囮
ラカンは矢のように野営地へ戻った。
すべてを見渡すまでもなく、何かが壊されたことを悟った。
火はまだ燃えている。
荷物も元の場所にある。
岩のそばにはシグランの寝床。
ヤザンの天幕も、片側が開いたまま残っていた。
だが、マヤが立っていた場所だけが空白になっている。
ラカンは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
表情は動かなかった。
彼女の名も呼ばなかった。
ただ、わずかに見開かれた目が、すぐに先ほどよりも鋭く細められた。
シグランは円の中央に立ち、目の前の空白を見つめている。
指の間で赤い炎が揺れていた。
大きくもならず、消えもしない。
低い声で尋ねる。
「マヤはどこだ?」
誰も答えなかった。
ヤザンが天幕を開き、よろめきながら外へ出てくる。
髪は乱れ、眠りの浅さを映すように顔色も青ざめていた。
ラカンを見る。
シグランを見る。
そして、火のそばに残された空白へ目を向けた。
「マヤ?」
返事はない。
視線が、石のそばに落ちている水筒で止まった。
数時間前、木陰でマヤが差し出してくれたものだ。
『飲んで』
もう一度、唇が動く。
「マヤ……?」
名を呼ぶ声は弱かった。
大きな声を出せば、空白そのものから返事が戻ってくることを恐れているようだった。
シグランが、もう一度尋ねる。
今度は先ほどより低く、危険な声で。
「聞いている。マヤはどこだ?」
ラカンは、彼女がいた場所に膝をついた。
目立った争いの跡はない。
土は荒れていない。
折れた枝もない。
円へ入った足跡も、出ていった足跡も見当たらない。
マヤがこの場所から連れ去られたというより、場所のほうが彼女を手放したように見えた。
ラカンは二本の指で土をなぞる。
その動きが、マヤの立っていた場所から火へと伸びる、細い水の糸の前で止まった。
弱々しい。
だが、まだ蒸発していない。
マヤが自分の意思で残したものだ。
ラカンが低く呟く。
「よくやった、マヤ……」
ヤザンが一歩近づく。
「何か見つけたんですか?」
ラカンは水の糸を示した。
「俺たちに痕跡を残した」
シグランもすぐそばにしゃがみ込む。
水の糸を見てから、マヤを呑み込んだ闇へ顔を上げた。
指の間の炎が強くなる。
ラカンが言った。
「生きている」
シグランは彼を見る。
「なぜ分かる?」
「殺すつもりなら、ここで殺していた。連れ去ったのは、俺たちが彼女を見捨てないと知っているからだ」
ヤザンが尋ねる。
「どうして、マヤを?」
ラカンは空白になった場所を見た。
次に、シグランへ目を向ける。
「彼女が、最後の標的ではないからだ」
シグランは、その視線の意味を理解した。
表情が固まる。
ラカンが告げた。
「マヤは囮だ」
重い沈黙が落ちた。
ラカンは土を一握り掴み、指の間からゆっくりとこぼした。
「警戒の穴を見つけたんじゃない……」
先ほど自分を誘った東側へ目を向ける。
「俺自身に、穴を作らせたんだ」
顔を上げ、木々を見据えた。
大声ではなかった。
だが、その静けさは怒鳴り声よりも重かった。
「道に潜んでいるだけの敵じゃない。道そのものに嘘をつかせる敵だ」
闇の奥から、短い笑い声が聞こえた。
遠くから。
次には近くから。
それでも、声の主がいる場所は分からない。
シグランが片手を上げる。
赤い炎が指を包んだ。
「出てこい」
声が答える。
「立派な命令だ……だが、夜は教官の言葉など聞かない」
ラカンの目が木々の間を走る。
声を追おうとはしなかった。
そもそも、同じ場所から聞こえてはいない。
シグランが言う。
「マヤはどこだ?」
別の方向から返事が来る。
「ここで時間を無駄にするほど、彼女までの道は長くなる」
シグランが自分の位置を離れた。
ラカンは、その腕を掴む。
「動くな」
シグランが、燃えるような目で振り向いた。
「今、あいつらと一緒なんだぞ!」
「だからこそ、お前たちに考えさせず、動かそうとしている」
「考えるまでもない! 俺はマヤを置いていかない!」
炎が一瞬大きくなった。
