランは再びアズロンへ向き直る。
アズロンは、小さく笑っただけだった。
まだ試し終えてはいない。
◆
マヤが残した水の糸は、今にも途切れそうな脈のように、土の上で明滅していた。
ラカンはそれを見失わないよう、木々の間を駆ける。
光へ近づくたび、目の前の距離がわずかに伸び、背後で縮んでいく。
張り出した根を飛び越えた。
二つの岩の間を抜けた。
低く垂れた枯れ枝をかいくぐる。
そこで足を止めた。
目の前に、先ほどと同じ岩がある。
ゆっくりと顔を上げる。
右には、同じ木。
同じ角度で折れた枝。
地面の影さえ、最初から一歩も動いていないかのように伸びていた。
ラカンが引き返したのではない。
道のほうが、彼を同じ場所へ戻したのだ。
視線を落とす。
水の糸は、先ほどと同じ距離を保ったまま、前方へ続いている。
ラカンは手を伸ばし、何もない空間へ触れた。
指先が、見えない水面に触れたように揺れる。
さらに押し込むと、指の間で光が湾曲し、その向こうにある岩があり得ないほど近く見えた。
「迷路じゃない……」
目を細める。
「距離そのものを折り畳んでいるのか」
返事はなかった。
だが、水の糸が突然、左側で強く光った。
岩の間に細い窪みが現れる。そこにはつい先ほどまで、何もなかった。
空気が透明な幕のように揺れ、道から切り離された小さな空間が開く。
その中に、マヤがいた。
両腕を背中へ回され、黒く細い線で縛られている。
縄でも、金属でもない。
黒い線は手首ではなく、その周囲の空間へ絡みつき、彼女の身体ごと一つの場所に縫い止めていた。
髪は乱れ、顔も青ざめている。
それでも、意識はあった。
ラカンを見た瞬間、マヤの目が大きく開く。
「先生!」
ラカンが一歩踏み出す。
その間に、スカイが現れた。
岩陰から出てきたのでも、上から降りてきたのでもない。
空間が一度折れ、誰もいなかった場所にスカイの姿が収まった。
表情は穏やかで、その目だけが冷たい。
背後では岩の輪郭が近づいたり遠ざかったりを繰り返し、足元の影も一つの方向に定まっていなかった。
ラカンは足を止めた。
スカイからマヤへ。
さらに、彼女を縛る黒い線へ視線を移す。
スカイが言った。
「思っていたより早かったな」
「彼女を放せ」
「放すつもりなら、お前をここへ導く道など残していない」
ラカンの視線が水の糸へ落ちる。
マヤはその意味を悟り、わずかに目を伏せた。
水の糸は見落とされたのではない。
残すことを許されたのだ。
餌として。
「偽の気配で俺を野営地から引き離し、次に、俺が必ず追うと分かっている痕跡を残した」
スカイが笑う。
「お前はあの娘の教師だ。そこだけは簡単だった」
ラカンは背後の闇へ目を向けた。
シグランもヤザンも見えない。
だが、遠くで何かがぶつかる音がした。
折り畳まれた距離に歪められ、ひどく小さく聞こえる。
視線をスカイへ戻した。
「マヤは目標じゃない」
スカイの笑みは変わらない。
だが、そのあとの沈黙が答えだった。
「俺を遠ざけるまで待ち、一人を連れ去り、もう一人を反対側へ誘い出した……」
試験で起きたことが、ラカンの脳裏をよぎる。
アルマザへ侵入した者たち。
ザランの少年を探していた連中。
そして、試験が終わっても消えなかった不穏な気配。
目が細くなる。
「お前たちは……〈黒の帳〉か」
スカイは短く笑った。
「名前には辿り着いたか。だが、それであの娘を救えるわけじゃない」
片手を上げる。
マヤの周囲に、黒い亀裂が開いた。
そこから伸びてきたのは、スカイの身体から生えた腕ではない。
空間そのものから現れた、黒いケメンの腕だった。
一本はマヤの首元へ。
一本は心臓の前へ。
そしてもう一本は、頭上へ。
根元は細く、先端だけが太い。
