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血の継承【改訂版】  作者: Salhi smail
第三章 任務始動編

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35/50

ラカンは矢のように野営地へ戻った。


すべてを見渡すまでもなく、何かが壊されたことを悟った。


火はまだ燃えている。


荷物も元の場所にある。


岩のそばにはシグランの寝床。


ヤザンの天幕も、片側が開いたまま残っていた。


だが、マヤが立っていた場所だけが空白になっている。


ラカンは、ほんの一瞬だけ足を止めた。


表情は動かなかった。


彼女の名も呼ばなかった。


ただ、わずかに見開かれた目が、すぐに先ほどよりも鋭く細められた。


シグランは円の中央に立ち、目の前の空白を見つめている。


指の間で赤い炎が揺れていた。


大きくもならず、消えもしない。


低い声で尋ねる。


「マヤはどこだ?」


誰も答えなかった。


ヤザンが天幕を開き、よろめきながら外へ出てくる。


髪は乱れ、眠りの浅さを映すように顔色も青ざめていた。


ラカンを見る。


シグランを見る。


そして、火のそばに残された空白へ目を向けた。


「マヤ?」


返事はない。


視線が、石のそばに落ちている水筒で止まった。


数時間前、木陰でマヤが差し出してくれたものだ。


『飲んで』


もう一度、唇が動く。


「マヤ……?」


名を呼ぶ声は弱かった。


大きな声を出せば、空白そのものから返事が戻ってくることを恐れているようだった。


シグランが、もう一度尋ねる。


今度は先ほどより低く、危険な声で。


「聞いている。マヤはどこだ?」


ラカンは、彼女がいた場所に膝をついた。


目立った争いの跡はない。


土は荒れていない。


折れた枝もない。


円へ入った足跡も、出ていった足跡も見当たらない。


マヤがこの場所から連れ去られたというより、場所のほうが彼女を手放したように見えた。


ラカンは二本の指で土をなぞる。


その動きが、マヤの立っていた場所から火へと伸びる、細い水の糸の前で止まった。


弱々しい。


だが、まだ蒸発していない。


マヤが自分の意思で残したものだ。


ラカンが低く呟く。


「よくやった、マヤ……」


ヤザンが一歩近づく。


「何か見つけたんですか?」


ラカンは水の糸を示した。


「俺たちに痕跡を残した」


シグランもすぐそばにしゃがみ込む。


水の糸を見てから、マヤを呑み込んだ闇へ顔を上げた。


指の間の炎が強くなる。


ラカンが言った。


「生きている」


シグランは彼を見る。


「なぜ分かる?」


「殺すつもりなら、ここで殺していた。連れ去ったのは、俺たちが彼女を見捨てないと知っているからだ」


ヤザンが尋ねる。


「どうして、マヤを?」


ラカンは空白になった場所を見た。


次に、シグランへ目を向ける。


「彼女が、最後の標的ではないからだ」


シグランは、その視線の意味を理解した。


表情が固まる。


ラカンが告げた。


「マヤは囮だ」


重い沈黙が落ちた。


ラカンは土を一握り掴み、指の間からゆっくりとこぼした。


「警戒の穴を見つけたんじゃない……」


先ほど自分を誘った東側へ目を向ける。


「俺自身に、穴を作らせたんだ」


顔を上げ、木々を見据えた。


大声ではなかった。


だが、その静けさは怒鳴り声よりも重かった。


「道に潜んでいるだけの敵じゃない。道そのものに嘘をつかせる敵だ」


闇の奥から、短い笑い声が聞こえた。


遠くから。


次には近くから。


それでも、声の主がいる場所は分からない。


シグランが片手を上げる。


赤い炎が指を包んだ。


「出てこい」


声が答える。


「立派な命令だ……だが、夜は教官の言葉など聞かない」


ラカンの目が木々の間を走る。


声を追おうとはしなかった。


そもそも、同じ場所から聞こえてはいない。


シグランが言う。


「マヤはどこだ?」


別の方向から返事が来る。


「ここで時間を無駄にするほど、彼女までの道は長くなる」


シグランが自分の位置を離れた。


ラカンは、その腕を掴む。


「動くな」


シグランが、燃えるような目で振り向いた。


「今、あいつらと一緒なんだぞ!」