それでも、ラカンは声を荒らげない。
「敵の望む方向へ動けば、彼女を救うことにはならない。彼女を連れ去った目的を、その手で果たすだけだ」
シグランは動きを止めた。
そのとき、土の上に残された水の糸が強く光った。
火から離れ、低い岩の方向へ這うように動き始める。
ラカンは糸を見る。
弱まりつつある。
時間が経つたび、その輝きが失われていく。
ラカンは二人へ言った。
「円の中にいろ」
シグランが尋ねる。
「どこへ行く?」
「マヤが残した痕跡を追う」
「俺も行く」
「駄目だ」
ラカンはシグランへ近づき、彼だけに届く低い声で言った。
「声はお前を誘っている。水の糸は俺が追う。全員で同じものを追えば、敵の思いどおりだ」
次にヤザンを見る。
「シグランを追うな。何を聞いても、俺が戻るまでここにいろ」
ヤザンはゆっくりとうなずいた。
シグランは答えなかった。
ラカンは水の糸が消える前に、その後を追って駆け出した。
速い。
街道を歩いていたときとは比べものにならない。
突き出た木の根を飛び越え、二つの岩の間を抜けると、斜面の向こうへ姿を消した。
円の中には、ヤザンとシグランだけが残された。
しばらくの間、薪が燃える音しか聞こえなかった。
やがて声が戻ってきた。
今度は、二人の前に並ぶ木々の奥から。
「教官は、思ったより簡単に生徒を置いていったな」
シグランの目に炎が灯る。
ヤザンが言った。
「答えちゃ駄目だ」
声は笑った。
そして、遠ざかる。
「水の少女を取り戻したければ、ついてこい。二人の間の距離が、これ以上伸びる前にな」
シグランが円の外へ踏み出した。
ヤザンも反射的に後を追ったが、すぐに足を止める。
声は二人を待っていない。
シグランが近づくたび、さらに遠い場所から聞こえてくる。
ヤザンは背後の火を見た。
それから、前方の木々を見る。
胸の奥にあるものは、傷の痛みだけではなかった。
警告だった。
「シグラン、待って」
シグランは止まらない。
ヤザンは声を強めた。
「僕たちを野営地から引き離してる。これは罠だ」
シグランが足を止め、振り返った。
いつもの冷静さは、怒りに消されている。
「何も感じないのか? マヤが危ないんだぞ、この馬鹿!」
ヤザンは黙った。
恐怖は、指先にまで届いていた。
木々の間で待っている男。
消えた道。
火のそばに残された、マヤの空白。
だが、言葉にはできなかった。
シグランが言う。
「怖いなら、ここに残ってラカンの命令に従え」
背を向け、再び歩き出す。
数歩進んだところで、もう一度止まった。
ヤザンを振り返らないまま言う。
「それから、俺を追うな。お前は負傷している……」
短い沈黙。
シグランの拳が握られ、指の間の炎が揺れた。
「俺の足を引っ張るだけだ」
答えを待たず、再び歩き出した。
ヤザンは円の境界に立ち尽くした。
背後には、火と荷物とラカンの命令。
前方では、シグランが二人とも罠だと知っている場所へ向かっている。
「怖い」という言葉が、ヤザンの足を止めたのではない。
本当に怖かった。
シグランを追うことが。
そして、ここに残ったまま、マヤもシグランも戻らないことが。
マヤが水を差し出してくれた手が浮かぶ。
アミールの前で、自分を庇ってくれた姿。
街道の先から、早く来るように呼んだ声。
シグランの背中が、木々の間へ消えかける。
ヤザンは呟いた。
「怖いよ……」
誰にも聞こえなかった。
火のそばに膝をつき、手のひらへ黒い灰を擦りつける。
そして、シグランが進んだ方向に立つ最初の木へ、手のひらを押し当てた。
樹皮の上に、はっきりと黒い印が残る。
ラカンが戻れば、二人の向かった方向が分かる。
ヤザンは顔を上げた。
「だから、一人では行かせない」
シグランの後を追って走り出した。
ラカンに残れと言われたことは分かっている。
身体がまだ戻っていないことも分かっていた。
勇敢だと証明するために走ったのではない。
もう誰かが目の前から消えていくことに、耐えられなかっただけだ。
◇
ラカンは水の糸を追い、木々の間を駆けていた。