まるで夜が指を生やしたようだった。
マヤの身体が強張る。
声は上げなかった。
だが、背中へ回された手の指が固く握られたのを、ラカンは見逃さない。
「一歩でも読み違えれば、お前の攻撃が俺に届くか、あの娘に届くか――自分でも分からないぞ」
踏み出しかけたラカンの足が止まる。
スカイとの距離。
黒い腕の位置。
空気の歪み。
水の糸が伸びる方向。
戦場で培った経験は、術が完成する前に攻めろと告げていた。
だが、術はすでに完成している。
黒い腕は、外側からマヤを守っているのではない。
彼女が閉じ込められた空間そのものと繋がっている。
攻撃の方向を一つでも誤れば、スカイではなくマヤに届く。
「彼女の後ろに隠れているだけじゃない。彼女のいる場所を、お前の周囲の空間と結びつけている」
スカイが笑みを深める。
「優秀な教師は、自分で罠の仕組みまで説明してくれる」
「生徒を盾にしなければ教師一人止められないか」
「お前と正面から戦う必要などない」
黒い腕が、髪一本分だけマヤの首へ近づいた。
「必要なのは、お前の選択だ」
ラカンの全身が硬くなる。
すべての筋肉が、今すぐ飛びかかれと叫んでいた。
それでも目だけは冷静に、亀裂から亀裂へ動き続ける。
「これは、道に仕掛けた罠じゃない」
スカイが続きを待つ。
「選択そのものが罠か」
笑みがわずかに広がった。
「ようやく理解したな」
マヤは背中へ回された手で、指を一本だけ動かそうとした。
袖口に残していた小さな水滴を呼び寄せる。
武器にも盾にもならない。
それでも、手首に近い黒い線を一瞬乱すことならできるかもしれない。
水滴が動く。
スカイは顔を向けることなく、目だけをそちらへ寄せた。
黒い腕が、マヤの首へさらに近づく。
水滴はその場で止まった。
「教師に、早すぎる決断をさせるな」
ラカンは、指の関節が白くなるほど拳を握った。
マヤの目には、戦えるだけの力を持ちながら、一歩も動けずにいる教師の姿が映っていた。
怒りは、その目にはっきりと宿っている。
だが、拳には届いていない。
冷たく研ぎ澄まされた視線の奥に押し留められていた。
計算している。
探している。
この偽りだらけの場所で、ただ一つだけ嘘をついていないものを。
◆
シグランが顔を上げた。
肩にのしかかっていた重圧が薄れていく。
アズロンが解いたのではない。
身体から噴き上がった炎が、無理やり押し返したのだ。
膝が一度揺れる。
それでも、立った。
「なぜ倒されたのかも理解しないまま、また立つのか」
シグランは口元の血を拭った。
「お前が、俺とマヤの間にいる。それだけ分かれば十分だ」
「そうか?」
アズロンは背後の道へ目を向けた。
岩も、折り畳まれた距離も、その視線を遮ってはいないかのようだった。
「どちらのマヤだ? お前を待っている娘か。それとも、お前の突進の代償を払わされる娘か」
シグランの指先で、炎が一瞬止まる。
「挑発してるだけだ」
ヤザンが言った。
シグランは振り返らない。
「分かってる」
「なら、思いどおりに動くな」
炎が二人の間で揺らめいた。
シグランは答えない。
だが、ほんの一瞬だけ、ヤザンの言葉が届いたように見えた。
アズロンの視線が、再びヤザンへ移る。
今度は、わずかに長い。
「力を持たない者にしては、よく口が回る」
ヤザンは脇腹を押さえ、呼吸を整えようとした。
「力がなくても、罠は見える」
アズロンの笑みが、一瞬だけ消えた。
シグランは再び拳を上げる。
「シグラン、待て」
「待っていたら、マヤが死ぬかもしれない」
「言われたまま飛び込んでも、マヤのところには行けない」
沈黙が落ちる。
アズロンは野営地へ続く道へ、ゆっくり顔を向けた。