「だからこそ、お前たちに考えさせず、動かそうとしている」


「考えるまでもない! 俺はマヤを置いていかない!」


炎が一瞬大きくなった。


それでも、ラカンは声を荒らげない。


「敵の望む方向へ動けば、彼女を救うことにはならない。彼女を連れ去った目的を、その手で果たすだけだ」


シグランは動きを止めた。


そのとき、土の上に残された水の糸が強く光った。


火から離れ、低い岩の方向へ這うように動き始める。


ラカンは糸を見る。


弱まりつつある。


時間が経つたび、その輝きが失われていく。


ラカンは二人へ言った。


「円の中にいろ」


シグランが尋ねる。


「どこへ行く?」


「マヤが残した痕跡を追う」


「俺も行く」


「駄目だ」


ラカンはシグランへ近づき、彼だけに届く低い声で言った。


「声はお前を誘っている。水の糸は俺が追う。全員で同じものを追えば、敵の思いどおりだ」


次にヤザンを見る。


「シグランを追うな。何を聞いても、俺が戻るまでここにいろ」


ヤザンはゆっくりとうなずいた。


シグランは答えなかった。


ラカンは水の糸が消える前に、その後を追って駆け出した。


速い。


街道を歩いていたときとは比べものにならない。


突き出た木の根を飛び越え、二つの岩の間を抜けると、斜面の向こうへ姿を消した。


円の中には、ヤザンとシグランだけが残された。


しばらくの間、薪が燃える音しか聞こえなかった。


やがて声が戻ってきた。


今度は、二人の前に並ぶ木々の奥から。


「教官は、思ったより簡単に生徒を置いていったな」


シグランの目に炎が灯る。


ヤザンが言った。


「答えちゃ駄目だ」


声は笑った。


そして、遠ざかる。


「水の少女を取り戻したければ、ついてこい。二人の間の距離が、これ以上伸びる前にな」


シグランが円の外へ踏み出した。


ヤザンも反射的に後を追ったが、すぐに足を止める。


声は二人を待っていない。


シグランが近づくたび、さらに遠い場所から聞こえてくる。


ヤザンは背後の火を見た。


それから、前方の木々を見る。


胸の奥にあるものは、傷の痛みだけではなかった。


警告だった。


「シグラン、待って」


シグランは止まらない。


ヤザンは声を強めた。


「僕たちを野営地から引き離してる。これは罠だ」


シグランが足を止め、振り返った。


いつもの冷静さは、怒りに消されている。


「何も感じないのか? マヤが危ないんだぞ、この馬鹿!」


ヤザンは黙った。


恐怖は、指先にまで届いていた。


木々の間で待っている男。


消えた道。


火のそばに残された、マヤの空白。


だが、言葉にはできなかった。


シグランが言う。


「怖いなら、ここに残ってラカンの命令に従え」


背を向け、再び歩き出す。


数歩進んだところで、もう一度止まった。


ヤザンを振り返らないまま言う。


「それから、俺を追うな。お前は負傷している……」


短い沈黙。


シグランの拳が握られ、指の間の炎が揺れた。


「俺の足を引っ張るだけだ」


答えを待たず、再び歩き出した。


ヤザンは円の境界に立ち尽くした。


背後には、火と荷物とラカンの命令。


前方では、シグランが二人とも罠だと知っている場所へ向かっている。


「怖い」という言葉が、ヤザンの足を止めたのではない。


本当に怖かった。


シグランを追うことが。


そして、ここに残ったまま、マヤもシグランも戻らないことが。


マヤが水を差し出してくれた手が浮かぶ。


アミールの前で、自分を庇ってくれた姿。


街道の先から、早く来るように呼んだ声。


シグランの背中が、木々の間へ消えかける。


ヤザンは呟いた。


「怖いよ……」


誰にも聞こえなかった。


火のそばに膝をつき、手のひらへ黒い灰を擦りつける。


そして、シグランが進んだ方向に立つ最初の木へ、手のひらを押し当てた。


樹皮の上に、はっきりと黒い印が残る。


ラカンが戻れば、二人の向かった方向が分かる。


ヤザンは顔を上げた。


「だから、一人では行かせない」


シグランの後を追って走り出した。


ラカンに残れと言われたことは分かっている。


身体がまだ戻っていないことも分かっていた。


勇敢だと証明するために走ったのではない。


もう誰かが目の前から消えていくことに、耐えられなかっただけだ。