糸は細く、途切れかけている。
それでも月明かりを受けるたび、かすかな光を返した。
太い木の根を飛び越え、低い枝の下をくぐる。
斜面の手前にある平たい岩へ足を乗せると、水の糸が少し先に見えた。
そこへ踏み出す。
そして、止まった。
同じ平たい岩が、再び足の下にあった。
顔を上げる。
同じ木。
同じ低い枝。
同じ距離にある水の糸。
後ろへ戻ったわけではない。
距離のほうが、彼を元の場所へ戻したのだ。
もう一度進む。
今度はゆっくりと。
片手を木の幹へ当て、三歩だけ正確に踏み出した。
空気が震える。
次の瞬間、同じ幹が再び手の下にあった。
ラカンの目が細くなる。
もう道を見ようとはしなかった。
道の中にある誤りを探し始める。
木の影が月明かりと同じ方向へ伸びていない。
岩の端は、見る角度によって近づいたり遠ざかったりする。
マヤの水の糸は切れていない。
だが、辿り着くことを許さない道の中に閉じ込められている。
闇から、静かな声がした。
「教官は、真っすぐな道を信じすぎる」
ラカンは動かない。
「お前は、一度見破られた欺きが完全なままだと信じすぎている」
一度、目を閉じる。
水の糸がある位置ではなく、距離が組み替わる直前に空気が震える点を探った。
声が言う。
「完全なままである必要はない」
ラカンは目を開いた。
「何が目的だ?」
男が静かに笑う。
「お前を長く止める必要はない」
その言葉が、石のようにラカンの胸へ落ちた。
シグラン。
ヤザン。
来た道へ振り返る。
だが、そこに道はなかった。
ラカンは歯を食いしばる。
そして水の糸ではなく、空間の綻びへ向かって踏み込んだ。
◇
マヤは、背中に触れる石の冷たさで目を覚ました。
完全に意識を失っていたわけではない。
激しい夢から引きずり出され、別の夢へ投げ込まれたような感覚だった。
両手を動かそうとする。
細い黒い線が手首の周囲へ伸び、岩の突起に縫いつけるように固定していた。
縄ではない。
皮膚を締めつけてもいない。
動きそのものを封じている。
マヤは周囲を見た。
低い岩に囲まれた窪地。
完全な洞窟でもなければ、開けた場所でもない。
頭上から月明かりが差し込んでいるが、どこかおかしい。
見つめるほど岩の縁が遠ざかり、足元の影は一つの方向に定まらない。
夜気から水を集めようとした。
指先の近くに水滴が生まれる。
震えた。
そして、存在しない場所へ引かれるように逸れていった。
前方から声がした。
「無駄に身体を削るな。お前と水を結ぶ道は、もう真っすぐではない」
マヤは顔を上げる。
男が窪地の入口に立っていた。
背が高く、静かだった。
追跡される者の焦りも、急ぐ様子も、その目にはない。
マヤは声を乱さないように尋ねた。
「あなたは誰?」
「答えを知っても助からない」
「何が目的?」
男が一歩近づく。
足音は、彼が近づいた後から聞こえた。
「誰が最初に間違えるのか、見たいだけだ」
マヤは黒い線に逆らって手首へ力を込める。
「みんなは、あなたの罠に落ちない」
男はわずかに首を傾けた。
「お前を失うことを恐れた瞬間から、すでに落ちている」
マヤは動きを止めた。
地面を見る。
指先から逸れていった水滴を見る。
それから、男へ目を戻した。
「水の糸を、わざと残したのね」
「残したのはお前だ」
「でも、あなたは消さなかった」
男の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「理解が早い」
冷たい重さが、マヤの胸の中へ沈んだ。
自分が怖いのではない。
怒りに呑まれたときのシグラン。
他人の恐怖を、自分の恐怖より優先してしまうヤザン。
自分が誘われたと知っても、決して見捨てないラカン。
怖かったのは、その三人の身に何が起きるかだった。
男が言う。
「痕跡があれば、囮はより本物らしくなる」
「思いどおりにはならない」
男は、遠くの音を聞くように少しだけ顔を傾けた。
そして言う。
「炎の少年が動いた」
マヤの胸が強く締めつけられる。
「やめて……」