「さて……お前たちの教師は、決断を迫られるまで、あとどれだけあの娘の前で立っていられるかな」
シグランの目が見開かれた。
踏み込む。
今度は遠距離から炎を放たなかった。
足元で爆発させ、一気に距離を詰める。低い姿勢から進み、直前で角度を変えてアズロンの側面へ回り込んだ。
アズロンは動かない。
燃える拳が迫る。
一歩。
半歩。
届く寸前、アズロンが指を一本上げた。
炎が上へ逸れた。
腕が引かれ、肩が浮き、シグランの身体まで炎に従って流される。
胸元が開いた。
アズロンの掌がそこへ叩き込まれる。
肺から空気が消えた。
シグランは後方へ吹き飛び、地面に叩きつけられる。そのまま土の上を滑り、ヤザンの足元で止まった。
ヤザンが身をかがめる。
「シグラン!」
シグランは目を開き、差し出された手を払いのけた。
「触るな」
「立つこともできないだろ」
「言ったはず――」
咳が言葉を断ち切る。
二人の間の土に、血が一滴落ちた。
アズロンが一歩、近づく。
シグランは顔を上げ、地面へ掌を押しつけた。
ヤザンが肩を掴む。
「もういい」
シグランの動きが止まった。
怯えから出た言葉でも、命令でもない。
ヤザンが隠し切れなかった懇願だった。
シグランは横目で彼を見る。
「マヤはどうする」
ヤザンには答えられなかった。
シグランはその手を外し、立ち上がる。
両脚は震えていた。
指先の炎は灯っては消え、身体はもう怒りの速さについていけていない。
それでも、アズロンへ拳を向けた。
「俺は、まだ終わってない」
アズロンはしばらく、シグランを見つめた。
やがて、笑みが消える。
「知っている」
一拍置いた。
「だから、飽きてきた」
手を上げたわけではない。
一歩を踏み出したわけでもない。
ただ、隠していた気配を解いた。
静寂が落ちた。
虫の声が一斉に消える。
道端の草が伏し、地面の上で浮いていた砂埃が、見えない空に押し潰されたように沈んだ。
ヤザンの息が止まる。
炎も、闇も、形あるケメンも見えない。
ただ、目の前に立つ男が、その身体を収めている空間よりも巨大になったように感じた。
夜がアズロンの背後にあるのではない。
アズロンの内側から、夜そのものが滲み出している。
シグランの炎が指先へ縮み、細い赤の一筋だけを残した。
その背後で、ヤザンの片膝が地面につく。
身体を起こそうとしても、腕が震える。指は土を掴み、傷ついた胸は空気を吸い込むことさえ拒んだ。
アズロンから漏れ出したものは、ほんの一端にすぎない。
それでも、ヤザンの全身は逃げろと叫んでいた。
シグランは立っていた。
両肩が硬直する。
目が見開かれる。
戦いが始まってから初めて、その顔から怒りが消えた。
代わりに浮かんだのは――埋めようのない力の差を悟った者の表情だった。
ヤザンは口を開いた。
最初は声が出なかった。
痛みを呑み込み、背後から叫ぶ。
「シグラン……逃げろ!」
シグランは振り返らない。
だが、足が動いた。
後ろへ、一歩。
自分の意思で命じた一歩ではなかった。
シグラン自身が、身体の裏切りを信じられないように目を見開く。
踵が地面につくより早く、アズロンは目の前にいた。
シグランには、その動きが見えなかった。
ヤザンに見えたのは、動きのあとで静かに落ち着く外套の裾だけだった。
アズロンの指が、シグランの首を掴む。
炎が消えた。
片手だけで、シグランの身体が持ち上げられる。
両手でアズロンの手首を掴むが、足はもう地面に届かない。
アズロンの表情は変わらなかった。
苦しげにもがく少年を見上げ、静かに告げる。
「ザランの血に残ったものは、それだけか?」
わずかに首を傾げた。
「重い名だ。だが、炎は小さい」
その背後で、ヤザンはシグランの両足が地面を離れていくのを見ていた。