          ◇


ラカンは水の糸を追い、木々の間を駆けていた。


糸は細く、途切れかけている。


それでも月明かりを受けるたび、かすかな光を返した。


太い木の根を飛び越え、低い枝の下をくぐる。


斜面の手前にある平たい岩へ足を乗せると、水の糸が少し先に見えた。


そこへ踏み出す。


そして、止まった。


同じ平たい岩が、再び足の下にあった。


顔を上げる。


同じ木。


同じ低い枝。


同じ距離にある水の糸。


後ろへ戻ったわけではない。


距離のほうが、彼を元の場所へ戻したのだ。


もう一度進む。


今度はゆっくりと。


片手を木の幹へ当て、三歩だけ正確に踏み出した。


空気が震える。


次の瞬間、同じ幹が再び手の下にあった。


ラカンの目が細くなる。


もう道を見ようとはしなかった。


道の中にある誤りを探し始める。


木の影が月明かりと同じ方向へ伸びていない。


岩の端は、見る角度によって近づいたり遠ざかったりする。


マヤの水の糸は切れていない。


だが、辿り着くことを許さない道の中に閉じ込められている。


闇から、静かな声がした。


「教官は、真っすぐな道を信じすぎる」


ラカンは動かない。


「お前は、一度見破られた欺きが完全なままだと信じすぎている」


一度、目を閉じる。


水の糸がある位置ではなく、距離が組み替わる直前に空気が震える点を探った。


声が言う。


「完全なままである必要はない」


ラカンは目を開いた。


「何が目的だ?」


男が静かに笑う。


「お前を長く止める必要はない」


その言葉が、石のようにラカンの胸へ落ちた。


シグラン。


ヤザン。


来た道へ振り返る。


だが、そこに道はなかった。


ラカンは歯を食いしばる。


そして水の糸ではなく、空間の綻びへ向かって踏み込んだ。


          ◇


マヤは、背中に触れる石の冷たさで目を覚ました。


完全に意識を失っていたわけではない。


激しい夢から引きずり出され、別の夢へ投げ込まれたような感覚だった。


両手を動かそうとする。


細い黒い線が手首の周囲へ伸び、岩の突起に縫いつけるように固定していた。


縄ではない。


皮膚を締めつけてもいない。


動きそのものを封じている。


マヤは周囲を見た。


低い岩に囲まれた窪地。


完全な洞窟でもなければ、開けた場所でもない。


頭上から月明かりが差し込んでいるが、どこかおかしい。


見つめるほど岩の縁が遠ざかり、足元の影は一つの方向に定まらない。


夜気から水を集めようとした。


指先の近くに水滴が生まれる。


震えた。


そして、存在しない場所へ引かれるように逸れていった。


前方から声がした。


「無駄に身体を削るな。お前と水を結ぶ道は、もう真っすぐではない」


マヤは顔を上げる。


男が窪地の入口に立っていた。


背が高く、静かだった。


追跡される者の焦りも、急ぐ様子も、その目にはない。


マヤは声を乱さないように尋ねた。


「あなたは誰?」


「答えを知っても助からない」


「何が目的?」


男が一歩近づく。


足音は、彼が近づいた後から聞こえた。


「誰が最初に間違えるのか、見たいだけだ」


マヤは黒い線に逆らって手首へ力を込める。


「みんなは、あなたの罠に落ちない」


男はわずかに首を傾けた。


「お前を失うことを恐れた瞬間から、すでに落ちている」


マヤは動きを止めた。


地面を見る。


指先から逸れていった水滴を見る。


それから、男へ目を戻した。


「水の糸を、わざと残したのね」


「残したのはお前だ」


「でも、あなたは消さなかった」


男の口元に小さな笑みが浮かぶ。


「理解が早い」


冷たい重さが、マヤの胸の中へ沈んだ。


自分が怖いのではない。


怒りに呑まれたときのシグラン。


他人の恐怖を、自分の恐怖より優先してしまうヤザン。


自分が誘われたと知っても、決して見捨てないラカン。


怖かったのは、その三人の身に何が起きるかだった。


男が言う。


「痕跡があれば、囮はより本物らしくなる」


「思いどおりにはならない」


男は、遠くの音を聞くように少しだけ顔を傾けた。


そして言う。


「炎の少年が動いた」


マヤの胸が強く締めつけられる。


「やめて……」


男は一度目を閉じた。


「その後ろに、もう一人いる」