男は一度目を閉じた。
「その後ろに、もう一人いる」
マヤの目が見開かれる。
「ヤザン……」
男は再び笑った。
「恐怖は、命令より速いらしい」
マヤは拘束へ全身の力をぶつけた。
「二人に触れないで!」
男は声を上げなかった。
「まだ、遊びは始まっていない」
◇
シグランは、足元の道を焼き尽くそうとするかのように木々の間を走っていた。
両手を包む赤い炎が、断続的な光となって前方の岩を照らす。
前から草の擦れる音。
次には、別の方向で枝が折れる音。
さらに遠くから、誰かの抑えた呼吸。
すべてが、もっと速く進めと告げている。
そして、シグランが従うことを知っている。
後ろでは、ヤザンが必死に追いすがっていた。
少し走っただけで、胸の奥が焼け始める。
ケメンによる痛みではない。
回復する時間を与えられなかった身体が、悲鳴を上げているのだ。
木の根につまずき、倒れないよう幹へ手をつく。
それでも走り続けた。
シグランが、その足音に気づいた。
急に立ち止まり、振り返る。
ヤザンは危うくぶつかりそうになった。
シグランが怒鳴る。
「追うなと言っただろ!」
ヤザンは上体を折り、呼吸を整えようとしていた。
「君だって……ラカンの命令を聞かなかった」
「戻れ」
ヤザンが顔を上げる。
「嫌だ」
シグランの表情が険しくなる。
「足手まといになる」
ヤザンは正直に答えた。
「たぶんね」
シグランが予想していた答えではなかった。
ヤザンは息を整えながら続ける。
「君を遅らせるかもしれない……でも、一人なら確実に罠へ入る」
シグランは黙った。
ほんの一瞬、両手の炎が小さくなる。
ヤザンが正しいと分かっていた。
だが、マヤはこの闇のどこかにいる。
背を向けることはできなかった。
すぐ近くから声が聞こえた。
「いいぞ……恐怖は命令より速い」
二人は同時に振り向いた。
虫の声が一斉に止まる。
風さえも、木々の間から退いたようだった。
岩陰から男が姿を現す。
マヤを連れ去った男ではない。
少し背が高く、足取りは静かだった。
隠れていたというより、自分が選んだ場所へ二人が来るのを待っていたように見えた。
最初にシグランを見る。
赤い炎に目を止める。
あの名を背負う少年。
標的。
次にヤザンへ目を向けた。
ほんの一瞬だけ。
仲間を追い、場違いな戦いへ迷い込んだ負傷者を見るような、関心の薄い視線だった。
男が言う。
「負傷者まで円を出たか」
シグランの両手を包む炎が、さらに強く燃え上がる。
「マヤはどこだ?」
男は笑った。
「お前が彼女のために罠へ落ちたと知るには、十分近い場所にいる」
シグランが一歩前へ出る。
「返せ」
男は片手を上げた。
身を守るための構えではない。
あらかじめこの一帯に仕掛けられていた何かへ、合図を送るような動きだった。
「もう呑み込まれていることにも気づかず、まだ命令するのか?」
ヤザンは荒い呼吸のまま尋ねた。
「何が目的なんだ?」
男がヤザンを見る。
「お前に用はない」
視線がシグランへ戻る。
「誰が最初に円を出るのか、確かめたかっただけだ」
シグランが言う。
「もう分かっただろ」
「ああ」
男の笑みが広がる。
「その後を追う者が誰なのかも分かった」
二人の周囲で、闇が重くなり始めた。
黒さを増しただけではない。
距離そのものが近づいてくる。
木々の間隔が狭まり、その隙間が消えていく。
地面へ伸びた影は、二人の足跡を呑み込んだ。
ヤザンは後ろを見る。
野営地の火は、もう見えない。
木の幹に残した黒い印を探す。
だが、その木自体が消えていた。
来た道もない。
前にも後ろにも、闇しかなかった。
男が言う。
「さあ……恐怖が見習い騎士をどう変えるのか、見せてもらおう」
シグランは足を踏みしめ、両手の炎を高く燃え上がらせた。
ヤザンはその後ろで、必死に呼吸を整える。
呼び起こせるケメンはない。
戻る道もない。
アルマザを出てから初めて、ヤザンは悟った。
これは道などではなかった。
大きく開いた口だった。
そして二人は、自分の足でその中へ踏み込んでいた。