マヤの目が見開かれる。


「ヤザン……」


男は再び笑った。


「恐怖は、命令より速いらしい」


マヤは拘束へ全身の力をぶつけた。


「二人に触れないで!」


男は声を上げなかった。


「まだ、遊びは始まっていない」


          ◇


シグランは、足元の道を焼き尽くそうとするかのように木々の間を走っていた。


両手を包む赤い炎が、断続的な光となって前方の岩を照らす。


前から草の擦れる音。


次には、別の方向で枝が折れる音。


さらに遠くから、誰かの抑えた呼吸。


すべてが、もっと速く進めと告げている。


そして、シグランが従うことを知っている。


後ろでは、ヤザンが必死に追いすがっていた。


少し走っただけで、胸の奥が焼け始める。


ケメンによる痛みではない。


回復する時間を与えられなかった身体が、悲鳴を上げているのだ。


木の根につまずき、倒れないよう幹へ手をつく。


それでも走り続けた。


シグランが、その足音に気づいた。


急に立ち止まり、振り返る。


ヤザンは危うくぶつかりそうになった。


シグランが怒鳴る。


「追うなと言っただろ!」


ヤザンは上体を折り、呼吸を整えようとしていた。


「君だって……ラカンの命令を聞かなかった」


「戻れ」


ヤザンが顔を上げる。


「嫌だ」


シグランの表情が険しくなる。


「足手まといになる」


ヤザンは正直に答えた。


「たぶんね」


シグランが予想していた答えではなかった。


ヤザンは息を整えながら続ける。


「君を遅らせるかもしれない……でも、一人なら確実に罠へ入る」


シグランは黙った。


ほんの一瞬、両手の炎が小さくなる。


ヤザンが正しいと分かっていた。


だが、マヤはこの闇のどこかにいる。


背を向けることはできなかった。


すぐ近くから声が聞こえた。


「いいぞ……恐怖は命令より速い」


二人は同時に振り向いた。


虫の声が一斉に止まる。


風さえも、木々の間から退いたようだった。


岩陰から男が姿を現す。


マヤを連れ去った男ではない。


少し背が高く、足取りは静かだった。


隠れていたというより、自分が選んだ場所へ二人が来るのを待っていたように見えた。


最初にシグランを見る。


赤い炎に目を止める。


あの名を背負う少年。


標的。


次にヤザンへ目を向けた。


ほんの一瞬だけ。


仲間を追い、場違いな戦いへ迷い込んだ負傷者を見るような、関心の薄い視線だった。


男が言う。


「負傷者まで円を出たか」


シグランの両手を包む炎が、さらに強く燃え上がる。


「マヤはどこだ?」


男は笑った。


「お前が彼女のために罠へ落ちたと知るには、十分近い場所にいる」


シグランが一歩前へ出る。


「返せ」


男は片手を上げた。


身を守るための構えではない。


あらかじめこの一帯に仕掛けられていた何かへ、合図を送るような動きだった。


「もう呑み込まれていることにも気づかず、まだ命令するのか?」


ヤザンは荒い呼吸のまま尋ねた。


「何が目的なんだ?」


男がヤザンを見る。


「お前に用はない」


視線がシグランへ戻る。


「誰が最初に円を出るのか、確かめたかっただけだ」


シグランが言う。


「もう分かっただろ」


「ああ」


男の笑みが広がる。


「その後を追う者が誰なのかも分かった」


二人の周囲で、闇が重くなり始めた。


黒さを増しただけではない。


距離そのものが近づいてくる。


木々の間隔が狭まり、その隙間が消えていく。


地面へ伸びた影は、二人の足跡を呑み込んだ。


ヤザンは後ろを見る。


野営地の火は、もう見えない。


木の幹に残した黒い印を探す。


だが、その木自体が消えていた。


来た道もない。


前にも後ろにも、闇しかなかった。


男が言う。


「さあ……恐怖が見習い騎士をどう変えるのか、見せてもらおう」


シグランは足を踏みしめ、両手の炎を高く燃え上がらせた。


ヤザンはその後ろで、必死に呼吸を整える。


呼び起こせるケメンはない。


戻る道もない。


アルマザを出てから初めて、ヤザンは悟った。


これは道などではなかった。


大きく開いた口だった。


そして二人は、自分の足でその中へ踏み込んでいた。

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